●上海を歩く (宋教仁、陳其美、黄興)
    初版2015年1月10日  <V01L02>  暫定版

 今回は大正2年(1913)から大正5年(1916)の上海を歩きます。この頃は辛亥革命後の混乱の時期で、暗殺が横行していました。特に今回は宋教仁、陳其美が暗殺された場所と、黄興が死去した場所を歩いてきました。


「孫中山年譜長編」
<孫中山年譜長編 中華書局(東京篇と同じ)>
 今回も「孫中山年譜長編 上冊」 を参考にします。孫文の年譜が中心ですが黄興についてもかなりの量が書かれています。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)3月、宋教仁が暗殺された場面です。
「…  3月22日
 獲宋教仁死耗,致電國民黨本部及上海交通部、要求認眞査究宋案眞相。
 宋教仁被刺不治身死後,黄興等即電告先生。先生聞後悲憤異常,是日立即致電國民黛本部及上海交通部,電稀:“聞鈍初死,極悼。望黛人合力査〈研〉此事原因,以謀昭雪。”(〈民立報〉1913年3月24日)…」


【宋教仁(そう きょうじん)1882年4月5日-1913年(民国2年)3月22日(30歳)】
 宋教仁は清末・民初の革命家・政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用います。幼少より私塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年に黄興と知り合った後は排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと共に華興会を創設し副会長に選出された。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝当局に露見し計画は失敗、同年末日本に亡命する。日本亡命期間中は1905年6月に法政大学に入学、雑誌『二〇世紀之支那』を発行。7月、宮崎滔天により孫文を紹介され。8月には広東派の興中会、浙江派の光復会、湖南派の華興会が合併して中国同盟会が成立します。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺、宋教仁は遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に入学。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴き、夏、日本に帰っています。1910年末、中国に帰国。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立。同年10月、武昌蜂起が発生すると宋教仁も武昌に入っています。11月、北一輝と上海に滞在、また各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任。しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとします。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考え、革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝します。この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月20日、上海駅頭で宋を射殺します。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしています。(ウイキペディア参照)

写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。

「革命いまだ成らず」
<「黄興年賦」 毛注青(東京篇と同じ)>
 黄興について書かれた本を探したのですが、日本語では孫文や宋教仁関連の本に少し書かれているのみで、年譜に関しては虚無でした。仕方がないので中国語の本を探しました。上記の「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行も書かれていましたが、その他に2冊、「日本の古本屋」で見つけることができました(Amazonでは無)。その一つが「黄興年譜」です。この年譜はよくできているのですが、使われている漢字が簡体字(simplified)で、私にはほとんど読めません。「孫中山年譜長編 上冊」は繁体字(traditional)で、日本語の漢字に近く、日本語の漢字に置き換えやすいのです。因みに中国人は全く区別なく読めるそうです。一番困るのは、日本語の漢字に置き換えられないことです。中国語で書かれていれば大体の意味は分かりますが日本語に置き換えるのには中国語の簡体字を理解していないと無理です。

 黄興が大正5年(1916)10月31日に上海で病死するところです。

「10月10日 胃出血病復发(再発する)。
 黄興在南京臨時政府時期,曽患胃出血症,旅美時又″患血症,幸医治得法,六月之久,始能回復健全。”此次帰国抵沪后,操労辻度,夙疾時作。是日,病情突変,吐血数孟,竟至?蕨。経延徳医克礼氏珍治后,謝絶面酬, 卧床休养。孫中仙,胡汊民等莅臨視疾。

10月26日。四子一球生。

10月31日 凌晨四時半、逝世于上海。
 黄興病逝、各界人士及外国友人深切哀悼。国民党要人?到沪吊唁。治喪委員会由?中山領衛組成、孫中山、唐紹?、蔡元培、柏文蔚、李烈鈎、潭人?担任主喪友人。…」

 読み方が分らず、苦労しています。意味が分らず、日本語の漢字に置き換えられないところは”?”にしています。
 黄興はもともと胃の調子が良くなかったようです。再発したと書かれています。胃以外は元気だったようで、4人目の子供が26日に生まれています。

