●黄興を歩く 東京編 -3-
    初版2014年8月9日  <V01L04>  暫定版

 今回は孫文と並んで辛亥革命の「革命三尊」の一人である黄興を歩きます。黄興は最新の調査によると計10回日本に滞在しており、今回は第二革命後の大正2年(1913)8月から大正3年(1914)6月までを歩きます。黄興は日本ではあまり知られていませんが、中国では孫文と並んで有名な革命家です。


「孫中山年譜長編」
<孫中山年譜長編 中華書局>
 今回も「孫中山年譜長編 上冊」 を参考にします。孫文の年譜が中心ですが黄興についてもかなりの量が書かれています。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)8月4日、黄興が三井物産の船で香港から日本に脱出し、8日、下関の到着する場面です。
「…8月9日…
…  △ 黄興抵門司港,旋赴下關市。
  是日晨,黄興偕其親属乗第四海運丸抵門司港,本準備同在営地上岸之先生會見後再往東京。但經三井分公司和黄興本人惧重考慮,決定暫租寓下關市外涜町天野布荘之別墅。(日本外務省檔案,1913年8月9日福岡縣知事南弘致外務大臣男爵牧野伸顯閣下,高秘第2772號,王振鎖譯,兪辛焞校)…」


【黄 興(こう こう)1874年10月25日-1916年10月31日】
黄 興(こう こう)は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称されます。字は厪吾。湖南省長沙の名門出身。張之洞の両湖書院に学び、民族主義を唱道し革命を志すようになります。1899年に唐才常が漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、湖南から逃亡します。1901年に来日し東京で弘文学院に入り、章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進めます。1903年に宋教仁・陳天華・劉揆一と秘密結社・華興会を組織しその総理となります。広西義軍と協力し革命計画実行に邁進しますが、事前に両湖総督・張之洞に探知され上海に逃亡します。そこで広西巡撫・王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕されますが、数日で釈放され東京に亡命します。1905年に孫文と結び、華興会は孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会と大同団結を遂げ、孫文を首領とする中国同盟会を組織します。1907年に広東省欽州・廉州・潮州や広西省鎮南関で、1908年には雲南省河口で挙兵しますがいずれも失敗し、東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、中国同盟会の機関紙である民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺います。1911年4月23日、同盟會組織の第三次広州起義では、趙聲が総指揮、黄興が副総指揮となりますが清軍の反撃によって市街戦となり失敗し、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出します(黄花崗起義)。黄興は右手を負傷し、指も2つ失っています。その後広州へ脱出し、河南の女性革命家・徐宗漢(中国語版)の家に匿われ香港の医療施設へ徐宗漢に運び込まれます。そこで外科手術に必要な身内のサインを求められた際に、徐宗漢が黄興の妻としてサインをしています。又、同じ年に武昌起義が勃発し黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくります。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となり、南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握しています。1912年に宣統帝が退位し南北統一政府が組織されるさいに、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していましたが、これもまもなく辞めて上海に滞在するようになります。1913年3月の第二革命には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしますが敗れ、日本をへてアメリカに亡命します。1915年に袁世凱が皇帝を称し第三革命が始まると日本経由で上海に戻りますがその年の10月に病死します。(ウイキペディア参照)

写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。

「革命いまだ成らず」
<「黄興年賦」 毛注青>
 黄興について書かれた本を探したのですが、日本語では孫文や宋教仁関連の本に少し書かれているのみで、年譜に関しては虚無でした。仕方がないので中国語の本を探しました。上記の「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行も書かれていましたが、その他に2冊、「日本の古本屋」で見つけることができました(Amazonでは無)。その一つが「黄興年譜」です。この年譜はよくできているのですが、使われている漢字が簡体字(simplified)で、私にはほとんど読めません。「孫中山年譜長編 上冊」は繁体字(traditional)で、日本語の漢字に近く、日本語の漢字に置き換えやすいのです。因みに中国人は全く区別なく読めるそうです。一番困るのは、日本語の漢字に置き換えられないことです。中国語で書かれた大正2年(1913)8月8日に門司に到着したところの年譜です。大体の意味は分かりますが日本語に置き換えるのには中国語の簡体字を理解していないと無理です。

