●川端康成の「浅草紅団」を歩く -1-
    初版2001年11月24日
    二版2013年7月6日  <V01L03> 暫定版

 「浅草紅団(浅草紅團)」を初めて掲載したのが2001年ですから12年前になります。高見順の「如何なる星の下に」と合せて「浅草紅団」も大幅に改版します。2001年掲載の内容を見ると、当時としてはこの程度で良かったのかもしれませんが、今見ると不十分だな〜と感じます。




「浅草紅団」
<川端康成 「浅草紅団」>
 三人の作家の浅草を順次歩いています(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。今回は昭和5年に書かれた「浅草紅団」に沿って戦前の浅草を歩いてみます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「 ── 作者イウ。コノ小説ノ進ムニ従ツテ、紅団員ハジメ浅草公園内外二巣食ウ人達ニ、イカナル迷惑ヲ及ボスヤモ計り難イ。シカシ、アクマデ小説トシテ、コレヲ許サレヨ ──

     ピアノ娘

          一

 鹿のなめし革に赤銅の金具、瑪瑙の緒締に銀張りの煙管、国府煙草がかわかぬように青菜の茎を入れた古風な煙草入れを腰にさげ、白股引と黒脚絆と白い手甲、そして渋い盲縞の着物を尻はし折って、大江戸の絵草紙そのままの鳥刺の姿が、今もこの東京に見られるという。言う人が警視庁の警部だから、まんざら懐古趣味の戯れでもあるまい。
 してみれば、私も江戸風ないいまわしを真似て、この道は ── そうだ、これから諸君を紅団員の住家に案内しようとするこの道は、万治寛文の昔、白革の袴に白鞘の刀、馬まで白いのにまたがって、馬子に小室節を歌わせながら、吉原通いをしたという、あの馬道と同じ道かどうかを、調べてみるべきかもしれない。…」


上の本は「浅草紅團」の復古版として昭和51年7月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載され、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されました。文庫本は講談社版がありましたが、単行本は既に販売されていませんので、上記の本を古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。この小説は書き出しが面白いのです。

【川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)】
 大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れる。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品を発表して、1968年(昭和43年)にノーベル文学賞を受賞。日本人初の受賞となります。1972年(昭和47年)、満72歳で鎌倉で自殺。(ウイキペディア参照)


浅草地図 -1- (高見順の浅草地図を参照)



「浅間神社に突き当って四辻」
<浅間神社に突き当って四辻>
 川端康成の「浅草紅団」に沿って順次浅草を紹介していきます。最初は浅草神社裏の言問通りから山谷堀(吉原土手)の紙洗橋に向う道筋です。当時は浅草から吉原への一番の近道は千束から鳳神社方面ですが、吉原に正面から入るにはこの道だとおもわれます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… さて、上野の鶯谷から言問橋ヘアスファルト道を、浅草乗合自動車が通っている。その浅草観音裏の停留場を北へ入ると、右は馬道町、左は千束町、それを少し行って、左側に象潟署、右側に富士尋常小学校、そこで浅間神社に突き当って四辻だ。社の石崖に沿うて進むと公設市場。それから吉原土手の掘割の紙洗橋だが、橋まで行かずに、とある路地を ── いやしかし「とある路地」とは、余りに古臭い小説の書き出しだ。彼等はなにも死刑になる程の ── それどころか、浅草に巣食う人力車夫程の、罪悪も犯していないのだから、いどころをはっきり書いてもいいのだ。…

「象潟警察の向いだわ。分る? 富士尋常小学校だわ。」
「ああ。」と、男は思わず釣り出されたらしい。
「それごらんなさい。おとぎばなしでもなくなったわね。だけど、あの学校からして、少しお話しみてるわ。鉄筋コンクリイトの三階に新築して、九月一日の朝、ただの一度児童を入れただけで、あの大地震の火事に遭ったのね。でも、浅草の裏で焼け落ちないのは、あの建物しかないから、私達罹災者をあすこに住まわせてくれたのだわ。…」


 今でも、浅草寺裏の言問通りには都バスの浅草二丁目停留所があります。
 ・都08:西日暮里駅−竜泉経由−浅草二丁目−吾妻橋−錦糸町駅
 ・都08急行:西日暮里駅−浅草二丁目−吾妻橋−錦糸町駅
 ・上26:上野公園−根津駅、鴬谷駅経由−浅草二丁目−言問橋−亀戸駅
 私も都バスの浅草二丁目停留所から「都08」番に乗って西日暮里駅までいきました。クーラーも効いていて、座れて、居心地が良かったです。

