kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2018年06月07日


●田中絹代の鎌倉を歩く
  初版2005年4月2日
  二版2007年4月22日 <V01L01> 鎌倉円覚寺松嶺院の写真を追加

 今週は女優の「田中絹代を歩く」の第二回目として「鎌倉を歩く」を掲載します。松竹撮影所が蒲田から大船に移るに伴って田中絹代も大船近くの鎌倉山に新たらしい住居を構えます。田中絹代は生涯この付近で過ごすことになります。


<鎌倉山>
 田中絹代は松竹撮影所の大船への移転に伴い、大船付近で住む住居を探します。矢口町とは違って其れなりの住居とするつもりだったようです。今週も古川薫の「花も嵐も 女優・田中絹代の生涯」に沿って歩いてみます。「…南側の海岸由比ケ浜の背後は標高百四十メートル前後の丘陵となっている。その部分を鎌倉山と呼んだ。相模湾を眼下にのぞむこの高台を宅地にする動きが始まったのは、絹代が豪邸の建設地を物色しているころである。江ノ島電鉄の社長などをつとめ政界の黒幕とされた菅原通済らによって鎌倉山住宅地設立準備委員会が発足、分譲地購入希望者の募集に入った。。……第一回分譲地の申し込みは二百二十六人、ほとんどが政財界で活躍する大物たちである。公爵近衛文麿、公爵徳川家達、大蔵大臣三土忠造、大倉組頭取大倉喜七郎、秩父鉄道社長末山熊次郎、三井物産参事高西淑次、内閣書記官長森烙……といった人々にまじって、芸能界からはオペラ歌手藤原義江、歌舞伎俳優の市村羽左衛門、松本幸四郎そして映画俳優田中絹代も第一回分譲組として、鎌倉山の土地を取得した。…」。当時としては鎌倉山は高級住宅地でした。大船から鎌倉山まで自動車専用道路(今の湘南モノレールが走っている道です)を作ったりしています。当時のパンフレットを見ると、上水道、鎌倉電話、 晝夜電燈電熱、購買組合、専用自動車道乗合自動車、海水浴行特発乗合自動車、ガーデンゴルフリンクス、テニスコート、帝国ホテル分店、温泉旅館、簡易食堂、等が書いてあり、いまの不動産の宣伝とあまり変わりません。

左上の写真は鎌倉山の入り口です。写真正面やや左側の石柱は関東大震災で倒れた鶴岡八幡宮の三の鳥居のうちの一本を譲り受けてここに建てたものです。

【田中絹代】
明治42年(1909)12月29日山口県下関市に生まれています。大正13年(1924)松竹下加茂撮影所に入り「元禄女」でデビューを飾ります。大正14年、上京し松竹蒲田撮影所に移ります。昭和初期には松竹の大スターとなり、戦前の代表作として「伊豆の踊り子」(昭和8年)、「愛染かつら」(昭和13年〜14年)等があり、特に「愛染かつら」は大ヒットして合計4本がつくられました。昭和20年代から30年代にかけては数多くの日本映画の出演しています。田中絹代監督作品として「恋文」等数本があります。75年「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞しています。昭和52年(1977)3月21日没。

田中絹代の鎌倉年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

田中絹代の足跡

昭和9年
1934
溥儀が満州国皇帝に即位
丹那トンネル開通
24
11月 松竹大船撮影所の地鎮祭
昭和11年
1937
2.26事件
26
1月 松竹撮影所が大船に移転
12月 蒲田から鎌倉山旭ヶ丘に転居
昭和24年
1949
下山事件三鷹事件、松川事件
39
昭和初期の法務大臣岩田宇造の鎌倉山別荘に転居
昭和31年
1956
石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞受賞
売春防止法が公布
46
一時期、千代田区内幸町の帝国ホテルに住む
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
49
三浦市三崎町諸磯に転居
昭和40年
1965
谷崎潤一郎死去
55
再び鎌倉山(腰越)に新築し転居


