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最終更新日:2006年2月19日

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●正岡子規の東京を歩く  2001年8月25日 V01L04
  
《没後100年を記念して》

 正岡子規が亡くなったのは明治35年(1902)9月19日です。東京根岸の子規庵で、母、姉と、ただ一人泊まっていた虚子の誰もが気がつかないうちに、静かに亡くなっています。今年の9月19日を過ぎると没後100年目となり、故郷の松山で「子規100年祭 in 松山」記念イベントが開催されています。私が知っていた子規の俳句は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(中学3年程度ですね)位ですので、然したる知識もないのですが、9月19日が近づいてきましたので「正岡子規」の東京を歩いてみました。子規が松山から東京へ出てきたのは明治16年の6月(子規16歳)のことです。日本橋浜町の久松邸内に止宿、7月須田学校、10月に共立学校に入ります。その後明治17年、東京大学予備門(後の第一高等学校)に入学します。

shiki-01w.jpg<長命寺>
 墨堤の長命寺といえば江戸時代から「桜餅」で有名で、知らない人はいませんね。柴田宵曲の「評伝 正岡子規」では「明治二十一年の夏、居士は「無可有洲七草集」なるものを草した。…この夏季休暇中、居士は三並松友(良)、藤野古白(潔)と三人で、向嶋須崎村、長命寺境内の月香楼に寓し、二人の相次いで去った後も、なおここに留って筆を執った。「七草集」とほ秋の七草によって名づけたので、「蘭之巻」の漢文、「萩之巻」の漢詩、「女郎花の巻」の和歌、「芒のまき」の俳句、謡曲に擬した「あさがおのまき」ほ滞留中に成ったが、向嶋辺の変遷を地名から研究しょうとした「葛の巻」ほ二十一年末に漸く出来上りた。向嶋を去る後に草した「刈萱のまき」は「七草集」に加えず、翌二十二年春に至って「瞿麦の巻」を草し、はじめて完きを得たのである。」とあります。今の長命寺には月香楼はなく、その代わりでしょうか、境内に幼稚園があります。「桜餅」の方は隅田川沿いの方にお店がありますので正面の門前からはお店は見えません。子規はよほどここが気に入ったのか、相当長い間留まっていた様です。永井荷風もそうですが、ここ墨堤から墨東の地は、文学者にはかなり興味が湧く地なのでしょうか!長命寺については別に紹介していますのでそちらを参照してください。

左の写真が長命寺の正面、門前です。右側に幼稚園があります。「桜餅」のお店は写真の丁度反対側の隅田川沿いにあります。近くには「言問団子」のお店もあります。
 
shiki-02w.jpg<常盤会寄宿舎跡(坪内逍遥旧宅)>
 常盤会寄宿舎跡はもともと明治17年から坪内逍遥が住んでいた所で、明治20年に同じ町内に移転後、旧松山藩主の久松家が同じ場所に松山藩の子弟の為に常盤会寄宿舎を建てています。常盤会は明治20年12月に設立され、その当時から子規はここに寄宿しています。21年当時の子規は第一高等中学校予科を卒業し、9月本科に進級しています。その後明治23年7月第一高等中学校本科を卒業、9月に文科大学哲学科(後の東京大学)に入学しています。戻りますが22年には夏目漱石と、24年には高浜虚子と親しくなります。
 坪内逍遥の家塾に寄宿していた矢崎嵯峨屋の「春廼屋主人の周囲」によると「其頃の春廼屋の家は本郷真砂町の炭団坂、東京第一の急なあの炭団坂上の角屋敷、崖淵に有つたのだ。裏の縁側に立つて正面を見ると、菊坂の通の谷と其上の丘陵が一目に見える其谷通にも丘陵にも貴賎貧富取交ぜた家が、翫具箱を転倒した様に並んで見えるのだが其が汚い様な奇鹿な様な世話場の背景画の様にも思われて一寸乙で有る。」とあります。

右の写真の左側の建物の所(現日立本郷ビル)が常盤会寄宿舎跡です。右側の坂は炭団坂で、本郷区真砂町(文京区本郷4丁目)から菊坂に向かって下る坂道。命名の由来は、かつて炭田を商うものが多く住んでいたため、往来の人が炭団のように転がり落ちるためという二説があるようです(東京文学地名辞典による)。

