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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の鎌倉、軽井沢を歩く
   初版2003年3月15日
   二版2007年6月28日
 <V01L01> 軽井沢を追加
 今週は川端康成特集にもどり、鎌倉に転居してから昭和47年に逗子マリーナで自殺するまでを歩いてみたいとおもいます。鎌倉は転居好きの川端康成にしては長く住んだ土地ではないでしょうか、鎌倉で二回転居後の昭和21年以降は長谷の家にいつづけます。

逗子マリーナ 417号室>
 昭和47年4月17日、川端康成は逗子市小坪の逗子マリーナ 417号室で自殺します。当日の朝日新聞によると「ノーベル賞作家、川端康成(72)は十六日夜、仕事に使っていた逗子マリーナ マンション四階の自室で、ガス管を口にくわえ、自殺した。遺書はなく、原因については関係者の多くも首をかしげているが、川端氏は先月盲腸の手術をしたあと健康がすぐれなかったといわれ、最近同氏に会った人たちは「健康上の理由としか考えられない」としている。川端氏は、一貫して日本の伝統美を追求し、「日本の心の精髄を描いた作家」といわれており、日本はもちろん国際的にも注目されていた人だけに、突然の自殺は内外に強い衝撃を与えている。」、と書かれています。私も当日のニュースを聞いてびっくりした一人でした(当然ですがまだ学生でした)。

左上の写真は逗子市小坪の逗子マリーナマンションです。昭和46年(1971)鎌倉、逗子に近い海のリゾート地として誕生します。相模湾沿いの16万5千平方メートルの敷地の中に8棟の別荘用高級マンションが点在し、ヨットハーバー、 テニスコート、プール、ボーリング場、ジョギングコース、レストラン、バーが揃い、それに会員制スポーツクラブ(室内プール、アスレチック、サウナ)などが完備しています。川端康成が自殺したのはこのなかのマンションの一つで、鎌倉市内を見渡せる417号室でした。

右の写真は現在のJR鎌倉駅です。鎌倉を語るには源頼朝が幕府を開いた時から語らなければならないのですが、今回は横須賀線の開通から話を始めたいとおもいます。「文士の愛した鎌倉」によると「横須賀線は明治22年6月、東海道線の信号所であった大船を起点に、鎌倉、逗子を経て軍港・横須賀への軍事路線として開通した。横須賀線の開業で鎌倉は横浜まで1時間、新橋へも2時間弱となり、名所旧跡に固まれた保養地・別荘地として新たな脚光を浴び、鎌倉幕府以来の新時代を迎えることになる。 横須賀線の開通に加え、明治35年の江ノ島電気鉄道の開業(藤沢−片瀬間)も鎌倉の別荘地・観光地化に拍車をかけた。観光客誘致のため、駅の女性出札員を募集したり、東京から江ノ島まで「弁当付き往復乗車券、一円五十銭なり」という周遊券を官設鉄道とタイアップして売り出し大評判となる。夏には七里ヶ浜にイルミネーション付きの納涼場を開設するなど、観光路線を色濃く打ち出していた。海水浴客や観光客の増加にともない、最新の鎌倉を紹介する案内や名所旧跡図も作成され、人々は評判を聞きつけて鎌倉に繰りだした。明治45年の『現在の鎌倉』は「数百の遊覧団体、一日の日曜を利用した個々の遊覧客、一家族を引き連れた避暑客等数え切れぬ多くの下車客が潮の如く押しつ押されつ改札口から出た」と鎌倉駅の混雑ぶりを伝えている。」、と書かれています。日曜日の鎌倉駅の風景は今と全く変わらないですね。昔から人気の高い観光地だったようです。

川端康成の「鎌倉」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

昭和10年
1935
第一回芥川賞、直木賞
36
12月 鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居
 
昭和11年
1936
2.26事件
37
9月 二階堂の蒲原さんの家へ転居
 
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
38
9月 軽井沢町で一軒目の別荘を購入
雪国
昭和16年 1941 太平洋戦争 42 軽井沢町で二軒目の別荘を購入  
昭和21年
1946
日本国憲法公布
47
10月 長谷の家へ転居  
昭和47年
1972
元日本兵の横井庄一氏発見
72
4月 逗子マリーナ 417号室で自殺  

