●三田循司を巡る
    初版2013年12月7日  <V01L02> 暫定版

 太宰治の「散華(さんげ)」に登場する”三田循司”を歩いてみました。「散華」は昭和19年3月に旺文社の月間雑誌「新若人」に書かれたものです。三田循司は東京帝大時代に太宰治と親しくなりますが、昭和16年繰上げ卒業、昭和17年召集を受け盛岡の部隊に入隊、アッツ島に派遣され、昭和18年5月玉砕しています。


「新若人」
<「新若人」 旺文社 昭和19年3月号>
 「新若人」 は旺文社が昭和15年から昭和20年まで発行した学生向けの月刊雑誌です。太宰治の「散華(さんげ)」はこの雑誌の昭和19年3月号に掲載されます。ネットで調べると「全日本学徒革新的綜合雑誌」と書いてあるのですが、この雑誌は当時の情報局情報官 鈴木庫三が旺文社の赤尾好夫と一緒に作った青年向け総合雑誌です。この辺りを書き始めるときりが無いのでこのくらいにしておきます。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、書き出しです。
「  散華

 玉砕ぎょくさいという題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手へたな小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華さんげと改めた。
 ことし、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった筈はずである。…」

 太宰治の「散華(さんげ)」は昭和19年3月号に掲載されていますから、当時としてはこんな書き方だったのかもしれません。

写真は旺文社発行の「新若人」、昭和19年3月号です。この雑誌の出版元である旺文社の赤尾好夫さんは、「螢雪時代」や「豆単」を作った人と言った方が分かりやすいとおもいます。

「太宰治全集」
<「太宰治全集」>
 太宰治全集 第六巻に「散華(さんげ)」が掲載されています。三田循司について書かれた本は太宰治の「散華(さんげ)」と戸石泰一が書いたものしかありませんので、この「散華(さんげ)」を順に下記に掲載していきます。又、この本は三田循司と三井君の二人を書いていますが、三井君の方は詳細が不明です。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「… もうひとり、やはり私の年少の友人、三田循司君は、ことしの五月、ずば抜けて美しく玉砕した。三田君の場合は、散華という言葉もなお色あせて感ぜられる。北方の一孤島に於いて見事に玉砕し、護国の神となられた。
 三田君が、はじめて私のところへやって来たのは、昭和十五年の晩秋ではなかったろうか。夜、戸石君と二人で、三鷹の陋屋ろうおくに訪ねて来たのが、最初であったような気がする。戸石君に聞き合せると更にはっきりするのであるが、戸石君も已すでに立派な兵隊さんになっていて、こないだも、
「三田さんの事は野営地で知り、何とも言えない気持でした。桔梗ききょうと女郎花おみなえしの一面に咲いている原で一しお淋さびしく思いました。あまり三田さんらしい死に方なので。自分も、いま暫くで、三田さんの親友として恥かしからぬ働きをしてお目にかける事が出来るつもりでありますが。」
 というようなお便りを私に寄こしている状態なので、いますぐ問い合せるわけにもゆかない。…」

 ここで、三田循司と戸石泰一が知合いだということがわかります。戸石泰一は東京帝国大学を半年繰上げで昭和17年9月、卒業しています。翌月の10月1日、第二乙種で仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営します。昭和19年1月、スマトラに向かうため、乗船予定の大阪に向かいますが、途中、上野駅で太宰と会うことになります。太宰はこの時の出会いを「未帰還の友に」、として書いています。

写真は、筑摩書房版 「太宰治全集」です。

「太宰治研究」
<太宰治研究 臨時増刊>
 ”三田循司”という個人名が書かれた雑誌がありました。太宰治の「散華(さんげ)」にも書かれていますが、三田循司の旧制二高、東京帝大の一年後輩である戸石泰一が「太宰治研究 臨時増刊」の中で、”思い出”として少し書いていました。

