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最終更新日:2006年2月19日


●田中絹代の三崎町諸磯を歩く
  初版2005年4月9日 <V01L02>

 今週も引き続いて女優の「田中絹代を歩く」第三回を掲載します。田中絹代は鎌倉山から下関の雰囲気のある三浦市三崎町諸磯の海のすぐ傍に住居を移します。


<三浦市三崎町諸磯>
 下関出身の田中絹代は雰囲気のよく似た三浦市三崎町諸磯の別荘地に家を建てます。「…三浦半島の突端のあたり城ケ島に近い三浦市三崎町諸磯に適当な宅地があると聞いて、そこに家を建てることにした。田中絹代が諸磯に家を建てると聞いて、京マチ子、水戸光子らも一緒にと言い出した。彼女らは別荘のつもりだろうが、絹代はいずれ隠退してから住みつく場所と考えていた。絹代は同業者のなかに親友と言えるほどの親しい者がいない。それは絹代だけでなく、競争の激しい俳優稼業をしている人々に共通することで、よほどの例外を除いてそうであった。同じ土地に集まって暮らすなど、思いもかけないことだったから、結局それぞれがどんな家を建て、どう利用しているかについては互いに無関心のままである。…」。写真の正面付近が別荘地として分譲されたようです。右上に京マチ子の別荘が、正面やや左が水戸光子の別荘となります。田中絹代の第一の邸宅は京マチ子と水戸光子の別荘の間になります。第二の邸宅は水戸光子の別荘の丁度上側になります。

左上の写真は三崎港に行く途中の海岸縁から撮影したものです。こちら側からみるとすぐに行けそうに見えますが、山の上から細い道(車は途中までです)を歩いて下りてくるので大変です。台風等で海が荒れたらモロに波を被りそうです。(実際に見たことはないのでわかりませんが)。別荘としては良いとおもいますがずっと住むには大変な所です。

【田中絹代】
明治42年(1909)12月29日山口県下関市に生まれています。大正13年(1924)松竹下加茂撮影所に入り「元禄女」でデビューを飾ります。大正14年、上京し松竹蒲田撮影所に移ります。昭和初期には松竹の大スターとなり、戦前の代表作として「伊豆の踊り子」(昭和8年)、「愛染かつら」(昭和13年〜14年)等があり、特に「愛染かつら」は大ヒットして合計4本がつくられました。昭和20年代から30年代にかけては数多くの日本映画の出演しています。田中絹代監督作品として「恋文」等数本があります。75年「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞しています。昭和52年(1977)3月21日没。

田中絹代の鎌倉・三崎町諸磯年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

田中絹代の足跡

昭和9年
1934
溥儀が満州国皇帝に即位
丹那トンネル開通
24
11月 松竹大船撮影所の地鎮祭
昭和11年
1937
2.26事件
26
1月 松竹撮影所が大船に移転
12月 蒲田から鎌倉山旭ヶ丘に転居
昭和24年
1949
下山事件三鷹事件、松川事件
39
昭和初期の法務大臣岩田宇造の鎌倉山別荘に転居、旭ヶ丘は売却
昭和31年
1956
石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞受賞
売春防止法が公布
46
一時期、千代田区内幸町の帝国ホテルに住む
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
49
三浦市三崎町諸磯の第一の邸宅に転居
昭和40年
1965
谷崎潤一郎死去
55
再び鎌倉山(腰越)に新築し転居
昭和43年
1968
南ベトナムでテト攻勢
プラハの春
58
見晴台の屋敷(旧岩田宇造邸)と諸磯の邸宅を売る
昭和51年
1976
周恩来死去
ロッキード事件
66
三浦市三崎町諸磯の第二の邸宅がほぼ完成
昭和52年
1977
宇宙戦艦ヤマト映画化
67
田中絹代死去


三崎町諸磯 第一の邸宅跡>
 昭和34年に建てた第一の邸宅は、相模湾側には直接面しておらず、小さな湾側に面しています。「…絹代は落成した家に家財道具をはこび、昭和三十八年まではここを住所としたが、京浜急行線の鉄道便はあるにしても、乗換えなどしていると東京まで三時間ばかりはかかる。仕事に入れば、撮影所近くに宿をとるしかなかった。それでも絹代は諸磯が気に入っていた。はじめに建てた家からは、三崎漁港のかなたに浦賀水道の海面が遠くひろがり、さらにその向こうには太平洋が横たわっている。絹代は海が好きだった。それは子供のころ住んだ高台の家から毎日ながめた関門海峡の風景につながっている。鎌倉山に住もうと決めたのも、そこから海の見える眺めに惹かれてのことだった。…」。京浜急行本線の終点三崎口駅から約5.5Km(バス停「浜の原」まで)、そこから何もない畑の中を500m歩いて海縁に下っていきます。タクシーか自家用車でないと到底通えない場所です。もっとも自家用車だと駐車場が遠く離れたところになりそうです。

