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最終更新日:2018年06月07日


●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 岩内編
  初版2006年9月16日 
  二版2010年5月10日 <V01L01> 当時の岩内西小学校の位置を修正

 今週は水上勉作品「飢餓海峡」の二週目になります。前回は北海道の函館を中心に歩きましたが、今週は事件の発端になる岩内から義経伝説のある雷電海岸を歩いてみます。


岩幌線(岩内線跡)>
 「飢餓海峡」の事件の発端はこの小沢駅で函館本線から分かれた岩幌線(岩内線を岩幌線と名前を変えて書いている)の終点、岩幌(此方も岩内を岩幌と変えている)で起こります。
「…国鉄函館本線が、尻別川の上流に沿うて、東に羊蹄山の端麗な容姿を眺めながら、倶知安町に向って北上するあたりは、ところどころに火山灰地が灰いろの地肌を露出している。かなりな高原地帯である。この倶知安を出た本線が、北に迂回して、積丹半島を縦断する地点に小沢という小駅がある。ここから岩幌線が岐れていた。小沢は、町というよりは、小さな淋しい集落にすぎなかった。南方のニセコ連峰といわれる火山群の山々と、積丹山系との中間にある細長い盆地の中心をなしており、平野はここから西にむかって、山かいを流れる岩幌川に沿うて日本海へ扇面を半すぼみにしたように末広がりにぬけてゆく。岩幌腺──。一日に三回しか汽車の通らない、まるで忘れられたようなローカル線であった。もとより乗車客は海辺の漁師か近在の農夫以外にはなく、国鉄の帳簿でも最も赤字線の代表とされる、貨車人車同時連結の単線である。この線の終着駅に、事件の発端となった岩幌漁港がある。…」
 函館本線の小沢駅はそのままの名前で使っています。場所を特定できないように変えているとおもうのですが、よく分かりません。

左上の写真が函館本線小沢駅です(写真をクリックすると小沢駅ホームの写真に拡大します。岩内線のホーム跡がありました)。岩内線は大正元年(1912)に小沢−岩内全線が開業しています。もともと岩内はニシン漁で栄えた港で、沿線に銅を産出する鉱山も出来て海産物や鉱石の輸送で活況を呈していました。しかし戦後は岩内線の輸送量が減少し昭和60年(1985)に廃止されています。下記の地図に岩内線跡を赤色の破線で示しておきます。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


<水上勉の飢餓海峡地図 -2->


<岩幌大火(岩内大火)>
 水上勉の「飢餓海峡」では、岩幌大火(実際は岩内大火)は下記のように書かれています。
「…昭和二十二年。津軽海峡の海上で、あっというまに多数の人命を呑みこんだ層雲丸沈没の大事故を起した十号台風は、九月二十日の朝、函館から約百二十キロほどしかはなれていないこの岩幌の町で、ポヤですんだはずの小さな火事から、全町三分の二までが焼失するという悲惨な大火事を惹き起している。…… もっとも、この新聞記事も、全国紙ではほんのわずか三面の下の隅の方に二段組で報じられたにすぎなかった。…… 質屋を営む佐々田伝助という家の台所から出ている。九月二十日午前八時十分のことである。まだ道南には、その時刻は強風注意報は出ていなかった。しかし、すでに、風は嵐の前兆をみせていて裏日本の海もかなり荒れていた。佐々田質店から火を噴いたボヤは、付近の建てこんだ家々に延焼した。…」
 佐々田質店に押し入った男たちは家族を殺害後、朝8時ごろに店に火をつけて逃げます。

左上の写真が昭和29年9月27日の夕刊です。実際の岩内大火は昭和29年26日20時15分ころ、台風15号(洞爺丸台風)が北海道渡島半島(寿都と長万部を結ぶ線以南の地域)沖合、わずか100Km余りのところにさしかかった時に発生しています。台風15号(洞爺丸台風)の接近で避難し留守宅となったアパートの火鉢から出火。町の80%が焼失し死者33人,負傷者551人。焼損3,299棟の大火でした。(この写真は拡大しません)

岩幌駅(岩内駅跡)>
 岩内線の終点、岩内駅です(「飢餓海峡」では岩幌駅です)。昭和60年に岩内線が廃止され、現在はバスターミナルと駅の道「いわない」になっていました。「飢餓海峡」では佐々田質店に押し入った男たちは9月20日の朝早くこの岩幌駅から鉄道で逃げます。この後、この男たちは翌日の正午ごろに函館に近い木古内に表れるわけです。

右の写真の正面が道の駅「いわない」、左奥に見えているのかバスターミナルです。このあたりが岩内駅構内だったようです。写真には写っていませんが、左側に岩内駅の記念碑が建てられています。坂の上から撮影した岩内町の写真も掲載しておきます。

岩幌警察署(岩内警察署)>
 飢餓海峡」には岩幌警察署が登場します(実際は岩内警察署ですが)。
「…翌九月二十一日、焼け跡に板囲いをめぐらせただけの岩幌警察署の対策本部は、消防団員との連絡会議をもった。…… 田島清之助は、署のある大通りから五百メートルほど山の手に上った官舎に住んでいた。自家が焼けのこったということもあって、仕事を済ませて、焼けただれた町を通って家に帰る足が重いのであった。…」
 現在の岩内警察署は鉄筋コンクリートの二階建てですが、昭和20年代はどのような建物だったのでしょうか。興味か有ります。

