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最終更新日:2018年06月07日


●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 函館編
  初版2006年9月9日 <V01L02>

 今週から水上勉作品の中で長編小説である「飢餓海峡」を歩いてみたいとおもいます。北海道の函館、岩内から東京、そして舞鶴まで事件は続きます。今週は本に沿って昭和22年9月20日の函館を歩きます。


<飢餓海峡>
 水上勉の「飢餓海峡」は昭和37年1月から約一年間週刊朝日に連載された小説です。その後加筆されて出版され、映画化、TV化も行われています。本人は、「「飢餓海峡」は、昭和三十七年一月から十二月にかけて「週刊朝日」誌上に連載された一千枚の掲載分に、作者が五百三十枚加筆完結したものである。処女作以来、一千五百三十枚の長編は最初でないかと思う。この作品は、推理小説であるか普通の小説であるか、作者にもわからない。推理小説とすれば犯人あての楽しさから程遠いし、普通の小説とすれば殺人事件に話が片寄りすぎているかもしれない。しかし、何小説であろうと、作者は作者の意図したことを最後まで貫きたかった。連載終了後、約二分の一の書き足しを病気を押してまで敢行した理由は、作家的責任と衝動から、なされたものである。」、と書いています。昭和20年代の戦後間もなくの社会情勢がよく表されており、又、実際に同じ日に起こった洞爺丸事故と岩内大火を題材にしているため、今読んでも、わくわくする推理小説となっています。この頃が、水上勉の最も脂ののりきった時ではなかったのかなとおもいます。「 海峡は荒れていた。 いつもなら、南に津軽の遠い山波がかすんで見え、汐首の岬のはなから沖にかけて、いか釣舟の姿が、点々と炭切れでもうかべたようにみえるはずなのだが、今朝は一艘の舟も出ていなかった。…… 倉庫やクレーンの静止した港湾は横なぐりにふきつける豪雨にぬれ、山の中腹に向って、段状にひろがっている町の屋根屋根はトタンや看板が激しい音をたてた。昭和二十二年九月二十日、函館港は、台風直前の風浪の中にあった。……」。飢餓海峡の書き出しです。この激しい台風の中で、なんとも事件の起こりそうな予感がしますね。

左上の写真が新潮文庫版の「飢餓海峡」です。週刊朝日に掲載された後、朝日新聞、河出書房から出版され、文庫本化もなされています。最近では2005年1月に改訂決定版として河出書房新社から出版されています。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


<水上勉の飢餓海峡地図 -1->


<洞爺丸事故>
 昭和29年(1954)9月26日午後2時頃鹿児島上陸した台風15号は九州東部を縦断後、中国地方を時速100kmで横断、08時頃山陰沖から日本海に進んで、さらに発達しながら北海道に接近し、21時には北海道寿都町沖を通過、27日00時過ぎには稚内市付近に達しています。台風15号が津軽海峡にもっとも接近する時刻は17時ごろと予想されていました。函館の洞爺丸は14時40分出航の予定で、台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着する見通しを立てていました。しかし出港を取りやめた第十一青函丸からの乗客・車両の移送に時間がかかったことと停電などで洞爺丸も15時10分に台風接近を恐れて運航を中止します。台風15号の通過予定の17時頃になると函館では土砂降りのあとに、風が収まり晴れ間ものぞき、台風の目が通過したことを思わせました。その結果、18時39分、洞爺丸は青森に向けて出航。乗員乗客は合わせて1,337人。出航してまもなく、南南西からの風が著しく強くなり、19時01分、天候が収まるのを待つために函館港外に仮泊します。しかし、暴風と猛烈な波浪のために車輌甲板から機関室への浸水が始まり、蒸気機関が停止、洞爺丸は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決意します。22時26分、七重浜沖で触底。22時39分にSOSを発信。22時43分ごろ、乗組員の奮闘のかいなく海岸まであと数百メートルの地点で横倒しとなり、転覆。最後は船体がほぼ裏返しの状態になり、乗員乗客あわせて1139人が死亡または行方不明となっています。洞爺丸の他にも、僚船第十一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸の4隻でも同じような状況が発生して函館港外で相次いで転覆・沈没しています。当時は今のように人工衛星も無くて気象情報も正確では無かったようです。

左上の写真が昭和29年9月27日の夕刊です。洞爺丸事故が起こったのが26日23時前ですから27日の朝刊には間に合わなかったようです。翌日の夕刊に写真入りで大々的に報道されています。(この写真は拡大しません)

洞爺丸慰霊碑(台風海難者慰霊碑)>
 上記に書かれているのが洞爺丸事故の実際の内容ですが、水上勉は推理小説として次のように書いています。「午後三時に港を出るはずの青函連絡船層雲丸は、大きな波をかぶって棒を倒したようにみえる桟橋に巨大な船腹をつけて待機していた。時間どおりに出航するかどうかについて考慮がなされた模様であった。しかし、船は定刻より約五分おくれて出航合図のドラを鳴らした。にぷい短い警笛は、低い雲と波浪の荒れる沖へ物悲しいひびきをこめて吸われた。ちょっと見たところ悠長な船出に思われた。三十分後に、おそるべき大惨事が起きようなどと誰も考えなかったのである。…… いったん、沖へ出ようとしたものの、船長は俄に出航中止を指令した。そうして、そのまま港湾待避に移ろうと、船首をわずかに向きかえようとした瞬間、船尾から大浪がおいかぶさった。一瞬にして危機が訪れた。全乗客に救命具の用意が指令され、SOSが打たれたのは午後三時三十分のことである。…」。水上勉の「飢餓海峡」では戦後の混乱期を表すために遭難が起こった日時を昭和22年9月20日とし、遭難時間を岩内大火との時間を調整するため7時間ほど早くしています。

