

函館で事件が起こったのは昭和22年9月です。その後、下北半島まで犯人の足跡を追いますが、大湊で見失います。10年後の昭和32年6月、意外な場所で、意外な事件が起こって、犯人の影が見つかります。「…死体だ。市松はひっこんだ眼玉をひらいて凝祝した。ろげたように水に浮いてい白い腕が袖口から折れたように曲って水中へ没している。 酒田市松は舟を向きかえ、息せき切って小橋部落の浜へ舟をすべりこませた。溺死体の報告をしなければならない。当時、この小橋と三浜両部落には駐在所はなかった。電話のあるのは漁業共同組合の事務所だけである。市松はこの事務所へ走りこんでいる。…… 舞鶴東署の味村警部補の一行が、小橋の浜の隅で、身元不明の女の溺死体を検視し終えたのは午後四時半ごろであった。…… まだ、陽ぎしの残っているアンジャ島の海上から、磯に向けて漕いでくる和船が一隻みえた。この舟には若者が二人のっていた。係官たちが、一せいにこの舟に向って眼をむけたのは、ほかでもなかった。何やら大声で磯に向っ てがなりたてていたからだ。「おーい、死んどるぞお。男が死んどるぞおー」 ときこえた。…」。水上勉ですから、よく知った場所として舞鶴を選び、犯人逮捕のきっかけの事件を起こしたのだとおもいます。この発見された女性の死体は10年前に大湊の遊廓で犯人を泊めた杉戸八重でした。
★左上の写真は杉戸八重の死体が発見された小橋とアンジャ島(地図ではアンヂャ島)です。三浜峠から三浜に少し下がった付近から撮影しています。正面左付近が三浜、やや右が小橋で、右側の島がアンジャ島です。舞鶴から北に十数キロです。アンジャ島の拡大写真を掲載しておきます。