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最終更新日:2006年2月19日


●網坂から泉鏡花旧宅を歩く 2000年11月3日 V01L01

  明日から仕事で海外に行くため、あまり時間がとれません。今回は少々手抜きですが御免なさい。

 千代田区番町は江戸時代、将軍を護衛する大番組や旗本の屋敷があった所です。
 二代将軍秀忠の娘、千姫は祖父家康の命により豊臣秀頼に嫁ぎました。大阪夏の陣において千姫は大阪城から救い出されています。その後千姫は本多忠刻と再婚、忠刻との間に一男一女をもうけますが、長男幸千代をわずか3歳で亡くし千姫30歳の時夫忠刻も他界しています。忠刻亡きあと千姫は姫路城を出て、天寿院と号して江戸で余生を送くっています。江戸で住んだのは吉田御殿ですが、伝説では通りがかりの美男子を招き入れては殺して井戸に投じたといわれています。又その跡地に住んだ旗本青山主膳が、女中のお菊が皿を割ったことを責めて、その井戸に投げこんだのが皿屋敷の元になっており、お菊が帯を引きずりながら逃げ廻ったのが五番町と九投南4丁目の間の「帯坂」(日本棋院前通り)だとされています。(左の写真が帯坂です)。


<泉鏡花居住地>
 明治43年5月泉鏡花はここに移り昭和14年7月67歳で死去するまで居住し「婦系図」その他の名作を残しています

<泉鏡花>
明治6年11月4日、石川県金沢市に生まれる。本名、鏡太郎
明治23年11月、紅葉の門下となる目的で上京。
明治24年10月、紅葉の門下となることを許される。
明治26年5月、「京都日出新聞」に畠芋之助の名で『冠弥左衛門』を連載。
明治27年11月、『義血夾血』が「読売新聞」に掲載される。
明治32年、神楽坂の芸妓・桃太郎(本名伊藤すず、後の鏡花婦人)を知り恋に落ちる。
明治33年2月、『高野聖』を『新小説』に発表。
明治36年3月、すずと同棲をはじめる。
明治39年、逗子に住む。
明治40年1月から四月まで『婦系図』を「やまと新聞」に掲載。
明治43年10月、『三味線掘』を『三田文学』から発表。
昭和14年9月7日永眠。

bancho4w.jpg<滝廉太郎>
 滝廉太郎は、明泊33年(1900)ころから同34年(1901)4月のドイツ 留学までの間、この地に居住しました。滝廉太郎は、日本を代表する明治時代の作曲家です。彼は明治12年(1879)東京に生れ、官史であった父の任地である東京、富山、大分県竹田などでの生活を経て、尋常高等 小学校卒業後再び上京しました。同31年(1898)東京高等師範学校付属音楽学校専修科を卒業して研究科に進み、在学中母校の助教授となりました。このころ廉太郎は、ピアニストとして活動するかたわら、一番町にあって彼の代表作である『荒城の月』『箱根八里』『花』などを作曲しました。その後才能を認められた廉太郎は、同34年(1901)に文部省留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校におもむきますが、肺を患い翌年には帰国しました。そして父の郷里大分で静養中、同36年(1903)6月29日に天逝しました。(千代田区の文化財探訪より)


番町付近地図
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【参考文献】
・千代田区の文化財探訪:千代田区教育委員会
・東京落語散歩:青蛙房

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