<孫中山年譜長編 中華書局(東京篇と同じ)>
今回も「孫中山年譜長編 上冊」
を参考にします。孫文の年譜が中心ですが黄興についてもかなりの量が書かれています。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)3月、宋教仁が暗殺された場面です。
「… 3月22日
獲宋教仁死耗,致電國民黨本部及上海交通部、要求認眞査究宋案眞相。
宋教仁被刺不治身死後,黄興等即電告先生。先生聞後悲憤異常,是日立即致電國民黛本部及上海交通部,電稀:“聞鈍初死,極悼。望黛人合力査〈研〉此事原因,以謀昭雪。”(〈民立報〉1913年3月24日)…」
【宋教仁(そう きょうじん)1882年4月5日-1913年(民国2年)3月22日(30歳)】
宋教仁は清末・民初の革命家・政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用います。幼少より私塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年に黄興と知り合った後は排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと共に華興会を創設し副会長に選出された。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝当局に露見し計画は失敗、同年末日本に亡命する。日本亡命期間中は1905年6月に法政大学に入学、雑誌『二〇世紀之支那』を発行。7月、宮崎滔天により孫文を紹介され。8月には広東派の興中会、浙江派の光復会、湖南派の華興会が合併して中国同盟会が成立します。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺、宋教仁は遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に入学。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴き、夏、日本に帰っています。1910年末、中国に帰国。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立。同年10月、武昌蜂起が発生すると宋教仁も武昌に入っています。11月、北一輝と上海に滞在、また各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任。しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとします。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考え、革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝します。この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月20日、上海駅頭で宋を射殺します。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしています。(ウイキペディア参照)
★写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。