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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成「東京帝国大学時代」を歩く (上) 初版2003年1月25日 <V01L02>
 今週は「川端康成特集」の第二週目です。今回は”東京帝国大学時代を歩く”の第一回目として、東京帝国大学に入学した大正9年9月から大正10年までの2年間を歩いてみます。


<東京帝国大学時代>
 川端康成が東京帝国大学一年のときに学制が大きく変わります。「実録 川端康成」では「川端さんが東京帝大一年のとき、学制が変わっている。二年の新学期は四月だ。したがって一年は実質的に七か月だ。川端さんと鈴木彦次郎氏は英吉利文学科から国文科へ移った。市河三富教授の英文法や発音学が苦手だったらしい。……試験のとき、本多氏が答案を書き終わってヒョイと横を見ると、川端さんが一字も書かないでぼんやりしている。本多氏が残り時間を持てあましていると、川端さんは手を伸ばして、すっと本多氏の答案をとり、ゆうゆうと写しはじめた。芳賀教授は強度の近視だったので、気づかなかったらしい。…」、とあります。大正10年から入学月が9月から今と同じ4月に変わったようです。カンニングは今も昔も同じですね、もっとも川端康成はこれで甲をとったようです(カンニングされた本多さんは乙だったのですが、カンニングしたほうの川端康成が文章力があっていい回答になったようです、さすがですね!)、もっとも昔はかなりおおらかだったようです。

左上の写真は東京大学のシンボル「大講堂」です。大正12年9月1日の関東大震災は本郷キャンパスの正門側の主要建築のすべてを1日にして灰燼にしています。しかし大講堂は大正11年12月に着工されており、施工中に大震災があったものの被害はほとんどなく、大正13年10月に上棟し、翌14年7月6日に竣工式が挙行されました。鉄筋コンクリート構造、4階建で正面中央に時計塔が立っています(合名会社安田保善杜の創設者安田善次郎の寄付により作られています)。

川端康成の「東京帝国大学時代」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

大正9年
1920
国際連盟成立
21
7月 第一高等学校を卒業。
9月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
9月 市外東大久保一八一 中西方に住む鈴木の部屋に同居
10月 小石川区中富坂一七 に住む菊池寛を訪ねる
11月 浅草小島町十三、高橋竹次郎方(帽子修繕屋の二階)に移る
  
大正10年
1921
ワシントン会議
22
5月 浅草小島町七二、坂光子方に転居
9月 岐阜を三明永無と訪れ伊藤初代と婚約する
10月 友人と岩手県岩谷堂に行き初代の父に会う
10月 本郷区根津須賀町十三、戸沢方に下宿
新思潮発刊
大正11年
1922
 
23
1月 本郷区駒込林町二二七、佐々木方
3月 本郷区林町十一、氷宮方
本郷区千駄木町三八、牧瀬方 
湯ヶ島での思い出
大正12年
1923
文芸春秋創刊
関東大震災
24
9月1日、本郷区駒込千駄木町で関東大震災を体験 南方の火
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
25
3月 東京帝国大学卒業

文芸時代創刊
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
26
本郷区林町一九○、豊秀館  

市外東大久保一八一番地 中西方>
 東京帝国大学に入学できたのはいいのですが、第一高等学校時代は寮にいたため下宿がありませんでした。「大正九年、川端さんは鈴木、石浜、酒井民らとともに、東京帝大文学部英吉利文学科に入学した。一高を卒業したあと、川端さんはいったん帰郷していたが、上京したとき下宿がなかった。鈴木彦次郎氏がそのころ東大久保に下宿していたので、同居することになった。…」、とあります。それにしても東大久保とは本郷からは遠すぎます。

左の写真は東大久保一八一番地(現在の新宿区新宿7丁目13辺り)に向かう久左衛門坂です。ここを右に100m位下ってさらに右に曲がると東大久保一八一番地辺りです。写真左側は職安通りで、交差点の反対側には厳島神社(抜弁天)があります。永井荷風の牛込区余丁町の断腸亭が近くにありましたが、大正9年5月23日麻布区市兵衛町の偏奇館に引っ越しています。