写真は湖南人民出版社版、毛注青の「黄興年賦」です。出版は1980年10月発行です。中国の本の奥付は表紙の裏側付近に書かれているのが普通です。

「黄興在日活動秘録」
<「黄興在日活動秘録」、兪辛焞著>
 「日本の古本屋」で見つけることができたもう一冊は兪辛焞著「黄興在日活動秘録」です。この本は日本の外務省外交史料館の外務省記録の中で黄興に関する項目を調べてすべてを網羅した資料で、中国語で出版されています(一般に公開された資料を使用)。この資料の使い道は、抜けがないか調べるのに適しています。以前も書きましたが、日本の外務省外交史料館の資料は検索キーが正確に付いていないため、探すのに苦労します。ですから抜けがないか調べるのに適しているのです。ただ、こちらも漢字が簡体字(simplified)で、私にはほとんど読めません。「黄興在日活動秘録」に中国語で記載されている8月9日付の山口県知事、牧野外務大臣宛の秘報告書です。こちらは外務省外交史料館の外務省記録に日本語の資料がありますのでそちらを探せばよいわけです。

 「外務省記録」より
 「 内務省
二年八月九日前十時三十五分発
黄興ハ今朝二時雲海丸ニテ六連島に来リ検疫ヲ終エ下関ニ上陸観瀾閣ニテ休憩中、一行ハ本人ノ外従者一名ニテ極メテ秘密ニ行動セリ今後ノ行動未定 」

 となります。見比べてください。

写真は「黄興在日活動秘録」、兪辛焞著です。1995年12月発行で、発行所は天津人民出版社です。こういう本が古本でも日本で購入できるのも面白いです。

「今城館跡」
<~田錦町一丁目一番地 錦城館>
 黄興は辛亥革命後の袁世凱に対する第二革命で敗れ、陳慶明(親類)、黄凱元(黄興の参謀長)の二名を伴って、日本経由で米国に亡命しようとし、香港で三井物産の雲海丸に乗船し下関に到着します。この時、袁世凱は黄興や陳其美他に多額の懸賞金をかけています。このため黄興に対する刺客の心配があり、日本政府は国内での暗殺を禦がなくてはなりませんでした。そのため黄興の行動を常時監視します。又、黄興と同行した二人の内、黄凱元(黄興の参謀長)は先に列車で東京に向います。黄興の東京での安全確認と住居等を探すためとおもわれます。

 牧野外務大臣、山口縣知事宛の報告からです。
「内務大臣、山口縣知事
 大正二年八月十六日
黄興ノ従者黄ト元(ママ)ハ本日午前九時五十分下ノ関発上京、神田區錦町一丁目一番地錦城館ニ赴リ筈用向ハ支那人ノ意向及刺客視察ノ為ナリ

乙秘第1174號 八月十七日
支那人来着ノ件
昨十六日山口縣知事ヨリ内、外両相ニ電報アリタル黄興ノ従者黄凱元(変名田中龍)ハ本日午后二時卅分神田区錦町一ノ一、今城館ニ来着セリ」

 黄興ノ従者 黄凱元(山口縣の資料と字が一字違います、黄塏元と書いた資料もあります)が乗車した列車は列車番号5番、午前9時50分発 急行 新橋行です。新橋着は翌日7日の午後1時50分となります。28時間掛っています(大正元年の時刻表による)。「外務省記録」では17日午後2時30分今城館到着となっていますので、新橋から40分掛っているようで時間的には合っています。

 黄興の日本での面倒は前田九二四郎が見ていたとおもわれますので、この時も黄凱元は前田九二四郎に事前に合うために先に出発したものとおもわれます。黄興は黄凱元から連絡が来るまで東京には入らなかったとおもわれます。

 前田九二四郎は夏目漱石の「草枕」のヒロイン那美さんのモデルとされる前田ツナの四男で、姉前田ツチの夫は宮崎滔天となります。宮崎滔天と前田九二四郎は孫文、黄興を一緒になって支援していたわけです。

写真の正面付近に今城館がありました。”錦城館”、”金城館”と書かれた資料が見受けられますが、”今城館”が正しい表記です。当時の住所表記で神田區錦町一丁目一番地、関東大震災後も再建されており、昭和初期の住居表示では神田区錦町一丁目25番地となっています(関東大震災後番地が変っています)。この旅館には当時の中国亡命者が数多く宿泊しています。

「旅館信濃屋支店跡」
<東京市芝區琴平町拾三番地信濃屋支店>
 黄興は大正2年(1913)8月20日、日本郵船の静岡丸で下関から横浜に向います。静岡丸は途中、~戸、四日市、静岡に寄港してから横浜に向ったため、横浜着は26日になります。横浜では孫文と同じく小舟で富岡の近くの長濱検疫所に上陸し、車で東京の宿泊所にむかいます。