写真は浅草観音裏の都バスの浅草二丁目停留所から少し北に入ったところから撮影したものです。正面が浅間神社、左が浅草署、右が富士小学校で、関東大震災の直前に完成していた建物だったようです(昔の門柱がありました)。もう少し歩くと紙洗橋交差点で、その先が山谷堀の紙洗橋となります。山谷堀は全て埋め立てられていますので橋の跡のみです。手前の紙洗橋交差点を左に曲がって少し歩くと日本堤消防署で、その先が吉原になります。昔は浅草で遊んで、夜は吉原というルートでこの道を歩いたのではないかと思います。

 山谷堀(さんやぼり)は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、三ノ輪から隅田川の今戸まで造られた水路です。江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言われています。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされていたようです。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所でしたが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退しており、山谷堀も埋め立てが始まっていたようです。戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられています。(ウイキペディア参照)

「仁王門の大提灯」
<浅草寺の仁王門の大提灯>
 東京紅団の「千社札」を作ってみました。このページのトップの右側に東京紅団の「千社札」を掲載しています。手頃な大きさに作っておくと、ノートやかばん等に貼れてなかなか格好いいです。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…            二

 しかし「千社札」にしたって、彼等のことだ。それを花山帝がおはじめになったとか、歌川豊国なども書いたとか、そこまで調べて図案をこらす物好きでもなければ、ほんとうに千社参りを思い立った神信心でもない。ただ少しばかり世間の千社講と変っている証拠には、ある日、船の時公 ── 父が大川の船頭だから、皆に「船の時公」と呼ばれている ── そのチンピラが私に、
「五重の塔を知ってるだろう。」
「観音さまのか。」
「うん。五重の塔の上からも下からも三段目の、あのな、仁王門を向いた角に、猿の顔に角の生えた鬼瓦が一つあるんだよ。目玉は金だよ。あの猿の顔にお札をはってやりたいなあ。」
 まあこんな風に ── 例えば、浅草寺の仁王門の大提灯、三つあるうちの真中、人舟町の提灯の黒塗りの底だとか、向島牛の御前の庭にほうりだした牛の角だとか、とんでもない失礼千万なところへ、「くれない座」の納札を、闇にまぎれて張りつけておくのだ。…」

 
 上記に書かれている”五重の塔”は戦前は仁王門(現在の呼び名は宝蔵門)の右側にありました。おおもとは仁王門の左に三重の塔、右側に五重塔があったようです(当時の仁王門左裏側からの繪端書と同じ場所から撮影した現在の写真を掲載しておきます)。その後、右側の五重の塔のみになり、戦災で焼失しています。戦後の昭和47年に仁王門の左側に再建されています。仁王門の右側の五重の塔跡には記念碑が建てられています。

写真は現在の「宝蔵門(昔の仁王門)」です。真ん中に人舟町の提灯があります。上記に書かれている”人舟町の提灯の黒塗りの底”は現在は金色です。千社札が貼ってないかを見ましたが何もはってありませんでした。当時の仁王門の寫眞を掲載しておきます。

「瓢箪池跡」
<瓢箪池>
 主人公(川端康成?)と明公が歩いているのが浅草六区です。
 この浅草六区は明治6年(1873)の太政官布告により浅草寺境内が「浅草公園」と命名されたことから始まります。明治17年(1884)には、この附近一帯が一区から七区までに区分けされます(七区は浅草馬道付近でしたが、その後公園から外され一区から六区のみとなっています)。浅草公園は六区画に分けられ、観音堂付近を一区、仲見世付近を二区、伝法院付近を三区、二つの池を含む付近を四区、奥山から花やしき付近を五区、新しく出来た興業街を六区と定めています。特に六区は浅草寺の火除け地の一部を掘って池を造り、この土で池の西側と東側を埋め立てて作った新しい興業街です。六区には浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、新しい歓楽街を形成することになります。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… かと思うと ── そうだ、それは、私かその明公と六区を歩いていた時のことだが ── 。
 瓢箪池の岸に人だかりがして、笑っている。小春日和の日ざしが、それらの後姿を温めている。だが、のぞいて驚いた。そこはちょうど瓢箪の結びにあたっていて、池の中に小さい島があり、両岸から藤棚のある橋がかかっている。その島の立花屋というおでん屋の前、枝垂柳の下の八つ手の傍に、大きい男が突っ立って、池の鯉の麹を拾って食っているのだ。くるぶしの上まで水に入れながら、七尺ばかりの竹で水の上の麹を掻き寄せては、仁王立ちのまま、むしゃむしゃ食っているのだ。…」


