▲トップページ 著作権とリンクについて メール 最終更新日: 2018年06月07日
●小林秀雄の東京・鎌倉を歩く (3)
    初版2008年11月8日 <V01L02>

 「小林秀雄の世界」を引き続いて掲載します。今回は小林秀雄が昭和4年に奈良から戻って、東京田端に住んでから、鎌倉に移り住んだ昭和20年までを歩きます。


「田端一五五番地」
田端一五五番地>
 昭和3年5月に東中野谷戸から出奔して、半年少し過ぎてから小林秀雄は東京に戻ります。長谷川泰子の呪縛から逃れられたと思ったのでしょう。その間に妹の富士子が高見澤(田河水泡)と結婚します。この二人と母親の住んでいた田端に小林秀雄は戻ります。今週も妹の高見澤潤子さんが書いた「兄 小林秀雄」を参照します。
「…震兄が東京で、ちゃんと生活が出来るまで一緒に住むことになったので、私たちはもう少し広い家を探して、滝野川田端(今の北区田端町)の二階家に引越した。隣家は、春陽会を創立した洋画家小杉未醒(小杉放庵)の家であった。引越して来て間もなく、昭和四年一月末、兄は関西をひきあげて、帰って来た。その日の晩は、母も一緒に、歓迎の意味で銀座に出かけ、四人で食べたり飲んだりした。
…… 田河も、この家にいる頃から、「のらくろ」を措きはじめたのである。…」

 田端四三五番地に住んでいた芥川龍之介が亡くなったのが昭和2年7月24日ですから、半年後に引っ越してきたことになります。

左上の写真の路地を少し入った右側が田端一五五番地です。この付近は田端文士村と呼ばれ、数多くの文士が住んでいたところです。写真の左側には大正6年に竹下夢二が半月程住んでいました。萩原朔太郎もこのすぐ傍に住んでいました。
「田端図書館」
田端図書館>
 上記に書かれている洋画家小杉未醒(小杉放庵)が住んでいた場所が現在の田端図書館のところです。近藤富枝さんの「田端文士村」にも小林秀雄について書かれていました。
「…「何年ごろだろうか、隣家に小林秀雄の家があった」と未醒の長子である小杉二班さんが筆者に語った。
「秀雄さんが新婚早々のころで、夫妻の睦じいようすをうちの女中たちが羨Lがっていた」…」

 ”秀雄さんが新婚早々のころで”と書かれていますが、これは妹夫妻の間違いです。勘違いされたのでしょう。

左の写真の中央が田端図書館です。小林秀雄家は洋画家小杉未醒(小杉放庵)宅と庭続きですから、この図書館の裏辺りが小林秀雄の住居ともなります。田端図書館の入り口右側に田端文士村の地図がありますので、訪問される方は参考にされたらとおもいます。小林秀雄家も記載されています。

 この田端時代に応募した「改造」の懸賞論文で「様々なる意匠」が第二席となります。本人は第一席と確信していたようです(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)。この懸賞論文から文壇にデビューします。


小林秀雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
明治35年 1902 日英同盟 0 4月11日 神田区神田猿楽町三丁目三番地で生誕
明治37年 1904 日露戦争 2 6月3日 妹富士子、牛込区牛込納戸町七番地で生誕
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 7 4月 白金尋常小学校入学、芝区白金志田町十五番地に住む
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 13 4月 東京府立第一中学校入学、芝区白金今里町七十七番地に住む
大正9年 1920 国際連盟成立 18 3月 第一中学校卒業、一高入試に失敗
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 19 3月 父豊造、四六歳で死去
4月 第一高等学校入学
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 22 2月頃 母と妹の三人で杉並村馬橋226に転居
4月 京都山科の伯父清水精一郎の招待で妹と上洛(京都、奈良を観光)、従兄の西村孝次にも会う
8月 京都で一高対三高の野球試合を観戦
京都山科の志賀直哉を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
23 4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
9月 長谷川泰子に出会う
10月 大島に旅行後、泉橋病院に入院
11月 富永太郎死去
11月 杉並町天沼で長谷川泰子と同棲
大正15年
昭和元年
1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
24 鎌倉町長谷大仏前に転居
逗子新宿にも一時住む
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
26 2月 中野町谷戸に転居
3月 東京帝国大学卒業
5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚
昭和4年 1929 世界大恐慌 27 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む
9月 「改造」の懸賞論文で「様々なる意匠」が第二席となる
(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)
昭和6年 1931 満州事変 29 11月頃 母と鎌倉町佐介通二〇八番地の一軒家に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
30 4月 明治大学文芸科の講師となる
7月頃 鎌倉町雪ノ下四一三番地に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31 5月頃 鎌倉町扇ヶ谷三九一番地に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 32 5月6日 森喜代美と結婚し鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に転居


小林秀雄の東京全図


小林秀雄の東京地図 (2)



