●黄興を歩く 下関編
    初版2014年10月11日  <V01L02>  観瀾閣の写真を入替 暫定版

 今回は孫文と並んで辛亥革命の「革命三尊」の一人である黄興の下関を歩きます。第二革命に敗れた後大正2年(1913)8月、日本を経由して米国に向かうため、香港から三井物産の船で下関に到着します。袁世凱の刺客から逃れるため、下関でも隠密に行動します。


「孫中山年譜長編」
<孫中山年譜長編 中華書局(東京篇と同じ)>
 今回も「孫中山年譜長編 上冊」 を参考にします。孫文の年譜が中心ですが黄興についてもかなりの量が書かれています。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)8月4日、黄興が三井物産の船で香港から日本に脱出し、8日、下関の到着する場面です。
「…8月9日…
…  △ 黄興抵門司港,旋赴下關市。
  是日晨,黄興偕其親属乗第四海運丸抵門司港,本準備同在営地上岸之先生會見後再往東京。但經三井分公司和黄興本人惧重考慮,決定暫租寓下關市外涜町天野布荘之別墅。(日本外務省檔案,1913年8月9日福岡縣知事南弘致外務大臣男爵牧野伸顯閣下,高秘第2772號,王振鎖譯,兪辛焞校)…」


【黄 興(こう こう)1874年10月25日-1916年10月31日】
黄 興(こう こう)は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称されます。字は厪吾。湖南省長沙の名門出身。張之洞の両湖書院に学び、民族主義を唱道し革命を志すようになります。1899年に唐才常が漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、湖南から逃亡します。1901年に来日し東京で弘文学院に入り、章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進めます。1903年に宋教仁・陳天華・劉揆一と秘密結社・華興会を組織しその総理となります。広西義軍と協力し革命計画実行に邁進しますが、事前に両湖総督・張之洞に探知され上海に逃亡します。そこで広西巡撫・王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕されますが、数日で釈放され東京に亡命します。1905年に孫文と結び、華興会は孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会と大同団結を遂げ、孫文を首領とする中国同盟会を組織します。1907年に広東省欽州・廉州・潮州や広西省鎮南関で、1908年には雲南省河口で挙兵しますがいずれも失敗し、東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、中国同盟会の機関紙である民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺います。1911年4月23日、同盟會組織の第三次広州起義では、趙聲が総指揮、黄興が副総指揮となりますが清軍の反撃によって市街戦となり失敗し、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出します(黄花崗起義)。黄興は右手を負傷し、指も2つ失っています。その後広州へ脱出し、河南の女性革命家・徐宗漢(中国語版)の家に匿われ香港の医療施設へ徐宗漢に運び込まれます。そこで外科手術に必要な身内のサインを求められた際に、徐宗漢が黄興の妻としてサインをしています。又、同じ年に武昌起義が勃発し黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくります。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となり、南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握しています。1912年に宣統帝が退位し南北統一政府が組織されるさいに、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していましたが、これもまもなく辞めて上海に滞在するようになります。1913年3月の第二革命には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしますが敗れ、日本をへてアメリカに亡命します。1915年に袁世凱が皇帝を称し第三革命が始まると日本経由で上海に戻りますがその年の10月に病死します。(ウイキペディア参照)

写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。

「革命いまだ成らず」
<「黄興年賦」 毛注青(東京篇と同じ)>
 黄興について書かれた本を探したのですが、日本語では孫文や宋教仁関連の本に少し書かれているのみで、年譜に関しては虚無でした。仕方がないので中国語の本を探しました。上記の「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行も書かれていましたが、その他に2冊、「日本の古本屋」で見つけることができました(Amazonでは無)。その一つが「黄興年譜」です。この年譜はよくできているのですが、使われている漢字が簡体字(simplified)で、私にはほとんど読めません。「孫中山年譜長編 上冊」は繁体字(traditional)で、日本語の漢字に近く、日本語の漢字に置き換えやすいのです。因みに中国人は全く区別なく読めるそうです。一番困るのは、日本語の漢字に置き換えられないことです。中国語で書かれた大正2年(1913)8月8日に門司に到着したところの年譜です。大体の意味は分かりますが日本語に置き換えるのには中国語の簡体字を理解していないと無理です。

