●川端康成の「浅草紅団」を歩く -3-
    初版2001年11月24日
    二版2013年7月20日  <V01L02> 暫定版

 「浅草紅団(浅草紅團)」を引き続いて掲載します。前回は仲見世、言問通りから言問橋を越えて墨田区の牛島神社、墨田公園を歩きました。今回は米久通り、たぬき横町、仁王門から四区の水族館、昆虫館、浅草六区三号の一部までを歩きます。だんだん浅草六区中心になってきました。




「浅草紅団」
<川端康成 「浅草紅団」>(この項前回と同じ内容です)
 三人の作家の浅草を順次歩いています(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。今回は昭和5年に書かれた「浅草紅団」に沿って戦前の浅草を歩いてみます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「 ── 作者イウ。コノ小説ノ進ムニ従ツテ、紅団員ハジメ浅草公園内外二巣食ウ人達ニ、イカナル迷惑ヲ及ボスヤモ計り難イ。シカシ、アクマデ小説トシテ、コレヲ許サレヨ ──

     ピアノ娘

          一

 鹿のなめし革に赤銅の金具、瑪瑙の緒締に銀張りの煙管、国府煙草がかわかぬように青菜の茎を入れた古風な煙草入れを腰にさげ、白股引と黒脚絆と白い手甲、そして渋い盲縞の着物を尻はし折って、大江戸の絵草紙そのままの鳥刺の姿が、今もこの東京に見られるという。言う人が警視庁の警部だから、まんざら懐古趣味の戯れでもあるまい。
 してみれば、私も江戸風ないいまわしを真似て、この道は ── そうだ、これから諸君を紅団員の住家に案内しようとするこの道は、万治寛文の昔、白革の袴に白鞘の刀、馬まで白いのにまたがって、馬子に小室節を歌わせながら、吉原通いをしたという、あの馬道と同じ道かどうかを、調べてみるべきかもしれない。…」


上の本は「浅草紅團」の復古版として昭和51年7月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載され、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されました。文庫本は講談社版がありましたが、単行本は既に販売されていませんので、上記の本を古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。この小説は書き出しが面白いのです。

【川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)】
 大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れる。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品を発表して、1968年(昭和43年)にノーベル文学賞を受賞。日本人初の受賞となります。1972年(昭和47年)、満72歳で鎌倉で自殺。(ウイキペディア参照)


浅草地図 -1- (高見順の浅草地図を参照)



「あづま跡」
<あづま総本店>
 前回までは「浅草紅団」に沿って浅草寺の境内付近のお話も少し入れながら、浅草を大きく取り巻く地域を紹介しました。言問通りの北側、馬道通りに東側、隅田川を越えた地域です。「浅草紅団」は浅草の外回りの話しから入っていますが、それだけだと面白くないので、境内付近の話しも少し入れて面白くして書いています。書き方としては旨いです。話しは飛びますが堀辰雄も師である芥川龍之介や川端康成並に表現力があればもう少し売れたとおもいます。(谷崎潤一郎がベストです)
 今回から浅草の中心部に入っていきます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… 街灯は夜通しともっている。その明りが朝霧の中にまず目覚めてゆく。
 鈴蘭型の装飾灯が並んだひさご通、俗に「米久通」 ── その通にある、そして公園でただ一軒の夜明し店の、あづま総本店で牛鍋の朝飯を食べているうちに、ラヂオ体操の号令が聞えて来た。
 その頃は浮浪人達が活動小屋の絵看板を見る時間であるらしい。たれにも追われず、たれにもきたながられず、朝日を浴びて、彼等はしみじみと絵看板を楽しんでいる。…」

 
 上記に書かれている”鈴蘭型の装飾灯”はもうありませんが、米久通り(ひさご通り)の米久は現存しています。私も一度仕事でお客を接待したことがあります。入ると下足番のおじさんがいて、靴を預けます。建物も木造で、すき焼きも昔のやり方そのままですので、中々味かあります。いいですね!

写真は現在のひさご通り中程から北を撮影したものです。左側に「米久」があります。昭和14年の浅草絵図で確認すると「米久」の向い側、写真の右側に”東”というたばこ屋があり、牛料理屋は北に二軒目に”東陽”という店がありました。これでは確認できないので大正10年の浅草公園地図を見ると、”あづまタバコ”、と”あづま料理”になっていました。推測ですが”あづま料理”のところが”あづま総本店”ではないかと推定します。
 昭和八年度版の「大東京うまいもの食べある記」を読むと「牛肉あづま ── 米久の向ふ側で、同じ商売をするなど、一寸不思議に感じられますが、心配無用、ここはここでファンが沢山あって、立派に繁盛しています。」、と書かれています。間違いないとおもいます。

「たぬき横町」
<たぬき横町>
 米久通り(ひさご通り)から六区を通り過ぎてすこし南に下がって、新仲見世通りから一筋南側の”たぬき横町”を紹介しています。上手に浅草を順次紹介しているようにおもえます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…          七

 今朝明公の顔は ── 言問橋で見失ったのは彼であったが、その時のよごれが洗われて、オペラの舞台の少年のように白い。その首の滑らかさを隠すのか、指を首筋で組み合せ、両肘に頬を埋めて、急ぎ足だった。
 その肘に、小学生の草履袋のようなものがぶら下っている。
「それ、お弁当かい。」
「お化粧道具さ。」
 影の柔かい日射しには、まだ朝霧の匂いがあった。店の戸は一つもあいていなかった。
 そこは日本館の横から、須田町食堂の調理場の裏通を抜けたところの北伸町、俗にいうたぬき横町 ── 昼は特売の赤旗が、小店に入り乱れるのだが、朝のアスファルトは模型の街のように清潔だ。
 その通りにたった一人、理髪店の柱の鏡に、「お洒落狂女」が立っていたのだ。美しいどころか、水を浴びるすごさだ。だが、明公はついと走り寄って、
「さ、お帰りよ、姉さん。」…」


 ”日本館”は現在の浅草ROXビルの南向側、マクドナルドが入っているROX2Gビルのところにありました。新仲見世通りを東に少し行くと須田町食堂が右側にあります。現在は聚楽になっています。マクドナルドの前を南に一筋下がると”新進通り”になり、その先が”たぬき横町”となります。

写真は現在のたぬき横町です。手前が聚楽(須田町食堂)の裏手になります。昭和14年の浅草絵図で理髪店を探したのですが、たぬき横町にはありませんでした。新進通りとたぬき横町の境を南に折れた公園通りの左側に”奈良”という理髪店を見つけました(一筋東側の平和横町にも”堀川”という理髪店があります)。昭和14年の浅草絵図で確認をしました。

「征清軍凱旋記念塔」
<征清軍凱旋記念塔>
 戦前は”征清軍凱旋記念塔”のような記念塔が各地にあったようです(征清軍凱旋記念燈が正しい?)。浅草寺の記念塔は何時出来たかは調査不足で分りません。昭和20年の空襲で壊れその後撤去されたようです。もう少し調べてみます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… だが、仁王門の左の小屋に、
  ── 本堂大営修繕寄附受附所
  ── 本堂御屋根用瓦寄進受附所
 そんな木札が目立つから、浅草の賑わいには、まだ時間がある。その小屋にもたれて、赤毛布にくるまった乞食が眠っている。
 右手の久米平内の社のうしろでは、浮浪人が二十人ばかり朝飯だ。練塀の木蔭の鍋から、雑炊の湯気が立っている。日向ぼっこの彼等に、鍋がかりの男が、
 「おう。」
 「おう。」と、一杯ずり配っているのだ。
 観音堂の横で、竹馬屋が威勢よく青竹を切っている。鳩豆婆さんが、茹豆を朝飯代りに掻き込んでいる。婆さん達は六人、手拭をかぶって、ブリキ張りの小さい台を並べている。鳩の群 ── 地面も屋根も空一ぱいに鳩だらけだ。
 征清軍凱旋記念塔の裏の灯寵には、鶏が四五羽とまっている。…」


 ”久米平内の社”の現在の写真を掲載しておきます。場所は仁王門の手前右側です。

写真は戦前の浅草寺仁王門と征清軍凱旋記念塔です。やや左に五重の塔が写っています。仁王門のやや北側、両側にあったようです。現在の同じ場所から撮影した写真も掲載しておきます。”久米平内の社”と共に昭和16年の浅草寺境内図の中に記載がありました。

