●川端康成の「浅草紅団」を歩く -4-
    初版2001年11月24日
    二版2013年8月10日  <V01L01> 暫定版

 「浅草紅団(浅草紅團)」を引き続いて掲載します。前回は米久通り、たぬき横町、仁王門から四区の水族館、昆虫館、浅草六区三号の一部までを歩きました。今回は二天門、雷門、地下鉄食堂から玉木座、十二階を歩きます。浅草の中心街が主になってきました。




「浅草紅団」
<川端康成 「浅草紅団」>(この項前回と同じ内容です)
 三人の作家の浅草を順次歩いています(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。今回は昭和5年に書かれた「浅草紅団」に沿って戦前の浅草を歩いてみます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「 ── 作者イウ。コノ小説ノ進ムニ従ツテ、紅団員ハジメ浅草公園内外二巣食ウ人達ニ、イカナル迷惑ヲ及ボスヤモ計り難イ。シカシ、アクマデ小説トシテ、コレヲ許サレヨ ──

     ピアノ娘

          一

 鹿のなめし革に赤銅の金具、瑪瑙の緒締に銀張りの煙管、国府煙草がかわかぬように青菜の茎を入れた古風な煙草入れを腰にさげ、白股引と黒脚絆と白い手甲、そして渋い盲縞の着物を尻はし折って、大江戸の絵草紙そのままの鳥刺の姿が、今もこの東京に見られるという。言う人が警視庁の警部だから、まんざら懐古趣味の戯れでもあるまい。
 してみれば、私も江戸風ないいまわしを真似て、この道は ── そうだ、これから諸君を紅団員の住家に案内しようとするこの道は、万治寛文の昔、白革の袴に白鞘の刀、馬まで白いのにまたがって、馬子に小室節を歌わせながら、吉原通いをしたという、あの馬道と同じ道かどうかを、調べてみるべきかもしれない。…」


上の本は「浅草紅團」の復古版として昭和51年7月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載され、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されました。文庫本は講談社版がありましたが、単行本は既に販売されていませんので、上記の本を古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。この小説は書き出しが面白いのです。

【川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)】
 大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れる。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品を発表して、1968年(昭和43年)にノーベル文学賞を受賞。日本人初の受賞となります。1972年(昭和47年)、満72歳で鎌倉で自殺。(ウイキペディア参照)


浅草地図 -1- (高見順の浅草地図を参照)



「二天門」
<二天門>
 浅草寺の東にある門が二天門です。二天門を東に出ると馬道通りの二天門交差点から江戸通りを経て隅田公園にでます。墨田川は直ぐ目の前です。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… 表には、踊子の帰りを見ようとする三人、五人が寒々と立っている。みくしを右手につかんだまま、男は舌打して振り返った。赤旗が立ち並んだ入口に、人魚の浮彫が立ち、人魚の上を石膏の魚が泳いでいる。
 「おれの顔ももう浅草できかないと見える。小娘にぺろりとなめられた。地図までいただいて、念が入り過ぎてら。」
 全く ── その河岸へ行くに地図はいらない。弓子の地図を言葉に直しても、次のように簡単だ。 ── 浅草寺の東の出入口、二天門から、二天門通を、真直ぐ大川へ突きあたれば、それでいいのだ。
 電車道を横切る、川べりは山之宿町、河岸は公園工事中、左言問橋、直ぐ右に東武鉄道の鉄橋架橋中、岸に二三十般小船がある。そのうちの紅丸、「紅丸」とは船尾に赤い字── などくどくど書かなくとも、二天門から河岸が見えるのだ。地図の表のみくじには、「待ち人来たらず。」とある。…」

 
 上記に書かれている”電車道”は江戸通りです。二天門から東を見ると、微かに隅田川の川岸が見えます。隅田川の隅田公園から見た”言問橋”と”東武鉄道の鉄橋”の写真を掲載しておきます。反対側の川岸にある高速道路が当時とは一番違います。

