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最終更新日:2006年2月19日


●田中絹代の東京を歩く 蒲田編
  初版2005年3月21日 <V01L02>

 今週から女優の田中絹代を歩いてみます。第一回目は「田中絹代を歩く 蒲田編」です。田中絹代は下関生まれで、大阪から京都、東京と移り住んでいます。今回は蒲田付近の住いを中心に歩いてみました。


<花も嵐も(田中絹代の生涯)>
 田中絹代というと、私は「愛染かつら」が思い出されます。「愛染かつら」は戦前の映画ですから、亡くなられる前ではNHKの「雲のじゅうたん」でのナレーションでしょうか。田中絹代についてはかなりたくさんの本が出版されています。その中で最近出版された「花も嵐も 田中絹代の生涯」に沿って歩いてみました。「…絹代が「大幹部」に昇格したのは、蒲田時代の昭和十年一月だった。…… 絹代の月給は八百五十円に跳ね上がった。絹代にはそのほかにマスター化粧品の専属料が月千円入る。きわめて大ざっばな計算だが、絹代の年収を現代のそれになおすと、およそ一億円というところか。高率の所得税はかかるが、それにしても豪邸を建てるぐらいはわけもないことである。助監督の給料三十円の約二十八倍という高額の収入だが、娯楽の王座といわれた映画で稼ぎまくる松竹キネマの収益を支える大スターへの報酬とすればさしたる数字ではなかった。 松竹映画を上映する映画館は、直営または契約館を併せて、全国に六百館を超えた。蒲田撮影所だけで年間七十本前後の映画を製作し、全国の松竹系映画館に流すのである。昭和十年ごろの映画館入場料は五十銭だった。この硬貨には緑にギザギザがついていたので「ギザ一枚で田中絹代に会いに行こう」などといったキャッチフレーズがチラシに刷られたりした。昭和十年の米価は一石あたり約三十円(角川『日本史辞典』米価表)である。その指数から逆算して当時の入場料五十銭を現代に置き換えると約八百円となる。観客動員率などを考えれば、現行の入場料とだいたい釣り合うものといってよいだろう。…」。2003年度の俳優・タレント部門で年収のトップ(納税額から推定)は「みのもんた」で、納税額一億八千万円(年収は約倍換算で三億六千万円)、二位は石橋貴明(とんねるず)で納税額一億五千万円(年収三億円)となります。田中絹代の年収が一億円ですからそんなに多くはありません。ただし、当時の助監督の供与との差が28倍ですから、現在の格差を考えると60倍(助監督の給与を500万円とする)になります!!

左上の写真は古川薫の「花も嵐も 田中絹代の生涯」文庫本です。2004年12月初版ですから出版されて間もない本です。

【田中絹代】
明治42年(1909)12月29日山口県下関市に生まれています。大正13年(1924)松竹下加茂撮影所に入り「元禄女」でデビューを飾ります。大正14年、上京し松竹蒲田撮影所に移ります。昭和初期には松竹の大スターとなり、戦前の代表作として「伊豆の踊り子」(昭和8年)、「愛染かつら」(昭和13年〜14年)等があり、特に「愛染かつら」は大ヒットして合計4本がつくられました。昭和20年代から30年代にかけては数多くの日本映画の出演しています。田中絹代監督作品として「恋文」等数本があります。75年「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞しています。昭和52年(1977)3月21日没。

田中絹代の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

田中絹代の足跡

大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
17
6月 京都から松竹蒲田撮影所に移籍
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
18
4月 監督清水宏と同棲生活を始める
昭和4年
1929
世界恐慌が始る(暗黒の木曜日)
19
8月 清水宏との同棲生活を止める
昭和6年
1931
清水トンネル開通
満州事変
21
矢口町三百二十三番地に転居(自宅を購入)
昭和11年
1936
2.26事件
26
1月 松竹撮影所が大船に移転


松竹蒲田撮影所跡>
 大正9年 松竹は蒲田に撮影所を開設します(撮影所の詳しい説明は別途特集します)。「…松竹が欧米にならった映画劇の製作にかかったのは大正九(一九二〇)年だった。第一次大戦時、化学薬品を製造していた中村化学研究所跡の敷地買収に成功、その年六月に松竹キネマは誕生した。大正九年頃の蒲田は梨畑と桃畑が並び、自動車学校の仮校舎にボロボロの自動車が一二台置いてあるかたわらに、木造建てのスタジオが寒々として建てられていた。当時は土地も坪五十銭そこそこで買える時代であった。古びた煉瓦造りの建物を事務所に、ところどころの空き地に天幕張のオープンステージができ、つづいて木造のガラス張りの大ステージが建設された。大正十四(一九二五)年六月、田中絹代がはじめて見た松竹キネマ蒲田撮影所は、新しい街の中に威容をととのえていた。門前に立って、絹代は目を見張った。下加茂のスタジオとはくらべものにならないほどの立派さだ。震災で壊滅した撮影所の施設はみごとに復興していた。壁に 「SHOCHIKU KINEMA KAMATA STUDIO 松竹キネマ蒲田撮影所」と大書した建物が、正面にでんと構えている。それがダークステージ (ライト撮影用)で背中合わせにグラスステージがあり、はるかその奥に見える二階建ての白い洋風建築が撮影所本館である。それら主な建物の左右に、大道具・小道具部屋、現像用地下タンク、衣装部、俳優部屋、試写室、オープンセット、所長社宅などが、雑然と広い敷地を埋めている。天気のよい日は、右の方向に富士山が浮かびあがるはずである。ここが日本映画陣の主翼をになう松竹キネマの本拠だ。…」。大正12年9月の関東大震災で松竹の撮影現場は京都に移っていましたが、大正14年、再び蒲田撮影所に戻ってきます。京都でデビューした田中絹代も東京に移ってきます。