松竹大船撮影所跡>
 昭和9年 松竹は撮影所を蒲田から大船に移します(撮影所の詳しい説明は別途特集します)。「…昭和九年、日活は京王電鉄多摩川原駅前に朝日映画連盟という会社が建てたまま放置している撮影所を買収し改修して、関東大震災以後京都に移していた現代劇部をここに移した。日活多摩川撮影所が、陣営を強化して出発、松竹の新たな脅威となった。「老朽化した蒲田を捨てて、どこかに拠点を移さなくてはなるまい」 蒲田撮影所長の城戸四郎は、ひそかに候補地を物色していた。そこで浮かび上がったのが大船である。大船は現在、鎌倉市北部の一地区だが、当時は小坂村と玉縄村が合併してできた大船町で、東海道本線と横須賀線の分岐点にあたる大船駅を、ぽつんとおいただけの荒涼たる原野といった場所だった。大正十一年ごろ、東京渡辺銀行を中心とする「大船田園都市株式会社」が発足し、付適を開拓して「新鎌倉別荘地」と宣伝して売り出しにかかったが、関東大震災で立ち消えになってしまった。緑にかこまれ、海にも近い。映画製作の環境イメージとしても恰好の土地である。城戸が前々から夢に描いてきた撮影所を核とした田園都市づくり、つまりアメリカのハリウッドのような映画王国にふさわしい条件がととのっている。城戸の構想を聞いた大船町が、町所有の土地二万坪を提供しようと申し出たことで、城戸の夢は一挙に実現のはこびとなった。そして松竹キネマの宣伝を兼ねた地鎮祭にこぎつけたのである。…」。残念ながら松竹大船撮影所は2000年6月に64年の歴史に幕を閉じ鎌倉女子大学に売却されました。

左上の写真の正面が松竹大船撮影所跡です。現在はイトーヨーカドー、三越、鎌倉女子大学等になっています。写真の交差点が松竹前交差点です。一時期、鎌倉シネマワールドになっていた時に訪ねたことがあります。

鎌倉山旭ヶ丘>
 田中絹代は家族とともに昭和11年12月、蒲田矢口町から鎌倉山旭ヶ丘に引っ越しています。「母親やきょうだいと昭和十二年の正月をここで迎えるため、落成を待ちかねたように絹代が鎌倉山の新築家屋に入居したのは、師走も押し迫ったころだった。旭ヶ丘は長谷から大仏坂を過ぎ、切通しを抜けて左手の急坂を登ったあたり、丘陵のほぼ項上に位置する最高の眺望にめぐまれた一等地である。晴れた日にはコバルトブルーの相模湾のかなたに、富士山が清冽な姿を見せた。五百坪の敷地内に、総桧造りの母屋と別棟の離れを建て、絹代はその離れを自室とし、渡り廊下で結ぶ八十坪の母屋にヤスを住まわせた。道路沿いに門をしっらえ、右に二十段ばかりの石段を登ると、緑につつまれた広い庭園に出る。…西に隣接して近衛公爵の別邸、また東隣りは藤原義江邸である。朝早く、あたりの空気を震わせる義江の歌声が、絹代の部屋まで流れてくる日もあった。…」。この鎌倉山の分譲が始まったのが昭和3年7月です。田中絹代は第一回の分譲申し込みに入っていましたから昭和3年には申し込んでいたことになります。松竹大船撮影所の地鎮祭が昭和9年ですから、撮影所に関係なく申し込みをしていたのではないかとおもいます。

右上の写真左側の門の所が田中絹代旧宅です。写真のコントラストが強すぎてよく見えません。何処かで撮り直す予定です。この写真の門の前で田中絹代を撮影した写真があります。持ち主は変わっていますが門は昔のままでした。またこのすぐ左側に近衛邸がありました。藤原義江邸については上記には東隣と書いておりますが、数軒離れた東隣となります。(個人のお宅ですので詳細の場所は控えさせていただきます)

