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最終更新日:2006年11月6日


●水上瀧太郎の大阪を歩く
  初版2006年11月4日 <V01L03>

 水上瀧太郎と聞いても初めての方が多いとおもいます。東京出身で三田文学を復活したりして有名なのですが代表作が大阪を主題にした「大阪」や「大阪の宿」なので、読まれた方は殆どいないとおもいます。東京人から見た大阪人の気質を良く表しています。


<大阪の宿>
 水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)は明治生命に在職中に大阪に転勤します。その大阪での出来事を書いたのが水上瀧太郎の代表作「大阪」、「大阪の宿」なのです。「大阪の宿」の書き出しです。
「…彩しい煤煙の為めに、年中どんよりした感じのする大阪の空も、初夏の頃は藍の色を濃くして、浮雲も白く光り始めた。 泥臭い水ではあるが、その空の色をありありと映す川は、水嵩も増して、躍るようなきざ波を立てゝ流れて居る。 川岸の御旅館酔月の二階の縁側の藤椅子に腰かけて、三田は上り下りの舟を、見迎え見送って居た。目新しい景色は、何時迄見て居てもあきなかった。此の宿に引越して来て二日目の、それが幸なる日曜だった。…」

 大阪は川と堀と橋の町(現在は少なくなっている)の特徴を良く掴んでいますね。水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)本人は下記の経歴を見てもらえば分かりますが、大会社の東京出身のエリートですから、生活に困窮する等ということは全くないわけで、その上で大阪を見た小説になっています。織田作之助の「夫婦善哉」等とは視点が違うわけです。水上瀧太郎が自身の感性で見て経験したままの大阪を書いているようです。

左上の写真が講談社文芸文庫の「大阪の宿」です。現在発売されている水上瀧太郎関連の本はこの本のみです。ですから他は古本でしか手に入れることはできません。新潮文庫版の「大阪の宿」の解説には、
「…この作品は大正十四年十月から同十五年六月まで九回に亙って、當時大阪プラトン社発行の雑誌「女性」に連載されたもので、稿了の日附は巻末に記載されてゐる十四年十月三日で明白だが、起稿は前後の事情から推測して、大體同年五月以降ではないかと思はれる。…… 封象と作者の距離が想像の自由な飛躍を許容して、文體におのづから明快さを生み出してくるのである。そのテンポがまた、巧まざる作品の面白さとなって読者を愉しませる所以ともなる。しかも、作者自身は些かも身を落して読者に媚びようとはしてゐない。主人公三田をめぐって展開される人物や事件は、卑俗な女中たち、中年男の淫乱、不潔な老爺の戀、無智な売笑婦、色慾に狂った竊盗、…… と、いづれも
どぎつい色彩の百鬼夜行的風俗総巻だ。もし無拘束に投げ出されゝば、明かにデカダンスの誘惑に読者を陷入れるきほどい一線である。…」
と、大正時代の大阪を表現しているのですが(少し古い本なので少し難しい文体です)、清く正しい東京人(ここでは水上瀧太郎自身)が見ると、当時の大阪は”どぎつい色彩の百鬼夜行的風俗総巻”となってしまうようです(現在も同じですね!)。織田作が書くと”生活そのものになる”のですが、面白いですね!!

右の写真は新潮文庫版「大阪の宿」です。古本でしか手に入れられません。字も古い字が多くてなかなか読めませんでした。

【水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)】
 明治20年(1887)12月、父阿部泰蔵、母優の四男として東京都麻布区飯倉町で生まれます。御田小学校から慶応義塾普通部を経て慶應義塾大学に進みます。慶応大学在学中には「三田文学」に「山の手の子」を発表、久保田万太郎とともに三田派の新人作家として注目されます。明治45年大学卒業後、アメリカのハーバード大学に留学し大正5年帰国、父が創業者の一人である明治生命保険会社に入社し大正6年、明治生命大阪支店副長として赴任します。大正8年、東京に戻るまでの大阪滞在中の出来事を描いた「大阪」と「大阪の宿」は代表作となります。大正15年、休刊となっていた「三田文学」を復活します。昭和15年(1940)3月23日明治生命専務在籍中に脳卒中で死去します。54歳でした。

