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最終更新日:2018年8月14日


●松本清張の松川事件を歩く 初版2004年7月17日 <V01L02>

 下山事件、帝銀事件と戦後の二重大事件を歩いてからしばらく事件から遠ざかっていましたが、今週は東京から少し離れて松本清張が「日本の黒い霧」で書いている松川事件跡を歩いてみました。



<日本の黒い霧>
 松本清張の「日本の黒い霧」は文藝春秋の昭和35年1月号から12月号に連載されたもので、私の読んだ文庫本は昭和49年発行で、昭和35年の文藝春秋と比べてみたかったのですが手に入らず、残念です。松本清張は”あとがきにかえて”の書き出しで、「『日本の黒い霧』をどういう意図で書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。これは、小説家の仕事として、ちょっと奇異な感じを読者に与えたのかもしれない。だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。……私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。…」、と書いています。このような事件を書いている他の作家と比べてみると、書き方がすごく公平ですね、だから万人に読まれるのだとおもいます。といっても読み手によって感じ方は様々ですが‥…!。また、松本清張の主張そのものがすべてその通りというわけではありません。下山事件でも経過等を松本清張自信がその後修正しています。松川事件は夏も終わりかけた昭和24年9月17日の未明に発生します。俗に言う列車妨害です。事件発生後、一人の少年が逮捕され、その少年の自供から芋づる式に労組員が逮捕されます。昭和25年の一審は有罪になりますが、昭和38年差戻審で全員無罪になります。

左上の写真が昭和49年発刊の松本清張「日本の黒い霧(下)」文庫版です。最初に書かれたのが昭和35年ですから、この時代によく書くことができたなとおもいます。

【当時の社会情勢を「日本の黒い霧」から引用すると】
 「…国内政治的には、この年の一月二十三日の選挙に、共産党が一挙に三十五名の議席を占め、大都市では殆ど第一位となった。二月十六日に第三次吉田内閣が成立、二十六日には早くも「行政機構刷新及人員整理に関する件」が決定して、これによる失業者は一七〇万を推定している。五月には「定員法」が成立、七月には国鉄第一次・第二次の首切り九万九千名を発表、東芝は四千五百八十人の第一次首切りを発表した。この一月選挙が行なわれる僅か一カ月前には、中共軍が北京へ入城し、中国制覇が目の前にあった。…」、また列車妨害事件が頻発していました。「…昭和二十三年四月二十七日午前零時四分、奥羽線赤岩・庭坂両駅中間を、青森発上野行四〇二列車が進行中、機関車と次の郵便車が脱線、高さ十メートルの土堤下へ転落、つづく荷物車と客車一台も脱線傾斜して、機関士、助士の二名が即死、技工は重傷後死亡した事件である。… 五月九日午前四時二十三分ごろのことである。四国の予讃線高松桟橋駅を出た宇和島行下り旅客列車が、愛媛県難波村大浦部落の切通しカーブに差しかかったところ、列車が転覆。機関助士三人が即死、機関士と乗客 三名が負傷した。」。いずれも列車妨害事件として捜査されたが未解決となっている。

【松本清張】
 明治42年(1909)12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。昭和28年(1953)「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。平成4年(1992)8月死去。1998年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)

昭和23年〜24年の事件年表

和 暦

事件名

事 件 内 容

昭和23年1月26日
帝銀事件
西武池袋線(当時は武蔵野線)の椎名町駅近くの帝国銀行(現みずほ銀行)椎名町支店で、中年の男が現れ、集団赤痢が発生したから予防薬を飲まなければならないと言って、全員に青酸カリを飲ませ、12人を毒殺、現金12万円と小切手を強奪した事件です。
昭和24年7月6日
下山事件
常磐線下り最終列車が北千住を過ぎ荒川を超えて東武伊勢崎線と交差する辺りに差し掛かった時、近くに轢死体があるのを運転手が発見、その後下山総裁と確認されます。
昭和24年7月15日
三鷹事件
国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し死者6名負傷者20名をだした事件です。
昭和24年8月17日
松川事件
福島駅を定時に発車した旅客列車が、金谷川・松川間のカーブにさしかかった際、先頭機関車が脱線転覆し、2名が死亡した事件です。
昭和25年
 
6月 朝鮮戦争始まる

<松川事件地図 -1->


事件現場>
 「…まず、昭和二十四年の夏に起つたこの事件の経過から述べよう。だが、これをいちいち書いていては、それだけでも本稿は長編となる。また、私の視点は被告たちの無罪を直接に立証するためではないから、私の叙述に関係のあるところはそれを適宜入れておきながら、以下簡単に記すことにする。事件の発端を、広津氏の文章から借りる。実は、法廷記録から引用すればいいのだが、それは文章も長いし、煩雑だし、無味乾燥だから、要領のいい氏の文章を引用する。「福島駅を定時に発車した四一二号旅客列車が、八月十七日午前三時九分、金谷川・松川間のカーヴ(東京の北方二六一粁二五九米付近)にさしかかった際、先頭機関車が脱線転覆し、続く数車輌も脱線し、機関車に乗っていた機関士石田正三ほか二名が惨死した。現場視察によるとレールのツギメ板がはずされ、枕木の犬釘が抜かれ、長さ二五米、重さ九二五瓩もある一本のレールは、線路から一三米も離れたところまで飛んだものか、何の破損もなく真直ぐの形のまま、あだかも搬ばれてそこに置かれたように地面の上に横たわっていた。犬釘をはずすために普通に使われるバールが一本、付近の稲田の中から発見された。…」、と松本清張は事件の経過を書いています。当時の東北本線はまだ複線化されておらず写真の単線を上り下りの列車が交互に走っていました。この辺りの東北本線が複線化されたのは遅く、昭和36年頃だとおもいます。複線化された上り線は下り線とはかなり離れて設置されており、事件は複線化前の単線の上り列車で起こったのですが、その当時の単線路は現在は下り線で使われています(地図参照)。

左上の写真が事件現場です。「謀略 忘れまじ松川事件」と書かれた記念碑が立てられていました。写真の電車は下りになります。事故の方向からすると、こちらの写真の方が的確だと思います。また、少し離れた上り線に近いところに「松川記念塔公園」がありました。

松川駅>
 事件が起きた地点は東北本線金谷川駅と松川駅の間になります。「…松川駅はもちろん、川俣線と街道の交錯する地点の東側、即ち東芝松川工場労組事務所と、東芝松川工場労組八坂寮付近に、目立たぬようにピケが張られていたであろう。また石合踏切の付近にも同じような立哺を置き、特に現場付近は、作業班のほかに東北本線の両側に若干のピケを配置。なお、大事を取って、浅川踏切と奥羽本線並びに東北本線のクロスする所と北西の地点にも、そのような配置があったものと思われる。…」。ここで書かれている川俣線とは松川駅〜岩代川俣駅を走っていたローカル線で昭和47年に廃止されています。松川駅の川俣線ホームと少しの線路が残っていました。東芝松川工場は松川駅の北側に川俣線に沿ってありましたが、現在は北芝電気株式会社天王原工場になっていました(東芝の子会社ですね)。石合踏切は事故現場の松川駅寄りにある踏切です(地図参照)。

右の写真が松川駅です。ひょっとしたら駅舎は当時のままかもしれません。川俣線のホームが残る松川駅の写真と北芝電気株式会社天王原工場、川俣線の路線が残っている東北本線の写真を掲載しておきます(右側の線路)。

松楽座跡>
 「…また、松川事件が発生する前後には、さまざまな興味ある動きがあった。松川駅から西へ約二百メートル、県道沿いに「松楽座」という芝居小屋があるが、八月十六日の夜、つまり事件当夜、ここに旅廻りのレビュー団がやって来た。小屋がはねたのは午後十時を廻っていた。それから数時間後、この座から程近い石合部落の先で列車転覆事件が起きたのである。不思議なことに、レビュー団は、その晩一回だけ興行したのみで、翌日にはもうどこかへ消えていた。…」。当時この松楽座の手前、駅近くに駐在所がありましたが現在は駐車場になっていました。この駐在所には事件当日、福島地区警察署の警備係長が居たことがわかっています。

左上の写真左側の白い建物が松楽座跡の建物です。そのまま残っていました。写真の道は旧道で、バイパスがすこし右側を走っています。この旧道は東北本線を松川駅の横にあった踏切で超えていたのですが、現在は無くなり歩道橋になっていました。バイパスが高架橋で東北本線を超えています。

浅川踏切>
 「…東北本線とは浅川踏切で接触し、そのまま松川町の或る地点で最終打合せを終らせ、当夜、現場付近に配置されたと思うのだ。…」。この浅川踏切の場所は事故現場から金谷川駅方向に少し歩いたところにあります。この道は陸羽街道になるのですが、現在は写真右側にバイパスの高架橋ができており、ほとんど使われていないようです。

右の写真が浅川踏切です。右側が松川駅方面ですから、事件現場は右側になります。陸羽街道は関東では日光街道と同じですが、奥羽街道とは違うのでしょうか?

大槻呉服店>
 事件の起こる日の先日に泥棒に入られた呉服屋がありました。「…金谷川に大槻呉服店というのがあるが、事件の前夜、その店の土蔵が破られ、盗難があった。これは新聞にも報じられたが、その時は、松川事件とは結び着けて考えられなかった。それが関連して考えられるようになったのは、事件の夜、この沿線付近一帯に多くの警官が配置され、非常警戒態勢にあったことが分ってからである。…」。当時の大槻呉服店は”ファミリーショップおおつき”になって現存していました。建物は変わってしまっていました。

左の写真が現在の”ファミリーショップおおつき”です。金谷川駅の近くになります。


金谷川駅>
 事件現場の福島よりの駅が金谷川駅です。当時は何もない田舎の駅だったと思いますが、現在は福島大学ができて若い人の多い駅になったようです。

右の写真がプラットホームの駅名看板です。すこし古くて趣があったので撮影してきました。一様福島市になっているようです。クリックすると駅全体の写真になります。

南福島駅>
 事件当時は駅はなく、永井川信号所でした。「…永井川信号所構内の南部踏切の傍に、当夜、虚空蔵菩薩の祭りがあって、その警戒のためにテントが出ていたことは、前にも述べた。…」。後の裁判でポイントともなった場所です。南福島駅は金谷川駅から福島寄りに次の駅になります。南福島駅の次が福島駅になります。虚空蔵菩薩は”こくぞうぼさつ”と読みます。難しいですね。この虚空蔵菩薩が祭ってあるお寺は満願寺といい、南福島駅から東へ1.5Km、福島県福島市黒岩字上ノ町43で阿武隈川の傍になります。写真は撮り忘れました。

左の写真が現在の南福島駅です。


【参考文献】
・日本の黒い霧:松本清張、文春文庫
・松川事件 謎の累積:日向康 毎日新聞社

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