鎌倉町浄明寺宅間ケ谷>
 鎌倉に最初に転居したところは、鎌倉駅から少し遠い浄明寺宅間ケ谷でした。川端秀子さんは当時のことを「…家探しはずっとやっていましたが、鎌倉に移っていた林房雄さんが、鎌倉に来い来い、来なけりや火つけるぞ、なんて例の調子で言いますので、実際にその家を見ないで林さんの隣り、鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷の家を借りました。十一月のことです。今テレビの司会者をしている小泉博さんのお父さんにあたる小泉三申さんの持家が三軒並んでありまして、その一軒に長田幹彦さんが、もう一軒に林さんが住んでいて、一軒空家になっていたのです。医者に鎌倉に引っ越したいのですがいかがでしょうと聞きましたら、「ああ、鎌倉、いいでしょう、あそこまで人は追っかけて来ないでしょう、夜も昼も人が来るということはないでしょう」とおっしゃるので、鎌倉に決めたのです。桜木町や坂町は場所が良すぎて人の集合場所になってしまいましたから。北條民雄さんにあてた手紙にも「健康を思ひ、鎌倉に越しました」とありますが、鎌倉へ引っ越したのは健康のためですし、林房雄さんの強引なおすすめによるものです…」、と「川端康成とともに」で書いています。東京でしばしば転居していた感覚で簡単に転居をきめています。この鎌倉が終焉の地になるとは全く考えていなかった、つまり、どうせまた替わるだろうと思っていたようです。鎌倉駅からはかなり遠く、約2.5Km程あります。滑川沿いの報国寺入口を右に曲がり、報国寺を過ぎた山間の谷間です。決して見晴らしの善いところではありません。

左の写真正面の小道を入った右側になります。昔は三軒しかなかったようですが、現在は少し入ったところに家がたくさん建てられています。右側手前から三軒が当時の家があった所だとおもいます。一番奥が林房雄さんなのはわかっているのですが、川端康成がどの家だったかは不明です。(何方か御存じの方は教えて下さい)

<軽井沢の藤屋> 2007年6月28日 追加
 昭和11年初夏に川端康成は軽井沢に向かいます。この訪問が初めての軽井沢だったようです。当初、軽井沢では有名な「つるや」に泊まろうとしますが、満室で断られます。その時の様子を小川和佑の「文壇資料 軽井沢」を参照します。「…川端康成は軽井沢に入って先ずつるやの玄関に立った。中山道の古い道場の傍を残す建物が彼の心を魅きつけた。芥川龍之介や室生犀星の愛したつるやはその後、昭和期に入っても、やはり多くの作家たちの集る旅館だった。彼の親友の一人、片岡鉄兵もしばしばここで長編を執筆している。川端はそんな倹しさもあってつるやを訪れたのであったが、相憎満室で、番頭は丁寧に断りを言い、その代り少し下手の小さな藤屋を紹介してくれた。 事実、つるやは六月の末になると予約の客で例年満員になる。突然訪れた川端を泊める部屋はどこにもなかったのだった。この最初の川端の軽井沢訪門には一説があって、例のつるや七不思議の一つの居眠り番頭が川端の顔を知らず、極めて索気なくこの高名な作家を一見の客と思い断ったため、川端がひどく不快を覚えたというエピソードもある。 しかし、それは飽くまで誤りであろう。作家を大切にした佐藤不二男が、川端康成を知らなかったはずはない。満室でどうにもならなかったことの方がより真実に近いのではなかったか。 藤尾は旧軽井沢の本町通りの中程に近い、神宮寺の入口右手にある小さな旅館であった。そこで応対に出たのは藤座主人小林忠義氏の妹愛子さんだった。 藤屋も満員。一つだけ広い部星に学生が宿泊していて、そこに合部屋ならばと招じ入れてくれた。川端康成は苦笑しながらそれも仕方がないと部星に上った。改装前の藤屋は旅籠風な旅館だった。しかし、それがいかにも宿場らしい旅情があったことが、川端の気に入った。彼は気軽に学生と相部屋になった。学生もこの高名な作家の顔を知らなかった。翌朝、朝食時になって、昨夜の客が、作家の川端康成と気がついたのは、愛子さんだった。もう二、三日宿泊したいという彼を、愛子さんは急いで、空いたばかりの別室を用意した。その部屋は窓から神宮寺の境内の見下ろせる小部屋だった。…」。この頃にはかなり有名な作家になっていたはずなのですが、田舎だったのでしょうか、軽井沢で一番有名な旅館であった「つるや」に泊まれませんでした。

左の写真正面右側の白い建物が「藤屋」跡です。上記に書かれている通り、”神宮寺入り口の右側”になります(地図等での詳細場所の確認はとれていません)。神宮寺の写真も掲載しておきます。現在は少し離れた「軽井沢72ゴルフ西コース」付近に移っているようです。