元司法大臣岩田宙造邸>
 戦後すぐに田中絹代は鎌倉山にもう一軒の家を持ちます。「…このころ鎌倉山の見晴台で、売りに出ている屋敷があるがどうかという話が不動産業者から持ち込まれた。前に住んでいた旭ヶ丘から五百メートルばかり離れた位置にある広大な屋敷だ。元司法大臣岩田宙造邸で、三万坪の敷地に、三棟・二百坪の日本家屋が建てられている。絹代御殿と呼ばれた旭ヶ丘の田中邸とはくらべものにならない、これこそ豪勢な御殿である。旭ヶ丘の屋敷は、道路一つをへだてで海を望んだが、この旧岩田邸は直接海側に迫り出した高台に建てられている。……岩田宙道は昭和二十年八月の敗戦時に成立した東久邇宮内閣、次の幣原内閣の司法大臣をつとめた。この屋敷が人手にわたるのも、時代の移り変わりを物語っていよう。六百万円だという。買うことにした。旭ヶ丘の家にくらべてあまりにも立派なのが癖だから、一度住んでみたいと思った。地名の通り見晴らしは絶好だ。…」。この頃が田中絹代の絶頂期だったのでしょう。昭和24年の銀行員の初任給が3千円だったころの600万円です。現在との比率を70倍とすると、4億2千万円となります。

左上の写真の道を少し入ったところです。入り口に建物を紹介した記念碑があり、現在は「山椒洞」という懐石料理屋さんになっています。建物はそのままだとおもいます。海までは少し距離がありますが、谷間を抜けて七里ヶ浜の先に相模湾がよく見えます。

腰越の家>
 年を経るにつれて田中絹代は仕事の量を減らします。兄弟の看病等で時間を取られたからでした。「…祥平の病状がやや回復し、退院することになったので、諸磯の家に引き取って看病することにした。しかし諸磯は不便なところだったので、見晴台の屋敷のすぐ近くで腰越というところに祥平のための家を一軒建てることにした。……そこで昭和四十三年には、見晴台の屋敷を売り、また諸磯に建てていた家も売り払って、前から計画していた三崎の諸磯隆起海岸の岩の上に ″終の住処″をつくる計画に乗り出した。三崎の家が完成するまで、腰越の家で祥平と暮らすことになる。外からの客をまったく予想しない造りだったから、「これが田中絹代の家か」とおどろかれるくらいに貧相な建物で、玄関もいわば安アパートの人口みたいな構えだった。…」。一時期、帝国ホテルや三浦半島の突端、諸磯に住んだりしましたが、看病のため鎌倉山に再び家を建てます。

右の写真正面が田中絹代の腰越の家でした。現在は土台と塀しか残っていません。上記の元法務大臣岩田宇造邸入り口のすぐ右側になります。

鎌倉円覚寺松嶺院(田中絹代のお墓)>
  
2007年4月22日 写真を追加
 田中絹代の遺骨は分骨されており、一つ目のお墓は横須賀線北鎌倉駅の円覚寺松嶺院にあります。「…絹代の分骨は鎌倉円覚寺松嶺院の墓地に三回忌に墓碑が建てられた。絹代の首のブロンズと、別に絹代に捧げられた「藝に游(あそ)ぶ」という会津八一のおおらかな筆跡が花崗岩に刻まれている。 郷里に送る絹代の遺骨は小林正樹監督が、遺言にしたがって下関にはこび、絹代の母親ヤスをはじめ兄や姉たちが顔をそろえる寺の墓地に納めた。 六十年前、石もて追われるように下関を去った母と子らが、寄り添って安らかに眠れる場所は、やはりふるさと関門海峡のほとりに回帰するしかなかったのである。。…」。円覚寺松嶺院は春・秋2回しか一般公開しかされませんのでご注意ください。もう一つのお墓は下関市霊園にあります。こちらの方は未訪問です。

左上の写真が円覚寺松嶺院です。この裏山に田中絹代のお墓があります。この円覚寺松嶺院には坂本弁護士のお墓もありますので一度訪ねられたらとおもいます。

<田中絹代の鎌倉地図>

【参考文献】
・花も嵐も 女優・田中絹代の生涯:古川薫、文春文庫
・小説 田中絹代:新藤兼人 読売新聞社

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール