更新が遅れてしまいました。ごめんなさい。今週は「川端康成特集」の第四週目です。川端康成の奥様、川端秀子さんの「川端康成とともに」にを参考にしながら”川端康成の新婚時代”を歩いてみたいと思います。
<川端秀子さん> 川端秀子さんは明治40年(1907)青森の生まれで、関西生まれの川端康成とは8歳違いで遠く離れていました。当時のことを、「私は松林慶蔵の三女として青森県八戸市で生れました。……このころの八戸は、城下町らしい文化的な町だったと思います。魚くさい港町、産業都市というのはその後の話です。二万石の小藩の城下でしたけれど、盛岡の南部の殿様の正室のお子さんが藩主だというので気位も高かったのでしょう。…」、と書いています。東京へ出るきっかけは父親の死にあったようです。既に兄も東京に出ており八戸高等女学校(現八戸東高)卒業の後24歳で、つてを頼って東京に出てきます。「私も結局、その方の口ききで学校へ通わせてもらうという約束で奉公に出ました。奉公先の御主人は、東大を出てお役所勤め、奥様は済生会の女医さんでした。共働きの家でしたから学校へ通わせるという約束を仲々履行してもらえませんでしたが、女医さんが秋田生れの、きれいでお人柄のとてもいい方で、辛い思いは一度も味わうことなくすみました。そこのお祖母 さんにお裁縫をまたきちんと習いました。近所にあった岩佐学園の夜学に行くつもりが、仲々実現しないでちょっと因ったことを覚えています。」、とあります。その後、「翌年の春になって「文事春秋」の社員募集という広告がありましたので行ってみました。試験する側は私があまり若いのでびっくりしてしまったようでした。…文事春秋の方はとてもいい方で、住むところがないのは困るなっておっしゃって、まだ若くて可哀相だし、いっそ菅忠雄さんのところに行ったらどうだろう、あそこはまだ二人暮しだし、楽でいい、雄司ケ谷じゃあ(菊池寛さんのことです)たいへんだけど‥…というようなことで、結局菅忠雄さんの家で働くということになりました。」、と書いています。菅忠雄は小説家菅虎雄の二男で上智大学を中退後、文藝春秋社に入社し「オール読物」の編集長等も勤めています。川端秀子さんは、この菅忠雄氏の家で働くことになったことが、川端康成と会うきっかけになります。
★左上の写真は川端秀子さんの「川端康成とともに」の表紙です。もともとは川端康成全集の月報に「川端康成の思い出」として発表されたものです。 |