●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 舞鶴編
   初版2007年9月1日 <V01L01> 
 水上勉の「飢餓海峡を歩く」、岩内、函館、下北半島を特集してからかなり時間が経ちましたが、残っていた舞鶴、東京編を掲載したいとおもいます。下北半島の大湊から犯人の足跡はまったく掴めなくなります。

「小橋とアンジャ島」
小橋とアンジャ島>
 函館で事件が起こったのは昭和22年9月です。その後、下北半島まで犯人の足跡を追いますが、大湊で見失います。10年後の昭和32年6月、意外な場所で、意外な事件が起こって、犯人の影が見つかります。「…死体だ。市松はひっこんだ眼玉をひらいて凝祝した。ろげたように水に浮いてい白い腕が袖口から折れたように曲って水中へ没している。 酒田市松は舟を向きかえ、息せき切って小橋部落の浜へ舟をすべりこませた。溺死体の報告をしなければならない。当時、この小橋と三浜両部落には駐在所はなかった。電話のあるのは漁業共同組合の事務所だけである。市松はこの事務所へ走りこんでいる。…… 舞鶴東署の味村警部補の一行が、小橋の浜の隅で、身元不明の女の溺死体を検視し終えたのは午後四時半ごろであった。…… まだ、陽ぎしの残っているアンジャ島の海上から、磯に向けて漕いでくる和船が一隻みえた。この舟には若者が二人のっていた。係官たちが、一せいにこの舟に向って眼をむけたのは、ほかでもなかった。何やら大声で磯に向っ てがなりたてていたからだ。「おーい、死んどるぞお。男が死んどるぞおー」 ときこえた。…」。水上勉ですから、よく知った場所として舞鶴を選び、犯人逮捕のきっかけの事件を起こしたのだとおもいます。この発見された女性の死体は10年前に大湊の遊廓で犯人を泊めた杉戸八重でした。

左上の写真は杉戸八重の死体が発見された小橋とアンジャ島(地図ではアンヂャ島)です。三浜峠から三浜に少し下がった付近から撮影しています。正面左付近が三浜、やや右が小橋で、右側の島がアンジャ島です。舞鶴から北に十数キロです。アンジャ島の拡大写真を掲載しておきます。

「丸山小学校跡」
丸山の小学校>
 発見された死体は杉戸八重だけではありませんでした。もう一人、男性の死体が発見されます。「…三浜峠から、猛スピードを出して三浜部落に下りる。ジープが丸山の小学校前を通って松並木のある浜にさしかかった頃、岬の根もとに人だかりがしている。漁業組合の者に舟をだす準備をしておくように命じておいたのだった。道路のよこにジープを乗り捨てて、昧村時雄は靴の喰いこむ焼けた砂浜を走っていった。…… 雫のたれる服を点検していた刑事の一人が、何げなくはらうようにしてワンピースをのばした。と、この時、共布でつくられたアウトポケットが心もちふくらんでいるようなので、指を入れてみると、ハンケチが出てきた。折りたたまれたままそれはぬれていた。ハンケチと一しょに何やら新聞紙の切れのようなものが出てきたのを刑事は兄のがさなかった。それ は、たしかに新聞紙の切抜きであった。千切ったものではなくて鋏が入れられていて、ていねいに切抜かれた記事の一部だった。「妙なもんが出てきました」 刑事がつぶやくと、わきにいた唐木刑事が、それをひったくるようにして掌の上にのせた。どんぐり眼をひっつけて読んでいる。  ─ 刑余者更生事業資金に三千万円を寄贈。舞鶴市の篤志家樽見京一郎氏が……。…」。杉戸八重の死体から犯人に結びつく新聞記事の切り抜きが発見されます。この新聞の切り抜きによって事件解決へ大きく展開していきます。

左上の写真は三浜部落の丸山小学校です。丸山小学校が本当にあるとはおもいませんでした。残念ながら平成10年に閉校になっていました。ロケ地としては「男たちの大和」等に使われているそうです。建物は写真の通り現存していました。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