写真は湖南人民出版社版、毛注青の「黄興年賦」です。出版は1980年10月発行です。中国の本の奥付は表紙の裏側付近に書かれているのが普通です。

「黄興在日活動秘録」
<「黄興在日活動秘録」、兪辛焞著(東京篇と同じ)>
 「日本の古本屋」で見つけることができたもう一冊は兪辛焞著「黄興在日活動秘録」です。この本は日本の外務省外交史料館の外務省記録の中で黄興に関する項目を調べてすべてを網羅した資料で、中国語で出版されています(一般に公開された資料を使用)。この資料の使い道は、抜けがないか調べるのに適しています。以前も書きましたが、日本の外務省外交史料館の資料は検索キーが正確に付いていないため、探すのに苦労します。ですから抜けがないか調べるのに適しているのです。ただ、こちらも漢字が簡体字(simplified)で、私にはほとんど読めません。「黄興在日活動秘録」に中国語で記載されている8月9日付の山口県知事、牧野外務大臣宛の秘報告書です。こちらは外務省外交史料館の外務省記録に日本語の資料がありますのでそちらを探せばよいわけです。

 「外務省記録」より
 「 内務省
二年八月九日前十時三十五分発
黄興ハ今朝二時雲海丸ニテ六連島に来リ検疫ヲ終エ下関ニ上陸観瀾閣ニテ休憩中、一行ハ本人ノ外従者一名ニテ極メテ秘密ニ行動セリ今後ノ行動未定 」

 となります。見比べてください。

写真は「黄興在日活動秘録」、兪辛焞著です。1995年12月発行で、発行所は天津人民出版社です。こういう本が古本でも日本で購入できるのも面白いです。

「六連島」
<六連島>
 黄興は辛亥革命後の袁世凱に対する第二革命で敗れ、陳慶明(親類)、黄凱元(黄興の参謀長)の二名を伴って、日本経由で米国に亡命しようとし、香港で三井物産の雲海丸に乗船し、大正2年(1913)8月8日、下関に到着します。三井物産が孫文、黄興を支援していた為でした。

 「外務省記録」より。
「内務省
二年八月九日前十時三十五分発
黄興ハ今朝二時雲海丸ニテ六連島ニ来リ検疫ヲ終エ下関ニ上陸観瀾閣ニテ休憩中、一行ハ本人ノ外従者一名ニテ極メテ秘密ニ行動セリ今後ノ行動未定」

 、大正2年(1913)7月30日、南京から香港に移り、8月4日、三井物産の石炭船第四雲海丸で門司に入港、六連島で検疫という経路を辿ったようです。

写真が現在の六連島です。下関港入港時の検疫錨地となり、検疫所、税関等の施設があったそうです。戦後も施設は存続していましたが現在は無くなっています。場所については地図を参照してください。

「観瀾閣」
<小門海峡観瀾閣(しょうもんかいきょうかんらんかく)>
 2016年1月22日 絵葉書を入替
 大正2年(1913)8月8日、下関の六連島に到着した黄興一行は、小門海峡にある観瀾閣に入ります。今で言う料理旅館だったようです。六連島からは近く、一寸した休憩所として利用したのだとおもわれます。

 「外務省記録」より
「 大正二年八月九日
   山口縣知事 馬淵鋭太カ
 外務大臣男爵牧野伸顯殿

不取敢電報及報告置候黄興ハ本日午前二時雲海丸ニテ六連島ニ来リ未明ヨリ検疫ヲ終エ三井物産會社門司支店ノ小蒸汽船ニ乗船シテ下関市小門ニ上陸観瀾閣ニ入レリ本人ハ約壹週間滞在ノ都合ニ有之候廌観瀾閣ハ避暑客ノ出入多ク衆目ヲ避ケルニ便ナラザルヨリ對シ種々斡旋ノ労ヲ執レル三井物産會社門司支店ニ於テハ……」

