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最終更新日:2006年2月19日


●「婦系図」と「ペコちゃん焼」と神楽坂 2000年9月23日 1版

 今日は花柳界では有名な神楽坂を散歩してみたいと思います。

 秋葉原駅でJR中央線の各停に乗り換えて飯田橋駅西口を降りると、目の前が牛込橋です。橋の上から外堀通り方向に少し下がって交差点から真っ直ぐ坂の上に向かって伸びる神楽坂通りが見えます。休日の午前中は下りの一方通行ですが、12時を過ぎると歩行者天国に変わります。
「…早瀬の細君は丁ど(二十)と見えるが三だとサ、其年紀(そのとし)で酸漿(ほうずき)を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、と四辺近所は官員の多い屋敷町の夫人連が風説をする。 既に昨夜も、神楽坂の縁日に、桜草を買った次手に、可いのを撰って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎ねられて、利いた風な、と口惜がった。」は泉鏡花の「婦系図」の最初の書き出しです。隣の女学生に嫌われているのは面白いですね、明治時代の小説ですが、今読んでも時代を感じさせませんね。明治23年、小説家を志して上京した泉鏡花は、翌年10月に神楽坂近くの牛込横寺町の尾崎紅葉家の玄関番として仕みこんでいます。明治32年、文学者仲間の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず)を知り親しくなった鏡花は、明治36年3月、すずを身請し、神楽坂2丁目22番地(神楽坂から一筋四谷より)の借家に彼女と同棲しています。このすずが『婦系図』の芸者お蔦で早瀬主税との恋物語になるわけです。泉鏡花と神楽坂は切っても切れない関係です。鏡花がこの地を去ったのは明治39年7月のことで、逗子田越で転地療養をするためだったそうです。


<うを徳>
 「「奥様、魚屋が参りました。」「大きな声をおしでないよ。」 とお蔦は振向いて低声で嗜め、・・・・目配せをすると、お源は莞爾して俯向いたが、ほんのり紅くした顔を勝手口から外へ出して路地の中を目迎える。「奥様は?」 と其の顔へ、打着けるように声を懸けた又是が其の(おう。)の調子で響いたので、お源が気を揉んで、手を振って圧えた処へ、盤台を肩にぬいと立った魚屋は、渾名を(め組)と称える、名代の芝ッ児。」も泉鏡花の「婦系図」ですが、ここに出てくるめ組、芝ッ児の魚屋が「うを徳」です。「うを徳」は明治初期創業で、初代を泉鏡花が贔屓にしていたそうです。今では右の写真のように神楽坂にビッタリはまる板塀の有名高級割烹料亭です。私も一度は行ってみたい・・・・です。

<神楽坂花柳界>
 昭和初めには芸者が400名以上いたそうでですが、戦時中には昭和20年の東京大空襲で消失したりして殆ど壊滅状態になっています。戦後は細々と数件の料亭で始めています。戦後、神楽坂が有名になったの昭和27年の「あなたのリードで 島田もゆれる チーク・ダンスの なやましさ みだれる裾も はずかしうれし 芸者ワルツは 思いでワルツ」で皆様よくご存じ西條八十:作詞、古賀政男:作曲「芸者ワルツ」です。この歌を歌ったのは「神楽坂はん子」さんで、これで神楽坂芸者の名が日本中に広まったわけです。


<不二家 ペコちゃん焼>
 食べてなかなか美味しい「ペコちゃん焼」を紹介します。不二家の全国のお店の中で「ペコちゃん焼」を売っているのはこの不二家飯田橋店(神楽坂)のお店ただ一つです。「ペコちゃん焼」のパンフレットによりますと、昭和40年代後半、不二家本社が首都圏10数店のFC(フランチヤイズ)に「ペコちゃん焼」を導入しましたが、他店が撤退する中で、不二家飯田橋店のみがこの商品を守ってきたそうです。製造を継続できたのは、神楽坂という土地柄に大きくむすびついていて、大学の学生さんをはじめ、近くの中・高校・専門学校の生徒さん、会社帰りの女子社員やサラリーマンの方々など若い人たちが支持してくれたことが一番みたいです。又、商品も中味のあんを工夫して小倉あんからチョコ・カスタード・パンプキン・チーズ・プルーベリー・黒ごま・紫いも・カレーなど多彩なラインアップにしたこともよかったようです。左の写真のように、見ても美味しそうで、食べても絶品です。日本で此処しか売っていない「ペコちゃん焼」を一度食されることをおすすめします。

