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●小林秀雄と青山二郎の遊び場所 -浅草界隈-
    初版2008年12月27日 <V01L01> 

 今週は「小林秀雄と青山二郎の遊び場所」の二回目、浅草編です。戦前は新橋、銀座界隈だけではなく、向島や浅草も一流の遊び場だったようです。戦後の浅草は一流というより下町という雰囲気になってしまいましたが、まだまだ楽しく遊ばしてくれる場所です。


「厳島閑談」
<出雲橋界隈(厳島閑談) 河上徹太郎>
 小林秀雄、青山二郎、大岡昇平、河上徹太郎、永井龍男らのグループ(青山学院?)は物凄いですね。このエネルギーは何処からでているのでしょうか!皆で切磋琢磨して、レベルアップしていったのだとおもいますが、その切磋琢磨に耐えられるメンバーなんだとおもいます。今回は河上徹太郎が書いた「厳島閑談」の中にある「出雲橋界隈」を参考にしました。上記のメンバーが同じようなことを書いているのですが、それぞれ個性があって面白いです。古本しかありませんが、是非、一読することを薦めます。
「…この青山二郎、小林秀雄、永井龍男のトリオがまたわれわれのグループに大事な色彩を与へてゐるんですよ。三人とも江戸ッ子だ。簡単にいへば江戸ッ子の感性が知性になったといったものかな。さういへば久保田、長谷川両宗匠も江戸ッ子だ。青山といふのは一ノ橋に親爺が住んでゐて、その裏に借家を三軒建てたもんで、その一軒に青山二郎が住み、その隣に永井龍男が住んでゐた。そこへ小林がしょっちゅう入り浸ってゐたりして、その一ノ橋も思ひ出深い所ですね。その当時青山は武原はんさんと結婚してゐましてね。武原はんといふ人は目から鼻へ抜けるやうに気が利く人ですから、よくぼくたちに飲ませてくれたもんですよ、いろいろ工面してね。彼自身は酒があまり好きでもないし、強くもなかったけど、飲み上手でしたね。ぼくみたいに、すぐ酔っぱらったりはしなかった(笑)。そのかはり、まあ、辛辣(しんらつ)な奴でね、頭ごなしにやっつける。それは小林、青山、永井、三人ともみんなさうでしたね。なにしろ彼らのソレを逃げることはできないんだな。何かいふと、もう頭ごなしにやっつけてくる、これはいけねェと思ってこっちへ逃げると、こっちからもやっつけてくる。しかし、必ず一ヶ所は逃げ道を残しておくんです。だからほんとの不人情ぢやない。ぼくとか大岡昇平なんかはこの三人によく鍛へられたもんですよ。一ヶ所に逃げ道を残しておくといふ絡みにね。今日出海なんてのは、この三人の絡みがまづ嫌ひだつたな。今日出海も酒はみんなに鍛へられてだんだん飲めるやうになりましたけど、はじめは全然飲めない人でしたよ。…」
 青山二郎が武原はんさんと結婚して一の橋に住んでいた頃の話は青山学院の全員が書いています。一番生き生きしていた頃ではなかったのでしょうか!!

左上の写真は河上徹太郎が書いた「厳島閑談」、金羊社版です。河上徹太郎の文章は大岡昇平、小林秀雄などと比べて難しいですね。斜めに読み飛ばす事ができません。一行一行読んでいかないとだめです。若い人には難しいかもしれません。



小林秀雄の昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
23 4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
9月 長谷川泰子に出会う
10月 大島に旅行後、泉橋病院に入院
11月 富永太郎死去
11月 杉並町天沼で長谷川泰子と同棲
大正15年
昭和元年
1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
24 鎌倉町長谷大仏前に転居
逗子新宿にも一時住む
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
26 2月 中野町谷戸に転居
3月 東京帝国大学卒業
5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚
昭和4年 1929 世界大恐慌 27 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む
9月 「改造」の懸賞論文で「様々なる意匠」が第二席となる
(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)
昭和6年 1931 満州事変 29 11月頃 母と鎌倉町佐介通二〇八番地の一軒家に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
30 4月 明治大学文芸科の講師となる
7月頃 鎌倉町雪ノ下四一三番地に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31 5月頃 鎌倉町扇ヶ谷三九一番地に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 32 5月6日 森喜代美と結婚し鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 35 2月 中原中也鎌倉町扇ヶ谷(寿福寺境内)に転居
10月 中原中也死去



