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●小林秀雄の鎌倉を歩く (4)
    初版2008年11月15日 <V01L01> 暫定版

 「小林秀雄の世界」を5回に分けて掲載してきましたが、今回が最終回、6回目となります。今回は小林秀雄が晩年を過ごした鎌倉を歩きます。


「雪の下三九番地」
雪の下三九番地>
 小林秀雄は終戦後直ぐの昭和23年6月、結婚後14年間過ごした扇ヶ谷四〇三番地から雪の下三九番地に引っ越します。今までの住まいは亀ヶ谷坂切通しへ抜ける道の途中で、谷間の住まいでしたが、引っ越した先の住まいは雪の下二丁目の高台の上にあり、鎌倉市内が一望に見渡たせる場所でした。
「…昭和二十三年に、兄は八幡宮の裏山の上の広い平家を買って引越した。山の上だから、かなりの登りで骨が折れたが、それだけに高級地ともいえるいい環境の家であった。ぐるりは山にかこまれて、南側だけが開けていて、見晴しはすばらしい。山々の自然は、美しい四季の変化を惜しげもなくみせてくれた。春は線の山のあちこちにふんわりと白い山桜が咲き、秋は黄、茶、深紅、色とりどりに紅葉が錦を織りなしてくれる。遠くの空のはてには海がみえ、晴れた日には大島がみえる。夜は御神火(三原山の噴火の火)がみえる時もあるそうだ。…」
 鎌倉の一等地ですから、其れなりの価格であったとおもわれます。ただ、昭和23年ですから、まだ戦後の混乱期であり、上手に購入できたのではないかとおもわれます。

写真の坂道を上がった右側が雪の下三九番地です(個人のお宅のため直接の写真は控えさせていただきました)。崖の上が住まいになっています。玄関は当時のままでしたので、家屋も保存されているのではないかとおもわれます。

「雪の下一丁目十三番地」
雪の下一丁目十三番地>
 雪の下三九番地の家は高台で庭も広く、眺めも良かったのですが、ただ一つ欠点がありました。交通の便が良くないということです。上記の写真の道なので、タクシーは呼べず、歩くのも大変でした。歳とともに、住みやすいところに引っ越します。
「…兄たちは思い切って、昭和五十一年一月、現在の八幡宮の前の、スウェーデンのプレハブの家に移った。
……兄はしかし、生き生きとして、山の上の家では出来なかったことを発見して、それにまた精神をうちこんでいた。今まで出来なかった朝の散歩を、毎朝するようになった。冬でも六時半頃、一番早く起きて外へ出た。八幡宮の境内から、大塔官あたりまで、一時間以上歩きまわり、帰って来て朝食をとることにしていた。…」

 新しい住まいは鎌倉駅までも平坦な道で、鶴岡八幡宮まで数百メートルの距離ですから、年寄りにとっては最高の場所でした。

写真の左側に住宅が建っている所が雪の下十三番地となります。この区画は現在は四分割されて四軒の住宅に変わっていました。ですから、小林秀雄が住んだ頃の面影は何もありません。正面にバスが微かに写っていますが、その先が鶴岡八幡宮となります。


小林秀雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
明治35年 1902 日英同盟 0 4月11日 神田区神田猿楽町三丁目三番地で生誕
明治37年 1904 日露戦争 2 6月3日 妹富士子、牛込区牛込納戸町七番地で生誕
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 7 4月 白金尋常小学校入学、芝区白金志田町十五番地に住む
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 13 4月 東京府立第一中学校入学、芝区白金今里町七十七番地に住む
大正9年 1920 国際連盟成立 18 3月 第一中学校卒業、一高入試に失敗
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 19 3月 父豊造、四六歳で死去
4月 第一高等学校入学
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 22 2月頃 母と妹の三人で杉並村馬橋226に転居
4月 京都山科の伯父清水精一郎の招待で妹と上洛(京都、奈良を観光)、従兄の西村孝次にも会う
8月 京都で一高対三高の野球試合を観戦
京都山科の志賀直哉を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
23 4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
9月 長谷川泰子に出会う
10月 大島に旅行後、泉橋病院に入院
11月 富永太郎死去
11月 杉並町天沼で長谷川泰子と同棲
大正15年
昭和元年
1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
24 鎌倉町長谷大仏前に転居
逗子新宿にも一時住む
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
26 2月 中野町谷戸に転居
3月 東京帝国大学卒業
5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚
昭和4年 1929 世界大恐慌 27 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む
9月 「改造」の懸賞論文で「様々なる意匠」が第二席となる
(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)
昭和6年 1931 満州事変 29 11月頃 母と鎌倉町佐介通二〇八番地の一軒家に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
30 4月 明治大学文芸科の講師となる
7月頃 鎌倉町雪ノ下四一三番地に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31 5月頃 鎌倉町扇ヶ谷三九一番地に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 32 5月6日 森喜代美と結婚し鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 35 2月 中原中也鎌倉町扇ヶ谷(寿福寺境内)に転居
10月 中原中也死去
昭和23年 1948 太宰治自殺 46 6月 鎌倉市雪の下三九番地に転居
昭和51年 1976 檀一雄没、周恩来没、ロッキード事件 74 1月 鎌倉市雪の下一丁目十三番地に転居
昭和58年 1983 東京ディズニーランド 74 3月1日 慶応病院で死去



