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最終更新日:2006年10月31日


●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 下北半島編-1-
  初版2006年10月21日 <V02L02>

 今週は水上勉作品「飢餓海峡」に戻ります。前回から少し時間が経ちましたが三週目で、犯人の足どりを辿って北海道から本州に渡り下北半島を歩きます。


<夢を吐く 人間 内田吐夢>
 「飢餓海峡」の最初の映像化は昭和40年(1965)1月東映で、監督:内田吐夢、三国連太郎、高倉健、、左幸子、伴淳三郎という錚々たるメンバーでした。当初は昭和39年秋上映予定だった様ですが、三国連太郎の病のため翌年に伸びています。「…大久保は一冊の原作を東京撮影所企画部長、吉野誠一を通して岡田に提出した。水上勉の「飢餓海峡」である。いわゆる「刑事もの」に相当する原作ではないが、弓坂吉太郎という函館の警部補がよく書かれており、重要な位置を占める原作だった。岡田は一読して直ちにこれを吐夢の次回作と決めた。吐夢もまた、この原作に十分料理し得る要素をみてふるいたった。 脚本完成後、吐夢は東京撮影所作品の第三作目「飢餓海峡」の準備を五月から始めた。…」。内田吐夢監督67歳の時の作品です。昭和39年といえば吉永小百合の「愛と死をみつめて」ですね。日活と東映の違いでしょうか。お金の掛け方がかなり違うようです。

左上の写真は社会思想社版、太田浩児の「夢を吐く 人間内田吐夢」です。「飢餓海峡」の撮影秘話を中心にまとめられています。「あとがき」に「 私が「鋏の暴力」という題名で、映画「飢餓海峡」のカット事件を、百七十八枚の原稿にまとめたのは、もう十余年前のことになる。 これを圧縮して、雑誌「マスコミ評論」の昭和五十六年八月号から十一月号まで四号にわたって掲載し得たのは、当時、同誌の編集長だった永井敏比吉氏と、私の友人、山中崇容氏の好意によるものだった。ただ一回分二十五枚、計百枚という制限のため、せかせかと事件追いに過ぎた憾みが残った。私としては、事件を核心とはしても、「人間、内田吐夢」 を描きたいというのが念願としてあったからである。たまたま、右の拙文が映画批評家の田山力哉氏の眼にとまり、同氏からこれをふくらませて出版してはどうかという話があり、社会思想社の高崎千鶴子氏を紹介して戴いた。出版するに当たって、高崎氏の内容要請も、私のかねてからの念願に副ったものなので、私は喜んでこれに応えることにした。…」。「飢餓海峡」のカット事件とは、当初「飢餓海峡」の映画の長さを内田吐夢監督は1万7282フィート(3時間12分)と考えていたのを、会社からは”1万5千フィートに切れ”といわれて、結局1万5028フィート(2時間47分)に落ち着いた事件のことです。この事件が新聞種になり、この陰で「飢餓海峡」もかなり有名になったことも事実で、半分はやらせでは無かったのかと思っています。その後、昭和50年に再編集(3時間)された「飢餓海峡」が再上映されています(内田吐夢監督死後5年目でした)。

【内田吐夢(うちだとむ、本名:常次郎)】
明治31年(1898)岡山市で菓子屋の息子として生まれる。中学校を2年で中退し横浜に創立されたばかりの大正活映に入社。大正11年(1922)牧野映画に移り『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビューする。その後、日活多摩川撮影所に移り『限りなき前進』『土』などを監督する。戦前は満州映画協会に在籍する。昭和29年(1954)に日本に戻り翌年監督業に復帰。『大菩薩峠』『宮本武蔵』『飢餓海峡』などを監督する。昭和45年(1970)『真剣勝負』のロケ中に倒れ死去。享年72歳