「鎌倉町佐介通二〇八番地」
鎌倉町佐介通二〇八番地>
 小林秀雄は昭和6年11月、母と鎌倉町佐介通二〇八番地の一軒家に転居します。
「…昭和五、六年には「文藝春秋」「新潮」「中央公論」「改造」等、殆んどすべての文芸雑誌に作品を掲載し、矢つぎぼやに単行本を出し、これならば、一軒家をもって生活出来るからというので、兄は母をつれて、鎌倉に引越すことになった。
……兄と母は、鎌倉の佐助通りの古い家に移ることになった。私は一晩泊りで引越しの手伝いに行ったが、日当りも悪く、健康にもあまりよくないような家であった。兄も、この家は、夏、暑そうだからといって、また家を探しはじめた。…」

 妹は新婚であり、母親の健康も考えて気候のよい鎌倉に転居したのだとおもいます。ただ、家が余りよくなかったようです。

左上の写真の路地を少し入った右側になります。番地から場所が特定できていますが、個人のお宅のため、直接の写真は控えさせていただきました。写真の左側の建物は、鎌倉彫寸松堂です。現在の地番で由比ヶ浜一丁目となります。

「鎌倉町雪ノ下四一三番地」
鎌倉町雪ノ下四一三番地>
 鎌倉町佐介通二〇八番地は住み心地が良くなかったようで、半年ほどで鶴岡八幡宮に近い、雪の下四一三番地に引っ越します。。
「…間もなく、雪ノ下に、大仏次郎の隣家で、今目出海の家へも近い家に引越すことになり、また私は手伝いにいった。今度の家は、もと別荘として建てた家なので、建てつけもよく、間どりもよく、日当りもよく、庭もひろかった。引越しの時は今日出海も手伝いに来てくれ、その後も何かと世話をしてくれ、母も喜んでいた。…」
 大佛次郎の隣家と書いていますが、正確には道を隔てて50m位離れています。

右の写真に写っている駐車場のところが、雪の下四一三番地です。大佛次郎宅はこの後ろ側になります。駅も近く、便利なところです。

「鎌倉町扇ヶ谷三九一番地」
鎌倉町扇ヶ谷三九一番地>
 一年程でまた鎌倉内で転居しています。今回の転居の理由はよく分かりません。温泉に近くなったそうですが、これが理由とはおもわれません。
「…雪ノ下の家からまた一年半ぐらいの後に扇ケ谷に移っ
たが、その家から少し坂をのぼったところに、小さな鉱泉宿があった。米新というつれこみ宿であったが、兄は徹夜の仕事でくたくたに疲れ切ると、よくそこに行った。
……その後、この宿には、大岡昇平や三好達治が下宿していたこともあった。…」

 駅からも遠いところですが、住宅地で静かなところです。

左上の写真の道を少し入った先の左側になります。個人のお宅のため直接の写真は控えさせていただきました。

「米新亭跡」
米新亭>
 ここで、上記に書かれている米新亭について説明しておきます。現在は鎌倉扇ガ谷コートハウスになっていますが、少し前までは香風園という旅館でした。川端康成が『千羽鶴』を執筆したところで有名です。元々は田中智学師の別荘だったようで、「田中智学師子王文庫跡」という記念碑が建っています。この別荘から、米新亭という温泉旅館になり、その後、香風園という旅館になったようです。

 大岡昇平がこの米新亭に下宿したのは、昭和11年3月下旬ですから、鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に転居してからになります。

右の写真のトンネルは昔からあるようで、このトンネルの先に米新亭がありました。このトンネルの手前に「田中智学師子王文庫跡」という記念碑が建てられています。

「鎌倉扇ヶ谷四〇三番地」
鎌倉扇ヶ谷四〇三番地>
 小林秀雄は32歳でやっと結婚します。母親や親類がお見合いをさせますが、上手くいきません。結局、自分自身で見つけてきます。
「…やっと兄は、自分の気に入った人をみつけて、昭和九年五月に結婚した。今の私の義姉である。
……仲人役は青山二郎夫妻で、その時の青山夫人は、地唄舞の名手といわれる武原はんであった。夫人は丸髷黒紋付で、早くから来ていたが、肝心の青山二郎が、時間になっても姿をみせなかった。みんなはらはらしていたが、時間の都合があるので、誰か仲人の代りになってくれ、と係の人にいわれて、三郎叔父が仲人の役をつとめることになった。神前で、大きな奉書に筆で書いた誓詞のようなものを、急に読まされて、まごついていた。
 式がすんで、披露宴がはじまってから、紋付羽織袴の青山二郎があらわれた。改まった祝辞や挨拶もなく、仲人も新郎も酔っぱらってしまい、宴会が終る頃は、二人でどこかへ行ってしまった。…」

 仲人が青山二郎夫妻というのも良いですね。奥様が武原はんさんですからベストです。武原はんさんについては「青山二郎を巡る」で、少し書きたいとおもっています。

右上の写真は亀ヶ谷坂切通しへ向かう道です。切通しを抜けると長寿寺です。扇ヶ谷四〇三番地は少し先の右側一棟奥になります。現在の住居表示で扇ヶ谷三丁目7番になります。

次回は「小林秀雄の鎌倉を歩く」の最終回となります。


小林秀雄の鎌倉地図



 ▲トップページ ページ先頭 著作権とリンクについて メール