水上瀧太郎記念碑>
 どういう訳か大阪の中之島に水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)の記念碑があります(東京人なのですが!)。「大阪」、「大阪の宿」が大阪を代表する小説の一つになってしまっていますので仕方がないのかも知れません。
「…水上瀧太郎は大阪梅田から市電に飛び乗って、終点の天満橋に着く。本名を阿部章蔵という。ときに数え三十一歳。大阪城のぬきの高等下宿、高橋館をたずねるためである。ぬきは大阪弁で、すぐ近所を意味する。大正六年(一九一七)十二月一日だった。…… 瀧太郎は、それから大正七年二九一八)十一月までの一年間を高橋館に下宿した。長編小説『大阪』 の舞台である。この小説は、大正十一年(一九二二)七月十五日から十二月二目まで、百十四回にわたり大阪毎日新聞に連載された。のちの、やはり長編小説の『大阪の宿』と人物も話も連続し重複している。『大阪の宿』 の前景になる。…」

 講談社文芸文庫の解説に大谷晃一氏が書いています。この解説は元々昭和46年に出版された「続 関西名作の風土」の中に書かれていた「大阪・大阪の宿」そのままでした。

右の写真が新潮文庫版「大阪」です。初版は昭和23年で、この本は昭和43年17版となっていました。
 「…作者、本名阿部章蔵はこの島町から船場道修町にあった明治生命保険相互会社の大阪支店に通勤した。心斎橋筋の道修町西北角に、四角の赤れんがの二階建てがあった。古びていたが、ハイカラだった。大阪最初のれんが造りで、明治三十二年(一八九九)に新築したときは、近郷近在から弁当を持って見物に来たと、小説も書く。いま、明治生命道修町ビルになっている。明治生命は現有しているが、平成十六年(二〇〇四)一月一日に会社合併して明治安田生命保険相互会社となる。…」

 水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)は明治生命の社長の息子ですから大阪でも破格の扱いではなかったかとおもいます。上記に書かれている明治生命道修町ビルはまだ現存していました。おもったより小さいビルでした。写真を掲載しておきます。

三越 大阪店>
 大阪は”どぎつい色彩の百鬼夜行的風俗総巻”と書かれていますが、私が最も良く大阪人の気質を現しているとおもう所を掲載します。
「…五六間行った頃、後から転がるような格好をして、亭主が追かけて来た。肥り過ぎているので、それだけでも息を切らして、はあはあ云っていた。「今更何とも致し方が御座りませんですが、ひとつこの計算でお払を願えませんで御座りましょうか」 手に持って来た勘定書を見せて、亭主は頭を掻きながら、しきりに低頭した。− 「これならば規則通り、お留守中のお食事代を差引きましたので……」 「くどいなあ。僕は何と云われても払いませんよ」 三田は足も止めないで、ずんずん歩きながら答えた。「そこの処を何とかして」 亭主も止むを得ず、後にくっついて歩いて来る。繰返し繰返し、自分達の不心得だった事を詫びるのが、恥も外間も無く大きな声でやるので、往来の人も、両側の家々の人も、何が始まったのかと不審がって、一斉に視線を向けるのであった。さすがに三田もこれには弱った。田原は第一に閉口して、歩調を早めて二三間先を、さも他人のような風をして歩いて行く。だらだら阪を下りて、橋を渡って、最も人間のこみあっている三越の前を通って堺筋の電車路に出た。交叉点で交通を整理している巡査もいぶかしそうに見守った。「全く手前共の不心得で御座りまして、何とも申訳も御座りません」 額の汗を拭きながら、大の男が泣き出しそうな声で欺願しているのを見ると、三田は自分がそんな事件の主人公だと云う事が、甚だわずらわしく感じられた。「ちぇっ、面倒臭いなあ」 彼は相手の幅の広い横面を張飛ばしてやりたいような気持で、懐から財布を出すと、往来の真中で、勘定をしてやった。…」
 「大阪」の最後の場面です。支払いをお願いしている下宿の亭主の振る舞いは大阪人気質そのものです。また、結局最後には払ってしまう三田も東京人そのものではないかとおもいました。なかなか面白いです。

左上の写真が三越大阪店です。”です”ではなくて”でした”です。2005年に閉店しています。三越大阪店は大正6年にこの地に移転してきています。当時のビルは写真のビルの向こう側に建てられていたのですが阪神大震災で倒壊してしまいます。正面のビルのみが残りました。天満橋近くの島町通から高麗橋を渡って来ると堺筋と交差するのは高麗橋一丁目の交差点になります(写真の左端付近)。小説ではこの交差点で下宿代を支払ったことになっています。