菊池寛を訪問(小石川区中富坂十七番地)>
 川端康成はこのころから書き始めます。「第六次「新思潮」が発刊されたのは、大正十年二月だ。川端康成、石浜金作、酒井真人、鈴木彦次郎氏および学外の今東光氏をくわえた五人が同人の顔ぶれである。川端さんは第一号に「ある婚約」を発表した。大学一年のときだ。…」、とあります。「新思潮」は小山内東が明治40年に創刊した同人雑誌です。続いて第二次は谷崎潤一郎、和辻哲郎、第三、第四次は菊池寛、芥川竜之介によって発行されていました。「…鈴木氏の記憶によると「文士がひいきにしていたカフェー『湯島サロン』でわたしたちが話しこんでいると、菊池寛、芥川竜之介、久米正雄氏らがはいって来た。今東光がさっそくあいさつに行った。このとき菊池氏がわたしたちに『雑誌をやるなら、新思潮を継承したらどうか。ぼくが継承権を持っているから、やるよ』とあっさりいったので、二日後に三人で菊池家へ行った」という。…」、これが川端康成が菊池寛を訪ねた最初になります。訪問は川端康成、鈴木、石浜の三人で大正9年末、中富坂の菊池寛宅を訪問しています。菊池寛は新聞小説「真珠夫人」を書いている最中でした。

右の写真付近が当時菊池寛が住んでいた小石川中富坂十七番地(現在の文京区小石川2−4辺り)です。ちょうど角の家辺りだとおもいます。菊池寛はこのあと小石川林町十九番地に引っ越し、文芸春秋を発刊します。「菊池寛氏の家と文芸春秋社の十年」の中で川端康成は「中富坂の家へ始めて伺った時、私はまだ二十二歳の学生であった。その家は富坂の中程から北へ折れた路にそって、二階が確か六畳と四畳半、下も二間で庭の狭い粗末な借家建、それに婦人と令嬢と女中が一人か二人、東向きの窓から谷越しに本郷台をせめてもの取柄…」と書いています。

浅草小島町十三番地、高橋方(帽子修繕屋の二階)>
 川端康成は本郷からは遠過ぎる東大久保から浅草鳥越神社に近い浅草小島町に引っ越します。大正9年11月25日付の手紙では「場末の大久保から表記に都合で引越しました。同じ東京にいるなら盛り場に居たいと思いまし。帽子の洗濯をしている家の二階の六畳です。夜晩くまで近所隣が騒々しいので近々に又この辺のお寺にでも移りたいと思っています。…」、と書いています。またここでは「浅草の帽子修繕屋の二階で「招魂祭一景」を、一夜で書きあげた。靖国神社の祭日の曲馬団の少女を描いた短編である。……文壇から注目された最初の作品である。菊池寛、久米正雄民らに認められ、新進作家への道が開かれる。」、とも書かれており、第六次新思潮が発刊さたのが大正10年2月なのでこの頃が新進作家の走りだったのではないかとおもいます。それでもこの下宿も長くは続きませんでした。

左の写真のところが浅草小島町十三番地付近です。関東大震災のあと、このあたりは区画整理され昔とは全く変わってしまっています。道路の位置か変わってしまっているので正確な場所がわかりません。現在の地番では台東区三筋1-9辺りです(写真の工事中の建物がある付近です)。

浅草小島町七二番地、坂方>
 川端康成は浅草小島町十三番地からすぐ近くの小島町七二番地に移ります。大正10年5月2日付の手紙では、「御無沙汰御寛容被下度候 先日お願せし徴兵猶予の件 宜敷御取扱ひ被下しや気がかり政一寸御伺申上候 扱て小生本日表記に(注・浅草小島町七二 坂光)に転宿仕り候 御承知被下度候 新思潮二号小生作『招魂祭一景』は世評以外に宜敷呆然とする位なれば御喜び被下度候新進作家として認められる日通からずと存じ候」」、と書いており、書くことに関しては相当自信かあったのでしょう。このあと再び大学近くの本郷区根津須賀町十三番地 戸沢方に転居します。ここは根津神社の正面参道で、第一高等学校の裏手、旧根津遊廓があった所です。まったくよく下宿を変わる川端康成です。