 戸石泰一の「太宰治研究 臨時増刊」、”思い出”からです。
「   思 い 出

 そのころの日記があるので、はっきり書けるのだが、僕は昭和十五年十二月十日の夜始めで、先生と逢った。
 その数日前、僕は、先生に、「逢っで頂きたい」旨の手紙を書き、「単なる好奇心でなかったら、何時でも来なさい」というような御返事を頂き、興奮して、戀文のような手紙を書いでその日にお訪ねするという手紙を更にさしあげたのだった。
 それでも、僕一人で、行くのは何かこわいような感じがして、三田循司といろ詩を書いていた年長の友人を誘って、三鷹に行ったのである。
 確か、晝頃ついたのだが、皆おるすで、そこらをぶらぶらして、午後三時頃、再びお訪ねし、お目にかゝつた。
 その日のことは、先生が、「散華」という小説に、カルカチュアライズして書かれている。その日の日記を見ると、先生の言葉として、次のような断片が書いである。
 「作品の價値は、その中で、作家が失ったものによって ── 作家の血を流した量によって ── 決まる。」
 「誰にでもお辞儀したくなる気持」
 「知性とは~への觸覺知だ。」
 「新しさ ── 太宰治以後の文学」
 「若いジェネレーション ── 俺が、解らなくて、誰が解る?」
 「くまなく、ゆきとどいた文学。」
 「愛情を持っているという作家が居るか?」
 等々である。暗くなってから、家を出で、三鷹驛附近で三人で呑んだ。その夜は、満月であった。まさか「散華」に書かれている程ではないつもりだが、僕は、すっかり興奮しで、「新体制とロマンチシズム」というような事について論じ、オッチョコチョイを発揮したのであった。…」

 これで、太宰治が「散華(さんげ)」を真面に書いているのが分ります。この他、戸石泰一が太宰治全集の月報で三田循司を書いていたり、「青い波がくずれる」で書いたりしていますが、内容はほとんど同じです。
 
写真は昭和38年1月発行の「太宰治研究 臨時増刊」です。「太宰治研究」は非常に参考になります。


三田循司の東北地図(太宰治の東北地図を流用)



「花巻駅」
<花巻駅>
 三田循司が生まれたのは岩手県花巻市です。私は花巻は初めての訪問でした。盛岡の手前で、又訪問日が月曜日だったので県立図書館や花巻市立図書館での調査が出来ず、現地調査となりました。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「…  私のところへ、はじめてやって来た頃は、ふたり共、東京帝大の国文科の学生であった。三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の(ひょっとしたら初冬であったかも知れぬ)一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は絣かすりの着物にセルの袴はかま、三田君は学生服で、そうして私たちは卓をかこんで、戸石君は床の間をうしろにして坐り、三田君は私の左側に坐ったように覚えている。…」
 花巻市は、安土桃山時代末期まで稗貫氏の本拠地でしたが、天正19年(1591)の奥州仕置で没落すると、同年に南部氏の家臣である北秀愛がそれまでの「鳥谷ヶ崎」という名を「花巻」と改め、盛岡藩南境防御の要塞として花巻城の城の改修や城下町の整備に着手し、稗貫・和賀2郡の行政の中心地となったことで都市として成立しています。現在の花巻市は、人口約10万人、盛岡市、一関市、奥州市に次ぐ県内で4番目の都市です。県南広域振興圏に位置し、双子都市の北上市と共に北上都市圏(北上・花巻都市圏)を形成しています。市内には、岩手県内唯一の花巻空港を有すると共に、東北新幹線新花巻駅、東北自動車道、東北横断自動車道などの高速交通網が整備されています。観光としては市の西部に戦前から有名な花巻温泉郷があり、宮沢賢治生誕の地、高村光太郎の疎開地としても有名です。(ウイキペディア参照)

写真は現在の花巻駅ます。釜石線の分岐駅でもあります。戦前の駅舎写真を探したのですが見つかりませんでした。

「実家跡」
<生誕の地>
 三田循司の実家の場所は住所地番が分っていたので比較的簡単に見つけることができました。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「… その夜の話題は何であったか。ロマンチシズム、新体制、そんな事を戸石君は無邪気に質問したのではなかったかしら。その夜は、おもに私と戸石君と二人で話し合ったような形になって、三田君は傍そばで、微笑ほほえんで聞いていたが、時々かすかに首肯うなずき、その首肯き方が、私の話のたいへん大事な箇所だけを敏感にとらえているようだったので、私は戸石君の方を向いて話をしながら、左側の三田君によけい注意を払っていた。どちらがいいというわけではない。人間には、そのような二つの型があるようだ。二人づれで私のところにやって来ると、ひとりは、もっぱら華やかに愚問を連発して私にからかわれても恐悦の態ていで、そうして私の答弁は上の空で聞き流し、ただひたすら一座を気まずくしないように努力して、それからもうひとりは、少し暗いところに坐って黙って私の言葉に耳を澄ましている。愚問を連発する、とは言っても、その人が愚かしい人だから愚問を連発するというわけではない。その人だって、自分の問いが、たいへん月並みで、ぶざまだという事は百も承知である。…」。
。駅から700m弱で、駅が丘の上にあるようで、坂道を下っていきます。すぐ横は商店街で便利なところです。