「昆虫館と水族館跡」
<昆虫館と水族館>
 浅草四区にあった昆虫館と水族館のお話しです。
 先ずは昆虫館からです。
 明治40年(1907)、名和靖という人が日露戦争の勝利記念に昆虫館を建設したいと考え、東京市に「昆虫知識普及館」の建設を申請し、土地を貸与されます。その年の4月に「通俗教育昆虫館」の名称で開館しました。開館当初こそ人気があったのですが、すぐに経営は行き詰まり、後に浅草喜劇の俳優曾我廼家五九郎の援助を得て、それまでの木造から鉄筋コンクリート2階建ての建物へとリニューアルされます(改築の年月日は不明)。大正7年(1918)には根岸吉之助率いる根岸興行部に経営が移ります。大正11年(1922)には昆虫の展示は2階部分のみとなり、1階には木馬が設置され、名称も「昆虫木馬館」となり、やがて「木馬館」の名称になります。昭和6年(1931)には2階からも昆虫展示が消え、大衆演劇の舞台となります。木馬館の建物は現在もそのままのようです。(ウイキペディア参照)

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…     昆虫館

          八

 花屋敷の虎は、牡が牝の腹の上に、片足をでんとのせて眠っている。これはいかにも家庭的だ。だがしかし、花屋敷と昆虫館 ── この二つの小屋が、浅草の家族的な遊び場として、諸君にまで知れ渡っているのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ。…
… 彼女の持った赤い紙旗を、男が読むと、
  ── コンバン、オトナリノ三ガイデ ──
 お隣りは水族館だ。二階はカジノ・フォウリイ舞踊団のレヴュウだ。…
… しかし一層わびしいのは、蝉、甲虫、蝶、蜂なそ、ほこりだらけの標本のガラス箱が、「昆虫館」という古い名の中しわけらしく、窓際に並んで、明治か大正の浅草を匂わせていることだ。…」


 ”花屋敷の虎”の絵葉書を掲載します。虎を見て下さい。

 次に昆虫館です。
 明治32年(1899)東京市浅草区浅草四区にあった四区勧工場「共栄館」を改造し日本初の「私設水族館」を開業します。館長は水産伝習所初代事務局長 太田實で海水魚のために、千葉県富津沖から海水を運び入れていました。地下には食堂、2階には「余興場」があり、観覧料は大人5銭、小人3銭でした。昭和4年(1929)隣地の「木馬館」の影響をうけ同水族館の経営をしていた興行師 桜井源一郎が、石田守衛に2階「余興場」での演芸をもちかけ、石田が榎本健一を誘って、軽演劇の劇団「カジノ・フォーリー」を旗揚げします。作家の川端康成が同時進行で東京朝日新聞に小説『浅草紅団』(昭和4年 -昭和5年)を連載したことで認知度は高まり、同水族館とその2階の「カジノ・フォーリー」は全国的に知られます。榎本の脱退等を経て、昭和8年(1933)「カジノ・フォーリー」は解散します。同水族館の閉館時期は不明ですが、昭和10年(1935)、写真家の桑原甲子雄が同水族館を撮影した写真『浅草公園水族館』を発表、作家の高見順が雑誌『文藝』に昭和14年(1939)1月 - 昭和15年(1940)3月の12回連載した小説『如何なる星の下に』では、すでに廃墟として描かれています。(ウイキペディア参照)

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…  ── 往年の名物も今は廃墟のようになっていた。廃墟といえば、浅草のレヴィウの発生地のような水族館も廃屋のままで、深夜にその屋上のあたりがら踊り子のタップの靴音が聞えてくるという悛談さえ出ているほどの惨槍たる有様である。(これはその後間もなく取りこわされた。「カジノ・フォーリー」のかつてのファンは夢の跡を失ったのである。)…」
 建物自体は現存しています。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…    水族館

          十

「浅草は、東京の心臓……。」
「浅草は、人間の市場……。」…
… まるで浅草懐古の記念物のように、公園第四区に取り残された昆虫館と水族館 ── その水族館の魚が泳ぐ前を通り、竜宮城の模型の横から、カジノ・フォウリイの踊子達が、楽屋入りをするようになったのだ。パリイ帰りの藤田嗣治画伯が、パリジェンヌのユキ子夫人を連れて、そのレヴュウを見物に来るのだ。
「和洋ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が、一九二九年型の浅草だとすると、束京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。
 エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズーソングと。女の足と ── 。…」


 昭和に入ると盛り場の中心は浅草六区に移っていきます。直ぐ隣の四区といっても寂れていったようです。

写真は現在の浅草木馬館(左側、昆虫館跡)と雷5656茶屋(右側、水族館跡)です。建物は当時と変っていないようです。


浅草六区地図 昭和6年(台東区文化財調査報告書第五集「浅草六区」より)