 「外務省記録」より
「神秘第1203號
 大正二年八月廿八日
      神奈川縣知事大島久満次

 外務大臣男爵牧野伸顕殿

   亡命者黄興来着入京ノ件
支那亡命客黄興ハ郵船會社汽船静岡丸ニ窃カニ乗込ミ本月二十日門司出航~戸四日市清水港ヲ経テ二十六日午前八時三十分横濱ニ着岸セリ先之同人ノ横濱上陸并ニ入京方法ニ付キ東京ヨリ代議士古島一雄三井物産會社社員来廰打合セヲ逐ケ其結果第一方法トシテ本船ノ入港ニ先チ港外ノ遙カ沖合ニ於イテ小蒸気船ニ移乗富岡海岸ヨリ上陸自働車ニテ入京セシムル手段ナリシガ本船ハ客船ニシテ而モ入港時ハ午前八時ナルヲ以ツテ検疫所到達以前ニ停船スルハ一般乗客ノ注意ヲ惹キ却ケ危険ナルヲ以ツテ船長トモ打合せノ上本船ハ其於入港セシメ一般乗客ハ直チニ上陸スルニ不均(?)其侭黄興ハ船内一室ニ閉チ込リ夜陰ニ乗ジ富岡海岸ヘ上陸スルノ計画ヲ立テ各々任務ヲ分担セシメ萬遺漏ナキヲ期シタリ当日ハ午后ヨリ天候俄カニ変ジ暴風雨トナリシヲ以テ港務管監督ノ許ニ傳馬船及ビ小蒸気船エハ熟練ノ船夫ヲシテ之レニ當レシ二十七日午前一時窃カニ船側ヨリ傳馬船ニ移シ防波堤外ニ於イテ小蒸気船ニ移乗セシメ(富岡海岸ヨリ上陸ノ豫定ナリシモ劇浪ノ為ニ上陸困難ナルヲ以テ長濱検疫所ニ変更ス)長濱検疫所へ向イ進航シ午前二時着上陸後金澤街道ニ通スル山路ヲ徒歩シ仝所ニ待タセアリタル自働車ニ黄興・三井物産社員石田秀二本縣警部一名計三名同乗シ午前二時四十分出発上京セリ斯クテ自働車ハ途中何事故障ナリ隠レ家ナル東京市芝區琴平町拾三番地信濃屋方ニ着シタルヲ以テ附近ニ降車シ徒歩ニテ同屋ニ入レリ○時午前四時四十分ナリ……」

 上記を簡単に説明すると
 静岡丸は26日午前八時三十分横浜港に着岸、黄興以外の乗客を降ろした後、黄興は翌日の午前一時に静岡丸から伝馬船に乗り防波堤の外で小蒸汽船に乗り換えます。しかし波が高いため当初予定の富岡での上陸がで出来ず、上陸地点を変更して近くの長濱検疫所で上陸します。自動車は富岡で待っているので、富岡まで歩き(1.8Km程)自動車に乗って宿泊場所の東京市芝區琴平町拾三番地信濃屋まで来ています。

写真の正面やや左が東京市芝區琴平町拾三番地信濃屋跡です。手前の道は新しく出来た環状第2号線(通称マッカーサー道路)で「新虎通り」の愛称が付けられています。後側は虎ノ門病院となります。現在の住居表示では東京都港区虎ノ門1丁目2−16〜18附近となります。大正2年版の帝国旅館全集で確認済みです。因みに信濃屋の本店は芝區芝口3-1にありました。

「横浜市本町津久井屋旅館跡」
<横浜市本町津久井屋旅館>
 黄興の家族も同じ時期に日本に亡命しています。8月22日、春日丸で下関に着いています。黄興が下関を静岡丸で出航したのが20日ですから合うことが出来なかったようです。元々は静岡丸で来る予定だったようですが、香港で満員で乗船できず、遅れて春日丸となったようです。

 外務省記録によると、妻、妾、子供三名、従者四名となっています。この従者のうち三名は直ぐに午前十一時発(横浜行)の列車で横浜に向っています。残りの妻、妾、子供三名、従者一名のうち、妻、妾、子供一名は午後七時十分発の列車で黄興が乗船している静岡丸を追いかけています(三井物産社員が一名付き添っています)。残りの子供二名、従者一名は春日丸に残って横浜にむかいます。列車組のその後の記録では、神戸発、8月23日午前七時四十分の列車で新橋に向っています。商社マンがへばりついていますね。やっぱり将来の商売の糧となると見込んでいるのでしょう!


