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●小林秀雄の東京を歩く
    初版2008年10月25日 <V01L01>

 「小林秀雄の世界」については京都、大阪、奈良と関西を既に歩きましたので、今週から東京と鎌倉を中心に歩きます。今回は小林秀雄生誕の地から府立第一中学校入学までです。


「神田猿楽町三丁目」
神田猿楽町三丁目>
 小林秀雄について伝記的な読み物が無かったため、妹の高見澤潤子さんが書いた「兄 小林秀雄」から歩いてみました。「小林秀雄全集 別巻U」の年譜も参照しています。
「…兄は神田の猿楽町でうまれ、私は牛込の納戸町でうまれた。家のことでも私は、芝(今の港区)の白金今里町に新築した家に来てからのことしか記憶にない。私が五歳頃であっただろう…」
 妹の高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」を参照しましたが、妹さんなので、小林秀雄が生まれてから小学校頃までの事があまり書かれていません。当然なのですが、上記以外に全く書かれていませんでした。

左上の写真は小林秀雄生誕の地、神田区神田猿楽町三丁目三番地付近です。右側の路地先は女坂です。番地からすると写真正面ビルの左側ビルのところになります。現在の住所で千代田区猿楽町二丁目8-5付近です。


小林秀雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
明治35年 1902 日英同盟 0 4月11日 神田区神田猿楽町三丁目三番地で生誕
明治37年 1904 日露戦争 2 6月3日 妹富士子、牛込区牛込納戸町七番地で生誕
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 7 4月 白金尋常小学校入学、芝区白金志田町十五番地に住む
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 13 4月 東京府立第一中学校入学、芝区白金今里町七十七番地に住む
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 21 4月 京都山科の伯父清水精一郎の招待で妹と上洛(京都、奈良を観光)、従兄の西村孝次にも会う
8月 京都で一高対三高の野球試合を観戦
京都山科の志賀直哉を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
22 12月 富永太郎死去
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
25 5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
昭和4年 1929 世界大恐慌 26 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む



「牛込納戸町七番地」
牛込納戸町七番地>
 妹の高見澤潤子さんが生まれたところです。当然ですが小林一家が住んでいたところで、小林秀雄が2歳の頃です。
「…兄は神田の猿楽町でうまれ、私は牛込の納戸町でうまれた。家のことでも私は、芝(今の港区)の白金今里町に新築した家に来てからのことしか記憶にない。私が五歳頃であっただろう。…」
 少し変わったところに転居しています。生誕の地の神田区神田猿楽町は、明治12年に夏目漱石が卒業した錦華学校があったりして有名なところですが、納戸町は神楽坂に近い住宅地で、当時は東京でも田舎だったとおもわれます。

左上の写真は牛込区牛込納戸町七番地付近です。正確には左角の酒屋が10番地ですので、この先左側三軒目です。ただ、番地からの推測ですので詳細の場所は分かりませんでした。現在の住所で、新宿区納戸町7番です。町名と地番は変わっていませんね。珍しいです。


小林秀雄の東京全図


「白金志田町十五番地」
白金志田町十五番地>
 小林一家は小学校入学前に白金志田町十五番地に転居しています。牛込区から芝区へ、かなりの距離を移動しています。牛込区よりは芝区の方が住宅地としては高級だったのではないでしょうか。今でも住宅地としては高級です。
「…母からきかされて覚えているのは、兄は赤ん坊の時は色が白くて、きめが細かくて、女の子のような顔だったので、よちよち歩きの頃までよく女の子と間違えられ、おまけに弱虫で、泣き虫だったということである。…」
 天才は青山二郎、秀才は小林秀雄ですから、天才や秀才は子供の頃はやっぱり弱虫、泣き虫ですね!

左上の写真は現在の白金一丁目と高輪高輪一丁目の境界付近です。東京メトロ南北線白金高輪駅の真上です。小林一家が移り住んだ白金志田町十五番地は正面の道路上になります。五反田から続いている一号線の桜田通りはこの手前で慶応大学の方に曲がってしまいます。昔はこの広い道は無かったわけで、白金志田町十五番地が高輪麻布線という新しい道路の上になってしまっています。

「白金尋常小学校」
白金尋常小学校>
 小林秀雄が入学した小学校が白金尋常小学校です。この小学校は有名です。
「…兄も私も小学校は、家から歩いて十分くらいの、今の港区立白金小学校に通っていた。この小学校は、昭和五十年が創立百周年にあたり、その時には、同窓生の私はクラスの人たちと一緒に、何がしかの寄附をしたが、八芳園で記念祝賀会があり、学校では記念資料展を開き、一般に公開した。
 資料展には、六十数年ぶりに金庫から発見された大仏次郎の卒業式の答辞と、兄の二年生(七歳)の時の作文が展示された。大仏次郎は明治四十三年三月、この小学校を卒業したのだが、総代としてよみあげた自筆の答辞が、和紙に、達筆で書かれてあった。…」

 有名人が卒業しているわけで、大佛次郎もその一人です。130年の伝統をもっており、番町、白金、青南の三大進学校の一つといわれ、白金→高松→日比谷→東大のエリートコースだったようです。

右の写真が現在の港区立白金小学校です。120年間、場所が変わっていません。

「東京府立第一中学校跡」
東京府立第一中学校>
 大正4年4月、小林秀雄は白金尋常小学校から東京府立第一中学校に入学します。
「…優秀な中学校といえば、府立第一中学校(今の日比谷高校)が一番にあげられた。小学校の卒業生の中から、二、三人でも入学出来れば、その小学校は大変な名誉であった。小沢先生のクラスは、兄も入れて七人が一中に合格した。白金小学校全体としても喜んだが、一番嬉しかったのは、小沢先生だったろう。一中の制服を着た合格者七人と一緒に、大きな写真をとった。…」
 夏目漱石や正岡子規が明治20年代に入学した第一高等中学校は、後の第一高等学校で、小林秀雄が入学した府立第一中学校(後の日比谷高校)とは違います。ただ、東京帝国大学への進学校としては、府立第一中学校→第一高等学校→東京帝国大学となるわけです。同級には正岡忠三郎がおり、富永太郎が府立第一中学校に入学したのは大正3年ですから一級上になります。河上徹太郎は富永太郎と同級で3年から編入しています。

左上の写真の左側に府立一中はありました。写真の右側は日比谷公園、左側は合同庁舎6号館です。府立一中は1929年に永田町の現在の場所に移転し、戦後、名前が都立第一高等学校→日比谷高校に変わっています。

「白金今里町七十七番地」
白金今里町七十七番地>
 白金の中で一度移転しています。家族揃った最後の地になります。
「…家のことでも私は、芝(今の港区)の白金今里町に新築した家に来てからのことしか記憶にない。私が五歳頃であっただろう。
 その頃の白金今里町あたりは、五、六十メートルも歩けば、野原や畠やたんばのある静かなところであった。
 その家は、曲り角にあって、日本家屋の平屋で、一問だけ洋間の、全部で八開ある広い家であった。家が広いせいもあったろうが、家族四人とお手伝いさんと、他にいつも誰かがいた。…」

 白金尋常小学校のすぐ傍になります。明治学院の近くです。

右上の写真左側が白金尋常小学校で、正面が白金今里町七十七番地となります。ですから、家の正面が白金尋常小学校となるわけです。詳細は下記の地図を参照してください。


小林秀雄の東京地図 (1)



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