写真の正面、空き地のところが三田循司の実家跡です。地震後も建物は残っていたようですが、痛みが酷く取り壊されたそうです(近くの方にお聞きしました)。

「花巻小学校」
<花巻尋常小学校>
 三田循司が通った尋常小学校がこの花巻尋常小学校ではないかと推測したのですが、学校名は正しかったようですが、場所が違ったようです。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「…質問というものは、たいてい愚問にきまっているものだし、また、先輩の家へ押しかけて行って、先輩を狼狽ろうばい赤面させるような賢明な鋭い質問をしてやろうと意気込んでいる奴は、それこそ本当の馬鹿か、気違いである。気障きざったらしくて、見て居られないものである。愚問を発する人は、その一座の犠牲になるのを覚悟して、ぶざまの愚問を発し、恐悦がったりして見せているのである。尊い犠牲心の発露なのである、二人づれで来ると、たいていひとりは、みずからすすんで一座の犠牲になるようだ。そうしてその犠牲者は、妙なもので、必ず上座に坐っている。それから、これもきまったように、美男子である。そうして、きっと、おしゃれである。扇子せんすを袴のうしろに差して来る人もある。まさか、戸石君は、扇子を袴のうしろに差して来たりなんかはしなかったけれども、陽気な美男子だった事は、やはり例に漏れなかった。戸石君はいつか、しみじみ私に向って述懐した事がある。…」
 三田循司の年譜には小学校入学が書かれていません。当時は尋常小学校は6才で入学です。6年間学んだ後、12才で高等小学校か旧制中学校に進みます。三田循司の旧制中学校入学は13才の時です。

写真は現在の花巻小学校です。場所は花城町にあります。調べたところ、昭和8年までは花巻市民体育館付近にあったようです。再度、訪問できれば写真を撮影してきます。


三田循司の花巻地図



「旧制私立岩手中学校跡」
<旧制私立岩手中学校>
 昭和6年4月、三田循司は盛岡の旧制私立岩手中学校(現 私立岩手高等学校)に入学しています。尋常小学校は高等小学校に行かなければ12才で卒業します。中学校入学が13才なので、一浪しているのかなとおもいました。盛岡には旧制県立盛岡中学校(現 県立盛岡第一高等学校)があり、推定ですが此方を受験していたのではないでしょうか。一浪しても受からず旧制私立岩手中学校に入学したのではないかと考えています。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「… 戸石君は、果して心の底から自惚うぬぼれているのかどうか、それはわからない。少しも自惚れてはいないのだけれども、一座を華やかにする為に、犠牲心を発揮して、道化役を演じてくれたのかも知れない。東北人のユウモアは、とかく、トンチンカンである。
 そのように、快活で愛嬌あいきょうのよい戸石君に比べると、三田君は地味であった。その頃の文科の学生は、たいてい頭髪を長くしていたものだが、三田君は、はじめから丸坊主であった。眼鏡をかけていたが、鉄縁の眼鏡であったような気がする。頭が大きく、額が出張って、眼の光りも強くて、俗にいう「哲学者のような」風貌であった。自分からすすんで、あまりものを言わなかったけれども、人の言ったことを理解するのは素早かった。戸石君と二人でやって来る事もあったし、また、雨にびっしょり濡れてひとりでやって来た事もあった。また、他の二高出身の帝大生と一緒にやって来た事もあった。三鷹駅前のおでん屋、すし屋などで、実にしばしば酒を飲んだ。三田君は、酒を飲んでもおとなしかった。酒の席でも、戸石君が一ばん派手に騒いでいた。…」。

 旧制私立岩手中学校の創設者のお名前に三田義正の名前があり、同じ三田ですので御親類ではないかと推測しています。

写真の現在の私立岩手女子高校です。この地に昭和13年まで旧制私立岩手中学校がありました。この後長田町に移転しています。私立岩手女子高校は昭和15年、当地に移転してきています。


三田循司の盛岡地図(立原道造の花巻地図を流用)



