●川端康成の「浅草紅団」を歩く -2-
    初版2001年11月24日
    二版2013年7月13日  <V01L04> 暫定版

 「浅草紅団(浅草紅團)」を引き続いて掲載します。今回は仲見世、言問通りから言問橋を越えて墨田区の牛島神社、墨田公園を歩きます。関東大震災から5年経ち、震災を乗り越えて発展途上の浅草を表しているようにおもえます。




「浅草紅団」
<川端康成 「浅草紅団」>(この項前回と同じ内容です)
 三人の作家の浅草を順次歩いています(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。今回は昭和5年に書かれた「浅草紅団」に沿って戦前の浅草を歩いてみます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「 ── 作者イウ。コノ小説ノ進ムニ従ツテ、紅団員ハジメ浅草公園内外二巣食ウ人達ニ、イカナル迷惑ヲ及ボスヤモ計り難イ。シカシ、アクマデ小説トシテ、コレヲ許サレヨ ──

     ピアノ娘

          一

 鹿のなめし革に赤銅の金具、瑪瑙の緒締に銀張りの煙管、国府煙草がかわかぬように青菜の茎を入れた古風な煙草入れを腰にさげ、白股引と黒脚絆と白い手甲、そして渋い盲縞の着物を尻はし折って、大江戸の絵草紙そのままの鳥刺の姿が、今もこの東京に見られるという。言う人が警視庁の警部だから、まんざら懐古趣味の戯れでもあるまい。
 してみれば、私も江戸風ないいまわしを真似て、この道は ── そうだ、これから諸君を紅団員の住家に案内しようとするこの道は、万治寛文の昔、白革の袴に白鞘の刀、馬まで白いのにまたがって、馬子に小室節を歌わせながら、吉原通いをしたという、あの馬道と同じ道かどうかを、調べてみるべきかもしれない。…」


上の本は「浅草紅團」の復古版として昭和51年7月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載され、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されました。文庫本は講談社版がありましたが、単行本は既に販売されていませんので、上記の本を古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。この小説は書き出しが面白いのです。

【川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)】
 大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れる。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品を発表して、1968年(昭和43年)にノーベル文学賞を受賞。日本人初の受賞となります。1972年(昭和47年)、満72歳で鎌倉で自殺。(ウイキペディア参照)


浅草地図 -1- (高見順の浅草地図を参照)



「戦前の宝扇堂跡」
<扇子師文阿弥の宝扇堂>
 東京紅団に沿って順次紹介していきます。前回は”吉原土手の紙洗橋の四辻”で終りました。今回は仲見世の付近から始めます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…「そう、そう。」と、膝を打とうとしたのは ── 彼女等のことを、私かはっきり思い出したのだ。二人とも、どこかで見たと思ったはずだ。
 扇子師文阿弥の宝扇堂、そこで田舎の妹に送る舞扇を一本買って、仲見世の賑わいへ出ようとすると、その角が楽器屋だ。ハアモニカ、マンドリン、銀笛、明笛、ヴァイオリン、木琴、尺八、携琴 ── その店に坐って、例の「大正琴」改まって「昭和琴」で、諸君も活動写真でおなじみの流行小唄を、器用にかき鳴らしていた娘が、この路地の娘とそっくりなのだ。…」

 
 上記に書かれている”文阿弥(もんあみ)”はひょっとして”久阿弥”の間違いではないでしょうか。東京紅団のオリジナルを見たのですが”文阿弥”と書かれていました。普通、”文阿弥”と言うと谷文晁のことです。扇子、扇関連のホームページを幾つか見ると「宝扇堂」のことが書かれているのですが、”久阿弥”です。当時の扇子入れの箱が写真に写っていて、”東京浅草雷門地内 宝扇堂久阿弥”と印刷されていました。”久阿弥”が正しいとおもいます。

 ”角が楽器屋”については昭和14年の浅草絵図には記載がありませんでした。大正10年の浅草公園地図には仲見世に花輪楽器というお店を見つけることができました。このお店が昭和4〜5年頃まであったのではないかと推定しています。

写真は現在の仲見世から一筋東、新仲見世通りから少し南に入ったところです。写真正面に戦前の「宝扇堂」がありました。昭和14年の浅草絵図で場所は確認済みです(明治時代は仲見世にお店があったようです)。戦後は写真の先の新仲見世通りを右に入った右側二軒目にお店がありました。残念ながら現在はフグ屋に変っています。渋谷に「宝扇堂」というお店があるのですが関係があるのか良く分かりません。

「宮戸座跡」
<宮戸座>
 宮戸座は明治29年(1896)に開業しています。隅田川の昔の名前である”宮戸川”にちなんで名付けられた小さな芝居を得意とする劇場です。明治後期から大正にかけてが全盛期でしたが、大正12年の関東大震災で焼失します。昭和3年(1928)には再建されますが浅草六区の映画、軽演劇、レビュー等におされて昭和12年(1937)に廃業しています。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…そして宮戸座の前通りを、浅草乗合自動車が「公園裏宮戸座前」と呼ぶ停留場の方へ出ようとすると、後から古自転車が二つ私を追い越した。 ── その一人の若者があの娘と双子のようにそっくりなのだ。
 「おい、あの自転車の後をつけてくれ。」と、私は呼び止めた円タクに急ぎたてたことだ。

