kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の「伊豆の踊子」を歩く(上)
  初版2003年2月22日
  二版2003年5月12日下土狩駅の写真を追加
<V01L04>
 今週は東京から少し離れて川端康成の「伊豆の踊子」を歩きます。東京からは新幹線で三島まで約一時間、伊豆箱根鉄道に乗り換えて約30分位で修善寺駅に辿り着きます。西伊豆は暖かく、食べ物も美味しそうで住みやすい土地柄ではないかと思います。

<伊豆の踊子>
 川端康成自身が三島由紀夫との座談会のなかで「…作品は非常に幼稚ですけれどもね。…『伊豆の踊子』は、うまく書こうというような野心もなく、書いていますね。文章のちょっと意味不明なところもてありますし、第一景色がちょっとも書けていない。…あれはあとでもう少しきれいに書いて、書き直そうと思ったけれども、もうできないんですよ。…沿道の伊豆の風光を学生が僕のところに聞いてくるのが、いまでもときどきありますよ…」、と発言しています。元になった作品の『湯ヶ島での思い出』を書いたのが23歳の時ですから、若い一途な心持ちの時に一気に書いた小説だと思います。『雪国』では後で相当書き直しています。

左の写真は各出版社から出版されている『伊豆の踊子』です。大正15年の初版には解説は書かれていませんが、角川文庫版には川端康成自身が”「伊豆の踊子」について”と称して書いています。「…『伊豆の踊子』が私の作品のうちでも最も愛好されるにつけ、作者はむしろ反撥を覚えて伊豆の作品のなかでも「春景色」や「温泉宿」のほうがいいと言いたくなったが、近ごろ細川蔵書入れる時読み返してみて、久しぶりで作者自身この作品に率直に向かえた」、と思い出風に振り返っています。新潮文庫版では三島由紀夫が解説を書いています。「…これらの静的な、また動的なデッサンによって的確に組み立てられた処女の内面は、一切読者の想像に委ねられている。川端康成氏はこの「処女の主題」のおかげで、氏の同時代の作家が悉く陥った浅はかな似非近代的心理主義の感染を免れたのである。…まるでこの見事な若書(わかがき)の小説は、「甘い快さ」だけではこのような作品は成立しないことの証明として書かれたようなものだからだ。若書と私は言った。『伊豆の踊子』は日本の作家が滅多にもたない若さそれ自体の未完成の美をもっているが故に、(もし若書という言葉に善い意味がつけられるものなら)、決して作品の未完を意味しない真の若書ともいうべきものだ。…」、と、いつも通りの三島由紀夫調の書き方で”べたほめ”しています。

川端康成の「伊豆の踊子」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

大正7年 1918 シベリア出兵
19 10月30日伊豆修善寺から下田へ旅行

大正11年 1922
23 7月 伊豆湯ヶ島で執筆
湯ヶ島での思い出
大正15年 1926 昭和元年
27 9月 伊豆湯ヶ島に戻る
伊豆の踊子

<伊豆箱根鉄道駿豆線>
 大正5年12月、伊豆箱根鉄道の前身、駿豆鉄道株式会社が設立されます。大正13年8月、大仁〜修善寺間延長工事完成、昭和9年12月 丹那トンネル開通にともない駿豆線の起点を下土狩(旧三島駅)より現在の三島駅に変更します(丹那トンネルができるまでは、国府津から沼津まで御殿場線経由でした。現在の下土狩は御殿場線で沼津より二つ目の駅です)。昭和32年6月 社名を現在の伊豆箱根鉄道株式会社に変更しています。川端康成が初めて伊豆に旅行したのは大正7年でしたから、東京から東海道線で国府津まで来て御殿場線経由で旧三島駅(現 下土狩駅)で降りて、駿豆鉄道に乗り換えて大仁まで来たのではないかと思います。大仁からは下田街道をバス(当時は乗合自動車)か歩いていくわけです。大正11年と15年の時は駿豆鉄道は修善寺まで開通していました。川端康成が初めて伊豆に行ったのには理由があるようです。秀子さんが「同窓の氷室吉平さんがその一年前に伊豆に行っていて、湯ケ島の話を何かに書くか川端にしゃべるかしているということがあるからです。これは二、三年前に湯本館で苦を偲ぶ会を開いて頂いた折に、直接氷室さんからうかがった話です。川端君が伊豆に行くについては私の話がきっかけになったのじゃないかな、ということでした。」、と書いています。全く何も知らないところに出かけるはずはないので、このお話が真実かもしれません。

