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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の「雪国」を歩く(上) 初版2003年4月5日 <V01L03>
 今週は再び川端康成特集にもどり、「文学の舞台を歩く」の第二回として「雪国」を歩いてみたいとおもいます。雪国は御存じの通り、越後湯沢を書いた小説ですが、作者が意図したのか、作品のの中には越後湯沢という地名は一切出てきません。

<川端康成「雪国」>
 この「雪国」という小説は、当初から考えられていた小説ではなく、幾つかの小説を推敲してまとめて昭和12年に「雪国」として発表したものです。川端康成は「雪国」を昭和12年で終わらせず、戦後の昭和22年に書いた「雪中火事「と「天の川」の二つを加えて、昭和23年決定版「雪国」として再び出版します。現在の「雪国」は、これが底本となって出版されています。まず最初に書かれたのは昭和10年の「夕景色の鏡」で、あの有名な書き出しは当初は「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった。」となっていましたが、決定版では「国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」と書かれています。ここばかりではなくて、その他の部分でもかなり修正しています。ですから、「雪国」は時が経つほどにどんどん長くなって行った小説です(つまり、戦前と戦後で長さか違う小説の「雪国」です)。岩波文庫の”あとがき”に川端康成本人が書いています。「「雪国」は昭和九年から十二年までの四年間に書いた。年齢にすると三十六歳から三十九歳で、三十代後半の作品である。息を続けて書いたのでなく、思い出したように書き継ぎ、切れ切れに雑誌に出した。そのための不統一、不調和はいくらか見える。はじめは『文芸春秋』昭和十年一月号に四十枚はどの短編として書くつもり、その短編一つでこの材料は片つくはずが、『文芸春秋』の締切日に終わりまで書ききれなかったために、同月号だが締切の数日おそい『改造』にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加わるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがったものになったのである。私にはこんなふうにしてできた作品が少なくない。この「雪国」のはじめの部分、つまり昭和十年一月号の『文芸春秋』と『改造』とに出した部分を書くために、私はこの「雪国」の温泉宿へ行った。そこで自然と「雪国」の駒子にもまた会うようなことになった。はじめの部分を書いている時に、あとのほうの材料ができつつあったと言えるであろう。またはじめの部分を書いている時に、おしまいのほうの材料ほまだ実際におこっていなかったというわけである。」、と書いています。かなり正直に書いていますね。

左上の写真は私の手元にある「雪国」です。順に紹介すると、左上が昭和12年版創元社の「雪国」(初版本ではありません)、右上が鎌倉文庫の昭和21年版「雪国」(創元社版と内容は同じです)、下の段は、左から新潮文庫、角川文庫、岩波文庫です。

川端康成の「雪国」年表

出版時期
出版会社 「雪国」関連出版物
昭和10年
文藝春秋、改造他 「夕景色の鏡」、「白い朝の鏡」、「物語」、「徒労」、「火の枕」、「手鞠歌」
昭和12年
創元社 上記をまとめて推敲し「雪国」として初版発行
昭和21年
鎌倉文庫 上記の「雪国」と同一
昭和22年
公論、文藝春秋他 「雪中火事」、「天の川」
昭和23年
創元社 決定版「雪国」:昭和12年の創元社版に昭和22年の「雪中火事」、「天の川」を加えて決定版とした。
昭和22年
新潮文庫 決定版「雪国」と同一、初版
昭和27年
岩波文庫 決定版「雪国」と同一、初版
昭和31年
角川文庫 決定版「雪国」と同一、初版

<JR上越線上牧駅(かみもく)>
 川端康成が小説を書きに行く場所は熱海から伊豆方面が多かったのですが、「雪国」の元ネタをを書き始めた昭和9年頃には上越の温泉に行く様になります。川端秀子さんの「川端康成とともに」では、「川端が湯沢に行ったのは年譜などでは昭和九年五月となっていますが、実際は六月に入ってからです。五月に水上から湯檜曾に行き、それから水上駅の一つ手前の上牧駅前の大室温泉旅館に行っています。……とに角お金がなくて、原稿をたくさん書かなくてはならなくて、そのための大室温泉行きでした。群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館から私あての手紙が四通(六月八日、十日、十一日、十二日)あります。」、と書いています。上牧駅は水上駅の一つ上野寄りです。上牧駅前の大室温泉旅館に宿泊したと書かれていたので、上牧駅周辺で地元の人に聞いてみましたが大室温泉旅館の所在は不明でした。川端康成自身は上牧温泉と書いていますので、間違いではないかとおもいます。

