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●小林秀雄の京都を歩く
    初版2008年9月20日 <V01L02>

 今週から「小林秀雄の世界」を掲載します。「直木三十五を歩く」もまだ終わっていませんので、取材が終わったものから順次掲載します(青山二郎も掲載を始める予定です)。まず最初は「小林秀雄の世界」で京都を歩きます。長谷川泰子に「「出て行けっ」と言われ、小林秀雄は東京を後にします。


「小林秀雄の思ひ出」
<小林秀雄の思ひ出(文藝春秋)>
 関西の小林秀雄については郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」、西村孝次氏の「わが従兄・小林秀雄」、高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」の三冊を参考にしながら、大阪、京都、奈良を歩いてみました。関西に出奔した原因は、昭和3年頃、中野町谷戸に長谷川泰子と住んでいましたが、長谷川泰子に追い出され、やむを得ず関西に向かった訳です。先ず、郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」からです。
「…「出て行けっ」
  と呶鳴ったら、小林は命令通り出て行った。東中野と中野の問の谷戸という湿地の、バラックのような家である。玄関から、通りの方へ廻って行く前かがみの後姿は、窓から見ると、いつものようにすぐあやまって戻って来る恰好だったそうである。しかし小林はそれっきり戻らなかった。
 お母さんにも妹さんにも黙って奈良へ行ってしまったのである。
 翌日から中原の活躍がはじまった。中原は一体もめごとが好きなたちである。石の板を掘りかえしても(?) 探し出すという勢いだった。河上徹太郎のところへ行ったら、玄関で、
 「来なかったよ」と言ったが、
 「今いないのはたしからしい。しかしあの顔は一晩は泊めた顔だ」
  という判定だったが、これは無論誤りである。(昭和二十八年十一月)…」

 最初から奈良、京都へ向かったわけではなく、大阪の谷町にあるお寺に向かいます。大阪で遊びすぎ、やむを得ず京都の伯父の家に向かいます。

左上の写真は郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」です。1993年出版ですが、現在は古本しかありません。面白い本ですので一読を進めます。

「志賀直哉山科寓居跡」
志賀直哉の山科>
 小林秀雄の京都は昭和3年が初めてではなくて、大正13年に二回京都を訪ねています。一度目は伯父(父の兄)清水精一郎の招待で妹と京都を訪ねています。二度目は一高対三高の野球試合を京都で見るために訪ねています。この二度目のときに、山科の志賀直哉も訪ねているようです。西村孝次氏の「わが従兄・小林秀雄」からです。
「…志賀直哉の年譜によると、「また[この年]小林秀雄はじめて来訪」とあるだけで月日は明示されていないし、また小林自身についての年譜(『新訂 小林秀雄全集』別巻U)によれば、「八月、十一日、『飴』(小説)を書き上げる。この頃、山科に志賀直哉を訪問」というふうに、どちらもそれが、それぞれの個所での志賀や小林という名の初出であるだけに、これを最初の訪問と考えるべきであろう。さらに、八月二十六日に一高対三高の野球試合があって、元野球部員だったかれは応援団の一員として三高の校庭にいた。その夜、惨敗した一高の応援団と大勝した三高の応援団が、四条大橋のあたりで組んずほぐれつの大乱闘となる。はじめて「小僧の神様」の作者に会ったのは 「その翌日」、と小林は志賀直哉に語っている。…」
 志賀直哉は東山区粟田口三条坊町から大正12年10月に山科区竹鼻立原町に転居しています。東山区粟田口三条坊町の写真も掲載しておきます(写真の少し先、右側です。直接の写真は控えさせていただきました)。

左上の写真は志賀直哉旧居跡の記念碑です。この記念碑の右側に橋があり、その先に旧居があったとおもわれます。志賀直哉はこの竹鼻立原町に大正14年4月まで居住し、その後、奈良に向かいます。

「山科駅」
山科駅>
 伯父(父の兄)清水精一郎の招きで初めて京都を訪問をしたときの小林秀雄を歩いてみました。妹と二人での京都となります。高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」から引用します。
「…兄と私に、一緒に京都に来て、京都や奈良を見物しないか、と誘ってくれた。
……伯父は、京都の市内に、お経や仏教に関する書籍を売る店を持っていた。店の裏には石畳の中庭をはさんで細長い母屋があった。京都風に小ぢんまりした部屋に、こまごまと古い小道具があるのも珍しかった。
 私たちは一通り、京都の名所を見物した。円山公園のしだれ桜もみた。祇園の芸者衆、舞妓さんたちが総出で踊るはなやかなみやこ踊りもみた。山科にいる西村の叔父がつれて行ってくれた。
兄は一人で、当時山科にいた志賀直哉の家にも行った。…」

 妹の高見澤潤子さんは志賀直哉宅訪問は4月と書いています。小林秀雄本人は8月と書いていますので、何方が正しいのでしょうか?

