kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の「新婚時代」を歩く 初版2003年2月11日 <V01L03>
 更新が遅れてしまいました。ごめんなさい。今週は「川端康成特集」の第四週目です。川端康成の奥様、川端秀子さんの「川端康成とともに」にを参考にしながら”川端康成の新婚時代”を歩いてみたいと思います。

<川端秀子さん>
 川端秀子さんは明治40年(1907)青森の生まれで、関西生まれの川端康成とは8歳違いで遠く離れていました。当時のことを、「私は松林慶蔵の三女として青森県八戸市で生れました。……このころの八戸は、城下町らしい文化的な町だったと思います。魚くさい港町、産業都市というのはその後の話です。二万石の小藩の城下でしたけれど、盛岡の南部の殿様の正室のお子さんが藩主だというので気位も高かったのでしょう。…」、と書いています。東京へ出るきっかけは父親の死にあったようです。既に兄も東京に出ており八戸高等女学校(現八戸東高)卒業の後24歳で、つてを頼って東京に出てきます。「私も結局、その方の口ききで学校へ通わせてもらうという約束で奉公に出ました。奉公先の御主人は、東大を出てお役所勤め、奥様は済生会の女医さんでした。共働きの家でしたから学校へ通わせるという約束を仲々履行してもらえませんでしたが、女医さんが秋田生れの、きれいでお人柄のとてもいい方で、辛い思いは一度も味わうことなくすみました。そこのお祖母 さんにお裁縫をまたきちんと習いました。近所にあった岩佐学園の夜学に行くつもりが、仲々実現しないでちょっと因ったことを覚えています。」、とあります。その後、「翌年の春になって「文事春秋」の社員募集という広告がありましたので行ってみました。試験する側は私があまり若いのでびっくりしてしまったようでした。…文事春秋の方はとてもいい方で、住むところがないのは困るなっておっしゃって、まだ若くて可哀相だし、いっそ菅忠雄さんのところに行ったらどうだろう、あそこはまだ二人暮しだし、楽でいい、雄司ケ谷じゃあ(菊池寛さんのことです)たいへんだけど‥…というようなことで、結局菅忠雄さんの家で働くということになりました。」、と書いています。菅忠雄は小説家菅虎雄の二男で上智大学を中退後、文藝春秋社に入社し「オール読物」の編集長等も勤めています。川端秀子さんは、この菅忠雄氏の家で働くことになったことが、川端康成と会うきっかけになります。

左上の写真は川端秀子さんの「川端康成とともに」の表紙です。もともとは川端康成全集の月報に「川端康成の思い出」として発表されたものです。

川端康成の「新婚時代」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

大正14年
1925
治安維持法
26
本郷区林町一九○、豊秀館
十六歳の日記
大正15年
1926
昭和元年
27
東京市麻布区宮村町大橋方に転居
4月 市が谷左内町二六で秀子夫人との生活に入る
9月 伊豆湯が島に戻る
伊豆の踊子
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
28
4月 東京市外杉並町馬橋二二六に転居
11月 熱海の別荘鳥尾荘に転居

海の火祭り
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
29
5月 尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居
馬込東の臼田坂に転居
昭和4年
1929
世界大恐慌
30
9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
浅草紅団

麻布区宮村町大橋方>
 川端康成は大正15年(昭和元年)本郷区林町一九○豊秀館から、少し離れた麻布区宮村町に移ります。この経緯は、いろいろ探したのですがよく分かりません。場所も宮村町しか分からなかったのですが、新潮新日本文学アルバム「川端康成」の表紙の見返しに萩原井泉が麻布の地図を書いており、その中に川端康成の住まいが書かれていました(狸坂を下った先の風呂屋の数件先と書かれています)。

左の写真は港区元麻布5の長玄寺(左側)から狸坂の坂下に向かって撮影したものです。写真の道の先が狸坂の坂下になります。宮村町大橋方はこの写真の少し先の左側になります。