「金竜館跡」
<日本館や金竜館>
 最後は浅草六区の日本館と金龍館です(正確には日本館は六区ではない)。
 先ず日本館からです。 
 明治16年(1883)東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草2丁目5番)に開業しています。明治42年(1909年)六区四号地南側の新畑町(現在の浅草1丁目24番)に移転開業、跡地は映画館「オペラ館」となり、M・パテー商会(のちの日活の前身の一社)の製作する映画を上映していました。大正6年(1917)東京蓄音器(現在の日本コロムビア)の佐々紅華が、石井漠、杉寛、沢モリノらと結成したオペラ劇団「東京歌劇座」が旗揚げ公演を行ないます。以降、オペラの常設館となります。大正9年(1920)「日本館」は映画専門館となります。昭和4年(1929)には、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションや日活の太秦作品を封切り上映しています。やがて、昭和10年(1935)ころには松竹に経営が移り、松竹洋画興行の二番館となっています。(ウイキペディア参照)

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…           十一

 一、ジャズーダンス「ティティナ」。二、アクロバチック・タンゴ。三、ナンセンス・スケッチ「その子、その子」。四、ダンス「ラ・パロマ」。五、コミック・ソング ── と、十一景のヴァラエティが、そうだ、踊子達は舞台の袖で、乳房を出して衣裳替えする程、あわただしい暗転だ。
 そして、六、ジャズーダンス「銀座」だ。…
… 「お下げが一番、かつらってことが分らないからよ。そしてね、あんたみたいなんじゃなく、もっとおとなしい人に会うと、お下げの娘のようになれるのよ。それはあんたのお好みしだいだけれど、だけど、あんたここのレヴュウを見て、日本館や金竜館を思い出さない? 河合澄子が舞台から名刺を撒いたり、中学生が日本館から数珠つなぎでお上へ曳かれたり ── オペラ花やかな頃よ。」…」


 次が金龍館です。
 明治44年(1911)東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草1丁目26番)「常磐座」の隣地に開業します。金龍館は、福宝堂のフラッグシップ館で、福宝堂製作の作品をすべて公開していました。明治45年(1912)に福宝堂は4社合併で日活になり、大正3年(1914)には日活を離れます。大正9年(1920)根岸興行部の根岸吉之助は「新星歌舞劇団」を同社専属とし「根岸大歌劇団」とさらに改称、金龍館は同歌劇団の拠点となります。大正12年(1923)9月1日、関東大震災で金龍館は壊滅、翌年根岸興行部は松竹の傘下に入り、金龍館は復興に向かいます。昭和6年(1931)常盤座、東京倶楽部とともに改築、このときの建物は、平成の時代に取り壊すまで使用されていました。当時の金龍館は洋画一辺倒で、昭和17年(1942)の戦時統制で、松竹は洋画を配給できなくなり、金龍館でも洋画を上映できなくなります。戦後の昭和21年「浅草ロキシー映画劇場」と改称し松竹の洋画配給の拠点となります。(ウイキペディア参照)


写真は現在浅草ROXビルの南東の交差点から北側を撮影したものです。写真の右側に金龍館がありました。日本館は手前左側、マクドナルドが入っているROX2Gビルのところです。昭和14年の浅草絵図で確認をしました。

 続きます!


浅草地図 -2-



川端康成年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 川端康成の足跡
         
大正14年 1925 治安維持法 26 本郷区林町一九○、豊秀館
大正15年 1926 昭和元年 27 東京市麻布区宮村町大橋方に転居
4月 市が谷左内町二六で秀子夫人との生活に入る
9月 伊豆湯が島に戻る
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
28 4月 東京市外杉並町馬橋二二六に転居
11月 熱海の別荘鳥尾荘に転居
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
29 5月 尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居
馬込東の臼田坂に転居
昭和4年 1929 世界大恐慌 30 9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 31 2月 東京市下谷区上野桜木町四九に転居
文化学院の講師となる
昭和6年 1931 満州事変 32 4月 桜木町三六番地に転居
12月2日 下谷区役所に秀子夫人との婚姻届を提出
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
33  
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
34 7月 上総興津 山岸屋に滞在
昭和9年 1934 国際連盟成立 35 6月 越後湯沢に滞在
6月末 下谷区谷中坂町七九に転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 36 12月 神奈川県鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
39  
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
40