右の写真の左側辺りが浅草小島町七二番地付近です。ここも上記と同じく関東大震災のあと区画整理されすっかり変わってしまっています。現在の地番では台東区小島町2−15付近です。

この頃、川端康成は本郷真砂町にあったカフェー・エランの”初代”に恋をし、婚約までします。この恋愛事件については別に特集します。


●川端康成「東京帝国大学時代」を歩く (下) 初版2003年2月1日 <V01L02>
 今週は「川端康成」特集の三回目になります。先週に引き続いて東京帝国大学時代の後半を歩きます。川端康成は東京帝国大学時代になんと七回も下宿を変わっています。ほとんど下宿代を払わないため追い出されているのですが友人がなんとか面倒を見てくれます。

<地域雑誌「谷中・根津・千駄木」>
 川端康成は東京帝国大学時代後半の下宿を本郷界隈の駒込林町、駒込千駄木町付近にしています。やはり大学に近いところがよかったのでしょう。この駒込林町、駒込千駄木界隈の知識を得るには、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」が一番です。この地域雑誌の紹介はホームページを参照すると「地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(通称・谷根千=やねせん)は1984年10月に創刊されました。東京の東に位置する台東区谷中・池之端・上野桜木、文京区根津・千駄木・弥生・向丘・本駒込、荒川区西日暮里、北区田端のあたりを生活の場とし、暮らす町で見つけたもの、大切にしたいものを紹介し、調査記録し、次代に手渡す手だてとしての雑誌づくりをしています。」とあります。今回はこの雑誌の「其の十七」を参照させて頂きました。

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」ホームページ

左上の写真は地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の「其の十七」です。この中に”川端康成が林町に残したもの”が書かれています。

本郷区駒込林町二二七番地 佐々木方>
 川端康成は浅草小島町から本郷区根津須賀町(根津神社の前)に引っ越してきますがここも長く続きませんでした。根津神社から少し離れた動坂に近い駒込林町に移ります。林町二二七番地に下宿していた時のことを地域雑誌「谷中・根津・千駄木」が書いています。『「僕の家には川端康成先生が雨戸に書いた文字があるんです。とにかく来てみて」…川端先生が東京帝大の文学部英文科(のちに国文科に転入)の学生のころ、つまり大正十一年一月から三月ころまで、この家に下宿していたはずだ、というんです。それをなぜ記者さんが、と開くと、同行案内された毎日広告社の取締役松崎章雄さんが、『いや、私が昭和六年、早稲田の政経学部に入学したとき、ここの四畳半の部屋に下宿していたんですよ。そのころの大家の佐々木マサさんという未亡人に、やはりこの部屋に川端康成が作家として売り出し中の二十四歳のころ下宿されたこと、そのときこの家の一階の雨戸全部に川端先生が??五大力菩薩″と書き記したということを聞いたんです』というんです。…それから大急ぎで雨戸を探しました。が、結局その日は見つからず、あとでやっと一枚発見しました。というのは九枚は捨てちやって、一枚だけ当時のわが家の愛犬リーの犬小屋の雨よけにのっけてあった、というわけなんです。…』、やっぱり地元の雑誌なので内容に迫力がありますね。現在は家主が佐々木さんからかわられています。

左の写真のお宅が旧地番で本郷区駒込林町二二七番地です。現在の文京区千駄木5丁目32番地付近です。

駒込林町十一番地 氷宮方>
 川端康成はわずか数カ月で同じ町内の駒込林町十一番地に引っ越します。この頃の日記に、「行き先を捜さざるべからず。さるにても、良宿見つかりたりとて、手金をいかにせん。運賃をいかにせん。更に現在の宿の払いをいかにせん」、また「自分で貸間を捜しあてたことは一度もなかった」、とも書いています。まったく困ったものです。この年の9月1日、関東大震災にあいます。この時のことを「実録 川端康成」では、「川端さんは震災のとき、すぐに東京市内を歩き回り、つぶさに惨状を見ている。「私程地震の後を見て回った者は少ないだろう」と書いているくらいだ。…今東光氏をさそって芥川龍之介の家に見舞いにもいっている。芥川氏とともに、吉原遊廓の池に、遊女の死体を見に行った。芥川氏はゆかたがけでヘルメットをかぶり、熱心に見て歩いた。そのさかんな好奇心には、さすがの川端さんも驚かされたらしい…」、とも書いています。もの書きは好奇心のかたまりですね。

