<孫中山年譜長編 中華書局>
今回も「孫中山年譜長編 上冊」
を参考にします。孫文の年譜が中心ですが黄興についてもかなりの量が書かれています。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)8月4日、黄興が三井物産の船で香港から日本に脱出し、8日、下関の到着する場面です。
「…8月9日…
… △ 黄興抵門司港,旋赴下關市。
是日晨,黄興偕其親属乗第四海運丸抵門司港,本準備同在営地上岸之先生會見後再往東京。但經三井分公司和黄興本人惧重考慮,決定暫租寓下關市外涜町天野布荘之別墅。(日本外務省檔案,1913年8月9日福岡縣知事南弘致外務大臣男爵牧野伸顯閣下,高秘第2772號,王振鎖譯,兪辛焞校)…」
【黄 興(こう こう)1874年10月25日-1916年10月31日】
黄 興(こう こう)は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称されます。字は厪吾。湖南省長沙の名門出身。張之洞の両湖書院に学び、民族主義を唱道し革命を志すようになります。1899年に唐才常が漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、湖南から逃亡します。1901年に来日し東京で弘文学院に入り、章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進めます。1903年に宋教仁・陳天華・劉揆一と秘密結社・華興会を組織しその総理となります。広西義軍と協力し革命計画実行に邁進しますが、事前に両湖総督・張之洞に探知され上海に逃亡します。そこで広西巡撫・王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕されますが、数日で釈放され東京に亡命します。1905年に孫文と結び、華興会は孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会と大同団結を遂げ、孫文を首領とする中国同盟会を組織します。1907年に広東省欽州・廉州・潮州や広西省鎮南関で、1908年には雲南省河口で挙兵しますがいずれも失敗し、東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、中国同盟会の機関紙である民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺います。1911年4月23日、同盟會組織の第三次広州起義では、趙聲が総指揮、黄興が副総指揮となりますが清軍の反撃によって市街戦となり失敗し、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出します(黄花崗起義)。黄興は右手を負傷し、指も2つ失っています。その後広州へ脱出し、河南の女性革命家・徐宗漢(中国語版)の家に匿われ香港の医療施設へ徐宗漢に運び込まれます。そこで外科手術に必要な身内のサインを求められた際に、徐宗漢が黄興の妻としてサインをしています。又、同じ年に武昌起義が勃発し黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくります。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となり、南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握しています。1912年に宣統帝が退位し南北統一政府が組織されるさいに、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していましたが、これもまもなく辞めて上海に滞在するようになります。1913年3月の第二革命には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしますが敗れ、日本をへてアメリカに亡命します。1915年に袁世凱が皇帝を称し第三革命が始まると日本経由で上海に戻りますがその年の10月に病死します。(ウイキペディア参照)
★写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。