 観瀾閣は夏の避暑地としては有名だったらしく、かなりの人の出入りがあったようです。着ていた服等を見れば直ぐに黄興だとばれてしまいます。

写真は小門海峡にあった観瀾閣の繪端書です。古くて綺麗ではありません。現在は近くに造船所ができて、観瀾閣は無くなっていました。観瀾閣跡は駐車場になっていましたが門柱が残っており、門柱は昔のままかもしれません。

「外濱町49」
<下関市外浜町天野亀治郎別荘>
 人の出入りの多い小門海峡の観瀾閣には長居は出来ません。袁世凱の刺客の眼か光っている可能性があるからです。面倒を見なければならない三井物産下関支店は黄興が宿泊できる新たな場所を探さなければなりませんでした。

 「外務省記録」より
「 大正二年八月九日
   山口縣知事 馬淵鋭太カ
 外務大臣男爵牧野伸顯殿

不取敢電報及報告置候黄興ハ本日午前二時雲海丸ニテ六連島ニ来リ未明ヨリ検疫ヲ終エ三井物産會社門司支店ノ小蒸汽船ニ乗船シテ下関市小門ニ上陸観瀾閣ニ入レリ本人は約壹週間滞在ノ都合ニ有之候廌観瀾閣ハ避暑客ノ出入多ク衆目ヲ避ケルニ便ナラザルヨリ對シ種々斡旋ノ労ヲ執レル三井物産會社門司支店ニ於テハ…

下関市外濱町ニ建設セル同市呉服店天野亀治郎ノ別荘を借受ケ本日後午後一時同所ニ轉宿シタリ…

追テ三井物産門司支店ニ於テハ本人ノ命ニ係リ先ヅ現金壹萬圓ヲ交付シ而シテ新調ノ日本服、帽子、眼鏡等準備シタル趣ニ有リ候…」

 8日朝早く下関に着いて、検疫後、小門海峡の観瀾閣に入ります。推定ですが午前9時過ぎには入っていたとおもわれます。そして下関市外濱町の呉服店天野亀治郎方の別荘を借ります。午後一時には別荘に入っていますからすぐに移動したようです。

 ”呉服店天野亀治郎方”については当時の電話帳である「九州電話実業案内(大正3年)」に”ヤマセ 天野亀治郎 東南部町58”と記載がありました。ただ、この記載場所はお店の場所とおもわれ、別荘ではありません。この”東南部町58”は地番では見つからず、建物番号では下関市役所の南東、道路を挟んだ反対側附近となります(確認がとれていません)。

 もう一つの「外務省記録」より
「 大正二年八月十日
   
 牧野外務大臣 山口縣知事

管下関門日々新聞社門司通信員ハ門司ニ於テ黄興ガ下ノ関ニ上陸シタルヲ探知シ本社ニ通信セルヨリ本社ニ於テハ其下ノ関市内ニ於ケル所在ヲ探索シ居ルニ(ニ語不明)テ三井物産門司支店員河原林ハ黄興ノ居所ハ自宅ト隣接セル為発見セラルルノ虞アリトシ下ノ関ニ於テ他ノ適當ナル家屋ヲ詮索中…」

 黄興の宿泊場所をどのようにして見つけたのかとおもったら、三井物産門司支店員の河原林は自宅の隣に見つけていました。推定ですが、借り主を知っていたか、自身の自宅と同じ借り主だったのではないでしょうか。三井物産門司支店員の河原林の自宅については、当時の電話帳である「九州電話実業案内(大正3年)」にありました。”三井物産會社員 河原林慶一郎 外濱町49”です。ですから、この隣となるわけですが、ブルーマップ等を見ても”外濱町49”の場所がなかなか分かりませんでした。下関市立図書館で古い地番の書いてある地図を見せて頂き、ようやく分りました。