shiki-03w.jpg<子規庵>
 明治20年から子規は常磐会寄宿舎に寄宿していましたが、明治24年12月に本郷区駒込追分町に移っています。今の東京大学農学部近くの向丘2−10辺りです。その後明治25年2月に下谷区上根岸88番地(現在の子規庵ではない)に移ります。その当時の状況を柴田宵曲の「評伝 正岡子規」では『居士が根岸に居を転ずるようになったのほ陸羯南翁の関係である。…駒込の家を借りる前に、羯南翁に手紙を出していることは前に記した通りであるが、多分その後であろう、根岸に羯南翁を訪ねている。居士はその時に大学はやめるつもりだといい、俳句の研究にかかって少し面白味が出て来たから、専らこれをやろうと思う、という決心だったそうである。そうして根岸に座敷を貸す家があったら世話してもらいたい、といって帰ったが、その晩「秋さびて神さびて上野あれにけり」の句を端書に書いてよこした、と『子規言行録』に序した羯南翁の文章に記されている。はじめて居士の入った家は、現在の子規庵ではない。八十八番地に老婦一人で住んでいる家があり、確かな人に貸したいということだったので、その部屋を借りることにして移ったのである。羯南翁の門前にあった家だというから、万事その配慮を得たものであろう。根岸に移った最初の印象は、河東可全、碧梧桐両氏宛の端書に尽きている。
  小生表記の番地へ転寓、、処は名高き鶯横町
    鶯のとなりに細きいほり哉
  実の処汽車の往復喧しく(レールより一町ばかり)ために脳痛をまし候。
    鶯の遠のいてなく汽車の音
  あまつさへ家婦の待遇余りよからず罪なくして配所の月の感あり(高浜氏へも御報奉まつり願侯)。』

とあります。駒込追分町の静かな家から少々うるさい根岸に移った事を良くあらわしていますね。その後、母八重、姉律を東京に呼びます。明治27年2月に現在の子規庵のあるところ、根岸82番地の陸羯南翁宅の東隣りに移ります。ここが子規、終生の住居となります。

左の写真が現在の子規庵です。「評伝 正岡子規」では最初、陸羯南翁宅の門前の家に移り、その後東隣に移ったことになっていますが、子規庵保存会のパンフレットによると、最初は陸羯南翁宅の西隣りに住んだとなっています。番地は同じですのでどっちなんでしょうか?子規庵については別に紹介していますのでそちらをご覧ください。
 

shiki-04w.jpg<大龍寺>
 明治27年に根岸82番地の子規庵に移ってからは、ここが終生の地となります。明治28年、日清戦争に従軍、帰国途中の船内で喀血、神戸病院に入院します。このころから体調が徐々に悪化していきます。明治35年9月19日午前一時に永眠(35歳)しますが、このころの事を柴田宵曲の「評伝 正岡子規」では『…何か写生するつもりで画板に紙の貼ってあったのを、無言で傍に持ち来らしめ、
 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 をととひの糸瓜の水も取らざりき
 痰一斗糸瓜の水も間にあはず
 の三句をしたためたのは、十八日の午前である。これが居士の絶筆であった。この日はあまりものもいわず、昏睡状態が続いていたが、その夜母堂も令妹も、一人残って泊っていた虚子氏も、誰も気づかぬうちに、居士の英魂は己に天外に去っていた。あまり蚊帳の中の静なのを怪しんで居士の名を呼んだ時は、手は己に冷え渡って、優に額上に微温を存するのみであった。時に九月十九日午前一時、虚子氏が急を報ずるために外へ出たら、十七夜の月が明るく照っていたそうである。』
とあります。子規の遺骸は20日滝野川村宇田端大龍寺に葬られ、会葬者は150名余りでした。戒名は「子規居士」で、3年後の明治38年に羯南翁の筆に成る墓石が建てられました。大龍寺は湯島霊雲寺の末寺で、現在の本堂の扁額は「岡本太郎」筆です。

右の写真が田端大龍寺内の正岡子規のお墓です。写真の真ん中に「子規居士之墓」があり、右側は母「正岡八重墓」、左側は「正岡氏累世之墓」です。一番左側の石柱には、病没4年前、明治31年7月13日に友人河東銓に宛てた書簡の中に有る墓碑銘が刻まれています。はじめは昭和9年の33回忌に作られた自筆の銅板の墓碑銘だったのですが、昭和11年2月に盗難にあい、同年9月に石に刻みなおしています。「正岡子規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓」なかなか面白いですね。

子規散歩地図
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【参考文献】
・評伝 正岡子規:岩波文庫、柴田宵曲
・墨汁一滴:岩波文庫、正岡子規
・新潮日本文学アルバム(正岡子規):新潮社
・東京文学地名辞典:東京堂出版、槌田満文

【交通のご案内】
・長命寺:東武伊勢崎線「曳舟駅」下車 徒歩15分
・常盤会跡:営団丸ノ内線「本郷三丁目駅」下車 徒歩5分
・子規庵:JR京浜東北線/山手線「鴬谷駅」下車 徒歩7分
・大龍寺:JR京浜東北線/山手線「田端駅」下車 徒歩15分

【住所紹介】
・長命寺:東京都墨田区向島5-1-14  03-3622-3266
・常盤会跡:東京都文京区本郷4-10-1(現日立本郷ビル)
・子規庵:東京都台東区根岸2-5-11 電話 03-3876-8218 閉館日:毎週月曜日
・大龍寺:東京都北区田端4-18-4

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