写真は現在の二天門を西側から撮影したものです。真っ直ぐに進むと隅田川になります。馬道通りの二天門交差点を越えた左が台東区民会館でバスの駐車場になっています。少し歩いた右側に浅草小学校、左側に花川戸公園があります(助六の歌碑がある)。

「雷門巡査派出所」
<雷門巡査派出所>
 浅草寺の雷門にある雷門交番です。現在は雷門の東側にありますが戦前は西側にあったようです。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…      銀猫梅公

          十三

 紅丸が山之宿の河岸を離れた頃であろうか。
 「例年の社会鍋でございます。貧しい人達に正月のお餅をお恵み下さい。」と、救世軍の女士官の叫びに振り向いた私は、はてとそこに立ち止まった。雷門巡査派出所の横だ。仲見世の入口だ。交番の軒に銀杏、うしろに自働電話とポストと社会鍋、そして横っ腹に「善の鏡」−鏡と並んで告知板がある。
 その黒板にたった一つの告知を、私は読んだのだ。
  ── 花川戸に集まれ。紅座。
 私の笑い顔が「善の鏡」に写っている。黒板の縁には、「象潟警察署」、「皆さまの告知板」、「在郷軍人浅草分会」 ── なぞとペンキで書いてある。
 もう私のぐるりを、暦売りの子供がうるさくかこんでいる。
 「交番の横っ腹で、仲見世の賑わいで ── こう大っぴらだと、反って誰一人怪しまない。…」


 浅草寺の山門(雷門)はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられています。最後の火災は慶応元年(1866)で以後100年近く恒久的な建物としては山門は建てられませんでした。明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられています。いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまでした。明治37年(1904)の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられています。昭和35年(1960)松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助氏が門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が建てられます。風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っています。

写真は現在の雷門です。東側に浅草警察署雷門交番があります。昭和14年の浅草絵図で確認すると、交番は西側にあります。自働電話(公衆電話)も西側の交番の後にありました。

「営団雷門ビル」
<地下鉄食堂>
 雷門から東に60m程歩くと「かんのん通り(旧地下鉄横町)」で通りの右角が営団雷門ビルです。このビルの中に地下鉄食堂がありました。残念ながら当時のビルは平成18年に解体され新ビルになっています。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…相変らず心理の遊戯をやってるな。」とつぶやきながら、私も花川戸へ行くことにした。
 大江戸は助六の名にゆかりある花川戸 ── 諸君、私は紅団員ではないのだが、「花川戸」とは、「地下鉄食堂」という意味の、彼等の隠語だ。これは昭和四年の秋建築中に、「花川戸ビルヂング」と名づけられていたからだ。
 古い十二階の塔は地震で、ぼきりと折れた。地下鉄食堂の階数はその半分の六階だが、高さ四十メエトル、浅草で唯一つエレヴェタアのある見晴し塔だ。…

右の方に、エレヴェタアと並んで食券の売場だ。「食べなければ、塔へ上るの、いけないってわけないでしょう。ほれごらんなさい、ちゃんと書いてあるわよ。 ── 地上鉄塔四十メエトル、御自由にお登り下さい。」…「 ── あら、もう六階なの?」 エレヴエタアの前が調理室だ。その横を屋上庭園へ出て、黒と白の化粧煉瓦の市松模様を踏みながら、…食堂は二階から五階、それぞれ壁紙の色や装飾灯までちがえて、近代風に明るい清潔だ。二階と三階は禁酒だ。しかし、私達が入った、緑色の壁の五階でも、もちろんコオヒは飲めるのだ。西窓の街の向うに、上野松坂屋の旗が見える。……尖塔 ── 教会の屋根の鐘楼のような、円いコンクリイトの塔だが、東西南北に四つの見晴し窓、窓の裾は金網、壁は裾だけ緑色で、上は薄水色、円い天井にガラスの装飾灯だ。…東の窓は−目の前に神谷酒場。その左下の東武鉄道浅草駅建設所は、板囲いの空地。…」


