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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の「大阪・茨木」を歩く(上) 2003年4月19日 <V01L01>
 今週から上巻・下巻の二回に分けて川端康成特集の最終回、「大阪・茨木時代を歩く」をおおくりします。一月から10回かかってやっと最終回になったという感じで、写真撮影は二年がかりで本もかなり読みました、あ〜長かった!!

<川端康成の大阪>
 川端康成は「油」という小品の中で、幼いときの思い出を書いています。「…父は私の三歳の時死に、翌年母が死んだので、両親のことは何一つ覚えていない。母はその写真も残っていない。父は美しかったから写真が好きだったのかもしれないが、私が古里の家を売った時に土蔵の中で、いろんな年齢のを三四十種も見つけた。そして中学の寄宿舎にいた頃には一番美しく写った一枚を机の上に飾ったりしていたこともあったが、その後幾度も身の置きどころを変えるうちに、一枚残らず失ってしまった。写真を見たって何も思い出すことがないから、これが自分の父だと想像しても実感が伴わないのだ。父や母の話をいろんな人から聞かされても、親しい人の噂という気が矢張りしないので、直ぐ忘れてしまう。…」。川端康成は両親を幼いときに失い、ただ一人の兄弟であった姉も十歳のときに亡くなり、天涯孤独になります。ただ、母方の実家や祖父、伯父に助けられて茨木中学校から東京の第一高等学校、東京帝国大学へ進むことができます。

左上の写真は大阪市北区此花町一丁目七十九屋敷(現在の大阪市北区天神橋1丁目16番12号)にある”川端康成生誕之地”の記念碑です。詳細は下記を参照して下さい。

川端康成の「大阪・茨木」時代年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

明治32年
1899
 
0
6月14日 大阪市北区天満で開業医川端栄吉、ゲンの長男として生まれる
 
明治34年
1901
 
2
1月 父死去、母の実家大阪府西成郡豊里村大字三番七四五番地に転居
明治35年
1902
日英同盟
3
1月 母死去、大阪府三島郡川村大字宿久庄の祖父母のもとに引き取られる

明治39年
1906
南満州鉄道会社設立
7
4月 豊川尋常高等小学校に入学
9月 祖母死去

明治45年
1912
中華民国成立
タイタニック号沈没
13
4月 大阪府立茨木中学校入学  
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
15
3月 祖父死去、伯父に引き取られる

大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
16
3月 茨木中学校に寄宿  
大正6年
1916
ロシア革命
18
3月 茨木中学校卒業
9月 第一高等学校入学
 

<川端康成生誕の地>
 川端康成の生誕の地については雑誌「大阪春秋」第97号の”検証・川端康成と大阪”によると、「天満天神社の表門の前の道を東へ少し歩いた四つ辻の南西の角に、相生楼という料亭がある。その門前に生家跡の碑が建てられている。が、実際の跡は料亭の南の部分である。大阪市北区此花町一丁目七十九屋敷で、いまは北区天神橋一丁目十六番十二号になっている。康成が生まれたのは、明治三十二年(一八九九)六月十四日である。そのとき、父栄吉がそこで医院をやっていた。ここは、近松門左衛門の『心中天網島』で、小春治兵衛が道行きしたその道筋に当たっている。前々年に西区北堀江で開業したが、一年の間に、東区安土町、そしてこの此花町と転々としている。さっぱりはやらず、渡り歩いたのである。栄吉が書いた手紙によると、そのころの大阪は不景気で、どこの医者も休み同様の有り様だという。健康保険などない時代だから、不景気になると、みな医者にかからなかった。そのうえ、栄吉は肺結核にかかっていた。彼はまだ数え三十歳の若さである。康成は七か月の早産児で、生まれつきひ弱だった。その赤児が満一年の誕生日を迎えるか迎えないかに、栄吉は医院を畳んで天満を去っている。」、と書いています。大阪以外の方には分からないとおもいますが、地下鉄谷町線か堺筋線の南森町駅を降りたすぐ側に大阪天満宮があり、その正面の鳥居の斜め前に相生楼があります。上記の”川端康成生誕の地”の記念碑はこの相生楼の正面玄関にあります。

