<小林秀雄の思ひ出(文藝春秋)>
関西の小林秀雄については郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」、西村孝次氏の「わが従兄・小林秀雄」、高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」の三冊を参考にしながら、大阪、京都、奈良を歩いてみました。関西に出奔した原因は、昭和3年頃、中野町谷戸に長谷川泰子と住んでいましたが、長谷川泰子に追い出され、やむを得ず関西に向かった訳です。先ず、郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」からです。
「…「出て行けっ」
と呶鳴ったら、小林は命令通り出て行った。東中野と中野の問の谷戸という湿地の、バラックのような家である。玄関から、通りの方へ廻って行く前かがみの後姿は、窓から見ると、いつものようにすぐあやまって戻って来る恰好だったそうである。しかし小林はそれっきり戻らなかった。
お母さんにも妹さんにも黙って奈良へ行ってしまったのである。
翌日から中原の活躍がはじまった。中原は一体もめごとが好きなたちである。石の板を掘りかえしても(?) 探し出すという勢いだった。河上徹太郎のところへ行ったら、玄関で、
「来なかったよ」と言ったが、
「今いないのはたしからしい。しかしあの顔は一晩は泊めた顔だ」
という判定だったが、これは無論誤りである。(昭和二十八年十一月)…」。
最初から奈良、京都へ向かったわけではなく、大阪の谷町にあるお寺に向かいます。大阪で遊びすぎ、やむを得ず京都の伯父の家に向かいます。
★左上の写真は郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」です。1993年出版ですが、現在は古本しかありません。面白い本ですので一読を進めます。