「東北大学農学部」
<旧制第二高等學校>
 三田循司は昭和10年、仙台の第二高等學校に入学しています。こちらは一発で合格したようです。中学時代に相当勉強したようです。旧制中学校は5年制ですが4年で高等学校への受験資格があります。三田循司は4年で受験して合格しています。戸石泰一は一年後輩になります。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「… けれども、戸石君にとっては、三田君は少々苦手であったらしい。三田君は、戸石君と二人きりになると、訥々とつとつたる口調で、戸石君の精神の弛緩しかんを指摘し、も少し真剣にやろうじゃないか、と攻めるのだそうで、剣道三段の戸石君も大いに閉口して、私にその事を訴えた。
「三田さんは、あんなに真面目な人ですからね、僕は、かなわないんですよ。三田さんの言う事は、いちいちもっともだと思うし、僕は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまうのですよ。」
 六尺ちかい偉丈夫も、ほとんど泣かんばかりである。理由はどうあろうとも、旗色の悪いほうに味方せずんばやまぬ性癖を私は有もっている。私は或る日、三田君に向ってこう言った。
「人間は真面目でなければいけないが、しかし、にやにや笑っているからといってその人を不真面目ときめてしまうのも間違いだ。」
 敏感な三田君は、すべてを察したようであった。それから、あまり私のところへ来なくなった。そのうちに三田君は、からだの具合いを悪くして入院したようである。…」

 第二高等学校は片平丁の現東北大学に当初はありましたが、大正14年(1925)に北六番丁に移転しています(北六校舎)。旧北六校地は、新制東北大農学部のキャンパス(雨宮キャンパス)として継承され現在に至っています。同構内には旧二高以来の守衛所が現在も使用されており、旧制二高関連のモニュメントが多数建立されています。設立当初の旧片平校地もまた東北大片平キャンパスとして継承され、構内には書庫および旧物理学教室など二高時代の建造物が残り、当時の位置に移設された二高時代の校門などやはり多くのモニュメントが建立されています。また明善寮も三神峯に移転したものの建物自体は引き続き東北大学の学生寮として継承されています。三田循司は第二高等学校では明善寮に入っていたようです。現在も同じ名前の寮があります。場所も変っていないようです。(ウイキペディア参照)

写真は現在の東北大学農学部です。右側の守衛所が二高時代から有った建物です。


三田循司の仙台地図(立原道造の仙台地図を流用)



「東京大学正門」
<東京帝国大学>
 三田循司は昭和14年4月に東京帝国大学文学部に入学します。第二高等学校から帝大へは比較的簡単に入学できたとおもいます。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「…「とても、苦しい。何か激励の言葉を送ってよこして下さい。」というような意味の葉書を再三、私は受け取った。
 けれども私は、「激励の言葉を」などと真正面から要求せられると、てれて、しどろもどろになるたちなので、その時にも、「立派な言葉」を一つも送る事が出来ず、すこぶる微温的な返辞ばかり書いて出していた。
 からだが丈夫になってから、三田君は、三田君の下宿のちかくの、山岸さんのお宅へ行って、熱心に詩の勉強をはじめた様子であった。山岸さんは、私たちの先輩の篤実とくじつな文学者であり、三田君だけでなく、他の四、五人の学生の小説や詩の勉強を、誠意を以もって指導しておられたようである。山岸さんに教えられて、やがて立派な詩集を出し、世の達識の士の推頌すいしょうを得ている若い詩人が已すでに二、三人あるようだ。
「三田君は、どうです。」とその頃、私は山岸さんに尋ねた事がある。
 山岸さんは、ちょっと考えてから、こう言った。
「いいほうだ。いちばんいいかも知れない。」
 私は、へえ? と思った。そうして赤面した。私には、三田君を見る眼が無かったのだと思った。私は俗人だから、詩の世界がよくわからんのだ、と間まのわるい思いをした。三田君が私から離れて山岸さんのところへ行ったのは、三田君のためにも、とてもいい事だったと思った。…」。


写真は現在の東大正門です。東大は空襲を免れていますので昔の建物が残っています。

「鈴木館跡」
<下宿跡>
 三田循司が東京帝国大学時代に最後に下宿していたところは、端書の住所から簡単に見つけることができました。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「… いま私の手許に、出征後の三田君からのお便りが四通ある。もう二、三通もらったような気がするのだけれども、私は、ひとからもらった手紙を保存して置かない習慣なので、この四通が机の引出の中から出て来たのさえ不思議なくらいで、あとの二、三通は永遠に失われたものと、あきらめなければなるまい。
 太宰さん、御元気ですか。
 何も考え浮びません。
 無心に流れて、
 そうして、
 軍人第一年生。
 当分、
 「詩」は、
 頭の中に、
 うごきませんようです。
 東京の空は?
 というのが、四通の中の、最初のお便りのようである、この頃、三田君はまだ、原隊に在って訓練を受けていた様子である。これは、たどたどしい、甘えているようなお便りである。…」