左上の写真の正面辺りが第一の邸宅でした。正面が小さな湾になっています。「浜の原」バス停から歩いてくるより、近くの港から船で来た方が簡単ではないかとおもいます。

三崎町諸磯 第二の邸宅>
 田中絹代の第二の邸宅は岬の突端の丘の上にありました。亡くなられた後は空き家になっていましたが、現在は何方かが改装されて住まわれているようです。「…そこで昭和四十三年には、見晴台の屋敷を売り、また諸磯に建てていた家も売り払って、前から計画していた三崎の諸磯隆起海岸の岩の上に ″終の住処″をつくる計画に乗り出した。……諸磯の家に行くには、車なら鎌倉から約一時間、京浜急行に乗れば終着駅「三崎口駅」で降りる。まばらに商店が並ぶ狭い道路を十五分ばかり車で走ると、左右に海が見えてくる。車を捨て、右側にひろがる大根畑、左に入江を望む農地の坂を数メートル下ると、突然、相模灘の海面が盛り上がるように視界をふさぎ、左手の崖の上に、奪え立つ白壁の二階建てが、建築中の田中邸だった。石段を十段ばかり昇り、格子のガラス戸をたてた玄関、その敷居をまたぐと、正方形の鉄平石を敷きつめた床がひろがる。和風のロビーという趣きである。そこから白木の階段を昇ると中二階の和室があり、左側の窓から海が見え、右の明かり取り障子を開けると、吹き抜けになった玄関のロビーを見下ろすことができる。ここを寝室にするつもりだった。階下の突き当たりは板張りになって、右の奥が厨房、手前にホームバーの棚をつけたコーナーとなる。右の板張りはサロン風にして、ここにはすでにショッキングピンク−−絹代は赤が好きで、箪笥なども朱色のものを好んだ−−のイタリア製長椅子が据えてある。天気のよい日、そこで横になると窓ガラス越しに、相模灘のはるかむこうに富士山が浮かびあがるという趣向だ。そこの窓から覗けば、眼下に隆起海岸の岩場が、打ち寄せる波に洗われているのだった。…」。海面からはすこし距離があるので波には直接は被らないとおもいますが、風をモロに受けるので大変ではないかとおもいます。でも、眺めは素晴らしいです。こんな場所はなかなかないでしょう。

右上の写真は田中絹代の第二の邸宅跡ですが、この道を下りて左側に進むと第一の邸宅跡となります。右に曲がると海岸の岩場にでます。(個人のお宅ですので詳細の場所は控えさせていただきます)

鎌倉円覚寺松嶺院
 戦後田中絹代は昭和52年3月11日入院中の順天堂大学付属病院で亡くなります。「…昭和史とともにあゆんだ日本の女優田中絹代が息を引き取ったのは、昭和五十二(一九七七)年三月二十一日午後二時十五分だった。 ……二十三日午後一時から密葬、本葬は月末ということになった。三月二十二日の朝刊は一斉に 「花も嵐も………67年」といった大カットをつくって、田中絹代の死を報じた。……三月二十九日、総理府賞勲局から田中絹代にたいする勲三等瑞宝章の追贈が伝達された。法名は「迦陵院釈尼絹芳大姉」である。行年六十七。葬儀は三月三十一日、築地本願寺で映画放送人葬としておこなわれた。…」。昭和52年3月22日の朝日新聞夕刊三面は、「花も嵐も・・・67年、映画への情熱貫く、病床でも女優の習い性…」、の大タイトルで8段抜きで書かれています。

左上の写真は分骨されている鎌倉円覚寺松嶺院です。残念ながら中に入れませんでした。下関のお墓については別途特集します。

鎌倉「つるや」>
 「…入院した当時の絹代は、病床に起き上がり、付き添っているイセ子や、一日に一度かならず顔を見せる仲摩新吉を相手に機嫌よく喋ったりしていた。やや換状態を感じさせたが、力が残っている逼判ではあった。「新ちゃん、つるやの鰻を買ってきて」 と、何度か行かせている。鎌倉由比ケ浜通りの「つるや」 の蒲焼が好物だった。長兄の慶介が失踪する直前、絹代に鰻の蒲焼をご馳走してくれた。鰻を食べれば、その兄を思い出し、力づけられるような気がする。絹代の鰻好きは、 単なる嗜好品というのではなかった。こうして入院しているときは、ことに鰻を欲しい と思う。それで病魔を追い払えると信じていた。…」。田中絹代が鎌倉山時代によく通った鰻屋さんです。川端康成もきていたようで、周りに鰻屋がないのか、みんなここにきているようです。

右の写真正面が「つるや」です。残念ながら私が訪ねた土曜日は予約でいっぱいで食べられませんでした。確実に食べるには事前に予約が必要です。

田中絹代の「下関」と「大阪」は別途特集します。

<田中絹代の三崎町磯崎地図>

【参考文献】
・花も嵐も 女優・田中絹代の生涯:古川薫、文春文庫
・小説 田中絹代:新藤兼人 読売新聞社

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