<水上瀧太郎の大阪地図 -1->


天満橋交差点>
 水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)が大阪に転勤して最初に住む下宿がこの天満橋近くの高橋館です。水上瀧太郎の小説「大阪」の主人公三田が下宿を探しに天満橋近くに行く場面です。「…行過ぎる電車の中に、天満橋行というのがあるので、迫かけて飛乗った。四つ五つ停留場を週ぎて、川上の遠く霞んでいる長い橋を素晴らしい音を立てて渡ると、其処が終点で、その橋が天満橋だった。目の前の坂を上るのが、即ち南へ上るのだろうと思った。…」。水上瀧太郎は大阪での経験をそのまま小説にしています。

左上の写真が天満橋交差点です。この道は谷町筋で当時はこのように広くはなく、当然ですが立体交差もありませんでした。三田はこの坂道を真っ直ぐ登っていきます。

島通り>
 天満橋交差点から谷町筋を100m程坂を上ると島町通の交差点です。「…ちょうど坂を上り切った角の酒屋の前に、生れて間もない赤ん坊をねんねこでおぶった丸髷の、若いおかみさんが日向ぼっこしていた。少しそばかすの出た面やつれのした顔に日の光を浴びて、一皮下の血の色が透いて見えるのが、口の中で子守唄をうたいながら、体を左右に揺振って、背中の子を寝かしつけようとしているのだった。「一寸伺いますが、この近所に権堂という家はありませんか」 「権堂何という家で御座いまんのん。私とこも権堂と申しますが」 おかみさんの顔には、見馴れない旅人の、きき馴れない言葉つきを珍しがる色が浮んでいた。「下宿屋です」 「ああ、そんなら彼処のお風呂屋の前のうちです」 気軽に店頭を離れて、赤ん坊のお尻に廻していた手を延して指さした。「彼処に子供が遊んでいますやろ。あのうちです」 「難有う」 三田は帽子をとって挨拶して別れた。…」。両側ともしもたやが多く、その間々に、足袋屋、煙草屋、文具屋、駄菓子屋、床屋、などがあって、ちょうど大きな学校の手前の湯屋の前に、宿屋が二軒並んでいた。御旅館雪本という、今ると、空地を見晴らす四畳半だった。…」。谷町筋の道幅が広くなっており、当時の面影は全くありませんでした。谷町筋の両側で建物一軒分広くなっています。

右上の写真は谷町筋と島町通の交差点の西側を撮影したもです。右角に酒屋が在ったはずなのですが確認がとれませんでした。

城西館(高橋館跡)>
 大谷晃一氏が水上瀧太郎の「大阪」、「大阪の宿」の場面を詳細に調べています。「…水上瀧太郎は大阪梅田から市電に飛び乗って、終点の天満橋に着く。本名を阿部章蔵という。ときに数え三十一歳。大阪城のぬきの高等下宿、高橋館をたずねるためである。ぬきは大阪弁で、すぐ近所を意味する。大正六年(一九一七)十二月一日だった。天満橋から南へ谷町筋を行く。坂である。上り切った酒屋の前に、赤ん坊をおぶった丸まげの若いおかみさんが日向ぼっこをしていた。道を聞いて、角を西へ折れる。左側に学校があって、学校の手前の鼓湯の前に宿屋が二軒ならんでいた。手前から、伊賀喜、高橋館である。両側とも、しもた屋が多い。その間に床屋、雑貨屋、たばこ小間物屋がまじる。東を振り返ると、どん突きに大阪城の石垣が見える。そのころの島町通りである。…」。大谷晃一氏の書いた通りでした。昭和30年ごろの地図を見ると谷町筋の島町通の角から四軒目に伊賀喜が書かれていました。今でも島通りから大阪城の石垣が見えます。

左上の写真の右から三軒目が高橋館跡です(一階はうどん屋でした)。番台に若い娘さんのいたという「おむこのお風呂屋」の場所は向かい側の近畿大阪税理士会館の所です。三田も唱歌を聞いた北大江小学校は、近畿大阪税理士会館の右隣で、島町第2駐車場と市立中央高校になっていましたが、駐車場はマンションの工事中でした。島町通の写真を掲載しておきます。