飢餓海峡 舞鶴地図



「東舞鶴駅」
東舞鶴駅>
 東京の亀戸遊廓にいた杉戸八重は新聞に掲載された記事の写真に注目します。10年前に大湊で出会った人にそっくりだったからです。杉戸八重はその記事に掲載された人に会うために舞鶴を訪ねます。「…杉戸八重が、東京の亀戸から、この舞鶴市東舞鶴の駅に降りたったのは、引揚船も遠くの 昔話になった昭和三十二年の六月七日午前十時のことである。この日は小雨が降ったり止んだりした。日本海沿岸の六月は湿気が多く、梅雨のじめじめ した空気は、肌にべとつくようなむし暑さと一しょに、八重の一張羅のワンピースに包んだ疲れた体を汗ばませた。杉戸八重は、京都駅で東海道線から山陰線にのりかえ、汽車がトンネルの多い保津川ぞいの渓谷に入りこむあたりから、北の方の空が曇っていることに、何か、この秘やかな旅行の 前途が暗くかげったように思われて、気が重くなった。たしかに、駅へ降りたった時は、殺 風景な町だと思えたし、「引揚者の皆さま、ごくろうさんでした」と広場の前に立てられてある厚生省や婦人団体のつくったアーチの残骸がうすよごれて、かたむいて残っているのも、うら淋しい気がした。町は駅前からすぐ繁華街が発達しているという体裁をととのえてはいない。商店の少ない広い道が海の方へぬけている。八重は町へ入ってみようと思った。 …」。当時の時刻表を見ると、京都発6時50分、東舞鶴駅着9時49分という列車があります。この列車に乗るためには東京を20時45分発の急行「安芸」に乗ると京都着6時23分で丁度よさそうです。

左上の写真が東舞鶴駅です。現在は高架化されていて昔の面影は全くありませんでした。

「八島通り」
八島通り>
 水上勉ですから、舞鶴市内はおてのものです。市内の地名がバンバンでてきます。「…八重が眼にとめた旅館は、「若狭屋」 という駅前通りから三百メートルほど東へ入ったところに門灯をかかげている二階家の、一見商人宿のようにみえる粗末な宿だった。石の門があって、鉄棒がわたされている。その中間にすりガラスの丸い電灯がみえて、墨書で、「わかさや」とかかれていた。おそらく軍港時代からの宿にちがいない。古ぼけた大きな柱が煤けていて、玄関も建物のわりに大造りに思われた。八重はこの宿へ入った。出てきた女中は二十七、八の背のひくいひっつめ髪の女であったが、眇の眼をひらいて、八重をむかえた。 「ひと晩泊めてほしいんですよ」 と、八重はスーツケースを上がりはなに置き、ハンケチで、上気した首すじをふいた。女中は奥へ入っていったが、すぐ出てきて八重を二階へ通した。ギシギシなる廊下だった。表通りに画した六畳に通された。「東京からきやはったんですか」 と抄を女中は心もちほころばせて訊いた。浴衣とお茶盆を八重の横にずらせて、女ひとりの旅を不思議そうに見ている。八重は、「ええ」 といっただけで、出された宿泊簿に次のように記した。東京都江東区亀戸町一九九八番地本島方、杉戸八重、三十四歳。…」。地名と通りの名前は本物ですが、旅館名は?でした。又、亀戸の住所も書かれているのですが、亀戸町一998番地はあり得ない地番でした。

右上の写真が八島通りです。地方の大きな商店街という感じでした。この通りを300m歩くと「若狭屋」という旅館があり、向かい側には写真屋があるはずなのですが!!

「八島通りの突き当たりの寺の裏」
八島通りの突き当たりの寺の裏>
 大湊で出会った人の自宅を探します。「… 「あんた北吸ってとこ知ってる?」 「へえ、ここの近くどす」 と女中はいった。八重はびっくりした。知らず知らずのうちに、樽見食品工業のある近くへ足を踏入れていたのかと、不思議に顔がほてるような気がした。「そんなに、近くなの」 「北吸のどこらあたりどすねん」 と女中はきいた。「くわしい番地は知らないの。はじめてきたもんですから、歩いて探そうと思ってるンです」 八重はいった。「この道を西の方へゆきますとね、山がみえます。忠霊塔の山どす。軍港のあった中舞鶴の方へゆく途中になりますねやけど、高い石段がありますし、すぐ、わかります。うちの前の道を歩いてゆかはりますと、得月院ちゅうお寺はんが川向うに見えますわ。そのお寺はんの裏の方へゆかはったら、そこが北吸どすねン」 「そこらあたりに工場がありますか」…」。上記の八島通りの写真の反対側へ歩いていきます。得月寺も実在しました。

左上の写真の橋を越えた左手(写真には写っていない)に得月寺があります。正面の山が”忠霊塔の山”のようです。樽見食品工業は山の向こう側にあるはずなのですが!!

「舞鶴東署跡」
五条敷島の舞鶴東署>
 「飢餓海峡-文庫-下巻」で中心になるのがこの舞鶴東署です。「… 漁業共同組合事務所から、五条敷島の角にある舞鶴東署に急報された。東署でこの電話をうけたのは、捜査係長の警部補味村時雄である。味村警部補は三十八だというのに額のはげ上がった、てかてかの頭をしていた。…… 舞鶴東署の古びた木造の建物 …」。舞鶴東署は五条敷島に実在したのですが、現在は残念ながら移転していました。現在は駐車場になっています。

右上の写真が敷島通りで、左右が五条通りになります。ですから正面のビルの所に舞鶴東署があったはずです。この他にも遺体を収容した東舞鶴病院も実在しています。


次回は「飢餓海峡  東京編」を追加します。

飢餓海峡 舞鶴市内地図