     隅田公園

          四

 スペイン風の踊を踊りながら ── 決してつくりごとではない、私ははっきり見たのだが、その舞台の踊子の二の腕には、さっき注射したばかりらしい針のあとに、小さい絆創膏がはってある。午前二時頃の浅草寺の庭では十六七頭の野犬が恐ろしいうなり声をあげて、一匹の猫を一せいに追っかけて行く。このような浅草だからといって、犯罪のにおい
をかぐために ── 私は古自転車の後をつけたのではなかった。
 夜一時半過ぎの浅草には、ただの人よりも刑事の方が、多く歩いているかと思われる程だが、私か探偵や刑事でない以上、ピアノ娘が美しくなければ、そのまま帰ってしまっただろう。
 ところで、私の自動車は大通を浅草憲兵分遣隊の前まで行かぬうちに、二台の古自転車と並んで走った。直ぐ言問橋だ。…」


 浅草寺の裏、見番のある通りに宮戸座がありました。宮戸座を南に少し歩くと言問通りになります。言問通りを左に曲がって行けば、”浅草憲兵分遣隊の前”から言問橋となります。

写真は現在の宮戸座跡記念碑です。後は料亭「婦志多」です。写真を右に行くと言問通り、左に行くと見番があります。

「牛島神社」
<普請前の牛島神社>
 宮戸座前から車に乗り、言問通りに出て、”浅草憲兵分遣隊の前”を通り東に進みます。屋台の多い言問橋を渡ると直ぐ右手が墨田公園となります。当時、牛島神社は隅田川改修の影響で須崎から墨田公園の中に移設中でした。因みに旧牛島神社は長命寺の南西150m付近(桜橋付近)にありました。昭和7年には移設が完了しています。旧牛島神社の所在地には記念碑が建てられています。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… よいと巻けの女の群が、頬かぶりをして本所から、男のように渡って来る。橋の上に大福餅や支那蕎麦の屋台店が出ている。向う岸に普請前の牛島神社は、トタン屋根と細い木組みだけの上屋が、川蒸汽の発動機の音にも、軽々と舞い上りそうに見える。その橋の快の牛の御前から新小梅町へ折れたところで、自動車を急に止めて運転手が、
「待っとりますか。」
 彼等がお宮の前で千歳飴を買ったのだ。
「なんだ。つけられていると知って、飴を食わそうという、しゃれかな。」と、私はにが笑いしながら円タクを帰して、同じように飴屋の店へ入った。
 ピアノ娘と双子としか思えない若者は、しかし彼女より二つ三つ下の十六くらいに見える。鳥打帽をうしろ向けにかぶり、汚れたコオルテンのズボンをはいて、垢だらけの顔に── 耳だけが貝細工の飾りのように綺麗だ。その耳と、私を振り向いて驚いた眼とで、私も顔を赤らめたのか ── 彼はさっと店を出た。…」


 上記の”飴屋”が何処にあるのか探してみました。”その橋の快の牛の御前から新小梅町へ折れたところで、自動車を急に止めて”と書いていますので、言問通りと三ツ目通りが交差する辺りと見当をつけました。戦前の本所區の火保図で探してみましたがお店の名前が書かれておらず不明です。戦後の火保図では言問通りと三ツ目通りの交差点から一つ手前の角に「菓子処 埼玉屋 小梅」というお店を見つけました。実際にお店を訪ねてみました。お店の前には明治30年創業の石碑が建てられています。お店の方にお伺いすると空襲にも焼け残ったそうです。間違いなさそうです。お土産に焼き団子を買いました。美味しそうです!!

写真は現在の牛島神社です。この神社は狛犬の代わりに狛牛があるのが特長です。狛牛の写真は掲載しないつもりだったのですが、掲載することにしました。今の言問橋付近の隅田川左岸は高速道路と墨堤通りが通っていますが、昭和初期の隅田公園の開園と同時に遊歩道と墨堤通りが出来て眺めが良かったようです。当時の絵葉書を掲載しておきます。

「枕橋」
<枕橋>
 言問通りから言問橋を渡り、三ツ目通り手前の牛島神社角を右に曲がります。ここで円タクを降りて、「飴屋」を見てから墨田公園の中を枕橋に向って歩いて行きます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… そして枕橋 ── サッポロ・ビイル会社の「枕橋ビア・ホオル」の大看板を左に見ながら、彼等は隅田公園へ入った。
 元の枕橋の渡に鉄橋が出来ようとして、大川の真ん中に起重機がすえられ、その真向いに五重の塔が立っている。その緑色の屋根は、鉛色の水と町との上に浮ぶと、も早建築物ではなく、緑の植物のなつかしさだ。
 新しい隅田公園は、そこから長命寺まで、現代風にいうならば、商科大学の艇庫に突き当るまで、ボオト・レエスのコオスを河岸に沿うた、アスファルトの散歩道だ。昭和の向島堤だ。…」