左上の写真が相生楼です。正面真ん中が玄関で、玄関右側に”川端康成生誕の地”の記念碑があります。この写真の手前に大阪天満宮の正面鳥居があります。

<母ゲンの実家、黒田家跡>
 川端康成は父が亡くなったため母と母方の実家黒田家に引き取られます。雑誌「大阪春秋」第97号の”検証・川端康成と大阪”によると、「一家が仮住まいしたのは、大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄百八十二番地だった。いまは、大阪市東淀川区大道町である。新大阪駅に近い。ゲンの実家を頼ってそのそばへ来た。そこで栄吉は死んだ。明治三十四年(一九〇一)一月、康成は数え三つになったばかりである。死の床で、父は子どもたちのために書を遺す。「要耐忍 為康成書」と。のちに、姉のために貞節と、私のために保身と書いてくれた、と康成は述べている。栄吉はどんな心理でこれを遺訓にしたか。が、康成の後年の生き方に大きな形跡を残した。耐忍と保身と。ゲンは子ども二人を連れて、実家の黒田家に身を寄せる。同じ豊里村の大字三番であった。いま、東淀川区豊里町×丁目×番×号になっている。黒田家の跡に、〇〇〇が建つ。敷地内の松と楠の大木だけがあのときの面影を伝える。翌明治三十五年(一九〇二)一月、ゲンも夫のあとを追うように死んだ。肺結核が感染したようである。数え四つで、康成は両親を失ってし事つ。病気は彼にもうつっていたらしい。幼いときに眼底結核を患っていたことが、のちに分かる。ずっと、右の目がよく見えないで過ごしていたのである。あの印象的な凝視は、父母の病気の痕跡だった。」、と書かれています。×と〇の所の住所は個人住所のため控えさせて戴きます。黒田家の跡は写真の様に会社の寮になっていました。この後、茨木中学校時代に再び黒田家に身を寄せます。

右の写真が黒田家跡です。現在は会社の寮になっていました。最寄りの駅は阪急京都線の上新庄駅です。駅からは少し遠くて1.5km位でした。

<大阪府三島郡川村大字宿久庄の旧宅>
 明治35年には母も亡くなったため、川端康成は大阪府三島郡川村大字宿久庄の祖父母のもとに引き取られます。雑誌「大阪春秋」第97号の”検証・川端康成と大阪”によると、「四つの康成は、祖父母のもとへ来た。大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村十一番屋敷に住んでいた。いま、茨木市宿久庄×丁目×番×号。祖父は三四郎、祖母はカネという。川端家は、東村の庄屋を務めた由緒ある旧家だった。三四郎が明治の殖産興業のかけ声に血が騒ぎ、茶の栽培や寒天の製造などいろんなことをやって、ことごとく失敗した。田畑や山を売り払い、やっと庭と土蔵三棟だけが残った屋敷跡に粗末な仮屋を建てていた。祖父母は孫の康成を盲目的に愛し、ひっそりと気楽に暮らす。虚弱な孫をようよう豊川尋常高等小学校に入れるのに疲れたように、祖母が死んだ。祖父と二人切りになった。祖父は六十六歳になっていた。白内障から盲目になっており、耳も遠い。村からもほとんど孤絶していた。家の中は、陰気な沈黙が続く。後年の康成のあの沈黙はここから来ている。」、と書かれています。宿久庄の旧宅は名神高速茨木インターから国道171号線(西国街道)を西宮方面に少し走ってから右に入った所にあります。全くの田舎で周りは畑ばかりでした。

左の写真が茨木市宿久庄の川端家です。現在も川端姓の方がお住まいで(親類?)入口に川端康成先生旧跡の碑が立っていました。近所にも川端姓の方が住まれているようです。

<豊川尋常高等小学校(現 豊川小学校)>
 川端康成の小学校時代については「川端康成 大阪茨木時代と青春書簡集」によると、「康成は清六歳の明治三十九年(一九〇六年)四月二日にこの学校へ入学した。ともに入学した同級生は男子四十四名、女子については学籍簿が紛失しているので正確な数はわからない。……ついでに成績のことにもふれておこう。入学したころのことを康成は《学校で教わることは、ほとんどみなもう知っていて、学校がつまらなかった》と書いている。けれども、一年生の成績をみると、全部甲である。欠席が多かったにもかかわらずこの成績であった。二年生は修身、国語、体操が乙で、算術、唱歌、操行が甲となっている。修身が乙で操行が甲、国語も乙とはおもしろい成績である。三年生になると修身、国語、算術、操行が甲で、体操、唱歌、図画が乙である。二年とは評価が変わっている。四年、五年、六年は全部甲となっている。茨木中学校へ提出された成績表によると、特に噂好する学科は算術で甲、特に嫌悪する学科は唱歌で甲となっている。これは中学入学を考慮した評価のようである。」、やはり成績は抜群に良かった様ですね。

