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●小林秀雄と青山二郎の遊び場所 -その他編-
    初版2009年1月3日 <V01L04> 

 あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
 今週も引き続いて「小林秀雄と青山二郎の遊び場所」を掲載します。「新橋・銀座・芝浦編」、「浅草編」と続けましたので、今回は「その他編」として、残りをまとめて掲載したいとおもいます。大阪も掲載します。


「文圃堂こぼれ話」
<「文圃堂こぼれ話」 野々上慶一>
 昭和初期に小林秀雄が中心になって発行していたのが「文學界」です。この「文學界」を最初に出版(昭和8年10月)したのは、文化公論社で、創刊号では、小説を室生犀星、井伏鱒二、楢崎勤、阪本越郎、舟橋聖一、評論は西脇順三郎と谷川徹三、随筆は堀辰雄、永井龍男、岡田三郎、山下三郎、阿部知二が書いています。錚々たるメンバーです。しかし、この「文學界」はおもっていたほど売れず、五号で休刊になります。この後の昭和9年6月に「文學界」を引き続いだのが野々上慶一が経営する「文圃堂」でした。
「昭和五年、ある事情で大学を横に出た私は、自活する必要に迫られたが、今日では想像できぬほどの不景気で簡単に職などなく、思案の末、本屋になった。文圃堂書店と名付け、本郷帝大(東大)前に売場面積三坪余のミニ店舗をもった。
 親戚に岩波書店に関係して、仕事をしていた大学の教授がいて、岩波茂雄さんに保証人になってもらった。堤さんという古くからいるエライ番頭さんに、たいへんお世話になったことを忘れない。
 なにしろ慢性的不況時代で、学生はほとんど余計な本など買わぬ。そこで出版でもやって一発当ててやろう、と山ッ気を起した。。…」

 大学を途中退学した野々上慶一が自ら名乗り出て「文學界」を引き継いだのではなく、小林秀雄に無理やり頼まれ、やむを得ず始めたのものです。上記に書かれていますが、”山っ気があった”のも真実だとおもいます。

左上の写真は野々上慶一が書いた「文圃堂こぼれ話」です。「文學界」を出版していた頃のことがなかなか面白く書かれています。ただ、野々上慶一自身が書いていますので、その分、割り引いて読まなければならないところもあるようです。

「昭和文学盛衰史」
<「昭和文学盛衰史」 高見順>
 文圃堂が設立された頃の事柄を高見順が「昭和文学盛衰史 (下)」で書いています!!
「…『文学界』創刊は、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎の三人によってなされたものである。
 ……文化公論社から創刊された『文学界』は、五号を出したきりで休刊になり、昭和九年六月に、文圃堂というところから復活号を出した。当時、私は武田麟太郎に会うため、本郷の文圃堂書店に行ったことがあるが、どんな本屋かと思ったら、それは古本屋なのだった。都電の停留所で言うと、東大の「正門前」と「農学部前」(当時は「一高前」)とのちょうど間くらいの、電車通りに面したうすぎたない古本屋である。『文學界』もひどいことになったものだと私はあきれた。
 店の奥に、うすぎたない青年が数人たむろしている。そのうちの小柄な青年を、武田麟太郎は、「野々上ちゃんだ」と、私に紹介した。不良少年みたいなその野々上慶一が文圃堂書店主なのである。それが『文學界』を出しているのである。…」

 第三者とは言えませんが、高見順が客観的に書いているとおもいます。この後「文學界」はまた行き詰まり、文藝春秋社に引き継がれます。

左上の写真は高見順の「昭和文学盛衰史 (下)」です。上巻、下巻があり、昭和初期の文学界の状況がよく分かります。

「文圃堂跡」
本郷 文圃堂>
 野々上慶一が起こした「文圃堂」の場所を探してみました。こちらも野々上慶一の「文圃堂こぼれ話」の中に書かれていました。東大前ということで,簡単に場所を見つけることができました。
「…ぼくのところの家主が「おかめや」という古い小間物屋なんですが、それはいまでもあるはずなんです。それが家の隣でしたから。「喜多床」という、古い床屋が反対側の隣にあった。棚沢という本屋があったり、角が果物屋だったけれども……。
……角というか、細い路地がありました。反対側の路地の角が棚沢という本屋の支店だったと思う。当時は有名な古本屋でした。本で金を貸してくれるんでね。本店は一高、いまの農学部に寄ったほうにありましたが、その支店が角にあって、次がパン屋、それにおかめや、それから私のところです。だから、三軒目かな。その次が喜多床です。文圃堂のあったところは、いまはパン屋になっているという話を聞いたけれども、もう何十年と行ったことがないから、…」