左上の写真が上牧駅です。田舎のひなびた駅の雰囲気があり、プラットホームは駅裏の丘の上にあります。写真の裏手方面が上牧温泉で現在は5軒の旅館があります。

<JR上越線水上駅>
 川端康成自身が上越の温泉に行ったときのことを書いています。『「雪国」を書く前私は水上温泉へ幾度か原稿を書きに行った。水上の一つ手前の駅の上牧温泉にも行った。そのころ深田久弥君や小林秀雄君はよく谷川温泉へ行っていた。』、水上にも宿泊したと書いていますが秀子さんは、「上牧駅では鉄道便も送れず、電報も打てないので、原稿が書きあがるたびに自動車で水上駅に行って出し、湯原局にまわって電報を打つというくり返しでした…」、と書いています。

右の写真がJR上越線水上駅です。太宰治が初代と自殺しかけたなど、文士たちがたびたび滞在していた温泉町です。

<JR上越線越後湯沢駅>
 川端康成は水上温泉から先(三国峠を超えると新潟県南魚沼郡)へはなかなか行く機会がなかったようです。『水上か上牧にいた時私は宿の人にすすめられて、清水トンネルの向こうの越後湯沢へ行ってみた。水上よりはよほどひなびていた。それからは湯沢へ多く行った。上越線で湯沢は越後の入り口になったが、清水トンネルの通る前は、三国峠越えはあっても、越後の奥とも言えたのである。三国峠のふもとの法師温泉は直木三十五氏がことに好きで、私も池谷信三郎君と二人で直木氏に連れられて行ったことがある。直木氏は法師から湯沢へ三国峠を越えたこともあったようだが、私は歩いたことはない。』、と書いています。ちなみに清水トンネルが完成し上越線が全通したのは昭和6年(1931)9月ですから、開通した数年後に川端康成は越後湯沢を訪ねたことになります。一度は清水トンネルを通ってみたかったようですね。清水トンネルが完成する前に新潟を訪ねるには信越線軽井沢経由(高崎から直江津まで信越線が開通したのは明治26年です)で、長野から直江津周りで行くしか方法がありませんでした。

左の写真がJR上越線越後湯沢駅です。上越新幹線と同じ駅で冬はスキー客で賑わう駅になっています。

<高半ホテル(高半旅館 長生閣)
 川端康成が「雪国」を書いたのがこの旅館です。越後湯沢駅からは1.6Km(徒歩約20分)位で、がーらゆざわ駅の手前といったほうが分かりやすいかもしれません。高半旅館自体は800年の歴史があり(川端康成が滞在した長生閣は清水トンネル完成時に建設されたようです)、当時は木造三階建てで、正面入口も現在とは違って、湯本共同温泉の方の坂の上にありました(地図を参照して下さい)。川端康成は高半旅館に滞在していた昭和9年12月に菊池寛の秘書と秀子さん宛他三通の手紙を出しています。秀子さん宛には、「四方の山も野も雪で白い。昨夜の寒さは当地でも今冬で珍しいらして汽車を下りると、宿の番頭等火事場の消防みたいな防寒服装で、肝をつぶした。……中央公論の原稿を出しに駅に行って送ったところ。文藝春秋はまだ書くことがきまらぬ。今から考える。空気の厳しきは仕事出来さうでよろし。雪はまだ野が二三尺。この間の一尺ばかりのがそれだけ解けたのだ。盛りは一丈以上の申。目下客は殆ど全くない。この前の部屋。文藝春秋の原稿駅で受け取ったら、なるべく早く稿料貰って、百円ばかり電報で送って下さい。…」、と書いています。「文藝春秋に書くことがきまらぬ」と書いているのが、「雪国」の元原稿の「夕景色の鏡」になります。ただこの時は「文藝春秋」の翌年1月締め切りに「夕景色の鏡」の全ての原稿が間に合わず、「改造」に続きとして「白い朝の鏡」を書きます。ですからこの二つで「雪国」の一番最初の原稿になるわけです。

右上の写真が冬の高半ホテル正面玄関です。夏の高半ホテルの写真も見て下さい。

左の写真は現在の高半ホテル前から湯沢町を一望したものです。夏の高半ホテルからの風景も見て下さい。

次回は「雪国」の本に沿って歩いてみたいとおもいます。

●川端康成の「雪国」を歩く(下) 2003年4月12日 V01L01
 今週は”川端康成の「雪国」を歩く”の第二回目として、小説「雪国」に沿って歩いてみたいとおもいます。写真撮影は冬と夏の二回行いましたので、冬夏とも掲載しておきます。風景の違いを見て戴ければとおもいます。