「南麻布西福寺」
南麻布西福寺>
 小林家の本籍は兵庫県出石から芝区白金今里町七十七番地に移されています。ですから、白金今里町近くの西福寺を菩提寺としたのだとおもわれます。
「…父の十三回忌を、昭和八年四月九日に営んだ。命日は、本当は三月二十日なのだが、何かの都合でのはしたのであった。父の墓は、今は東慶寺の兄の墓と一緒であるが、その頃は港区の四ノ橋の電車通りにあった西福寺という寺にあった。そこで法会をすまし、銀座裏の中島という料理屋で夕食をした。親類の者だけであったが、鎌倉の叔父夫婦と、父の仕事をついだその弟の三郎叔父夫婦はたしかにいた。京都で世話になった伯父や従兄たちはいなかったらしい。母は鎌倉の叔父夫婦と二緒に先に帰り、兄と私たち二人とは、中島からまた別の料理屋によった。「いわでしのぶ」という高見澤のよく行く小料理屋で昔の炭屋であった。…」
 法事の後に食事をした銀座の「中島」は現在も残っていました。場所も同じ銀座六丁目9番、文詢社ビルの横になります。「いわでしのぶ」については不明です。

写真は現在の西福寺です。大きなお寺なのでびっくりしました。奥にお墓もありました。四の橋からは東に150m程です。山門は空襲にも焼け残ったそうです。

「東慶寺」
東慶寺>
 鎌倉東慶寺は縁切寺で有名な臨済宗円覚寺派のお寺です。文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子らの墓があります(ウィキペディアより)。
「…晩年、いつも一緒にゴルフをし、料理屋にも行き、旅行にもいっていた那須良輔家の墓が北鎌倉の東慶寺にあり、兄は触貫とした大きな樹にかこまれた静かな墓地が気に入って、墓をここに移そうと考えた。東慶寺といえば、駆込寺で有名な歴史のある古い禅宗の寺である。ところが墓地は全部ふさがっていて、あいている場所がなかった。…」
 小林秀雄のお墓を探すのに苦労しました。結局、お掃除をしている方にお聞きしました。

写真は東慶寺正面です。この道を少し登った先にお墓があります。北鎌倉の駅から東に150m位の距離です。

「お墓」
お墓>
 小林秀雄のお墓です。場所的には大変良いところにあるのですが、探すのに苦労する場所でした。
「…兄は残念に思ったが、あきらめきれずあちこち歩いて、崖の下に小さな流れのある、紅葉の木がおおいかぶさっている場所をみつけ、この崖を少しけずって場所をつくってくれ、と住職に頼みこんだ。さばけた住職なので、きき入れてくれた。
 墓石には、兄が戦後、関西の骨董屋で見つけた五輪塔を置いた。鎌倉初期の古いもので、兄がたいへん気に入って、それまで自宅の庭に据えていたものであった。…」

 上記に書かれている通り、”崖の下の小さな流れのある場所”にお墓がありました。小さな五輪塔のお墓でした。小林秀雄らしいお墓なのかもしれません。

写真正面が五輪塔のお墓です。拡大した写真も掲載しておきます。

今回で「小林秀雄の世界」を終わります。修正、加筆するところも多いので、順次改版をしていきます。



小林秀雄の鎌倉地図



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