 この辺りは東大があったお蔭で、米軍の空襲対象地域から外されており、戦災にも合わず、昔の建物が比較的残っている地域です。

上記に書かれている”喜多床”ですが、結構有名な床屋でしたが、現在は渋谷に移転されていました。
夏目漱石の「吾輩は猫である」では
「…何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない。人間はこう自惚れているから困る。…」
「三四郎」では
「…下駄の歯が鐙にはさまる。先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床という髪結床の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。…」。
などに名前が登場しています。結構どころかかなり有名な床屋さんでした(石川啄木が下宿していた「喜之床」とは違います)。

<現在の喜多床(ヘアーサロン喜多床)>
 断髪令の年(明治4年)に創業された130年の歴史を持つ理髪の老舗です。現在は渋谷クロスタワー内に有ります(東京都渋谷区渋谷2-15-1)。

右の写真中央の、ブルーシートのところが文圃堂跡です。この付近は有名な場所で、新宿中村屋の創設者、相馬愛蔵・黒光夫妻が初めてパン屋を始めたのは左側二軒目(現在は「こころ」という喫茶店)なのです(明治34年9月のことです)。中村屋が新宿に移転したあとは、弟子の方がお店を開いていましたが、文圃堂が無くなった跡に移転して、最近までお店がありましたが現在は無くなっています。写真を拡大すると分かりますが、左側は「おかめや」です。右側に細い路地があることが分かります。上記に書かれている「喜多床」は正面やや右の白い建物の所だとおもわれます。「棚沢書店」は残っていました。少し横からの写真も掲載しておきます。



小林秀雄と青山二郎の本郷地図



小林秀雄の昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
23 4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
9月 長谷川泰子に出会う
10月 大島に旅行後、泉橋病院に入院
11月 富永太郎死去
11月 杉並町天沼で長谷川泰子と同棲
大正15年
昭和元年
1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
24 鎌倉町長谷大仏前に転居
逗子新宿にも一時住む
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
26 2月 中野町谷戸に転居
3月 東京帝国大学卒業
5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚
昭和4年 1929 世界大恐慌 27 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む
9月 「改造」の懸賞論文で「様々なる意匠」が第二席となる
(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)
昭和6年 1931 満州事変 29 11月頃 母と鎌倉町佐介通二〇八番地の一軒家に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
30 4月 明治大学文芸科の講師となる
7月頃 鎌倉町雪ノ下四一三番地に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31 5月頃 鎌倉町扇ヶ谷三九一番地に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 32 5月6日 森喜代美と結婚し鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 35 2月 中原中也鎌倉町扇ヶ谷(寿福寺境内)に転居
10月 中原中也死去



青山二郎の昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚



「柴崎納豆」
柴崎納豆 天野屋(神田明神)>
 昭和初期の小林秀雄が貧しい時でも、良いもの(贅沢?)を食べていたようです。価格はそれ程高くはありませんが、納豆の銘柄までも指定していたようです。
「…小林さんの長年の友人の今日出海さんや永井龍男さんから直接きいた話ですが、学生時代の小林さんはひどい貧乏で、御飯のおかずによく納豆を食べていたが、あちこちの納豆をほとんど試して、結局、神田明神の境内にある卸屋(「天野屋」 の柴崎納豆ではないかと思いますが、不詳)の納豆が、東京一うまいんだと言っていて、当時売りに来る納豆は二銭だったのを、三銭のものを、いつも食べていたそうです。…」
 私はこの「柴崎納豆」を初めて食べましたが、粒の揃った大きな豆にびっくりしました。スーパーで販売されている納豆に比べてかなり大きい粒を使っています。最近は、小さな粒の納豆に人気があるようですが、この大きな粒だと、慣れていなくて、食べにくいようにおもいました。味は淡白でさっぱりしていましたが、納豆菌は昔のままで、天野屋の地下麹室で作られていると聞いたことがあります。しっかり作られているようです。

写真が天野屋の「柴崎納豆」です。価格は160gで368円でした。天野屋は神田明神の門前にあるお店で、有名です。現在は柴崎納豆よりも甘酒の方が有名になってしまっています。