右上の写真の階段を上がった先右側が”外濱町49”となります。ですから黄興が宿泊した場所は左右どちらかかになります。この階段の上の道は「李鴻章道」と言い、日清戦争後の講和条約交渉で李鴻章が交渉場所に通った道だそうです。この階段をもっと登った先には「藤原義江記念館」があります。

「長府町中之町」
<下長府町小澤富熊方>
 黄興の宿泊場所が三井物産門司支店員 河原林の自宅の隣では直ぐにばれそうなので、新しい宿泊場所を探します。

 「外務省記録」より
「 大正二年八月十ニ日
   
 牧野外務大臣 山口縣知事

三井物産門司支店員河原林ハ適当ナル家屋詮索中ノ縣下豊浦郡長府町小澤富熊方ヲ借受ケ本日午後黄興ヲ轉居セシムルトナレリ黄興ハ本月十七日頃マドェ当地滞在の豫定ナリ」

 どうして探したかは不明ですが、外濱町からは少し遠い豊浦郡長府町の小澤富熊方を借りることができたようです。

 当時、長府町は下関市ではないため、前項の「九州電話実業案内(大正3年)」には記載がありませんでした。商工名鑑を探したところ「関門釜幡若倉実業名鑑(大正7年)」に記載がありました。”長府町中之町 履物製造販売 小澤商店”で、フルネームではありませんがほぼ間違いないとおもいます。残念ながら地番の記載がありませんでした。その後の大正後期、昭和初期の電話番号簿、商工名鑑、商工地図等を調べましたが、”小澤”の記載がありませんでした。

右上の写真附近が当時の長府町中之町です。写真の道は山陽道(旧9号線)です。この附近に小澤商店があったものとおもわれます。

「静岡丸」
<静岡丸>
 黄興は三井物産社員 河原林の手配で大正2年(1913)8月20日早朝、上海から到着した静岡丸に乗込みます。結局、黄興は8日から20日まで13日間下関にいたことになります。家族の到着を待っていたのかなとおもいます。

大正2年(1913)8月 8日、下関到着、観瀾閣に入る、午後別荘に移る
大正2年(1913)8月12日、下長府町小澤富熊方に移る
大正2年(1913)8月20日、静岡丸に乗船


 「外務省記録」より
「 大正二年八月十八日
   
 牧野外務大臣 山口縣知事

昨十七日夜黄興ノ招ニ依リ河原林ハ同人ヲ訪ヒ打合ノ結果黄興ハ本月二十日門司出航ノ静岡丸ニテ東上スルコトニナレリ本人門司ヨリノ乗船ハ危険ナレバ長府沖合ニテ小蒸汽船ヨリ窃カニ本船ニ乗込ム都合ナルモ本船ハ上海経由ニ付、取調ノ上若シ船内危険ノ度アレバ之ヲ見合セ更ニ「トロール」船ヲ仕立テテ神戸ニ至リ同所ヨリ横浜行汽船ニ乗込マシメント計画ナリ静岡丸ニハ黄興ノ家族及随行員両三名支那ヨリ乗込ミ居ル趣ナリ」

 最初の計画では静岡丸は上海経由のため、袁世凱の刺客が乗船している可能性があり、そのためトロール船を仕立てて神戸まで行く計画を立てたようです。ただ、静岡丸には黄興の家族と随行員が香港より乗船しているとのことです