酔月(旅館照月跡)>
 水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)が大阪で二番目に住む下宿がこの旅館照月です。「大阪の宿」で書かれている下宿屋がここになります。島町通の城西館(高橋館)は一年ほどで出て、土佐堀の酔月(旅館照月)に移っています。「…三田は、大阪へ来て、まだ半年にしかならない。其間、天満橋を南へ上る、御城の近くの下宿に居たが、因業食欲吝薔の標本のような宿の主人や、その姉に当る婆さんが、彼のおひとよしにつけ込んで、事毎に非道を働くのに憤慨し、越して行く先も考えずに飛出してしまった。…… 「安うて居心のえゝ宿屋やったらな、土佐堀の酔月や。」 厚ぼったい唇をなめながら、鍋の上につんのめりそうな形だった。…… 三田は酒のみの癖に酔払が嫌いなので、何を云われても取合わなかったが、酔月という名を忘れなかった。そして翌日会社の帰りに土佐堀の川岸を順々に探して行って、此の家を見つけたのである。…三田が会社へのゆきかえりに通る、教会の真向の家というのは、二階建の二軒長屋で、天井の低い二階も階下も、おもてに向いた方はすべて格子造で、それを紅殻で塗り、入口のくゞりの中は土間になっていて、裏口迄つきぬけているといったような古風なものだった。格子窓の障子のあいている事はあっても、内部は光線が充分はいらないので、人が居るのか居ないのかわからなかった。屋根も廂も、恐らくは土台迄も傾いた古家で、此の新しいもの好きでは今正に東京を凌駕して亜米利加に追随しょうと云う大阪に、不思議にも多く残っている景色である。近松や西鶴の描いた時代から、今日迄立腐れつゝ焼残ったものであろう。 その長屋から前帯結んだおかみさんでも出て来るのなら似合わしいが、年ごろの綺麗な娘が住んでいるとは、ついぞ想わない事だった。…」。上記に書かれている教会は「YMCA」の事だとおもいます(現在も有ります)。現在の土佐堀通は南側に有りますが、当時は土佐堀川沿いの道が土佐堀通でした。肥後橋南詰から西向きに土佐堀通は二手に別れます。左手が現在の土佐堀通なのですが右側の細い道が旧土佐堀通になります。

右の写真が旧土佐堀通です。酔月(旅館照月跡)は写真やや右側の二階建ての建物です。左側はYMCAです。二階建の二軒長屋は写真右端です。

<土佐堀川>
 土佐堀川北側から川を挟んで見た酔月(旅館照月跡)です。「…淀川へ上る舟、河口へ下る舟の絶え間無い間を縫って、方々の貸舟屋から出る小型の端艇が、縦横に漕廻る。近年運動事は東京よりも遥かにさかんだから、女でも貸端艇を漕ぐ者が頗る多い。お店の小僧と女中らしいのが相乗で漕いでいるのもある。近所の亭主と女房と子供と、一家総出らしいのもある。丸吉や銀杏返の、茶屋の仲居らしいの同志で、遊んでいるのもある。三田もふいと乗ってみる気になって、一人乗の端艇を借りたのが病つきになり、天気のいゝ日には、大概晩食後、すっかり暮れきる迄の時間を水の上に過した。…… 中流に漕ぎ出したのにむかって、岸の女はなおからかいやまなかった。宿屋の縁側にも、亭主とおかみさんらしいのが、此方を指さして何か話合っていた。娘は袂を顔にあてて、愈いようつむいてしまった。 端艇はどんどん上流に滴った。橋をくゞると、もう酔月は見えなかった。三田は汗をかく迄踏張って、中之島の方迄漕いで行った。…」。三田はこの土佐堀川をボートで漕いでいたようです。現在は護岸が高くて貸しボート屋などはありません。

左上の写真の正面やや右側の高いビルがYMCAです。護岸の茶色のビルの左側三軒目が酔月(旅館照月)跡です。

次回は上司小剣の「鱧の皮」を歩いてみたいです。

<水上瀧太郎の大阪地図-2->

【参考文献】
・大阪:水上瀧太郎、新潮文庫
・大阪の宿:水上瀧太郎 新潮文庫
・続 関西名作の風土:大谷晃一、創元社


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