右上の写真が函館市七重浜にある洞爺丸慰霊碑です。正式には台風海難者慰霊碑というそうです。遭難したのは洞爺丸だけではないためこの名前になったのだとおもいます。洞爺丸が遭難した七重浜に建てられています。

函館警察署跡(推定)>
 乗船名簿の人数と引き上げられた遭難者の人数が合わない事から小説が始まります。「…函館警察署に置かれた対策本部は、遭難者の収容と、死体を引取人に手渡すことであけくれていた。沈没船を桟橋にひきよせて、中からさらに死体をひきあげたときは、市内の仮収容所では狭くなり、七重浜に特別の死体収容所が設置されるに至った。警察はいちいち死体と遺家族を面通しさせ、乗船名簿と照合して、てきぱきと処理していったが、市内新川町の合同慰霊堂では朝から焼香の煙がもうもうと立ちこめて空をこがしていた。……おかしなことに、乗船者数よりも死体の数が二体多いという数字が出て困っております。小松さんは、名簿以外の乗船客は船長の命令で厳密に取締ったといっておられますし……、この二死体はよけいだったことになります。密航者がいたか、それとも ー この死体に引取人がない理由を考えねばなりませんが、私はちょっと変に思うんです」 弓坂警部補の発言は、西陽のさしこむむし暑い警察の部屋を奇妙な気分におとし込んだ。なるほど不審なことといわねばならなかった。二つだけ死体が多かったのである。…」。この二つだけ多かった死体は誰なのでしょうか。小説は疑惑を含んで進んでいきます。

左上の写真が戦前の函館警察署があったところです。写真左側が西本願寺別院でこの右側に函館警察署があったはずです(昭和8年の地図で確認)。この小説の昭和22年当時は、中央署(上新川町)と西署(昔の水上警察所)に分かれていたそうです。昭和23年(1948)函館警察署は函館地区警察署、水上地区警察署、函館市警察署に分割されています。現在は函館中央警察署として五稜郭の傍に有ります。

茂辺地踏切>
 函館市内が遭難事故で大騒ぎになっていたころ、市内から西に少し離れた矢不来で三人の男たちが函館を目指して歩いていました。「…この二十一日の正午ごろであった。混乱の函館市から、約十五キロほど離れた矢不来という海辺の村から、遠く茂別の山へ入り込む国道を、東に向って歩いてくる三人の若者があった。男たちはいずれも復員服を着ていた。三人とも、同じような雑嚢を下げており、編上靴も、陸軍の払下げであることが一目瞭然だったし、持ちものといっては袋一つしかない手ぶらの姿まで三人は一しょだった。 …… 矢不来の浜に出るまでの道は国道だった。かなり広かった。道の両側は畑になっていて、市ノ渡という村を出て、一時間もすると、木古内に至る鉄道線路につき当った。三人は線路ぞいに函館の方角に向って黙々と歩いた。…」。後日、掲載しますが、岩内から函館に向うのに無理をしてなぜ江差方面から回ってくるのか分かりません。朝一番で岩内を出て、午後一時には矢不来ですから時間的にも少し無理が有るようです。

右の写真がも茂辺地市ノ渡方面から矢不来にきた時に最初に渡る踏切です。この踏切は矢不来には無くて茂辺地にあります。直ぐ傍にある駅も茂辺地駅となります(下記の地図参照)。この鉄道線路は昔は江差線だったのですが、青函トンネルができてJR海峡線が走るようになっています。それでも列車の本数は少ないですね。

茂辺地(矢不来)>
 三人の男たちは江差線の茂辺地駅近くの茂辺地踏切を9月21日昼過ぎに渡り、茂辺地の町(矢不来)に入ります。「…矢不来の村へ入った三人は、村口の「きぬた」という看板のかかったとうもろこしを売る店の前へくると立止った。互いに顔を見合せ、この店の埃だらけのガラス戸をあけて入った。午後一時ごろのことである。。…… 三人はまだ顔を見合せている。沈没事故について異常な関心をもったことは眼の色に出ている。しかし、三人には急ぎの用事があるらしく、 「おっさん、なんばや」 ひょろりとした小男が値段をきいて立ちあがると、つづいてあとの二人も立ち上がった。平島兼吉は、三人がポケットから裸の金をかぞえて六円ずつ出してくれるのを、合計で十八円受けとっている。三人は、店を出ると、陽ざしのはげしい矢不来の村の衆のかげにかくれた。…」。この後、三人の男たちは函館に向かいますがその後、消息を絶ちます。

左上の写真は茂辺地の町です。殆ど商店はありませんでした。昭和20年代は商店もたくさん在ったのではないでしょうか。

 次回は岩内で起こった大火のお話になります。

<水上勉の茂辺地地図>

【参考文献】
・飢餓海峡 上 下:水上勉、新潮文庫
・飢餓海峡:水上勉 朝日新聞
・飢餓海峡 前編 後編:水上勉、河出書房
・夢を吐く 人間内田吐夢:太田浩児、社会思想社

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