 下関午後7時10分発の列車は列車番号2番 新橋行特別急行列車です。当時特急はこの一本のみで~戸着は翌日23日午前7時31分、新橋着は23日午後8時23分です。(大正元年の時刻表による)

 「外務省記録」より
「秘第131號

  黄興ノ家族来著ノ件

兵庫(貴)縣電報ニ関ル黄興ノ妻子一行(夫人二名小児一名)ハ三井物産會社員一名附添ヒ本日午後八時二十分新橋駅ニ到著シ神奈川(貴)縣ヨリ尾行引継ヲ受ケタルガ先是多数新聞記者等ハ写真器ヲ携シ同停車場ニ其来著ヲ待受ケ居リシ為メ一行ハ下車ヲ見合セ其儘寝台車中ニ潜ミ汽車ヲ山手線大崎駅ニ運轉セシメ同駅ヨリ下車ノ上自働車ニテ十一時三十分築地精養軒ニ入レリ…

 大正二年八月二十三日
     警視総監安楽兼道次
 外務大臣男爵牧野伸顕殿」


 「外務省記録」より
「秘収第1201号ノ内
 大正二年九月二日
     神奈川縣知事大島久満次
 外務大臣男爵牧野伸顕殿

  黄興之子女及従者上京ノ件
八月廿八日付既報黄興ノ子女及従者ハ管下横浜市本町津久井屋旅館ニ滞在中ノ處仝月二十九日午前十時東京ヨリ来訪千仝国人二名ト共ニ仝日午後六時五分横浜駅発列車ニテ上京新橋ヨリ電車ニテ赤坂区溜池ニ至リ洋食ヲナシ更ニ品川駅ニ引返シタル為……」

 大正2年(1913)8月23日午後八時二十分新橋に到着しています。新橋駅には大勢の新聞記者が待ち構えていたため、乗客が下車後、わざわざ列車を大崎駅まで回送して黄興の家族を降ろしています。その日の宿は築地精養軒でした。黄興が東京に着くのは8月27日早朝なので、まだ四日間ほどあることになります。早すぎました。外務省記録によると黄興の家族は8月28日には横浜本町通りの津久井屋旅館に滞在しています。築地精養軒から横浜本町の津久井屋旅館に直ぐに移ったようです。中国人も多い横浜の方が生活しやすかったのだとおもいます。

右上の写真正面が横浜本町通りの津久井屋旅館跡です。当時の住居表示で横浜市本町六丁目74、津久井屋ホテルとなっていました(職業別電話名簿. 東京・横浜 大正12年)。現在の住居表示では横浜市中区本町六丁目52となります。

「芝区高輪南町五三番地」
<芝区高輪南町五三番地>
 黄興とその家族が落ち着く先は芝区高輪南町五三番地の借家となります。此方も前田九二四郎のお膳立てとおもわれます。

 「外務省記録」より
「乙秘第1164号八月廿九日
黄興轉居ノ件
黄興ハ廿八日午后九時卅分芝区高輪南町五十三番地ニ轉居シ家族モ亦昨夜同所ニ移レリ

乙秘第1179号八月卅一日
黄興の動静

同居の者
妻子五人(十二才を筆頭ニ一男三女)及袮姆一人ノ外ニ廣東人ニシテ親戚ノ者ナリト称スル唐燿勲(四十五才)徐恵霖(二十五才)徐振生(二十九才)ノ三名ナリ…」

 黄興、家族とも大正2年(1913)8月28日中に芝区高輪南町五三番地の借家に転居しています。黄興は翌年の大正3年(1914)6月30日に天洋丸で横浜より米国に向うまで、この地を動いていません。

 下関でカウントされた黄興の家族は、”妻、妾、子供三名、従者四名”となっています。東京でのカウントと合いません。

右上の写真左側附近が芝区高輪南町五三番地です。最寄りの駅は品川駅で駅前のウイング高輪WESTとShinagawa Goos(京急EXイン)の間の道を登った突き当たりです。

「雑司ヶ谷字代地3600番地」
<府下豊島郡高田村字巣鴨三六〇〇番地>
 黄興は大正3年(1914)6月30日に天洋丸で横浜より米国に向いますが、その直前に実母を東京に呼び寄せ、実母のために新しい住まいを借りています。心配だったのだとおもいます。