湯野川温泉(青森県下北半島)>
 下北半島の中心部、湯野川温泉がロケ地に選ばれますがこの撮影現場でスタップ間の喧嘩が起きます。「…湯の川とは、旅行案内からも見捨てられている湯治場で、旅籠屋とよぶにふさわしい古い旅館が一軒あるだけだが、その代わり、大きな油石を床に敷きつめた露天風呂には透明な湯があふれている。湯に浸って、きらめく星を仰げる幸福がここにはあった。東京とは異なる宇宙があった。映画の中では、杉戸八重が年老いた父を伴い、父娘いっしょに湯につかるくだりが、ここで演ぜられることになる。貧しい父娘のささやかな幸せの一駒である。…… 鄙びた湯の川に宿泊した夜のことである。たった一軒しかない小さな旅館に一般スタッフは泊り、メインスタッフと演技者は営林事務所の寮に泊った。湯殿からは眼下に渓谷が見え、あたりの樹木はすでに紅に染まっていた。夕食を終え、私は翌日の打合せを他の助監督とするため、下駄ばきで旅館に出向いた。歩いて百メートルとはないのだが、近づくにつれ、小さな旅館がばかに騒々しい。着いてみて驚いたことには、酒もはいっているとはいえ、スタッフが乱闘の真最中である。中には鰐を足成りにしたり、銚子をたたき割ったりするのもいる。…… 夜半、私は外へ出て、床に池石を敷きつめた露天風呂に独りはいった。ロケハンの時、私はここで磨いたように美しい星を仰ぎ見たものである。美しい星はその夜もあった。だが天に散らばる美しい星と比べ、「飢餓海峡」の前途にはいったい何が約束されているのか。この作品は成功するのだろうか。いや、この作品は果たしてできあがるのだろうか? 何もかも駄目になってパンクしてしまうのではあるまいか - 真面目に私はそこまで考えた。……」。この喧嘩の原因はせっかく作った看板が写っていないという単純な事なんです。スタッフは本当に熱心に映画を創っていたのだとおもいます。旅籠屋と呼ばれた旅館の写真も掲載しておきます。

左上の写真が湯野川温泉の露天風呂跡です。上から見た写真も掲載しておきます。現在は風呂はなく右側に源泉があるのみです。旅館は写真左側(上記の旅籠屋)と正面の橋を越えた辺りに数軒有ります(当時は一軒しかなかった)。直ぐに入れる温泉としては川内町立の湯野川温泉 濃々園(じょうじょうえん)という温泉が有ります。350円です(私も入りました)。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)



<水上勉の飢餓海峡地図 -1->


仏ヶ浦-1-(青森県下北半島)>
 水上勉の「飢餓海峡」では、犯人は函館の七重浜から船を漕ぎだし、青森県下北半島の仏ヶ浦にたどり着きます。函館警察署の弓坂警部補は犯人を追跡して下北半島に向います。「…牛滝から舟を出してもらった弓坂警部補が、戸波刑事と駐在所巡査の寺田を同乗させた丸木舟で、仏ヶ浦の北方にある樹海の下に到着したのは、翌日の午前十一時である。曇り日だった昨日とくらべて、朝からからりと晴れた日だった。空は海の色よりも青かった。戸渡の説明を聞きながら、現場に来てみると、火のみえた個所は、ずいぶん瞼しい山の中腹である。海から眺めただけでは、深い常緑樹の混成林としかみえない。場所もはっきり見当がつかない。藤のまきついた巨木が枝をさしのべているうす暗い淵へ寄った。そこからじかに山へのぼることは不可能である。だが、仏ヶ浦の奇岩怪石のならんでいる下には、舟をつける岩場がいくつかある。おそらく、焚火の主も、舟泊りのあたりから岩壁をよじのぼって山へ入ったものであろうか。弓坂は想像した以上の瞼しさに驚いた。しかし、火の焚かれた場所へ行ってみなければならない。舟が陸奥湾ぞいのどこの岸にもなかったとすれば、痕跡をくらますため、破砕して焼減させるという方法もあるわけであった。この弓坂の推理には、戸波刑事と寺田は半信半疑の眼であった。…」。犯人はこの仏ヶ浦にたどり着き、漕いできた船を焼いたようです。それにしても仏ヶ浦は凄い風景です。

左上の写真が青森県下北半島の仏ヶ浦です。私は下北半島を右側から周り、大間から佐井を通り仏ヶ浦にたどり着きました。道は舗装されていましたが大変でした。冬は殆ど走れないでしょう。