地下鉄、東武鉄道の開業状況(浅草紅団の前後)
和 暦 西暦 年       表
昭和2年 1927 12月30日 - 上野 - 浅草間に東洋で初めての地下鉄が開業
昭和4年 1929 10月  1日 - 浅草駅雷門ビル完成、地下鉄食堂の営業を開始
昭和5年 1930 東京紅団:東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載
昭和6年 1931   5月25日 - 東武鉄道浅草駅(当時は浅草雷門駅)が開業
昭和6年 1931 11月  1日 - 浅草駅ビル(東武ビル)が完成(同日、浅草松屋オープン)
昭和9年 1934   6月21日 - 銀座 - 新橋間の開業で、全線開通となった
昭和14年 1939   9月16日 - 渋谷 - 新橋間の直通運転を開始

当時の地下鉄食堂メニュー
地下鉄食堂メニュー 当時の価格 換算価格
御飯、パン、コオヒ、紅茶 五銭 500円
レモン・ティ、ソオダ水 七銭 700円
アイスクリイム、ケユキ、パインナップル、果物 十銭 1,000円
エビ・フライ、ライスカレエ、お子様料理 二十五銭 2,500円
ビフテキ、カツレツ、コロッケ、ハムサラダ、ロオルキャベツ、ビイフシチュウ 三十銭 3,000円
ランチ 三十五銭 3,500円

 地下鉄食堂のメニューが「浅草紅團」には書かれています。値段が高いですね、高級食堂だったようです。

写真は現在の営団雷門ビルです。戦前のビルには尖塔があり当時としては人気があったようです。空襲で尖塔がなくなり戦後は尖塔なしのビルでしたが平成に建て直されています。

「玉木座跡」
<玉木座>
 次は玉木座です。浅草六区のメイン通りには無く、伝通院の西北、木馬館へ向う途中にありました。台東区立下町風俗資料館発行の「浅草六区興行史」を見ても玉木座についてはほとんど書かれていません。川端康成の「浅草紅団」が書かれた昭和5年初めまでは、御園座(玉木座)は安来節で有名でした。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…「おや、君は今さっき玉木座で、僕の隣りにいた人ですね。」
 娘はハンカチを快へ円めこんで、さっさと歩きだした。梅吉は少し驚いたらしかったが、
「玉木座で君、眼に涙を一ぱいためていたね。僕見てたよ。なんか悲しいことがあるんでしょう。外へ出て涙を拭く時に、そのハンカチを落したんだね。涙で少し湿っでやしなかったかな。」
「それであんた、その悲しいことを聞いてやろうっていう御親切ね。」
「う。」
「ちょいとあんたの先廻りしちゃったわね。」
「おい君。」
「ハンカチを返せでしょう。だけどもらっといてもいいわね。こんなもの、まだ予備が三四枚ポケットにあるんじゃない? もっと乗せられがいのある、新手をお出しなさいよ。」
「ははははあ、とんだお見それ申しやしたってやつかね。そいつも面白い。とにかくハンカチは、涙を拭く役には立つさ。」
「ほんとうま。」と、娘はハンカチを出して、眼をこする振りをしながら、
「あの(銀座小唄)ね、私あれを聞いてると変に涙が出ちゃったのよ。」
「銀座病患者か、お前もね。」
「だって、玉木座じゃ、安来節だって、小原節だって、万才だって、見物はみんなお座敷へ芸者を呼んだつもりで、囃し立てたり、合の手を入れたり ── 職工や土方の宴会だわ。それがどう? (銀座、銀座、恋し銀座) つて、ジャズで歌い出すと、みんなしいんと鳴りをしずめちゃって、お殿様の前へ出た乞食みたいに神妙にさ。一たい銀座ってなんなのよ? 玉木座の客には銀座になんの用があるの? 銀座を見たこともない人だって、きっと多いわ。銀座のお嬢さんで、浅草を知らない人があるのと同じようによ。 ── 私むやみにくやしくなっちゃったの。」…」