写真は現在の文京区弥生2丁目、本郷弥生交差点の言問通りを東に次の交差点を南東に撮影したものです。左側の少し先4件目に鈴木館がありました。


三田循司の本郷地図(太宰治の本郷地図を流用)



「お墓」
<お墓>
 アッツ島で玉砕した三田循司のお墓は花巻の廣隆寺にあります。三田家のお墓の横に三田循司の碑が建てられていました。

 太宰治の「散華(さんげ)」から、続きです。
「… ことしの五月の末に、私はアッツ島の玉砕をラジオで聞いたが、まさか三田君が、その玉砕の神の一柱であろうなどとは思い設けなかった。三田君が、どこで戦っているのか、それさえ私たちには、わかっていなかったのである。
 あれは、八月の末であったか、アッツ玉砕の二千有余柱の神々のお名前が新聞に出ていて、私は、その列記せられてあるお名前を順々に、ひどくていねいに見て行って、やがて三田循司という姓名を見つけた。決して、三田君の名前を捜していたわけではなかった。なぜだか、ただ私は新聞のその面を、ひどくていねいに見ていたのである。そうして、三田循司という名前を見つけて、はっと思ったが、同時にまた、非常に自然の事のようにも思われた。はじめから、この姓名を捜していたのだというような気さえして来た。家の者に知らせたら、家の者は顔色を変えて驚愕きょうがくしていたが、私には「やっぱり、そうか」という首肯の気持のほうが強かった。
 けれども、さすがにその日は、落ちつかなかった。私は山岸さんに葉書を出した。
「三田君がアッツ玉砕の神の一柱であった事を、ただいま新聞で知りました。三田君を偲しのぶために、何かよい御計画でもありましたならば、お知らせ下さい。」というような意味の事を書いて出したように記憶している。
 二、三日して山岸さんから御返事が来た。山岸さんも、三田君のアッツ玉砕は、あの日の新聞ではじめて知った様子で、自分は三田君の遺稿を整理して出版する計画を持っているが、それに就ついて後日いろいろ相談したい、という意味の御返事であった。遺稿集の題は「北極星」としたい気持です、小生は三田と或る夜語り合った北極星の事に就いて何か書きたい気持です、ともそのお葉書にしたためられてあった。
 それから間もなく、山岸さんは、眼の大きな背の高い青年を連れて三鷹の陋屋にやって来た。
「三田の弟さんだ。」山岸さんに紹介せられて私たちは挨拶を交した。
 やはり似ている。気弱そうな微笑が、兄さんにそっくりだと思った。…」


写真は花巻の廣隆寺にある三田家のお墓です。左側は三田循司の碑です。

 碑に書かれた文面を掲載しておきます。
上段
「出陣の夜である
雪まじりの風は
くろい三本煙突
うなっている
星はきえた

寫三田循司君北極星詩
昭和二十年初夏 夜
           外史」


下段
「   三田循司君略歴            .

大正六年九月十七日生
昭和十六年十二月東京大学文学部卒
同十七年二月一日臨時召集ニヨツテ
盛岡北部第六十二部隊二入隊
昭和十八年五月二十九日アッツ島二於テ
玉砕ス

三田循司君ハ稀ニミル高潔ナ詩人デアツタ
二十七歳ニシテ玉砕シタガ多クノ人々ニ強力ナ印象ヲ
残シテオリ私モ未ダ絶讃ノ気持ヲ失ツテイナイ
コノ碑ヲ建テルニ当ツテ彼ヲ知ル者トシテ撰文シタ

        昭和三十四年五月十七回忌ニ当ツテ
                 山岸外史謹記」




三田循司年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 三田循司の足跡
大正6年 1917 ロシア革命 0 9月17日 花巻市で父三田勇二の長男として生まれる(母の名は分らず)
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 7 花巻尋常小学校入学(推定)
昭和6年
1931 満州事変 14 4月 旧制私立盛岡中学校入学
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 18 3月 旧制私立盛岡中学校卒業
4月 旧制二高入学(仙台)
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
22 3月 旧制二高卒業(仙台)
4月 東京帝国大学国文入学
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 24 12月 東京帝国大学繰上げ卒業
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 25 2月 徴兵 歩兵第105連隊に入営
10月 北海守備隊に転属
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 26 1月 アッツ島に上陸
5月 玉砕
8月 新聞に名前が掲載される