仏ヶ浦-1-(青森県下北半島)>
 仏ヶ浦を海から見るには佐井から観光船に乗るだけだとおもっていたのですが、仏ヶ浦で観光船が出ていました。「…大間から、岬を西へ迂回して、海岸ぞいに平館海峡にのぞんだ瞼路をゆくと、山地は急に海に向って突きたてたように断層崖がつづいてゆく。その中でも、仏ヶ浦といわれる断崖は見事な景勝を誇っていた。詳述しておくと、この浦は、下北郡佐井村牛滝という部落と、福浦という部落との中間にあって、湯ヶ岳という背後の山が海へ落ちこむために、そこだけ切落されたように、数百メートルの崖をつくっているのだった。古くから「仏が宇陀」と近在の人びとによって崇拝されているこの断崖は、グリンタフの海蝕台地の上に、純白とも見まがうばかりの石や、淡緑色の石やで、巨大な仏像に似た裔岩怪石を抱いていた。もとより、この岩壁の突出た姿を陸路から遠望することはできない。海から眺めるしかないわけだ。…」。山側の道から見ても殆ど見えませんでした。

右の写真が仏ヶ浦の観光船乗り場です。仏ヶ浦には数十台の駐車場もあり、佐井から観光船に乗る必要はないようです。ただし、駐車場から仏ヶ浦の観光船乗り場まで急斜面を降りてくるのが大変です(帰りに登っていくのがもっと大変、お年寄りは殆どむり)。階段が出来ていて道はよいのですが、15分以上かかります(かなり遠い)。

牛滝(青森県下北半島)>
 函館警察署の弓坂警部補は犯人の足どりを掴むために大湊から川内、野平経由、牛滝に向っています。犯人とは逆に辿っています。「…野平の開拓村で軌道車を捨てた弓坂警部補は、暮色の落ちかかる山道を牛滝の方へ向って歩きだした。軌道車を一しよに降りた村人たちが四、五人うしろから尾いてきたが、まもなく開拓村の方へ消えてしまうと、警部補はひとりきりになった。警部補の足どりは重かった。朝から、大湊へ出て、畑の部落にゆき、そこから湯野川まで急行して、杉戸八重を問いつめてみたけれど、徒労に終ったのである。警部補は歩きながら考えた。…… 開拓地を出ると、下り坂になる。ふたたび、山道は暗いヒバ林に入ったが、林をぬけると急に視界がひらけた。牛滝漁村のみえるえぐれた海が暮色に燻っている。警部補は村口についたとき、掲示板のある四辻のところで手を振って待っている戸波牛松刑事の小柄な躯をみとめた。疲れていた足が急に元気づいた。…」。昭和30年代までは道なき道だったのでしょうね。下北半島は森林軌道が非常に多かったわけが分かります(次回に森林軌道の特集を行います)。

左上の写真が現在の牛滝の町です。よくある田舎の漁村という感じでした。

大間(青森県下北半島)>
 大間といえば現在はマグロで有名ですね。「飢餓海峡」では犯人は大間には立ち寄っていませんが、映画の撮影時に内田吐夢監督が函館に向うときに大間から船を使っています。「…青森県の下北半島は本州の最北端に位置していた。マサカリをつきたてたような半島の突端に、大間という町があった。人口わずかに五千。南東の大畑の町から海岸にそうてここへくるまでの道は険しい山岳で遮断されていて、まったく忘れられたようなうら淋しい漁師町だ。町の東から百メートルほどはなれた海中に弁天島という小さな島がある。そこには古い灯台が立っている。灯台のあたりから、海峡の対岸にある北をのぞむと、すぐ函館港の段丘と、なだらかな汐首岬の山々かかなりはっきり浮いてみえた。南の方は黒い山であった。…」。今の大間はマグロと本州最北端の観光地になっていました。

右の写真が大間で撮影に使われた派出所跡です。撮影といっても内田吐夢監督の映画ではなくて、後にフジテレビ系列で1978年に8回連続放映された「飢餓海峡」です。その時に大間の派出所として使われた場所です。

次回は下北半島の川内から大湊、恐山を回ります。

<水上勉の下北半島地図-1->

【参考文献】
・飢餓海峡 上 下:水上勉、新潮文庫
・飢餓海峡:水上勉 朝日新聞
・飢餓海峡 前編 後編:水上勉、河出書房
・夢を吐く 人間内田吐夢:太田浩児、社会思想社


●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 下北半島編-2-
  初版2006年10月28日 <V01L01>