 浅草公園六区で安来節を上演していた「御園座」は、昭和5年(1930)大森玉木が新築し、同年11月1日に「玉木座」としてオープンしています。支配人には、大森が見込んだ佐々木千里が就任します(佐々木は、浅草オペラの時代には、「外山千里」の名でチェロを弾いていた)。玉木座以降は観音劇場を出た榎本健一を中心としたプペ・ダンサント旗揚げの場所となり、以降、軽演劇、大衆演芸主体の劇場となっています。(ウイキペディア、浅草六区興行史参照)

写真は現在の浅草二丁目5番の北東角を撮影したものです。玉木座は写真のやや左側を少し進んだ右側にありました。


高見順の浅草地図を参照



「十二階の塔跡」
<十二階の塔>
 明治23年に完成した浅草の十二階です。正式名称は凌雲閣(りょううんかく)と言い、当時は東京で一番高かったとおもいます。明治23年ですから、
関東大震災まで33年経っています。だいぶ古びていたのではないでしょうか! 

 凌雲閣(りょううんかく)は、明治23年(1890)に開業して大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔です。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味するそうです。12階建てだったので「浅草十二階」とも呼ばれていました。凌雲閣の起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司でした。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されますが、その設計にあたったのは東京電燈株式会社の技師であった藤岡市助と考えられています。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもありました。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができたようです。大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいましたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死しています。経営難から復旧が困難であったため、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体され、跡地は後に映画館の浅草東映劇場となりますが、現在はパチンコ店になっています。(ウイキペディア参照)

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…          二十

 古い浅草の目じるし ── 十二階の塔は、大正十二年の地震で首が折れた。
 私はその頃まだ本郷に下宿住いの学生だった。昔から浅草好きの私は、十一時五十八分かち二時間と経たぬうちに、友だちと二人で、浅草の様子を見に行った。
 上野の山の人々の噂では、
「驚くしゃないか、江ノ島が浮いたり沈んだりしているって話だ。」
「ほら、あんなに十二階がぽっきり折れちゃってるだろう。見物が大勢登ってたんだから、たまらないや。皆配り飛ばされたさ。今見て来たんだが、瓢箪池にもその死骸が、うぼうぼ浮いてるんだぜ。」…」


 松竹が浅草六区に来夏に開業する劇場ビルの角に高さ48メートルのタワーを建設するそうです。凌雲閣(りょううんかく)が52メートルなので近い高さになります。

写真は現在の浅草六区ブロードウエイ通りの北の端です。この正面、パチンコ屋さんの奥に十二階(凌雲閣)がありました。大正10年の浅草公園地図で確認をしました。写真正面のパチンコ屋さんの前に記念碑がありました。

 続きます!!


浅草地図 -2-



川端康成年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 川端康成の足跡
         
大正14年 1925 治安維持法 26 本郷区林町一九○、豊秀館
大正15年 1926 昭和元年 27 東京市麻布区宮村町大橋方に転居
4月 市が谷左内町二六で秀子夫人との生活に入る
9月 伊豆湯が島に戻る
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
28 4月 東京市外杉並町馬橋二二六に転居
11月 熱海の別荘鳥尾荘に転居
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
29 5月 尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居
馬込東の臼田坂に転居
昭和4年 1929 世界大恐慌 30 9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 31 2月 東京市下谷区上野桜木町四九に転居
文化学院の講師となる
昭和6年 1931 満州事変 32 4月 桜木町三六番地に転居
12月2日 下谷区役所に秀子夫人との婚姻届を提出
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
33  
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
34 7月 上総興津 山岸屋に滞在
昭和9年 1934 国際連盟成立 35 6月 越後湯沢に滞在
6月末 下谷区谷中坂町七九に転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 36 12月 神奈川県鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
39  
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
40