市が谷左内町二六番地>
 この頃川端秀子さんは菅忠雄氏の家で働いていたのですが、菅忠雄氏が原宿から市ヶ谷佐内町に引越します。この市ヶ谷佐内町で川端秀子さんは始めて川端康成に出会うことになります。大正14年5月のことです。「その頃、菅さんは最初の奥様――たいへんしゃれたきれいな方でしたが――と原宿に住んでおられました。それから市ヶ谷の左内町に移りましたが、そこで私は川端に初めて会ったのです。…この頃菅さんは胸を悪くされたので、翌年になって、静養のためにこの左内町の家はそのままにして、しばらく鎌倉に帰られることになりました。箪笥から何からすっかり置いたままで、私が留守を預ることになりました。この頃湯ケ島にいることの多かった川端が、菅さんの誘いもあって東京へ帰ってくる気持になったのでしょうか。川端君も下宿探しをするのはたいへんだろうから、今度川端君をここに来させるのでよろしく頼むっで、そんな話でした。つまり、私のいるところに川端が引っ越して来たというわけなのです。」、少し長くなりましたが、川端康成と秀子さんの始めての出会いです。なんというか、周りが二人を一緒に住まわせたようですね。若い二人が同じ屋根の下に住んで何も起こらない訳がありません。秀子さんの川端康成の印象は、「鼠色の帽子――中折帽みたいな帽子ですが、真ん中を丸く凹ませてある妙な帽子でした――をかぶって、セルの羽織を着ていました。大正十四年の五月だったはずなのですが、川端は暑がりではありませんから、御本人は当然みたいなつもりで着ていたのでしょう。ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした。本がとても好きな人という感じでした。…その時の荷物というのが、お祖母さんの家紋入りの蒲団や周呂敷、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという仏像六、七体とご先祖の舎利まであったのでびっくりいたしました。なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。」「、と書いています。なかなか率直な印象です。始めてあったのが大正14年で、一緒に住み始めたのが大正15年です。

右の写真が市ヶ谷佐内町二六番地付近です。JR中央線市ヶ谷駅を降りて外堀を渡って外堀通りを右に折れて、すぐに左に折れると今も市ヶ谷佐内町です。坂道を登り切った右側で、写真右側の4軒先あたりだと思います。

杉並町馬橋二二六番地>
 この頃の川端康成は伊豆の湯ヶ島にいることがと多かったようです。「結婚ということになりましても川端はさっさとまた湯ケ島にもどってしまい、結婚の報告のために帰っていた故郷の八戸から、私は十月頃ひとりで伊豆に向いました。 …四月五日に横光さんの結婚式があるので、まず主人だけ上京しました。湯本館のおばあさんがすすめて下さるので、湯本館の主人の羽織袴を拝借してまいりました。すぐもどって来るつもりだったのでしょうが、三日ほどして手紙でしたか電報でしたか、お前も東京に来いという連絡がありました。ただ来い、ということなので荷物もそのままにして出て行きました。東京駅に迎えに来てくれていましたが、宮城(皇居)寄りの方に二つ入口があって行き違いになり、仲々見つからなくて困りました。家は横光さんや武野藤介さんのお世話で杉並の馬橋に見つけてありまして、昔市ヶ谷の左内町の家にあった荷物のうち、文藝春秋社に預けていた荷物だけをもって移りました。」、湯ヶ島に7カ月位いたことになります(この辺りの話は別途特集したいとおもいます)。馬橋に住んだ頃についてはかなり詳しく書かれています。「高円寺の家の住所は、杉並町馬橋でしたが、その頃は豊多摩郡でしたから、東京市外でした。ここには昭和二年四月九日からその年の十二月末まで住みました。短い間でしたが、いろいろと思い出の多い月日でした。吉田守一さんという家主さんの貸家が四軒かたまってありました。裏の方に平屋が二軒(そこに竹田さんという方と、徳永さんという碁の好きな弁護士の方がいらっしゃいました)、前の方に二階屋が二軒ありました。この二軒のうち角にある家には最初お医者さんが住んでおりましたが、あまりおつきあいはありませんでした。この方が出たあと、八月になって大宅壮一さんがやって来たのです。」。JR中央線高円寺駅から高円寺ルック商店街を青梅街道に向かって600m位歩くと新高円寺通りの交差点に出ます。この交差点を右に曲がり少し歩いたところが旧杉並町馬橋二二六番地です。昔しの面影は全くありませんが、空襲にあっていない為古い家がかなり残っています。この馬橋時代の大宅壮一との関係についてはかなり細かくかかれていますので読んでいただければと思います(もっとも新刊書は売っていませんが)。