 今週も引き続いて水上勉作品「飢餓海峡」を歩きます。下北半島の恐山と犯人が辿った牛滝から野平、川内、大湊を歩きます。


<飢餓海峡 昭和53年(1978)フジテレビ放映>
 「飢餓海峡」は昭和37年1月から約一年間週刊朝日に連載され、最初の映像化は昭和40年(1965)1月東映でした。その後の昭和53年フジテレビ系列で8回に渡って放映されます。DVDの解説を読みますと、「昭和53(1978年)、フジテレビ=バリアンツで制作されたこのTV版『飢餓海峡』は、9月2日から10月21日、全8回の放映となった。日本映画を代表するスタッフが集結、配役も名優たちが顔を揃えている。企画は長谷川和彦監督の『惜春の殺人者』(76)をプロデュ一スした直後の今村昌平。監督は「青春の門/自立篇」(76)が公開されたばかりの浦山桐即に、人気ドラマ「傷だらけの天使」(74〜75)などTV界でも活踵中の恩地日出夫がダブルであたる。他にも脚本、撮影、助監督、音楽と、映画界屈指のスタッフが集まった。…」、流石、ドラマのフジテレビです。昭和39年の東映「飢餓海峡」より此方の方が新しい分だけ身近に感じます。

左の写真はフジテレビ版「飢餓海峡」のDVD表紙です。劇場版よりなにか暗いですね。「飢餓海峡」の時代背景を表しているのかもしれません。もう少し詳しくTV版の中身を見ると、「…弓坂刑事には、従来のヤクザ役だけでなく『桜の代紋』(73)や『悪魔の手毯唄』(77)と刑事役も定番となった、若山富三郎が扮した。得意の柔道をも活かした役作りで、映画版の伴淳三郎とはひと味違う弓坂が登場した。樽見京一郎には当時、作品を選んで出演することで有名だった山崎努。脚光を浴びた黒沢明監督の『天国と地獄』(63)での犯人役を彷彿とさせる、鬼気迫る犯罪者を見事に演じきった。当初、多岐川由美が予定されていた杉戸八重役には藤真利子。明るく、娼妓をしながらも初々しさを失わない純情な娘を体当たりで熱演し、本作品が出世作となった。他にも、撮影当時には映画界の第一線で活躍している名優たちが揃う。…」、8回に分けて放映されましたので少し間延びしています。もう少しスピード感があるといいとおもいます。弓坂刑事はやせた伴淳三郎の方が合っていますね!!終戦直後としては若山富三郎は余りに肥え過ぎています。アンバランスです。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


<水上勉の飢餓海峡地図 -1->


三途の川(恐山)>
 太田浩児の「夢を吐く 人間内田吐夢」では内田吐夢監督が撮影準備のため恐山を訪れたときのことを書いています。「…こうして故人の霊を呼び小声で対話する巫女は、昼食後訪れた恐山に多い。恐山は日本三大霊山のひとつであり、大湊から車で三、四十分、北西に向かった地点にある。…… 山麓の緑の草の中に赤や黄の花が点々とあるかと思えば、その先は一木一草の生存すら許されず、灰色の荒涼とした地肌がむき出しになっていて、無常感を漂わす。そのあたり、地獄からの音信のように、ゴポリゴポリと地底から不気味な音をたてて熱湯が湧き出し、土そのものが靴底の皮を通してぬくみを足に伝える。修羅王地獄、女郎地獄といった恐ろしい名前の史跡があるが、他にも重罪地獄、血の池地獄、賽ノ河原と続く。傍に神秘的な円形の髄、宇曽利山湖があり、ここに注ぐ細い川を三途ノ川という念の入れようである。三途ノ川に太鼓橋がかかり、一組のアベックが、じっと動かずにいた。「心中じゃあるまいな」 誰かがポッリと言った。…」。本物の小説「飢餓海峡」では恐山は登場しません。

左上の写真が恐山の三途の川に架かる太鼓橋です。恐山菩提寺の少し手前に有ります。特に三途の川に架かる太鼓橋の雰囲気はありません。

恐山菩提寺(青森県下北半島)>
 恐山菩提寺も昭和30年代と比べると立派になっています。中にある山門も当時は無かったようです。「…風に反る卒塔婆、そして、積まれた小石の山の小さい一粒、二粒がとはされる。それを黙然と見守る苔むした石地蔵。漂白された寺の山門は、数百千年の時の流れに耐えた骸骨の仔立を思わせ、その異様な風景は暫く一行のロを閉ざした。寺の周辺に、数人の巫女が聞き手とともにしゃがみこんでいるのが、遠く見える。巫女はすべて木綿の和服をまとった老女である。こうした場の中で、私の耳には、さきほど大湊の巫女がぶつぶつ呟いた祈藤の声が復活した。おそらく誰の耳にも、わけても吐夢の耳にそうだったに違いない。後日、この作品のダビングの時に、吐夢は音楽の富田勲と計り、御詠歌のアレンジを主題曲の基調とした。…」。御詠歌をアレンジしたとは思いませんでした。御詠歌というと今の若い人はわかるかな!賛美歌みたいなものですね。