左上の写真の正面が松竹蒲田撮影所跡です。現在はアロマスクエアとなっています。ビルの前の小公園に撮影で使われていた松竹橋の模型が置かれています。

蒲田町女塚四四九番地>
 清水宏監督からの田中絹代に対する熱烈な求愛に松竹蒲田撮影所も同棲を許します。田中絹代18歳のときでした。「…清水は新しい出発にさいして、蒲田町女塚四四九番地の新築に移り、絹代はその家に入って、彼との共同生活を始めた。試験結婚とか婚約とごまかしても、事実上の結婚だった。そのことはほどなく人々の知るところとなったが、それが大々的なニュースになるほどには絹代の名はまだ知れわたっていなかったのである。 城戸所長は、田中絹代という″金の卵″を、今のうちに孵化させようと思い立った。そのために昭和二年の全力製作リストとして、早くからあたためていた大作の重要な脇役に絹代を選んだ。菊池寛原作の『真珠夫人』は、六、七巻が普通だった当時では十七巻という長尺物超大作だった。…このころから絹代はどこかに母親を住まわせる豪邸を建てようともくろんでいた。松竹のトップスター粟島すみ子が、夫の池田義信と住んでいる家は、東京池上にあって"池上御殿″と呼ばれていた。絹代も何度かそこへ招かれて行っている。  − わたしはあれよりもつと大きい御殿を、母さんのために建ててみせる。絹代はそう思っていた。…」。田中絹代も京都から移ってきて一年あまりであり、まだ幹部にはなっておらず、今から考えれば清水宏監督との同棲は出世するためのワンステップではなかったのかとおもわれます。現代の石田純一と長谷川理恵の関係みたいなものですね。女性の方がある程度ステップアップすると女の方から振ってしまいます。

右上の写真右側は新呑川です。この左側辺りが当時の蒲田町女塚四四九番地です。現在の蒲田5丁目22番地の川沿付近で、松竹蒲田撮影所からは300m位ですぐ近くでした。川と橋の位置は昔と変わりませんが道路は区画整理されており正確な場所は不明です。

矢口町三百二十三番地>
 田中絹代は清水宏監督と別れたあと、蒲田からほど近い目蒲線下丸子駅から武蔵新田駅に少し戻ったところの住宅を購入し転居します。「…絹代の収入は三倍にはね上った。家を買うことにした。幹部女優が借家なぞに住んでいてはならない。それにこの際、清水宏の家からも離れたかった。近くの矢口に、手ごろの家があったので買った。二階屋である、絹代が二階に上り、母や兄や姉たちが階下に住んだ。矢口町三百ニ十三番地。田中絹代の表札をあげた。…」。蒲田駅まで四駅(当時は下丸子駅、武蔵新田駅、矢口ノ渡駅、道塚駅、蒲田駅となっており、現在は道塚駅がなくなっています)でした。

左上の写真左側付近が矢口町三百二十三番地です。現在の下丸子一丁目一番地付近です。下丸子駅と武蔵新田駅の中間辺りです。

慶応大学運動場跡>
 田中絹代は巨人軍の水原と親しくなります。「…野球部員を惑わさないでもらいたいと、慶応大学から蒲田撮影所に抗議があり、逆にうちの女優を誘惑しているのは慶応の野球部ではないかと蒲田撮影所がやり返したといった記事で賑わったりもした。絹代がとくに親しくしたのは水原で、清水と別れてからも交際はつづき、絹代が慶応の合宿所近くに家を見つけて引っ越したというニュースも流れたが、これはどうやら虚報のようだった。あること無いこと取り混ぜて無責任な芸能人に関わる記事がまかり通るのは、今もむかしも変わらない。絹代が神宮球場に早慶戦を見に行き、水原がホームランを打つと、新聞は「恋のホームラン」などと書いて面白がった。また早稲田応援席から、ひやかしのリンゴがグラウンドに投げこまれ、怒った水原がそのリンゴを投げ返した事件のときも、絹代は慶応の応援席にいた。非難される水原を弁護して黄色い声を張り上げるというようなこともあった。絹代は相当に酒も飲める。酔って 「わたし、水原さん好きよ」などと不用意なことも言い、ゴシップ・ライターたちを喜ばせたのだった。…」。当時、武蔵新田駅近くに慶応大学運動場があり、それに伴って野球部の合宿所が新田神社の傍にありました。慶応大学運動場は今は無く、同潤会住宅になったりしています。

右の写真付近全体が慶応大学運動場跡です(下の地図を参照)。水原との関係はかなり進んでいたのではないでしょうか。「…水原がホームランを打った天覧慶早戦(昭和四年十一月)の勝利記念メダルには、「12A T0 0 NOV.1st 1929 S.MIZUHARA」、と刻印してある。彼に与えられた貴重な記念品は水原自身の手から絹代に贈られていたのである。幾重にも包んで引き出しの奥にしまい込まれていたそれが、絹代の遺品の中に発見されたのは、平成十一(一九九九)年十一月、下関で催された「生誕九〇年記念田中絹代の世界展」の準備中のことであった。…」

次回は「田中絹代の鎌倉」を訪ねます。

<田中絹代の東京地図>

【参考文献】
・花も嵐も 女優・田中絹代の生涯:古川薫、文春文庫
・小説 田中絹代:新藤兼人 読売新聞社

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