●「婦系図」と「ペコちゃん焼」と神楽坂 2000年9月23日 1版
今日は花柳界では有名な神楽坂を散歩してみたいと思います。
秋葉原駅でJR中央線の各停に乗り換えて飯田橋駅西口を降りると、目の前が牛込橋です。橋の上から外堀通り方向に少し下がって交差点から真っ直ぐ坂の上に向かって伸びる神楽坂通りが見えます。休日の午前中は下りの一方通行ですが、12時を過ぎると歩行者天国に変わります。
「…早瀬の細君は丁ど(二十)と見えるが三だとサ、其年紀(そのとし)で酸漿(ほうずき)を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、と四辺近所は官員の多い屋敷町の夫人連が風説をする。 既に昨夜も、神楽坂の縁日に、桜草を買った次手に、可いのを撰って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎ねられて、利いた風な、と口惜がった。」は泉鏡花の「婦系図」の最初の書き出しです。隣の女学生に嫌われているのは面白いですね、明治時代の小説ですが、今読んでも時代を感じさせませんね。明治23年、小説家を志して上京した泉鏡花は、翌年10月に神楽坂近くの牛込横寺町の尾崎紅葉家の玄関番として仕みこんでいます。明治32年、文学者仲間の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず)を知り親しくなった鏡花は、明治36年3月、すずを身請し、神楽坂2丁目22番地(神楽坂から一筋四谷より)の借家に彼女と同棲しています。このすずが『婦系図』の芸者お蔦で早瀬主税との恋物語になるわけです。泉鏡花と神楽坂は切っても切れない関係です。鏡花がこの地を去ったのは明治39年7月のことで、逗子田越で転地療養をするためだったそうです。
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