<田端一五五番地>
昭和3年5月に東中野谷戸から出奔して、半年少し過ぎてから小林秀雄は東京に戻ります。長谷川泰子の呪縛から逃れられたと思ったのでしょう。その間に妹の富士子が高見澤(田河水泡)と結婚します。この二人と母親の住んでいた田端に小林秀雄は戻ります。今週も妹の高見澤潤子さんが書いた「兄 小林秀雄」を参照します。
「…震兄が東京で、ちゃんと生活が出来るまで一緒に住むことになったので、私たちはもう少し広い家を探して、滝野川田端(今の北区田端町)の二階家に引越した。隣家は、春陽会を創立した洋画家小杉未醒(小杉放庵)の家であった。引越して来て間もなく、昭和四年一月末、兄は関西をひきあげて、帰って来た。その日の晩は、母も一緒に、歓迎の意味で銀座に出かけ、四人で食べたり飲んだりした。
…… 田河も、この家にいる頃から、「のらくろ」を措きはじめたのである。…」。
田端四三五番地に住んでいた芥川龍之介が亡くなったのが昭和2年7月24日ですから、半年後に引っ越してきたことになります。
★左上の写真の路地を少し入った右側が田端一五五番地です。この付近は田端文士村と呼ばれ、数多くの文士が住んでいたところです。写真の左側には大正6年に竹下夢二が半月程住んでいました。萩原朔太郎もこのすぐ傍に住んでいました。