「紅屋跡」
神楽坂 紅屋(紅谷)>
 「文圃堂」の野々上慶一と小林秀雄が初めて逢ったところが、神楽坂の「紅屋」でした。当時の喫茶店でした。ただ「紅屋」と言う名前は間違いのようです。「昭和8年発行の「大東京うまいもの食べある記」では、「紅谷」となっています。ここでは「紅谷」とさせて頂きます。
「…小林秀雄さんと初めて会ったのは、忘れもしない昭和八年秋。場所は牛込神楽坂、「紅屋」二階の喫茶室で、洒なしだった。…」
 神楽坂「紅谷」は支店で、本店は小石川 伝通院前の菓子屋です。この神楽坂「紅谷」は空襲で焼失、廃業しています。本店の「紅谷」も空襲で焼失していますが、昭和45年前後まで営業されていたようです。各地にある「紅谷」は看板分けをしたお店だそうです(TNさんよりご教授して頂きました)。

写真左側の「薬ヒグチ」のところが「紅谷」跡です。神楽坂についてはお店の名前が入った戦前の地図があり、場所は確認されています。伊勢屋の右隣が「紅谷」で、写真に写っている一番左のビルはイセヤビルです。

「きくや跡」
吉原 喜久屋(きくや?)>
 小林秀雄、青山二郎、野々上慶一他は、武田麟太郎に連れられて、吉原の武田麟太郎行き付けの飲みに行きます。飲み屋の順番は、最初が「はせ川」で12時前に終わり、次が吉野屋で午前2時に終わり、最後が吉原の「喜久屋」で徹夜でした。
「…吉原の廓のなかに、「喜久屋」という縄のれんの飲み屋がありまして、ここは夜明かしの店でした。「文学界」の同人会を銀座の「はせ川」あたりでやり、二次会、三次会とハシゴ酒の末、時々、真夜中にこの店に、ついて行ったものでした。この店には、武田麟太郎さんの浅草物の小説のモデルになったヨツちゃんと、何とかちゃんという、桃割れに黄八丈、黒締子の衿の下町風の姉妹がいて、遊治郎連中の間で評判のようでした。痩せぎすで細面てで、チャキチャキしたい
かにも下町娘といった感じのヨツちゃんのことは、私はうすぼんやりと記憶に残っていますが、このうちの酒や料理の味については、まるで思い出せません。…」

 吉原にある”縄のれん”の「喜久屋」なのですが、場所がよく分かりませんでした。戦前には、ひらがなで「きくや」という、お茶屋か料亭であったお店は見つけることが出来ました。

右側の写真は吉原の”見返り柳”側から入った最初の交差点です。交差点の左角に「きくや」というお店がありました。”縄のれん”のお店かどうかは確認がとれていませんので、推定とさせて頂きます。

「吉野 蒸し寿司」
大阪寿司 吉野>
 小林秀雄が行き付けのお店を、野々上慶一が「小林秀雄の思い出」の中で紹介しています。今回は大阪のお店を紹介します。
「…小林さんは、大阪の陋巷の庶民的な、そして商売熱心で凛々しいうまい物の店についても、なかなかくわしく、千日前の「だるま」 の酒と肴とかやく飯のこと、鰻の「生野」、鯨の「玉水」や、また船場の大阪寿司の老舗「吉野」 のぬくずしの話など、時にきかされたものです。…」。」
 順番に紹介すると、”千日前の「だるま」”は”かやく飯屋”で少し前までお店はあったのですが現在は無くなっています。”鰻の「生野」”は不明です。”鯨の「玉水」”は「西玉水」として残っているようです。今回は大阪寿司の「吉野」を紹介します。

左上の写真は吉野寿司の「蒸し寿司」です。上記に書かれている”ぬくずし”のことです。吉野寿司はこの「蒸し寿司」の他に「箱寿司」も有名です。お店は大阪 船場 淡路町にあります。私もお店で食べようと訪ねたのですが、運悪くお休みで、百貨店のお店(大阪駅前阪神百貨店地下)で購入して食べました。蒸し寿司は1800円(税別)、箱寿司は2150円(税別)で、凄く高いです(これでも一番安い品を選んだ)。ただ、美味しさは特上です。蒸し寿司では、上に乗っている錦糸卵からぜんぜん違います。こんな錦糸卵があったのかとおもってしまいました。箱寿司も、本当の箱寿司はこんな味なのだとおもいました。ぜひとも一度食べられることをおすすめします。残念ながら東京では食べられません。



小林秀雄と青山二郎の東京地図



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