左上の写真が現在の岩内警察署です。交差点の角にあるのですが、反対側に岩内町役場があります。

西町小学校(岩内西小学校)>
  2010年5月10日 当時の岩内西小学校の位置を修正
 どういうわけか、岩内の小学校が登場します。
「…「田島さん、出火は朝の八時十分ごろとなっていますね。すると、泥棒は朝方早くに佐々田質店へ入りこんだわけですか」 「いや」 と田島清之助は無精髭の生えた丸い顔をむけて、「朝八時前というと、あすこらあたりは焼けた西町小学校の近くでもありますから、登校する児童たちがもうちらほらみえたはずですし、通りの人家も起きていました。胡散くさい男が入れば人眼につくと思われます。で、犯人が佐々田家に侵入したのは、おそらく夜ではないかと思われるんです。…」
 全く同じ名前の小学校ではないのですが、この岩内西小学校を想定したのだともいます。
 岩内にお住まいの方からメールを頂きました。岩内大火の時の岩内西小学校は上記の岩内警察署の隣にあったそうです。昭和22年に岩内両国民学校が、岩内東小学校、岩内西小学校に分かれています。この時の場所が岩内警察署の隣です。佐々田質店もこの近くになるはずです。

右の写真が現在の岩内西小学校です。下記の地図を見てもらうとわかりますが、岩内町の西の端にあります。

雷電海岸>
 三人の男たちが事件を起こす前日に岩内町へ向うために歩いた道です。刑事は三人の足どりを掴むために岩内から雷電海岸に向います。
「…岩幌町から野束、敷島内を通って雷電海岸に出る道は険しかった。海に沿うて堅い岩層が屏風のように切りたっている所もあり、道は岩石につき当ると、その巨大な岩を通り過ごすために山へ入りこんで迂回せねばならない。田島清之助と、小樽署の荒川刑事が、火山岩の吃立した雷電の鼻に到着したのはその日の午ちかい頃である。………… 雷電を越えると、北尻別、歌棄、寿都と瞼しい道は渡島半島の北部を通って槍山に出る。 「真偽のほどはわかりませんがね、源九郎義経が、ここを通ったというんですよ」 田島は歩きながら、荒川に話しかけた。 「雷電に刀掛岬、向うの鼻に弁慶岬というのがあります。義経が蝦夷へきていたという史実はないとかあるとか、学者の中でもいろいろという人があるそうです。どうして、こんな北の果てに、弁慶だとか、刀掛とかいう名が生じたのか不思議ですねェ…」
 この雷電海岸には義経伝説があります。写真のやや右に写っている岩を「弁慶の刀掛け岩」と言うそうです。この写真の左側に雷電温泉が有ります。

左上の写真が雷電海岸です。現在は雷電トンネルも出来て走りやすい道になっていますが、昭和30年代は大変な道だったようです。「飢餓海峡」のDVDを見ると、舗装されていない細い道をジープが走っています。

朝日温泉>
 岩内で襲われた佐々田質店の家族と三人の男たちが出会ったのがこの朝日温泉でした。
「…朝日温泉は雷電山のふもとにあった。田島と荒川の両警官は午後二時に村へ入った。宿は石ころ道と川をはさんでとびとびに建っていた。岩幌を出る時に、佐々田夫婦と嫁が泊った宿の名をきいたが不明だった。弥助も含めて、一家四人が死んでいるのであるから、温泉へ出かけたらしいということだけ隣人にわかっていたのである。田島は村のかかり口から順番に宿をたずねて、三軒目にこの村で一ばん大きいといわれる朝日館と看板のかかった宿へ入った。年に一どか二どしか遠出をしなかったというしまり屋の佐々田伝助が、新婚間もない若嫁をつれての湯治だから、朝日でも一ばん設備のいい宿をとったのではないか、とふと思われたのだ。この田島の予想は当った。夫婦はここにきていた。 朝日館は二階建ではあるが、ひどく古びた宿であった。木目の出た玄関の柱や戸板が、昔のにぎわった頃の名残りをとどめているような気がした。…」
 大変なところにある温泉でした。

右上の写真は朝日温泉へあと2Kmの標識です。朝日温泉を訪ねたのは昨年の5月だったのですが、この標識の少し先で雪のため進めなくなり朝日温泉までたどり着けませんでした。当然舗装されてなくて、ここまで車でたどり着くのも大変でした。今年は5月から朝日温泉は営業されているようです。

 次回は青森、下北半島に向います。


岩内で夏目漱石のお話です>
 夏目漱石は岩内に本籍を移したことがあります。夏目鏡子さんが岩内へ漱石の本籍を移したことについて書いています。
「…この後由、五年たって、夏目が北海道後志国岩内郡岩内村浅岡仁三郎方へ送籍いたしまして、一時北海道平民ということになっていたことがあるそうです。これは徴兵免除のためだったということです。…」
 ”この後五年”とは明治25年だとおもいます。松山中学に赴任する2〜3年前ですから、東京帝国大学時代です。

左の写真が本籍を移した北海道後志国岩内郡岩内村浅岡仁三郎方の記念碑です。現在の北海道岩内郡岩内町御崎13番地に建てられています。日本の徴兵制度は、明治6年(1873)「徴兵令」が発布されたことから始まっていますが、当時の北海道には屯田兵制度があり、そのため徴兵制は適用除外されていたようです。漱石は戸籍を明治25年(1892)に東京市牛込区喜久井町の兄直矩の籍から牛込区馬場下町に分籍した後、北海道後志国岩内郡吹上町17の浅岡仁三郎方に転籍しています。大正3年(1914)再び東京へ本籍を戻しています。ですから漱石は徴兵されていないのです。

<水上勉の岩内町地図>

【参考文献】
・飢餓海峡 上 下:水上勉、新潮文庫
・飢餓海峡:水上勉 朝日新聞
・飢餓海峡 前編 後編:水上勉、河出書房
・夢を吐く 人間内田吐夢:太田浩児、社会思想社

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