写真は湖南人民出版社版、毛注青の「黄興年賦」です。出版は1980年10月発行です。中国の本の奥付は表紙の裏側付近に書かれているのが普通です。

【黄 興(こうこう)1874年10月25日-1916年10月31日】
黄 興(こうこう)は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称されます。字は厪吾。湖南省長沙の名門出身。張之洞の両湖書院に学び、民族主義を唱道し革命を志すようになります。1899年に唐才常が漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、湖南から逃亡します。1901年に来日し東京で弘文学院に入り、章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進めます。1903年に宋教仁・陳天華・劉揆一と秘密結社・華興会を組織しその総理となります。広西義軍と協力し革命計画実行に邁進しますが、事前に両湖総督・張之洞に探知され上海に逃亡します。そこで広西巡撫・王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕されますが、数日で釈放され東京に亡命します。1905年に孫文と結び、華興会は孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会と大同団結を遂げ、孫文を首領とする中国同盟会を組織します。1907年に広東省欽州・廉州・潮州や広西省鎮南関で、1908年には雲南省河口で挙兵しますがいずれも失敗し、東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、中国同盟会の機関紙である民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺います。1911年4月23日、同盟會組織の第三次広州起義では、趙聲が総指揮、黄興が副総指揮となりますが清軍の反撃によって市街戦となり失敗し、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出します(黄花崗起義)。黄興は右手を負傷し、指も2つ失っています。その後広州へ脱出し、河南の女性革命家・徐宗漢(中国語版)の家に匿われ香港の医療施設へ徐宗漢に運び込まれます。そこで外科手術に必要な身内のサインを求められた際に、徐宗漢が黄興の妻としてサインをしています。又、同じ年に武昌起義が勃発し黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくります。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となり、南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握しています。1912年に宣統帝が退位し南北統一政府が組織されるさいに、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していましたが、これもまもなく辞めて上海に滞在するようになります。1913年3月の第二革命には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしますが敗れ、日本をへてアメリカに亡命します。1915年に袁世凱が皇帝を称し第三革命が始まると日本経由で上海に戻りますがその年の10月に病死します。(ウイキペディア参照)



上海市地図



「上海北駅」
<滬寧鉄道上海駅(宋教仁 暗殺場所)>

 明治44年(1911)11月に辛亥革命が始まり、大正元年(1912)1月に中華民国が成立、孫文が初代臨時大統領に就任しています。その後、3月に袁世凱が臨時大統領に就任します。8月には孫文の同盟会は国民党に改組し、12月の総選挙では国民の圧倒的な支持をうけます。この国民党の実質的な指導者が宋教仁でした。孫文、黄興が軍事主導であったのに対し、宋教仁は議会主義でした。又、買収されない指導者でも有名であたようです。袁世凱は軍事的には圧倒的に優位でしたから、孫文、黄興よりも、民衆の支持を集める宋教仁が気に入らなかったようです。

 片倉芳和さんの「宋教仁研究」より、”宋教仁暗殺事件について”からです。
「… 一九一三年(民国二年)三月二十日午後十時四十五分滬寧鉄道上海駅で宋教仁暗殺事件が起きた。午後十一時発の特急列車南京経由津浦鉄道で北京に向け上海を出発しようとするところである。黄興、寥仲凱、拓魯生、陳策ら国民党の指導者らと一緒にプラットホームに向って歩いていた。狙撃された場所は中国側の管理している駅構内で起きたことは租界内で起すと処理が困難になるとの考えで計画的になされたものである。滬寧鉄道病院で腹部に入った弾丸をとり出す切開手術が施されたが二十二日午前四時四十分、満三十一歳の誕生日を二週間目前に死去した。
 犯人は二十三日、応夔丞なる者が英租界の妓楼で逮捕された。狙撃犯人武士英は仏租界の応の家で逮捕された。応宅を捜査したところ暗殺の証拠多数発見された。国務院秘書洪述祖、国務総理趙秉鈞に関係する往来電報やら往復の手紙なども押収された。応夔丞は中国共進会会長を名乗っていたが、上海の無頼の徒である。二、三ヶ月前、北京で洪述祖により袁世凱に紹介され謁見されている。北京の手先として上海での情報活動を行っていたと思われる。洪述祖は一月二十三日、応と一緒に北京より南下してまた北京に帰ったりしている。
 武士英は元軍人、二十二歳、応夔丞より一千元の懸賞をもらうことで宋暗殺を行い、宋がどんな人物かも知らなかった。警察の追及に暗殺事件の下手人であることを認めた。
 証拠物件は五十三件にのぼり、江蘇都督程徳全と民政長応徳閎はすべて発表して、暗殺事件の実態を全国民に示した。程徳全はこの事件を重視し特別法廷を設けて審理するように建議した。しかし袁世凱は真相が暴露されるのを恐れ、司法総長許世英に特別法廷を設けることを不許可にさせている。裁判は上海地方裁判所で行われることになった。狙撃犯人の武士英は上海総領事よりわが国外務省への四月二十四日の電報によると「支那二引渡サレタル犯人武士英ハ獄中二於テ死去シ毒殺ナリトノ説専ラナリ」とあり獄中で変死した。
 応夔丞も五月二十八日、国民党が上海製造局を襲撃した事件の混乱に紛れて脱獄した。応夔丞は脱獄後、青島に逃げて、袁世凱に宋教仁暗殺の報償金を要求した。翌年一月北京に潜入し、十九日天津に赴く列車の中で、午後七時頃護衛の探偵が側を離れたわずかの間に「鋭利ナル「ナイフ」」で咽喉や両胸腋を刺されて殺された。犯人は直ちには捕まらなかったけれども護衛の一人の王芝圃が犯人といわれている。袁世凱が趙に命ぜられて行なったものと考えらられる。国民党側も犯人捜しをしていたので、あるいはという考えもあるが、袁か趙の命令と見た方がよいと思う。国務総理趙秉鈞はのちに直隷都督となったが、事件後一年もたたぬ一九一四年二月二十六日急死した。袁世凱が毒殺したとも言われている。
 洪述祖は事件の発覚してから、三月二十六日より青島に隠れていたが、袁世凱の死後変名で、一九一七年に上海に現われた。宋教仁の一子宋振呂(当時十五歳)と元秘書の劉白に摑まり上海で裁判にかけられ、北京に引渡され、一九一九年殺人罪で死刑の判決を受け四月五日、絞首刑が行われた。宋の息子は後に明治大学に留学したが日中戦争前に死亡した。…」