 浅草寺の火除け地の一部を掘って池を造ったのが瓢箪池です。この瓢箪池は戦後埋め立てられ、現在のウインズ浅草ビル、浅草ジャンボ、浅草ボウル等になっています。上記に書かれている”立花屋”は瓢箪池の島の中にあったお店です。池の中の島には二軒の店があり、一軒は高見順の「如何なる星の下に」に書かれている「おまさ」で、もう一軒が「立花屋」です。

写真は左がウインズ浅草ビル。この辺りに瓢箪池がありました。この瓢箪池の真ん中に島があり、島の中に上記に書かれている「立花屋」がありました。震災前の繪端書昭和初期とおもわれる絵はがきを掲載しておきます。昭和14年の浅草絵図から「立花屋」の場所を確認してください(地図は高見順と共用しています)。

「少し手前の横町」
<紙洗橋の四辻までは出ずに、少し手前の横町>
 ここで話しは最初に戻ります。”上野の鶯谷から言問橋ヘアスファルト道を、浅草乗合自動車が通っている。その浅草観音裏の停留場を北へ入ると、右は馬道町、左は千束町、それを少し行って、左側に象潟署、右側に富士尋常小学校、そこで浅間神社に突き当って四辻だ”の続きです。浅間神社の左横を通っていくと、髪洗橋交差点になり、その先が山谷堀の髪洗橋になります。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…            三

 さて、その「とある路地」とは ── 吉原土手の紙洗橋の四辻までは出ずに、少し手前の横町を左に折れると空地がある。右はフェルトとキルクの草履製造屋、左が水灸屋、その空地の奥に貸家札を見つけたから、私は土管の列と枯草とを踏み越えて、その袋路地へ入り込んだのだった。もちろん長屋だ。入口の家は両側とも、下には炭俵がぎっしり積み重ねてあって、二階が住居らしい。路地に竿竹を渡して、シャツや女のものがつるしてある。
 「この門の奥なら、まず人に知られる気づかいはない。」
 そして、その洗濯物の門をくぐるために、縮めた首を左に向けると ── 日本堤の消防署の火見櫓が頭だけ見えた。
 「あの近くなんだな。」とつぶやきながら、奥へ入って三軒目 ── 私は真赤な花束を突きつけられたように立ち止まった。…」


 ”吉原土手の紙洗橋の四辻”とは現在の髪洗橋交差点のことだとおもいます。その少し手前の”少し手前の横町を左に折れると空地がある。右はフェルトとキルクの草履製造屋、左が水灸屋”を探してみました。戦前の地図で一番詳しいのは火災保険特殊地図なのですが、どうゆう分けか浅草区だけありません(多分戦災で焼けた?)。仕方がないので戦後の住宅地図の古いもの(昭和37年)で探してみました。髪洗橋交差点の少し手前、左側に”清水サンダル”というお店を見つけました。”フェルトとキルクの草履製造屋”かどうかは分りませんが、推定同じとさせてもらいました。

写真は現在の髪洗橋交差点手前です。先が髪洗橋交差点となります。正面のバンが停まっているところが”清水サンダル”跡です。その手前の路地が”少し手前の横町”ではないかと推測しています。周りの建物が高くなり、残念ながら”日本堤の消防署の火見櫓”は全く見えません。

 続きます!!


浅草地図 -2-



川端康成年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 川端康成の足跡
         
大正14年 1925 治安維持法 26 本郷区林町一九○、豊秀館
大正15年 1926 昭和元年 27 東京市麻布区宮村町大橋方に転居
4月 市が谷左内町二六で秀子夫人との生活に入る
9月 伊豆湯が島に戻る
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
28 4月 東京市外杉並町馬橋二二六に転居
11月 熱海の別荘鳥尾荘に転居
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
29 5月 尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居
馬込東の臼田坂に転居
昭和4年 1929 世界大恐慌 30 9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 31 2月 東京市下谷区上野桜木町四九に転居
文化学院の講師となる
昭和6年 1931 満州事変 32 4月 桜木町三六番地に転居
12月2日 下谷区役所に秀子夫人との婚姻届を提出
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
33  
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
34 7月 上総興津 山岸屋に滞在
昭和9年 1934 国際連盟成立 35 6月 越後湯沢に滞在
6月末 下谷区谷中坂町七九に転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 36 12月 神奈川県鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
39  
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
40