<軽井沢の別荘> 2007年6月28日 追加
 昭和12年、川端康成はついに軽井沢で別荘を購入します。川端秀子さんは当時のことを、「…ちょうどいわゆる支那事変の起きた年で外人の引き揚げが目立った年ですが、外人は決して投げ売りなどはしませんし、その頃の日本もそろそろ軍需景気で土地など上り目でした。結局先方の言い値を値切って二千三百円ぐらいで買ったはずです。持主はシップルという仙台に住んでいた人で、軽井沢町一三××の別荘でした。買うことに話が決ったのは八月二十日過ぎ、登記は九月に入ってからで、九月二十二日附の石井(佐藤)碧子さんへの手紙に「宣教師の建てた山小屋を一つ買ひました」とあります。 この昭和十二年十三年という頃は、作家が、軽井沢に別荘を買ったり借りたりした時期で、それが一種の流行にもなっていたようですが、満州事変、支那事変で外人の引き揚げが続いて売り物が出たということがあったのでしょう。…」、と「川端康成とともに」で書いています。ここで書かれているのは一回目の別荘購入です。川端康成は軽井沢で二回別荘を購入しています(正確には買い換えですが!)。二回目の購入については、「…この秋に軽井沢の別荘の隣の山小屋を一軒外人から買いました。外人の所有権が認められていなかった頃の話で、九百九十九年の地上権の引き継ぎという形です。これが戦後になって住むよぅになった一三××番の別荘で、当座はドイツ人に貸していました。…」、です。直ぐ隣に買い換えたようです。

左上の写真の小道左の丘の中腹が二回目に購入した別荘地です(現在も川端別荘としてしてあります)。一回目の別荘は少し先の左側になります(現在は何もありません)。(詳細の場所は控えさせていただきます)

二階堂三二五番地>
 浄明寺宅間ケ谷に移っても、人の訪問は東京都と変わらなかった様です。一年ほどいて、鎌倉駅にはかなり近くなった二階堂に転居しています。作家林房雄は当時のことを『文学的回想』の中で、『「…宅間ケ谷の借家は三軒が一かたまりになっていて、間は生垣で直切ってあった。そのうち二軒が空いていたのを、一軒を私が借り、一軒を川端さんにすすめた。東京に飽きてゐた川端さんは気軽に引越して釆て、鎌倉組の仲間入りをすることになった。昭和十年か十一年であったと思ふ。川端さんはこの家に一年か一年半ほどゐて、大塔宮の附近に手頃な家を見つけて引越して行った。家の持主は詩宗蒲原有明翁であったが、川端さんも私達も長い間そのことを知らなかった。沈黙した詩宗は鎌倉の家をそのままにして、静岡あたりに隠棲してゐたのだ。戦争の末期であったか戦後であったか、有明翁が帰って来たので、川端さんは現在の長谷の宏荘な大邸宅に引越した。これも借家である。新潮社から全集が出たとき、川端さんはその印税でこの家を買おうとしたが、家主が売ってくれないので、家の代りに国宝「十便十宜」を買った。…」』、といっています。蒲原有明は日本近代象徴詩人として有名で、関東大震災で痛んだ家を修理して借家とし、当人は静岡に転居していたが、昭和20年の空襲で焼け出され、鎌倉に戻ります。この二階堂の住まいは浄明寺宅間ケ谷よりは日当たりもよさそうで温かそうです。

右の写真の右側が二階堂325番地です。鎌倉大塔宮の前を左に曲がり、数百メートル登った所です。土地も分割されて新しい家が建っていました。周りの風景は昔の面影があります。

長谷の家>
 戦後の昭和21年、二階堂で借りていた家の持ち主「蒲原有明」が戻ってきたため転居します。「八月三日(土)のところに、「くがはら数江氏訪問、安田君同道」とありますが、これは安田善一さんの紹介で今の長谷の家の持主であった数江譲治さんを訪ねたということで、蒲原さんの家を出る目算がやっとつき始めたわけです。それまで何軒もの家を見て、ずいぶん気に入ったのもありましたが、終戦直後のことでしたから、財産税を払うため、生活費のため売りたいというのが大部分でした。私たちは借家の方が気楽で、第一お金もありませんでしたから仲々きまらなかったわけです。和田塚のそばの立派な家が気に入ってそこに決めかけたこともありますが、何と本因坊名人の奥様の家と知って、顔見知りの方だと気が引けてお話を打ち切りました。長谷の家とは、前にも書きましたような因縁がありましたので、大きな家で分不相応でしたが借家だということで話を決めました。家主の数江譲治さんは早稲田のフランス語の先生ですが、子供時代に大岡昇平さんに家庭教師に来て頂いたこともあるそうです。」、当時は、戦後まもなくで安く家が買えた様です。甘縄神明社の鳥居の前を左に折れると正面玄関です。

左の写真が長谷の川端康成家です。正面の入口には「川端」の表札がまだ架かっていました。左側は財団法人川端康成記念館です。

鎌倉霊園>
 川端康成のお墓は鎌倉霊園にあります。谷崎潤一郎の京都法然院のお墓より大きいですが、趣としては谷崎潤一郎のお墓の方がいいように思えます。川端康成のお墓は右隣のお墓と全く同じ形式だったので、少しがっかりです。(ご親族の方だとおもいますが)。

右の写真が川端家の墓所です。鎌倉霊園の丘の上にあり、南向きにたてられていました。

次回は川端康成の「雪国」を歩いてみたいとおもいます。

<川端康成の鎌倉地図>



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫版
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社
・文芸読本 川端康成:三島由紀夫、河出書房新社
・川端康成「伊豆の踊子」作品論集:原善、クレス出版

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