右の写真の左側辺りが駒込林町十一番地付近(現在の文京区千駄木5−2〜3付近)です。このあたりは細い路地が続いていて、昔の下宿街のおも向きがすこしは残っているようです。

千駄木町三八番地 牧瀬方>
 川端康成が始めて文藝年鑑(新聞雑誌に掲載された作品や評論、 またそれらの書き手である文学者などの動向、文芸界全般にわたる諸記録)に登場したのは大正10年です。「明治三十二年六月十一日、大阪市北区此花町に生れる。中学をへて、第一高等学校を卒へ。東京帝国大学英文科に入学、後国文科に転じ、目下在学中、大正十年友人四名と第六次「新思潮」を創刊す。「招魂祭一景」「油」等の作品あり。現住所、本郷区千駄木三八牧瀬方」、と書かれています。公式な場で住所が書かれたのはこれが始めてです。当然この紹介文は川端康成自身で書かれたのではないかとおもいます。また友人の三明永無は、「私は林町十一番地の氷宮といううちにいた川端とかわって、そこに移り、川端は千駄木の奥の方の牧瀬といううちに引越した。お寺の中をぬけると極めて近いので毎日のように行ったり来たりした。その牧瀬のうちへは、横光利一、片岡鉄平、中河興一、大宅壮一などがよく来て、文学論などを戦わせていた。…」、と書いています。友人の三明永無が下宿代を払えない川端康成の面倒を見ていたようです。

左の写真は団子坂上鴎外記念本郷図書館から「藪下の道」を50m位、根津神社方面に歩いたところです。千駄木町三八番地(現在の文京区千駄木1−22付近)は写真の角を右に入って少し歩いた所です。いまはまったく昔の面影はありません。

本郷区林町一九〇番地 豊秀館>
 川端康成は大正13年3月、やっと東京帝国大学を卒業します。その当時のことを、「卒業のときの単位不足は深刻だ。鈴木彦次郎氏も同じである。……授業が終わったあと先生を引きとめて『先生、単位をください』というと島地さんは『何だか見なれぬ人が出席していると思ったよ。檀家のむすこさんだから、まあいいでしょう』という返事。そこで、あとひと押しとばかり川端君のことも話して『ついでに単位をやってください』と頼むと『あなたにあげるのだから、お友だちにもあげましょう』といってくださったのです」…川端さんの場合は、これではまだ足りず、単位の前借という前代未聞の手を使った。主任教授の藤村作博士をたずねて「レポートを二つ提出しますから二単位の前借を」と切り出した。藤村博士ほ随分驚いたらしい。前借が成功したので、佐佐木信綱、沼波竣音氏からも、それぞれ一単位ずつ前借した。この許には後日談がつく。大正十三年三月三十日の日記に、次のような(注)がつけられている。 −「(前略)それで後からレポオトを二つ出すはずの一つが『樋口一葉』だった。しかし、私は心やましく恩ひながら時を逸して、二つのレポオトは書けずじまひに終った。」…茨木中学の三年後輩だった大宅壮一氏が、川端さんと石浜金作氏を自宅に招待し、鶏を一羽つぶしてささやかな祝宴をはってくれた。「私の卒業を祝ってくれたのは、彼唯一人であった」と川端さんは感謝をこめて書いている。」、ほんとうに昔はよかった時代のようです。現代では単位の前借りなど、許してくれる教授などはいませんね。世知辛い世の中になったものです。豊秀館は東大時代の中曽根康弘氏(元総理大臣)が下宿していたことで有名です。

右の写真は満足稲荷神社の入口付近です。写真の右手は旧地番で林町十一番地(現在の文京区千駄木7−2付近)となり、上記の氷宮方の下宿跡となります。豊秀館は写真の左手にありました。上記に林町一九〇番地と書いてありますが、豊秀館の番地は調べてみると一八九で一番地くい違っています。一九〇番地は写真の左端の家の所で、一八九番地はその奥の現在は空地となっているところです。

川端康成 東京地図−1−



川端康成 東京地図−2−



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫版
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社

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