右上の写真が現在の豊川小学校です。宿久庄からは1.6km位で小学生が歩くと20分以上かかったとおもいます。

次回は川端康成の「茨木市内」を歩いてみたいとおもいます。

<川端康成の「大阪・茨木」地図 −1−>



●川端康成の「大阪・茨木」を歩く(下) 2003年4月26日 V01L01
 「川端康成を歩く」もいよいよ最終回かとおもいましたら、軽井沢と岐阜が抜けていました。日をあらためて取材したいとおもいますのでご期待ください。今週は川端康成が中学時代(旧制茨木中学校)を過ごした大阪府茨木市を歩いてみたいとおもいます。茨木市は空襲にもあっていないようで古い建物がかなり残っていました。

<茨木市立川端康成文学館>
 川端康成の随筆の中に故郷について書かれたものがあります。「私の村は現在茨木市にはいっている。京都と大阪との中間の山裾の農村で、その山を深く入れば丹波である。村の景色に藝はないけれども、近くに「伊勢物語」や「徒然草」に書かれた所がある。…」。かなり歳をとってからか書かれた随筆のようで、少しかっこよすぎますね。茨木市は上掲記にも書かれている様に大阪と京都の間辺りで、最寄り駅のJR茨木駅は新大阪駅から京都方面に五つ目の駅となります。この川端康成文学館はこのJR茨木駅から徒歩で20分くらいかかりますが、川端通りという緑地沿いに歩いていくと時間も苦になりません。あまり大きな記念館ではありませんが地元だけあって当時の写真などがきめ細かく展示がされています。ここで頂いた「川端康成ゆかりの地ガイドマップ」を参照しながら茨木の町を歩いてみました。

左上の写真が茨木市立川端康成文学館です。入館料200円、月、火曜日は休館、パンフレットには月曜日は午後休館と書いてありましたが、月曜日の午前中に訪ねたら休館でした(頭にきたのです)。

<旧制茨木中学校(現 茨木高等学校)>
 川端康成は豊川小学校から茨木中学校に入学します。当時のことを笹川隆平の「川端康成 大阪茨木時代と青春書簡集」の中では、「明治四十五年(一九一二年)四月、康成は大阪府立茨木中学校へ入学した。現在の府立茨木高等学校である。保証人には川端松太郎になってもらった。茨木中学校は質実剛健を校風とする、大阪府下でも一風変わった雰囲気を持つ学校であった。筒袖の和服に袴、脚絆をつけて、下駄を履いたのが制服であった。このころでも、こんな服装を制服とした中学校はもうなかった。学校内では裸足が原則で、真冬の一月から二月ごろまでだけ地下足袋を許された。そのために??にわとり学校″とアダ名がつけられていた。」、と書いています。明治45年頃で、両親が亡くなっているのに良く進学できたなとおもいます。よほど成績がよかったのではないでしょうか。

左上の写真が現在の茨木高校正門です。当時とは正門の位置か違う様です。この正門を入った右側に川端康成の碑があります。

<川端康成が通った本屋>
 川端康成は中学時代、本ばかり読んでいた様です。「読書については日記にいろいろ書いている。大正三年、茨木中学二年から三年のころの日記から少々拾い出してみると、《昨夜寝るのを忘れて読んだ南洲を読み続けた(略)近頃真面目なむつかしい大人らしい本を読む気がして来たのはうれしい》とか、《牡丹燈寵を買い求めた》《注文していた南洲も来ていた》《不如帰を読んだ》と次から次へと出てくる。《帰路堀書肆に行って見ると紅葉全集の四巻がある 金色夜叉もある 余の惜しいと思う本だが併し今日のところ目を閉じて我慢した 堀内(書店)に行って見ると「死の如く強し」又ほしいが我慢だ》と抑えはしたものの、翌日、《朝どうしても慾が出おさえられず紅葉集四巻を買った いずれ二月節季が済んだらと思ったが何時買ふのも同じ価だという理で買った》と、心の動きも露わに綴っている。……大正三年(一九一四年)の一年間のみではあるが、借りた本と購入したもののおよその割合を調べてみると、購入した本は四十六冊、借りた本十二冊、どちらか不明のもの二十五冊、合計八十三冊である。このころの支払いは年二回、節季といって書出し(勘定書)がくるが、年に二回のみであるから、金額をあまり意識しないで、付けでつい多く買ってしまう。康成も書店への借金が多くなる。大正三年二月の当用日記には、書出しの金筋を思いわずらい、祖父に打ち明ける苦しみが何日にもわたって書かれている。二月二十四日には、書店三軒(虎谷・堀・堀内書店)の書出し合計四十円六十何銭となっているが、同年の手帳には九十五円とある。いずれにしても、そのころの川端家の収入は前記のとおり秋岡家から毎月送ってくる二十三円二十五銭のみで、他からの収入は一銭もなかった。」、と書いています。年間82冊ですから月7冊程度、現在だと千円/冊(文庫本も含んで)として月7千円くらいですね、当時としてはかなりの額だったのでしょう。

右上の写真は上記に”堀書肆”と書かれている現在の茨木高校裏門近くにある堀書店です。当時の面影はお店の前に有る”当時の看板”のみでした。

左の写真は上記に書かれている虎谷書店です。このお店の建物は見てのとうり当時のままです。なかなか雰囲気があっていいですね!

<敷島湯跡>
 川端康成か良く通った風呂屋さんです。平成12年まで敷島湯はあったようですが、現在は建売住宅になってしまっていました。川端康成の「少年」には、「…風呂へ入った。私ほどの風呂好きは少なかろう…」、等と書いています。この南清水町通り辺りは昔の茨木の面影が色濃く残っていた所です

左の写真の左側の建売住宅付近が敷島湯があった所です。この通りが南清水町通りです(反対側の方が趣があります)。

<茨木御坊>
 「茨木中学校最後の大きい出来事としては、尊敬する倉崎仁一郎先生が大正六年(一九一七年)一月に亡くなられ、五年生全員によって葬儀を行なったことである。このように生徒たちが先生の葬儀のすべてを執り行なうことは非常に珍しいことであった。その一部始終を康成が文章にした。国漢の満井成舌先生の推挙により、大阪の石丸梧平主宰の雑誌「団欒」に『師の柩を肩に』という題で掲載されて評判になった。後に康成は、茨木中学校の久散会誌報(昭和七年十二月第四十八号)に『師の柩を肩にした者』という一文を書いた。そこで、《美しさは、事実の美しさであって、作者の美しさではなかった》と謙遜しているが、事実の美しさもさりながら、康成の文章も胸を打つものであったからであろう。」、この『師の柩を肩に』が表に出た作品としては初めてではないでしょうか。

右上の写真が現在の東本願寺茨木別院です。当時とまったくかわりません。この道を東に少し歩くと阪急京都線茨木市駅です。

<京阪新報社跡>
 川端康成は友人の投稿に刺激されて、京阪新聞に投稿を始めます。「二月十八日の日記には、《茨木唯一発行京阪新報に同級生の清水君等の作の出てるのを聞いたのは大分前だった。私の野心も少なからず湧いてたのだが最近清水君の「私生兒」が出てると聞いて「文章世界」(雅語)等に敗れた私は兎角私の原稿が活字になるという野心と好寄心とから京阪新報社へ道をたずねてゆく。受附にまで妙に丁寧に挨拶して記者に丁寧な待遇に心よく思いながらきたない所から部屋に案内される。好く投稿を受ける旨を答えて色々と条件など話した。解りもせぬのにむずかしい事を口走る。参考の為だと云って最近の一枚貰って帰る。かえり道希望に湧きかえっていた》。二月二十七日には、《原稿を一回よみ通して新聞社に出かける (略)粗造の西洋造りの二階立の新聞社にゆく。先門前に掲げられている最近の新聞見る。清水君の私生兒六が出ている。(略)記者はまだ来てぬので女に渡しとく》とある。彼が初めて京阪新報を訪ねたときの様子がいきいきと書かれている。三月六日の項、《今日学校へゆくと君に京阪新聞が来ていたという。さてはと心躍る。(略)化学の時間阪上君に新開を見せてもらうと第一面の下に久留米の本川さんに書いた『H中尉に』と短歌二十首程出した中から四首出ている 兎角自分の書いたもの活版となったとあっては嬉しい。直広告してしまう。夜新聞を持て水田さんを訪問ねて話す。別に批評はない。手賀さんくる。えらいむつかしいもの書いたんやなあ 俺等には一寸も解らん》。康成もこれがきっかけとなって、これからたびたびこの京阪新報杜へ投稿するようになる。」、誰でも初めて投稿した文章が乗るとうれしいものです。

左の写真の三階建ての建物の所が京阪新報社跡です。小川のすぐそばにあり、古き良き町並みのなかにしります。

今回で「川端康成を歩く」は一応終了します。

<川端康成の「大阪・茨木」地図 −2−>



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、創元社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫
・雪国:川端康成、新潮文庫
・雪国:川端康成、角川文庫
・雪国:川端康成、岩波文庫
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社
・文芸読本 川端康成:三島由紀夫、河出書房新社
・川端康成「伊豆の踊子」作品論集:原善、クレス出版
・川端康成作品研究:八木書店


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