青山二郎の昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚



「老松跡」
待合 老松(馬道)>
 小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎が良く通った待合は、芝浦の「小竹」と浅草の「老松」です。前回は「小竹」を紹介しましたので、今回は浅草馬道の「老松」を紹介します。野々上慶一の「思い出の小林秀雄」から引用します。
「…忘れ難いのは、浅草馬道の花街に「老松」という待合があったことです。この家は、当時若かった青山二郎さん、小林さん、河上徹太郎さん、今日出海さん、それに深田久禰さん、大岡昇平さん、中原中也さんといった気鋭の面々のいきつけで、時に久保田万太郎さんなんかも顔を見せたりで、私は小林さんに連れられて、はじめてこの待合を知りました。八畳のお座敷に、小部屋二つの小さな安待合でしたが、お座敷に魯山人の戯筆の金屏風があったりして、いろいろの人が顧客だったようです。女将は「おはツつぁん」といい、商売柄にしてはひどく野暮ったい女でしたが、底抜けに近いお人好しでした。そして私は、すっかりお馴染みになりまして、詔間や芸者をあげて、お座敷で飲んで騒ぐことをおぼえました。…」
 この「老松」については浅草馬道にあるということが分かっているだけで、場所がなかなか特定できませんでした。当時の花街の本を見ても書かれていませんでした。ただ、野々上慶一の「思い出の小林秀雄」の中に、「老松」の隣が蕎麦屋の「萬盛庵」であったと書かれていましたので、この「萬盛庵」を探しました。
「…それから待合「老松」の隣りが「萬盛庵」という名代のそばやでした。この店のことは、川端康成さんの小説『浅草紅団』 のなかに、実名でたしか出ています。また沢村貞子さんの『私の浅草』 のなかの、「萬盛庵物語」に詳しく書かれています。(これはすぐれた一篇のドラマです。そして当時の女将は、現在九州小倉でそば屋「おく山」を経営している末子の許で、高齢ながら健在です。)この店のざるそばは逸品で、また名物のそばぜんざいなど、なつかしく思い出されます。といってもそばぜんざいは、われら呑み助はあまり口にしたことはなく、この方は下戸の伊集院さんと、流連している夫君を迎えに来られた河上綾夫人が、品よくもっぱら召上っていました。…」
 この「萬盛庵」は浅草で有名な蕎麦屋だったそうで、関東大震災前は、浅草神社(三社さま)の裏手に大きなお店がありました。震災後は土地問題で揉めて、馬道二丁目15−1に移転します。沢村貞子の「私の浅草」にその辺りの事柄が詳細に書かれています。戦争前に馬道のお店は無くなります。御徒町にある「萬盛庵」はその時に暖簾分けしたお店ではないかとおもいます(当時の電話番号簿を見ると、戦争前には馬道のお店は既に無く、都内に「萬盛庵」と名乗るお店が幾つか出来ていました)。

写真正面の一画に「老松」がありました。上記にも書きましたが、「老松」の場所が分かったわけではなくて、「萬盛庵」の場所が馬道二丁目15−1と分かって、その隣に「老松」がある筈であるということです。ただ、馬道二丁目15−1は一区画全ての地番となっており、詳細の場所は不明です。又、野々上慶一が書いた”隣り”が”直ぐ隣り”なのか、道を挟んだ”隣り”なのかも分かりませんので、あくまでも推定とさせて頂きます。

「美家古寿司」
浅草 美家古寿司>
 小林秀雄は粋ですね。着ている物も、持っている物も、食べている物も全て一流です。銘酒屋の女に持っていくお寿司も一流になるわけです。
「…いつだったか、小林さんと「大繁」で飲んでいまして、私はふとここのところを思い出したのです。そして、小林さんが向島の銘酒屋の女に、つぶれはしないかと心配しながら持って行った穴子のお鯖は、どこの鮨屋なのか、ちょっときいてみたくなったのです。変なことをきくなァ、と自分でも思ったのですが、やはり酒が相当入っていたせいなのでしょう。
 小林さんは私の質問に、妙な顔をしましたが、それでも考える風に、「ミ・ヤ・コだったかな」と呟くようにいいました。「ミヤコ、あァ、あの観音さまの傍の美家古寿司 ── 」 「うん、美家古、── 古いウチだったな」「久保万さんがごひいきでしたね」「そうか、うめえスシを食わした ── 」…」

 上記に書かれている「大繁(だいしげ)」は鎌倉 小町通りにある寿司屋です。現在もあります。美家古寿司は現在も一流の寿司屋で、私が訪ねたときは、予約でいっぱいで入れませんでした。

左上の写真は浅草、観音様傍の美家古寿司です。戦前からの場所ですので、小林秀雄が訪ねた場所だとおもいます。私も穴子の寿司を食べてみたかったです。

「中清」
中清(天ぷら)>
 野々上慶一の「思い出の小林秀雄」には小林秀雄と訪ねた浅草のお店が書かれていました。現在もあるお店ばかりでした。
「…浅草の飲み食いの店では、駒形の「どぜう」、鰻の「前川」、並木の「薮蕎麦」、天ぷらの「中清」その他あちこち小林さんと行ったように思いますが、古いことでもあり、はっきりした思い出とつながりません。…」
 ここからは昭和初期、震災復興後の浅草観光案内です。川端康成の「浅草紅團」や高見順の「如何なる星の下に」と同じになってしまいます。両者とも関東大震災後の浅草を描いていますので、小林秀雄や青山二郎が訪ねた浅草と同じです。

右の写真は浅草公会堂横の天ぷら屋「中清」です。表通りから少し入った昔ながらの建物で営業されています。最も、空襲で焼けていますので戦後の建物です。その他では、鰻の「前川」駒形の「どせう」並木の「藪蕎麦」を紹介しておきます。


昭和初期の浅草地図



小林秀雄と青山二郎の東京地図



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