この後、熱海の別荘鳥尾荘に移りますが、別の機会に紹介したいと思います。

左の写真の右側一帯が杉並町馬橋二二六番地です。このまま路なりに少し歩くとルック商店街にでます。当時の面影は全くありません。現在の住所では杉並区南高円寺3−17付近です。

馬込の臼田坂に転居>
 川端康成は昭和3年5月、尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居します。「昭和三年の五月に、尾崎士郎さんのおすすめもあって、大森に行きました。…大森に来まして最初に住んだ家は平屋で、子母沢というところにありました。ここに住んでいた子母沢寛さんがこの土地の名を自分のペンネームにしています。すぐそばには浸画家の池部鈎さんの家がありまして、まだ小さかった池部良さんが、昔子供たちがよくやっていたスケート遊びなどをしているのを見たこともあります。とても可愛い子でした。一方の隣りがラジオ屋、もう一方には一軒おいて薬屋がありました。家はちょっといい感じの家でしたが、ラジオ屋さんが商売で朝から晩までラジオを鳴らしていて主人も仕事ができなくて困りました。それで二月ほどそこに居て臼田坂の二階建ての家に移りました。」、馬込では子母沢から臼田坂裏に一度転居しています。またこの頃の馬込では尾崎士郎・宇野千代を中心とした文士達の交流が盛んだったようです。「…臼田坂では、一、二町離れたところに住んでいた宇野千代さんが、何か会があるといつでも「川端さん」と言って誘いにまいりました。このあたりは宇野さんも懐淋しいもので、往復の電車賃を浮かそうと、それでやって来ていたようです。それに尾崎士郎さんと別れる別れないという話になっていた頃でしたから、いつもお酒でベロベロになっていて、ビールを頂戴なんてよく言ってました。…貧乏しているくせにビールやお酒があって必ず出してくれた、なんてみな思い出に書いてありますけれど、みな出せ、出せって要求しますので出していたので、台所を預る身としては大変でした。林さんの場合でしたが、「林さんのためにビールを置いているんじゃないわよ」って憎まれ口をきいたこともあります。小瓶が出来たもんですから小瓶にしましたら、「ケチだなあ」なんて言うんです。まあ今から考えてみますと、遠慮なんておたがいにしなかったよき時代なんですね。」とあります。馬込では最初、池部鈎さん宅のそばの子母沢に住んだとのことなのですが、池部鈎さん宅は現在の南馬込3−32付近(大田区立馬込図書館の「ねんじんだより 馬込文士村を語る」より)となっており、後で移った臼田坂上から少し入った所の南馬込3−33とはすぐ側です。秀子さんが書かれているのとすこしイメージが違うのですが、此方が正しいとおもわれます。

右の写真の右側のお宅が川端康成宅跡です。現在は南馬込3−33で家は建て直されています。よく馬込の家として写真に出てくるのはこちら側から撮影したものです。坂の上から撮影するとこのようになります(赤い瓦の家の所です)。

この後、川端康成は上野桜木町に転居します。

川端康成 東京地図−3−



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫版
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール