今週から「川端康成」を特集します。ノーベル賞作家なのですこしテーマが重たいのですが、時間を掛けて掲載の回数を増やしながら歩いてみたいとおもいます。川端康成の生まれは関西の茨木市(新大阪駅から京都方面に五つ目の駅です)ですが、第一高等学校入学以降は東京で過ごしており、まず東京から順に歩いていきます。
川端康成の人柄については川端康成の愛弟子と自認していた三島由紀夫が次のように書いています。「お若い時分、家主のおばあさんが家賃の催促に来ると、黙つていつまででも坐つてゐるだけで、おばあさんを退散させたといふのは有名な話だが、氏の私生活には、今もあんまり計画性といふものは見られない。昔、新進作家時代から、大きな家に住むのがお好きで、熱海に大邸宅を借りられたが、お客が泊るとなると、あわてて奥さんが貸蒲団屋へ走つたなどといふのも、たとへ作り話にしてもいかにも川端さんらしい挿話である。……ふしぎなのは、氏が来客のために割いてゐる時間である。はとんどお客を断らない氏のことであるから、在宅の折には、編集者、若い作家、骨董屋、画商などの、数人、時には十数人の来客が氏をとりまいてゐる。私はたびたびお訪ねして、その末席に連なつたが、立場もちがひ、用件もちがふそれだけの人の間で、主人側がどんどん捌いてゆかない限り、話題の途絶えてしまふことは当り前である。一人が何か喋る。氏が二言三吉答へられる。沈黙。又誰かの唐突な発言。又沈黙。……かうして数時間がたつて了ふ。(昭31年「永遠の旅人」より)」、結構不真面目でいい加減なところがあったみたいで、その上ほとんど喋らなかったようです。なんなんでしょうか!
<川端康成> ノーベル文学賞作家であまりにも有名ですね。生まれは明治32年(1899)大阪生まれ。一高、東大へ進み、東大在学中の大正10年に「新思潮」に掲載した「招魂祭一景」が菊池寛に認められて文壇にデビューします。大正13年には横光利一、今東光らと雑誌「文芸時代」を創刊し、「伊豆の踊子」、「雪国」、「千羽鶴」、「古都」などを次々に発表、昭和43年、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞します。昭和47年(1972)ガス自殺を図ります(72歳)。戦時中の鎌倉在住時は、久米正雄、高見順らと鎌倉文庫という貸本屋を開くなどして鎌倉文士の中心的な存在でした。
★左の本は「伊豆の踊子」の復古版として昭和52年1月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々は昭和2年3月20日に金星社により単行本として出版されています。面白いのは第二短篇集として出版されたことで、処女短篇集は大正15年(昭和元年)の「感情装飾」です。短編集ですから「伊豆の踊子」以外にも9編掲載されており、第一編は「白い満月」で「伊豆の踊子」は最後に掲載されています。 |