右上の写真が恐山菩提寺の山門です。左側の赤い屋根の建物が本堂です。この左側奥に”賽の河原”があります。劇場版「飢餓海峡」でもこの”賽の河原”が使われています(犯人がこの”賽の河原”を歩く場面)。TV版は多くの場面でこの恐山菩提寺が使われていました。まず最初は弓坂刑事が歩く”賽の河原”の場面、次は温泉場の場面です(この恐山菩提寺の中にある温泉場が使われています)。

<恐山菩提寺 宿坊 吉祥閣>
 この恐山菩提寺には宿坊がありましたので泊まってきました。禅宗のお寺ですのでお勤めがありますが、私の時は朝だけでしたので30分ほどですみました。宿坊も大変良くなっていて鉄筋コンクリートのホテル並の設備でした。昔は木造の建物で大部屋たったのではないでしょうか。8月末だったのですがガラガラで一泊12千円でした。温泉は中にもあるのですが、この恐山菩提寺の参道の両側に木造の小屋風の男女別々の風呂場があります。夜の暗い中を入りにいきます。だれも入っていないと自分で電気をつけます。風呂場の中の写真も掲載しておきます。

左の写真が夕食です(皆で一緒に食べるのですが、お坊さんと一緒に……をしないと食べられません)。精進料理ですがなかなか美味しかったです(すこし味は濃かった)。献立は時期によって変わるとおもいます。

川内(青森県下北半島)>
 話は小説「飢餓海峡」に戻ります。犯人達は函館七重浜から小舟で漕ぎだし、下北半島の仏ヶ浦に上陸します。その後、犯人は牛滝に表れます。「…牛滝の部落が、ビバ林の樹間にとびとびに見えはじめた時、角ぼった男の顔に、かすかな安堵の色がただよいはじめた。…… 野平には、四十分ほどで着いた。山の中腹にひらけた開拓部落だった。…… 道はこの部落を斜めに通りすぎると、材木のならんだ森林軌道の出発地点へきた。そこには、トロッコとも汽車とも名のつけようのない鉄鎖のついた枠だけの車輪と屋根のない箱をつないだ軌道車が停っていた。…… 軌道車は四十分ほど走ると、緩行しはじめた。山が割れ、畑の部落が前方にみえはじめたからである。この部落も、すべて石置き屋根だった。杉皮のひしゃげたような小舎がとびとびに傾斜面にみえはじめると1みなはやがて、がやがや動き出した1下り仕度にかかるのだ。 畑の部落で、この軌道車はいったん停車して、湯野川温泉と安部城をつなぐ新しい森林軌道に連絡していた。…… 湯野川はただ近在の百姓や木樵が、傷めた足をいやしたり、リューマチや神経痛をなおしに湯治にくる以外には、客とてない小さな温泉村だった。その湯の村へ入りこむ起点にあるこの畑部落は、今しがた到着し たばかりの森林軌道の機関車の音が静止すると、しばらく乗客たちのはなし声でにぎやかにざわめいていたが、このとき、安部城へ下る軌道車の乗口へ、ひょっこり現われた二十二、三の和服姿の女がいた。…… 女は、軌道車がはげ山をみせた鉱山村の安部城を出て、やがて、本線の川内駅についた時、この男が逃げるようにして、材木置場の方に消えるのをみた。男のどこかうれいげだった眼もとと、痛々しい傷跡が女の頭にのこった。…」。複数だった犯人は何時の間にか一人になっていました。仏ヶ浦から牛滝、野平(現在はダムの底です)まで犯人は歩きます。野平でやっと森林軌道に乗ることが出来ます。そしてこの森林軌道で、川内まで向います。森林軌道とは線路の幅の狭い鉄道です。スピードは出ませんが便利なので木材の運送などに戦後活用されたようです。