 暗殺するにしても、あまり上手ではありません。バレバレです。混乱の時期の上海でも警察組織は機能していたようです。

写真が当時の滬寧鉄道上海駅(上海北駅)です。現在の上海駅とは場所が違います。現在の上海駅から東に1.4Km程にあります。駅は1987年に廃止され、かつての駅舎は2004年に開設された上海鉄路博物館(ウイキペディア参照)として使用されています。

【滬寧鉄道上海駅】
 1909年に上海駅として開業したが1916年に上海北駅と変更された。駅舎は英国によって設計された4階建の西洋風建築物であった。ただし度々戦乱による破壊を受けており1932年に第一次上海事変で日本軍によって破壊され、再建された建物は1937年に日中戦争で破壊された。戦後1950年に完全に修復されたが、1987年に新しい上海駅が開業し、上海北駅付近にあった淞滬線(現在の上海地下鉄3号線)が廃止されたため、駅も廃止になった。(ウイキペディア参照)

「上海の山田純三郎宅跡」
<上海の山田純三郎宅(陳其美 暗殺場所)>
 次の大きな暗殺事件は大正5年(1915)5月18日に起きた陳其美の暗殺でした。ここでも袁世凱が係わっています。6月6日には袁世凱が病死していますので、もう一ヶ月粘れれば、良かったのにとおもいます。

 「改造」昭和13年1月号、山田純三郎「敗将蒋介石」より
「… 或る時陳其美は、孫文ばかりに金を出させるのを気の毒がって、袁世凱との妥協成立したことではあるしと思って、袁側の使者のもってきた話しにのった。それは、どこかの鉱山を担保に金を借りる。五十万円のうち、何れ今後の天下は民党のものですから、三十万円は上げようというのだ。その調印をすることになった。
 私は丁度その時刻に外から帰って来た、食堂に人が居るようなので熱いお茶でもお出しといって、二階に上りとまり込んでいる胡漢民と碁をうっていた。そこへパンパンとピストルの音だ。陳其美はコメカミをやられ、呉忠信は戸の所で歯をすっかりうたれて死に、家の女中が耳をかすられて、だいていた二歳の女子民子(滔天命名)をたたきの上におとして、その子は未だに、気の変になることがある、そのときは病院に入れた。丁仁傑は腹、ボーイは犯人をつかまへようとして、手の甲を打ち抜かれた。
 これで第三革命と吾々が名付けるものの幕がとじた。…」

 やっぱり、うまい話には乗れません。必ず裏があります。ボディーガードは居なかったのでしょうか、残念です。このように優秀な人材を失うことは将来の国の発展に障害が出てきます。