 ”サッポロ・ビイル会社”は現在はアサヒビールになっています。昭和4年の時はサッポロビールで何故現在はアサヒビールなのか、少々調べてみました。明治39年(1906)、当時の麦酒上位三社(日本麦酒醸造会社(「ヱビスビール」)、札幌麦酒会社(「サッポロビール」)、大阪麦酒(「アサヒビール」)が合併し大日本麦酒が誕生しています(合併前には吾妻橋にサッポロビールの工場があり、合併後もブランドはそのままで販売していた)。戦後の昭和24年(1949)、「過度経済力集中排除法」により、大日本麦酒は朝日麦酒と日本麦酒に分割され、9工場のうち、朝日麦酒は、吾妻橋、吹田、西宮、博多の4工場、ブランドとしては「アサヒビール」「ユニオンビール」「三ツ矢サイダー」を継承しています。そのため、戦後はアサヒビールに変わった訳です。

 当時は枕橋附近から浅草方面を見ると浅草寺の五重の塔が見えたようです。現在も見えるか探してみました。東武の鉄橋の南側から見ると、ビルの間に微かに五重の塔の頂部の相輪が見えました。震災前の絵葉書だとおもうのですが、枕橋からみた浅草の絵葉書を掲載しておきます。

 ”新しい隅田公園は、そこから長命寺まで、現代風にいうならば、商科大学の艇庫に突き当るまで”と書いていますので”商科大学の艇庫”を探してみました。商科大学は現在の一橋大学で、現在の墨田区少年野球場(言問団子の横)の北側に最近まであったようです。

写真は現在の枕橋からアサヒビールを撮影したものです。東武電車のガード下から撮影しています。

「言問橋」
<昭和三年二月復興局建造の言問橋>
 最後は言問橋です。関東大震災で隅田川に架かっていた橋も大部分が甚大な損傷を被り、このため大地震にも持ちこたえられる恒久的な橋を架ける必要に迫られます。隅田川にいまなお震災復興橋梁として架かる橋は下流から順に、相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、駒形、吾妻、言問の9つあり、震災で壊れなかった新大橋を加え、隅田川十橋と称されています。9つの橋のうち、両国、厩、吾妻の三橋は東京市が担当、残りの6つの橋は復興院(のち内務省復興局)が担当します。そのため内務省東京復興局に橋梁課が創設されています。(ウイキペディア参照)

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… 昭和三年二月復興局建造の言問橋は、明るく平かに広々と白い、近代風な甲板のようだ。また都会の芥で淀んだ大川の上に、新しく健かな道を描いているかのようだ。
 しかし、私か再びそれを渡った時には、もう広告灯や街の灯が黒い水に落ちて、都会の哀愁が流れていた。公園工事中の浅草河岸の夕闇に、白い切石が浮び、荷馬の傍で焚火している工夫達が、遠くに見えた。
 橋の欄干から下をのぞくと、満潮の音がかすかに聞えて、大きいコンクリイトの橋脚につなぎ寄せた、三艘の荷船は夕飯だった。…
… 例えば、この「船の時公」のことも後で分ったのだが、彼は船から浅草観音境内の浅草尋常小学校に通っている。毎朝父が船を言問橋に着けてくれるのだ。しかし、大川を仕事場の船が、ちょうど学校の退け時に、そこへ来るものとは限らない。夜まで、たまには翌る朝まで、父の船が迎えに来るまで、彼は浅草で時を過すよりしかたがない。そうして公園の子供となってしまったのだ。…」


 上記に書かれている”浅草観音境内の浅草尋常小学校”は現在の浅草小学校です。浅草観音境内と書かれているのが気になりますが、当時の地図等で確認しています。

写真は現在の言問橋です。浅草側(台東区)から向島側(墨田区)を見ています。とても綺麗な橋です。この言問橋は震災復興事業として計画された橋で、両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋です。

 続きます!!


浅草地図 -2-



川端康成年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 川端康成の足跡
         
大正14年 1925 治安維持法 26 本郷区林町一九○、豊秀館
大正15年 1926 昭和元年 27 東京市麻布区宮村町大橋方に転居
4月 市が谷左内町二六で秀子夫人との生活に入る
9月 伊豆湯が島に戻る
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
28 4月 東京市外杉並町馬橋二二六に転居
11月 熱海の別荘鳥尾荘に転居
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
29 5月 尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居
馬込東の臼田坂に転居
昭和4年 1929 世界大恐慌 30 9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 31 2月 東京市下谷区上野桜木町四九に転居
文化学院の講師となる
昭和6年 1931 満州事変 32 4月 桜木町三六番地に転居
12月2日 下谷区役所に秀子夫人との婚姻届を提出
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
33  
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
34 7月 上総興津 山岸屋に滞在
昭和9年 1934 国際連盟成立 35 6月 越後湯沢に滞在
6月末 下谷区谷中坂町七九に転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 36 12月 神奈川県鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
39  
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
40