<国境の長いトンネル(清水トンネル)>
 川端康成の「雪国」の書き出し、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」、は教科書にも出てくる、あまりにも有名なフレーズです。”川端康成の「雪国」を歩く(上)”でも書きましたが、JR上越線は水上-越後湯沢を結ぶ清水トンネルの完成により昭和6年全通します。しかし清水トンネルは単線で、複線になるには昭和42年の新清水トンネル完成を待たなければなりませんでした。昭和57年に上越新幹線が開通したため、水上駅と越後湯沢駅間は一時間に一本程度しか列車は走っていません。清水トンネルは上り専用で、新清水トンネルが下り専用です。

左の写真は冬のJR上越線清水トンネル土樽口です(夏の清水トンネル土樽口写真)。越後湯沢駅から車でむかうと10Km程の距離です。夏ですとトンネル入口近くまで簡単に辿り着くことができるのですが、冬ですと土樽駅までが限度の様で、その先は雪の中を歩いてトンネル入口までいきます(長靴を履いていきましたが大変でした)。清水トンネル土樽口と新清水トンネル土樽口はすぐ近くで、関越自動車道路も横を走っています。(冬の写真夏の写真

<信号所(土樽駅)>
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。」、当時は駅はなくて信号所だったようです。現在は土樽駅となり、上り清水トンネルと下り新清水トンネルに分かれていた線路がここで一つになります。残念ながら無人駅となっており駅長さんはいませんでした(ホームの雪かきをしている人がいました)。

右上の写真が現在の土樽駅です。越後湯沢方面を撮影しています。駅は無人駅ですが、写真の左手に土樽スキー場があり、駅の中を通ってスキー場に行ける様で、自由に駅構内に入れました。(駅正面の写真

<狛犬の傍の平な岩(諏訪神社)>
 「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」「ここの芸者って、みなあんなのかね。」「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」 ヒ、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。島村は杉の梢を見上げた。」、ここに出てくる神社は高半旅館から少し下った所にある諏訪神社です。元々この神社は麓から一直線に参道があり、階段を上がった正面に社殿が建っていたのですが、昭和6年上越線が開通したため、一直線の参道が切れて、左側から迂回する参道になっています。その上、上越新幹線が神社のすぐ上を通ったため、正面に会った神殿を右側に移動しています。(冬の社殿写真

左の写真が諏訪神社の鳥居前から山麓方向を写したものです(冬の写真)。写真の参道の左右に狛犬があり、右側の杉の木の下に上記に書かれている平らな岩があります。冬は雪に覆われてしまい神社内に入ることができませんでした。

<駒子の家(置屋の豊田屋)>
 駒子の家に行く場面があります。『「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」「君の家がここか。」「ええ。」……駒子は低い石垣のなかへ入った。右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池の氷は緑に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑らな屋根は板が腐って軒に波を描いていた。土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。上の部屋もほんとうに屋根裏であった。「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう。」「これで、酔っ払って帰って、よく梯子を落ちないね。」「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ。」と、駒子は火燵蒲団に手を入れてみて、火を取りに立った。島村は不思議な部屋のあり悠まを見廻した。低い明り窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は新しく紺り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にも丹念に半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。…しかし壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。』、駒子のモデルである芸者「松栄」が昭和初期に住んでいたのが置屋の豊田屋です。ですから駒子の家は豊田屋になります。湯沢町歴史民族資料館「雪国館」のなかに豊田屋の「松栄」の部屋を移築して展示しています。

右の写真が置屋の豊田屋跡です。諏訪神社記すぐ側で、JR上越線の線路際になります。(夏の写真

<共同湯>
 「雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな徴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。」、ここに出てくる共同湯が現在の「山の湯」です。

左の写真が共同湯「山の湯」です。私も入ってきました。この温泉はまったく沸かしておらず、温泉そのものだそうです。前に駐車場もあり、誰でもが入れる共同湯です。


次回が「川端康成を歩く」の最終回、「大阪・茨木を歩く」です。やっと最後まできました。

<川端康成の「雪国」地図>



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、創元社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫
・雪国:川端康成、新潮文庫
・雪国:川端康成、角川文庫
・雪国:川端康成、岩波文庫
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社
・文芸読本 川端康成:三島由紀夫、河出書房新社
・川端康成「伊豆の踊子」作品論集:原善、クレス出版
・川端康成作品研究:八木書店


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