写真は淡水路92弄2号を南西側から撮影したものです。正面やや左側です。山田純三郎宅はこの反対側にあったようです。反対側の写真を掲載しておきます。記念碑等はまったくありませんでした。この場所については「上海歴史ガイドマップ」を参照しています。

【山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、明治9年(1876)5月18日-昭和35年(1960)2月18日)】
 日本の革命運動家、大陸浪人。辛亥革命に参加した革命運動家山田良政の実弟である。青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。兄の影響で東亜同文会に合格し上海に渡りその後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学。この頃、兄に孫文を紹介されている。その後、同書院教員、日露戦争での通訳に従軍後、南満州鉄道に入社。上海以来、終始兄の遺志を継ぎ孫文を支援、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても孫文は山田を信頼し、再び孫文が政権を回復した場合、日本軍は孫文に協力する旨の日中盟約を秋山真之海軍軍務局長が作成、その孫文との仲介を行っている。しかし秋山は、日本政府の袁世凱支持方針を害する者として左遷された。袁世凱の後を継いだ段祺瑞政権下においても孫文は山田を信頼し続けた。山田は頻繁に孫文と会合を持ったが、常に日本官憲の監視下におかれた。大正14年(1925)北京での孫文臨終の際に立会いを許された唯一の日本人であった。その後、山田は昭和20年(1945)の日本敗戦まで上海で過ごした。(ウイキペディア参照)

【陳其美(ちん きび) 1878年1月17日-1916年5月18日】
 祖父は郷紳、父は商人の家に生まれる。年少時代は、学問や商業に勤しんだ。1906年(光緒32年)夏、日本に留学し、警察関連の学校に入学する。この時、同時期に日本へ留学していた蒋介石と知り合う。同年冬に中国同盟会に加入し、翌年に東斌学堂で軍事を学んだ。1908年(光緒34年)、陳其美は帰国し、浙江省や北京、天津で同盟会支部の組織に奔走する。1909年(宣統元年)夏、浙江省で革命派の蜂起を画策したが、仲間の裏切りにより事前に漏れ、失敗した。1910年(宣統2年)からは、上海で『中国公報』、『民声叢報』といった革命派の新聞社を立ち上げている。また、陳は、革命派の勢力を広げるために、上海の青幇などとの交渉を務めた。1911年(宣統3年)7月、上海に同盟会支部が成立すると、陳は庶務部長に任じられた。同年10月、武昌起義の勃発と共に、陳其美も上海での蜂起を計画し、11月3日に実行に移した。なお、事前に陳は、上海の立憲派とも協議を妥結するなど、各階層の幅広い支持を得ている。結局、蜂起は成功し、11月6日、陳は、上海の各層からの推戴を受け、滬軍都督となった。さらに、陳其美は、江蘇省、浙江省などの革命派とも連合して、南京を攻撃し、12月2日、南京を占領した。これにより、陳は、南京に孫文を迎え入れ、中華民国の成立に大きく貢献したのである。1912年(民国元年)3月、袁世凱が臨時大総統に就任すると、唐紹儀内閣の工商総長に就任する。しかし、まもなく唐が袁と対立して内閣が崩壊したため、陳も抗議して辞任する。さらに滬軍都督からも罷免された。1913年(民国2年)7月の二次革命(第二革命)では、陳は上海討袁軍総司令に推戴され、19日に上海独立を宣言する。しかし、陸海軍の正規部隊の支持を得られず、9月には敗北し、11月に日本へ亡命した。1914年(民国3年)7月、東京で中華革命党が成立すると、陳其美もこれに加入し、総務部長に任命された。その後、帰国して袁世凱討伐活動に従事する。1915年(民国4年)2月から、上海で蜂起を画策し、12月5日に挙兵したが、失敗に終わった。
1916年(民国5年)からは、護国戦争(第三革命)に呼応して、引き続き上海等で反袁活動を続けた。同年5月18日、北京政府側の軍人である張宗昌が放った刺客により、陳其美は暗殺された。享年40(満39歳)。(ウイキペディア参照)



淮海中路附近地図



「武康路393号公寓」
<武康路393号公寓、滬光中学(黄興終焉の地)>
 最後に暗殺ではありませんが、黄興の死去の場所を探してきました。黄興は大正5年(1916)6月米国から日本に戻ります。そして袁世凱の死後の7月、日本から上海に戻ります。しかし体調が優れず、10月10日入院、31日に死去します。