【森林軌道について(宮本常一「私の日本地図 下北半島」より)】
「…山がふかくしかも奥地にほとんど村がないから、森林軌道を敷いて、奥地の伐採を便利にした。下北には現在むつ、川内、脇野沢、大畑、佐井に営林署があり、それぞれ直営事業を盛んにおこなって来たのであるが、その中でも川内の営林署はもっとも広い山をもち、したがって森林軌道の延長も長い。そして住民たちも奥地へはいるにはこの軌道のお世話にならなければすまなかった。最近川内から畑にいたる一般車道も開通し、ゆくゆくは佐井へぬける車道も完成するであろうが、下北の山中は長い間この軌道にたよって奥地と連絡した。車は朝九時に川内を出る。川内の貯木場はこの軌道車に便をかりる人たちでにぎわう。奥へはいる物資もこの車ではこぼれる。この奥には畑、湯ノ川、野平(たい)などの村がある。車はさらにその村の奥の沢まで入っていく。そして材木を積んだ車は午后三時すぎには川内へかえって来る。奥に材木の多いときは二回も三回も便があるが、荷の少ないときは一回きりである。川内を出た車は畑までは一本の軌道をはしってゆくが、畑で野平へいくものと湯ノ川の谷へはいるもの、片貝の奥へはいるものとに別れる(軌道車は実にゆっくりはしる。客車も一輌ずつついているけれども、材木を積む無蓋車へ乗る者も多い。この方は四方がすべて見わたされるので快適である。湯ノ川の奥へはいる車にのれば、その終点から湯ノ川越をこえて川目に下り佐井へ出ることもできる。…」

右上の写真が現在の川内川と川内橋です。この辺に森林軌道が走っていたはずなのですがなにもありません。劇場版では伴淳扮する弓坂刑事がこの橋の右側でバスを待つ場面になるのです。橋も掛け替えられ、道幅も変わっていますので昔の面影は全くありません。ただ、伴淳三郎が撮影のときに泊まった旅館(川内館)が当時のまま残っていました。

<下北半島の森林軌道>


大湊駅(むつ市)>
 犯人は森林鉄道で出会った女と川内で別れます。「…十分間のちに女は本線に乗りかえていた。本線の中は森林軌道とちがって客は混んでいた。男が乗ったものかどうかを見きわめることが出来なかった。女 ─ 杉戸八重は大湊に夕刻五時二十分についている…」。川内から大湊までも鉄道があるように小説には書かれていますが、私が調べた限りではバス路線しかありませんでした。

左の写真が大湊線の終点、大湊駅です。駅舎は少し変わってはいるようですが基本的には当時のままのようです。劇場版やTV版ではこの駅前から釜臥山を映した映像が撮られていました。釜臥山山頂のレーダードームの向きでどちら側から撮影したかわかります。

花家跡(劇場版) 推定>
 川内までの森林鉄道で出会った女は大湊の歓楽街「花屋」に勤める杉戸八重でした。「…杉戸八重というのは本名であって、女は大湊の歓楽街、喜楽町にあるあいまい宿「花家」で千鶴という名で酌婦に出ている。この年、杉戸八重は二十四だった。畑の部落で零細な農業をしている杉戸長左衛門の長女に生れた。部落の娘たちの誰もがそうであったように、高等小学校を出ると八重も大湊へ出た。…… しかし、杉戸八重はその男と再会できた。「花家」という商売がその役目を果してくれたのだ。男がひょっこり、店の敷居をまたいだのは、畑から帰って四日目の夕刻であった。杉戸八重は、復員服をきた大男が、髭面を呆然とさせて階下の夕タキに突立ったのをみてあッと声をあげた。…」。劇場版の「飢餓海峡」では大湊に実在する建物で撮影されいます。大湊で遊廓が在った地区は遊廓大湊新町地区、駅から北西、川沿いの地区でした。

右上の写真の建物の所に撮影で使われた「花屋」があったと推定されます。近くの方に聞いたのですが、確証を得られませんでした。駅近くの喫茶店や理髪店でも聴きましたが、良く知っていた方が亡くなられたとかで、分かる方がいなくなったとのことでした。残念!!

次回は「飢餓海峡」の東京を歩きます。

<水上勉の下北半島地図-1->

【参考文献】
・飢餓海峡 上 下:水上勉、新潮文庫
・飢餓海峡:水上勉 朝日新聞
・飢餓海峡 前編 後編:水上勉、河出書房
・夢を吐く 人間内田吐夢:太田浩児、社会思想社
・私の日本地図 下北半島:宮本常一、同友館

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