左上の写真はJR山科駅です。「…邸には稀でない山科駅の南口から、やや東寄りにあるガードをくぐって、まっすぐ北へ進み疏水を渡って毘沙門堂(護法山安国院出雲寺)へと通じる爪さき上がりの広い道をたどると、その両側に新しい住宅地区として別荘ふうの家屋や、やや高級めいた住居が、ぽつぽつ建ちはじめているのが目につく。…」
 JRの山科駅は現在は北側にも出入口がありますが、当時は南側のみの駅だったようです。駅の北側にあった伯父(父の兄)清水精一郎の自宅を訪ねるには、南側から出て、”東側にあるガード”を潜っていく必要があったわけです。”爪先上がりのひろい道”と書かれていますが、現在では車のすれ違いもギリギリの道でした。この駅は大正10年に大津−京都間が新ルートになってできた駅です。この駅の前には京阪の京阪山科駅があります。こちらは大正元年には駅がありました。

「安朱橋」
安朱橋>
 山科駅東側のガードを潜って、かなり登っていかないと伯父(父の兄)清水精一郎邸にはたどり着きませんでした。
「…そして、京都府御用掛の田辺朔郎が二十九歳のとき、明治二十三年に完成させた琵琶湖疏水工事の、その見かけによらず速く強い疏水の流れに架かる小さな古びた安朱橋を渡ってすぐ西、北側の畔、山科村安朱字上安朱(現・京都市山科区安朱馬場西町)の家、そこが、初めてわたしが小林秀雄に会った場所なのである。そこへ、かれは叔父にあたるわたしの父を、いうならば表敬訪問したのだった。…」
 この付近は住宅街としては最高です。疎水が近くを流れ、京都にも近く、住むには京都市内より良いかもしれません。

右の写真が疎水に架かる安朱橋です。この橋を渡ってすぐ左に曲がったところが伯父清水精一郎邸となるわけです。


小林秀雄の山科地図


小林秀雄の京都年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 21 4月 京都山科の伯父清水精一郎の招待で妹と上洛(京都、奈良を観光)、従兄の西村孝次にも会う
8月 京都で一高対三高の野球試合を観戦
京都山科の志賀直哉を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
22 12月 富永太郎死去
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
25 5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
天王寺谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
昭和4年 1929 世界大恐慌 26 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む



「興教書院跡」
興教書院>
 伯父清水精一郎の経営する西本願寺前の興教書院を歩いてみました。この興教書院は昭和31年で廃業されたようです。郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」からです。
「…伯父は清水精一郎といひ、西本願寺の前で、興教書院といふ仏書屋を経営してゐた。そこに丁稚奉公をしてゐた清水秀雄は、かう語ってくれた。
「私は西村孝次さんの二つ下です。まだ十七、八の頃ですよ、向うの秀雄さんが現れたのは。何しろ店は、丁稚小僧が住みこんでゐる事務所兼住宅ですから、お泊めするわけには行かなくて、長谷川旅館に御案内したんです。当時の格式から言へば上の中ぐらゐ、控へ目に言つても上の下といふところです。信徒が泊る詰所より遥かうへです。といふのは、店へ出入りする先生たちが、頻繁に訪ねてきますから、さういふ筆者の先生の御宿にあそこをお願ひしてゐたんです。ですから、秀雄さんをあそこへお泊めしたのは、何も格別な理由があつてのことではなくて、清水家では極く自然なことだったんです、われわれも遠来の客をあそこへ御案内するのは、当り主へのことと思ってゐましたよ。…」

 興教書院は「油小路御前通上ル」で、昭和31年までお店はあったようなので、比較的簡単に場所を特定することができました。”油小路通り”は現在もそのままです。”御前通り”は”正面通り”が正式な通りの名前で、”御前通り”は俗称なのでしょう。

左上の写真左に宇治茶美好堂がありますが、この右隣に「興教書院」がありました。たぶん、建物はそのままではないかとおもわれます。

「長谷川旅館跡」
長谷川旅館>
 小林秀雄は興教書院で紹介された長谷川旅館に泊まります。
「… 現在の教学研究所のあるもう少し下のところ、油小路御前通り下ルです。お店は、油小路御前通り上ルです。もう少し上って来て串かつ屋さんがありますね、あれと隣りのマンションとを足したのが、その後の長谷川旅館です。前のと大体同じぐらゐの大きさでした。
 秀雄さんは、ここに一と月ぐらゐゐた筈です、とても二、三日や一週間といふ短い期間ぢやありません、ですから短くみても二週間以上、三週間ぐらゐは滞在してゐた筈です」
 四月の末か、五月の初めに、小林秀雄は奈良に移ったことになる。…」

 長谷川旅館は一度、場所が変わっているようです。

右の写真、少し先の右側に小林秀雄が泊まった当時の長谷川旅館がありました。その後、宇治茶美好堂の前当りに移られたようです。すぐ側に京都らしい旅館がありましたので写真を掲載しておきます。長谷川旅館もこんな旅館だったとおもいます。

次回は奈良の小林秀雄を歩きます。


小林秀雄の京都地図