 「外務省記録」より
「乙秘第1059號 六月六日
黄興ノ動静
一.昨五日午前七時二十五分実母出迎トシテ徐恵霖~戸ヘ向ケ出發セリ…

乙秘第1069號 六月八日
黄興ノ動静
一.昨七日午前八時妻子同伴外出府下府下豊島郡田村字巣鴨三六〇〇番地ノ所有家屋ニ生キ二三日間仝皈ニ滞在スル趣キニテ妻子午後五時皈宿セリ…

乙秘第1076號 六月九日
黄興ノ動静

追テ本人実母ノ才田ヨウト変名シ一昨日七日本国ヨリ渡来入京過般府下豊島郡田村字巣鴨三六〇〇〇番地(ママ)ニテ購入シタル家屋ニ在住スル事トナリシニ依リ既報(昨八日乙秘第1069號)如リ本人黄モ一昨七日ヨリ三、四日間ノ豫定ニテ同家屋ニ滞在シ居レリ…」

 大正3年(1914)6月7日に黄興が借りた実母のための新しい住まいは、”府下豊島郡田村字巣鴨三六〇〇番地(三六〇〇〇番地とも)”と書かれています。この住居表示の場所はありませんでした。巣鴨に3600番地は無く、”高田村大字雑司ヶ谷字代地3600番地”とおもわれます。この場所は宮崎滔天の家で、黄興に貸したものとおもわれます。

 黄興はこの後の大正3年(1914)6月30日に横浜より天洋丸で米国に向います。戻ってくるのは大正5年(1916)5月9日となります。

右上の写真左側附近が高田村大字雑司ヶ谷字代地3600番地です。この道を少し歩いた先に孫文や、黄興を支援した宮崎滔天の長男 宮崎龍介が住んだ家があります。白蓮の旦那さんですね!



旧神田區(現 千代田区)附近地図



平河町、国会議事堂、銀座附近地図



高輪、品川附近地図



横浜本町附近地図



黄興、孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
- 11月12日 孫文、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1874 大久保利通暗殺 0 10月25日 黄興、湖南善化(現長沙)に生まれる
明治21年 1891 大津事件
露仏同盟
17 秋 黄興、廖淡と結婚
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 18 黄興、善化県試に落第
10月 黄興、長男一欧誕生
明治26年 1893 大本営条例公布 19 黄興、城南書院に入学
明治29年 1896 アテネ五輪開催 22 10月 黄興、長女振誕生
明治31年 1898 ロシアが旅順と大連を占領する。翌年租借
九竜租借条約が締結
24 黄興、両湖書院に入る
明治33年 1900 列国公使団が義和団事件について12箇条の講和条件を清国に要求 34 秋 黄興、日本に亡命
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 27 6月 黄興、二女一中誕生
明治35年 1902 日英同盟 28 6月 黄興、日本に留学
明治37年 1904 日露戦争 30 10月 黄興、長沙で挙兵したが失敗、日本に亡命
明治38年 1905 ポーツマス條約 31 夏 黄興、孫文、中国同盟会を結成
11月 「民報」東京で発行
明治40年 1907 義務教育6年制 33 1月 黄興、香港に向う
2月 黄興、東京に戻る
4月 黄興、香港に向う
5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
34 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
夏 香港から東京に戻る
10月 「民報」発禁処分
11月上旬 宮崎虎藏の寓所に隠れる
11月下 光緒帝、西太后死去
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 35 秋 広州新軍の起義
明治43年 1910 日韓併合 36 1月 香港に向う
2月 庚戌新軍起義
4月 東京に戻る
明治44年 1911 辛亥革命 37 1月 香港に向う
4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
38 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任、黄興は陸軍総長兼参謀総長になる
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
8月 同盟会は国民党に改組
10月 黄は故郷長沙に帰る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 39 3月 宋教仁、上海で暗殺さる
7月 南京で挙兵(第二革命)失敗
8月 孫文、黄興日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 40 6月 第一次世界大戦始まる
6月 黄興米国に向う
7月 孫文が日本で、中華革命党を組織
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 41 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 42 5月 黄興米国から日本に戻る
6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
7月 黄興上海に戻る
10月 黄興、上海で病気死去
大正6年 1917 ロシア革命 - 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 - 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 - 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 - 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 3月 孫文死去