黄興が大正5年(1916)10月に上海で病死する処です。
「10月10日 胃出血病復发(再発する)。
 黄興在南京臨時政府時期,曽患胃出血症,旅美時又″患血症,幸医治得法,六月之久,始能回復健全。”此次帰国抵沪后,操労辻度,夙疾時作。是日,病情突変,吐血数孟,竟至?蕨。経延徳医克礼氏珍治后,謝絶面酬, 卧床休养。孫中仙,胡汊民等莅臨視疾。

10月26日。四子一球生。

10月31日 凌晨四時半、逝世于上海。
 黄興病逝、各界人士及外国友人深切哀悼。国民党要人?到沪吊唁。治喪委員会由?中山領衛組成、孫中山、唐紹?、蔡元培、柏文蔚、李烈鈎、潭人?担任主喪友人。…」

 読み方が分らず、苦労しています。意味が分らず、日本語の漢字に置き換えられないところは”?”にしています。
 黄興はもともと胃の調子が良くなかったようです。再発したと書かれています。

 黄興が死去した場所には記念プレートがありました。
「The early building was completed in 1912,having neoclassicism architectural style. 1st extension which was completed in 1933 has Art Deco style. It served as the residence of Huang Xing (1874-1916) who was the democratic revolutionist in modern ages from 1912 to 1916.」
 プレートに書かれていた英語表記に幾つか間違いがありましたので修正しています。いい加減です。


日本語訳です。
 初期に建てられた建物は新古典主義建築様式で1912年に完成しています。一回目の拡張はアールデコスタイルで1933年に完成しています。1912年から1916年の間は近代の民主主義の革命家であったホワン・シン(1874-1916)の住居となっていました。

写真正面が武康路393号、黄興の住居あとです。この建物自体も歴史的に価値のある建物だそうです。この建物の南側は現在幼稚園になっていますが、当時は庭で広い住居だったようです。又、幼稚園の道路を挟んで反対側には宋慶齢の住んでいた住居があります。孫文の死後に住んでいたとおもわれます。



武康路393号附近地図



黄興、孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
- 11月12日 孫文、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1874 大久保利通暗殺 0 10月25日 黄興、湖南善化(現長沙)に生まれる
明治21年 1891 大津事件
露仏同盟
17 秋 黄興、廖淡と結婚
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 18 黄興、善化県試に落第
10月 黄興、長男一欧誕生
明治26年 1893 大本営条例公布 19 黄興、城南書院に入学
明治29年 1896 アテネ五輪開催 22 10月 黄興、長女振誕生
明治31年 1898 ロシアが旅順と大連を占領する。翌年租借
九竜租借条約が締結
24 黄興、両湖書院に入る
明治33年 1900 列国公使団が義和団事件について12箇条の講和条件を清国に要求 34 秋 黄興、日本に亡命
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 27 6月 黄興、二女一中誕生
明治35年 1902 日英同盟 28 6月 黄興、日本に留学
明治37年 1904 日露戦争 30 10月 黄興、長沙で挙兵したが失敗、日本に亡命
明治38年 1905 ポーツマス條約 31 夏 黄興、孫文、中国同盟会を結成
11月 「民報」東京で発行
明治40年 1907 義務教育6年制 33 1月 黄興、香港に向う
2月 黄興、東京に戻る
4月 黄興、香港に向う
5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
34 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
夏 香港から東京に戻る
10月 「民報」発禁処分
11月上旬 宮崎虎藏の寓所に隠れる
11月下 光緒帝、西太后死去
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 35 秋 広州新軍の起義
明治43年 1910 日韓併合 36 1月 香港に向う
2月 庚戌新軍起義
4月 東京に戻る
明治44年 1911 辛亥革命 37 1月 香港に向う
4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
38 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任、黄興は陸軍総長兼参謀総長になる
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
8月 同盟会は国民党に改組
10月 黄興、故郷長沙に帰る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 39 3月19日 宋教仁、上海駅頭で暗殺さる
7月 南京で挙兵(第二革命)失敗
8月 孫文、黄興日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 40 6月 第一次世界大戦始まる
6月 黄興、米国に向う
7月 孫文が日本で中華革命党を組織
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 41 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 42 5月 黄興、米国から日本に戻る
5月18日 陳其美、暗殺される
6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
7月 黄興、上海に戻る
10月 黄興、上海で病死
大正6年 1917 ロシア革命 - 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 - 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 - 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 - 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 3月 孫文死去