<神楽坂の由来>
 元々は外堀通りの牛込見附から北西へ神楽坂1、2、3丁目まで上がる坂を呼んでいましたが、現在は、その坂上の4、5丁目と、大久保通りを越して6丁目までを含めて呼んでいます。坂名の由来については、江戸時代からいろいろな説があります。
1.市谷八幡の祭礼で、みこしが牛込御門の橋の上にしばらくとどまり、神楽を奏するから、
2.近くの若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてくるから、
3.この坂上に高田穴八幡の御旅所があり、祭礼のときこの坂の人口で神楽を奏するから、
4.築上神社(現在、千代田区九段北一丁目へ移転)が江戸城内の田安の地から築土八幡町へ移転した際、この坂で神楽を奏したから、
5.この坂のところに赤城明神の神楽堂があったから、などですが、享保18年(1733)刊の江戸の地理誌『江府名勝志』によると、坂の由来についていろいろあるがはっさりしないと述べています。江戸中期にはすでに不明となっていたようです。
 明治28年、甲武鉄道牛込停車場の開設をきっかけに、坂の付近は商店街や住宅地として急速に発展し、明治時代後期には牛込区第一の繁華街となり、大正から昭和の初期にかけて新しい東京の盛り場としてにぎわい、「山の手銀座」と呼ばれていました。とくに善国寺毘沙門天の縁日は人気を集めて雑踏しています。

<善国寺>
 右の写真は名を鎮護山善国寺といいます。日蓮宗で池上本門寺の末寺です。開山は、池上本門寺十二代の住職、日慢上人で、徳川家康より大下安全の祈祷の命をうけ、文禄4年(1595)に麹町6丁目(千代田区)に創建しています。寛文10年(1670)に火災にあいましたが、徳川光圀の援助もあって、延宝2年(1674)に本堂と鎮守の毘沙門堂が再建されました。享保12年(1727)にも火災にあい、角筈に替地を命ぜられましたが、岩本内膳神の訴願が聞きいれられて沙汰やみとなりました。そこで内膳正は中興開基とされています。寛政4年(1792)の類焼に際しては、火除地として召しあげられ、替地として現在地を拝領し、翌年移転しています。有名な毘沙門天像【区指定文化財】は、加藤清正の守仏とも伝えられています。明治末期には境内に出世稲荷があることから午の日にも縁日を開くことにしたので、「神楽坂の毘沙門様」と呼ばれてにぎわっています。(新宿区の文化財史跡(東部篇)より)



神楽坂付近も含めて紹介しきれなかったので神楽坂第二弾を次回以降紹介したいと思います。

神楽坂付近地図
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【参考文献】
・東京の文学風景を歩く:風濤社 大島和雄
・泉鏡花集成12:ちくま文庫
・江戸東京歴史ウォーク:歴史と旅3/10増刊号
・新宿区の文化財史跡(東部篇):新宿区歴史博物館
・花柳界入門:浅原須美 小学館
・大東京繁昌記:平凡社
・不二家飯田橋店パンフレット

【交通のご案内】
・神楽坂:JR中央線「飯田橋駅」西口下車すぐ、営団地下鉄東西線/有楽町線/南北線「飯田橋駅」下車すぐ

【見学について】
・うを徳:東京都新宿区神楽坂3-1 電話 03-3269-0360
・不二家飯田橋店:東京都新宿区神楽坂1-12 電話 03-3269-1526

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