 もう少し後の「外務省記録」より
「 大正二年八月廿一日
  山口縣知事 馬淵鋭太カ
 外務大臣男爵牧野伸顯殿

黄興縣下出発ノ際ニ於ケル状況左記ノ通リ及報告候他
      左記
一.本日十九日静岡丸ノ門司ニ入港スルヤ河原林ハ直ニ同船内ヲ取調ベ黄興ヲ乗船セシムルニモ危険ノ虞ナシト認メ小蒸汽ヲ借入レ長府町外浦ニ回航シ外浦ヨリ深更密カツ本船ニ移乗スルコトトシ其上黄興ニ通セシヨリ黄興ハ出発準備ヲ整ヘエ待居リ本月二十日午前二時四十分宿所ヲ発シ同三時小蒸汽船ニ乗込午前四時本船ニ移乗シタリ…

 黄興ノ家族二名静岡丸ニテ渡来ノ通報ヲ受ケ居リタルモ乗客満員ノ為メ家族ハ乗船ヲ拒絶セシ後ノ便船ニテ渡来スル由ニ有リ候
 黄興ハ外見ヲ避ケル為メ岡本久太郎ト偽名シ且ツ名刺ヲ携エ羽織袴トパナマ帽ヲ冠リ下駄ヲ穿キ鰐革製手提鞄ヲ携ヘ一見田舎紳士風ノ装ヒ居ナリ…」

 黄興の家族は香港で静岡丸には乗船できず、後の春日丸で8月22日下関に着いています。

 黄興自身は三井物産社員 河原林の手配通り、20日午前二時、豊浦郡長府町の小澤富熊方を出発、同三時に小蒸汽船に乗船、午前四時、静岡丸に移乗して、横浜に向かいます。凄い隠密行動です。

右上の写真は黄興が乗船した日本郵船の静岡丸です。煙の向きがおかしいのでネガの表裏を間違えたかなとおもったのですが、そうでもないようです。



下関附近地図



黄興、孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
- 11月12日 孫文、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1874 大久保利通暗殺 0 10月25日 黄興、湖南善化(現長沙)に生まれる
明治21年 1891 大津事件
露仏同盟
17 秋 黄興、廖淡と結婚
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 18 黄興、善化県試に落第
10月 黄興、長男一欧誕生
明治26年 1893 大本営条例公布 19 黄興、城南書院に入学
明治29年 1896 アテネ五輪開催 22 10月 黄興、長女振誕生
明治31年 1898 ロシアが旅順と大連を占領する。翌年租借
九竜租借条約が締結
24 黄興、両湖書院に入る
明治33年 1900 列国公使団が義和団事件について12箇条の講和条件を清国に要求 34 秋 黄興、日本に亡命
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 27 6月 黄興、二女一中誕生
明治35年 1902 日英同盟 28 6月 黄興、日本に留学
明治37年 1904 日露戦争 30 10月 黄興、長沙で挙兵したが失敗、日本に亡命
明治38年 1905 ポーツマス條約 31 夏 黄興、孫文、中国同盟会を結成
11月 「民報」東京で発行
明治40年 1907 義務教育6年制 33 1月 黄興、香港に向う
2月 黄興、東京に戻る
4月 黄興、香港に向う
5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
34 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
夏 香港から東京に戻る
10月 「民報」発禁処分
11月上旬 宮崎虎藏の寓所に隠れる
11月下 光緒帝、西太后死去
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 35 秋 広州新軍の起義
明治43年 1910 日韓併合 36 1月 香港に向う
2月 庚戌新軍起義
4月 東京に戻る
明治44年 1911 辛亥革命 37 1月 香港に向う
4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
38 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任、黄興は陸軍総長兼参謀総長になる
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
8月 同盟会は国民党に改組
10月 黄は故郷長沙に帰る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 39 3月 宋教仁、上海で暗殺さる
7月 南京で挙兵(第二革命)失敗
8月 孫文、黄興日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 40 6月 第一次世界大戦始まる
6月 黄興米国に向う
7月 孫文が日本で、中華革命党を組織
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 41 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 42 5月 黄興米国から日本に戻る
6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
7月 黄興上海に戻る
10月 黄興、上海で病気死去
大正6年 1917 ロシア革命 - 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 - 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 - 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 - 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 3月 孫文死去