左上の写真は現在の御殿場線 下土狩駅です。寂しい駅前になっていますが、丹那トンネルが開通するまでは此方が三島駅だったわけです。川端康成もこの駅で降りて駅前で駿豆鉄道に乗り換えて大仁までいっています。

左の写真は伊豆箱根鉄道修善寺駅構内です。湯川橋、修善寺温泉へは駅前のロータリーを右に折れて狩野川に架かる修善寺橋を超えます。プラットホームに伊豆箱根鉄道のブルーの電車とJR踊り子号が入線していました。踊り子号で東京から約2時間の旅です。【修善寺地図】


<修善寺温泉>
 世俗的ですが、やっぱり最初は「伊豆の踊子」の書き出しの紹介です。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ケ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。…」、うむ… 文章になんともいえない清潔さ、清らかさがありますね。三島由紀夫が言っている若書の意味がよく分かります(上記は新潮文庫版で、角川文庫版では雨脚のところが雨足となっています)。川端康成本人もこの修善寺で一泊しています。”大正7年10月31日付伊豆修善寺より”「お蔭で、昨夜当地につきつした。思ったほどよいところではありません。温泉につかってよい気持になりました。午後発って、湯ケ島に行きます。それから湯ケ野、下田の方へ温泉を巡ります。…」、とはがきに書き残しています。残念なことに修善寺温泉のどの旅館に泊まったかは分かりません。

右の写真は修善寺の前から桂川を撮影したものです。古い木造三階建の温泉旅館があり、昔の風情を見せてくれます。川の真ん中に”独鈷の湯”があります(写真の右側下)。【修善寺地図】

<修善寺 湯川橋>
 かの有名な湯川橋です。踊り子との出会いを『伊豆の踊子』と、元になった『湯ヶ島での思い出』で比べてみると、『湯ヶ島での思い出』では、「温泉場から温泉場へ流して歩く旅芸人は年と共に減ってゆくやうだ。私の湯ケ島での思ひ出は、この旅芸人で始まる。初めての伊豆の旅は、美しい踊子が彗星で修善寺から下田までの風物がその尾のやうに、私の記憶に光り流れてゐる。一高の二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してから初めての旅らしい旅であつた。修善寺に一夜泊って、下田街道を湯ケ島に歩く途中、湯川橋を過ぎたあたりで三人の娘旅芸人に行き遇った。修善寺に行くのである。太鼓をさげた踊子が遠くから目立ってゐた。私は振り返り眺めて、旅情が身についたと思った。」、と書いています。『伊豆の踊子』では、「最初は私が湯ケ島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女は三人だったが、踊子は太鼓を提げてゐた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思った」、と書き直しており、川端康成自身ついて書いてある部分を削っているのがわかります。川端康成は彼女たちと天城トンネルまでの間で二度会っており、最初に出会ったのが修善寺近くの湯川橋になり、川端康成の人生を大きくかえた出会いでした。

左の写真が湯川橋です。狩野川に流れる桂川に架かる橋で修善寺橋近くにあります。もうすこし綺麗な橋かと思っていたのですが、ひょっとしたら大正7年から替わっていないのかもしれません。橋のたもとには、「伊豆の踊子」についての紹介看板が立っていて、小さいながら駐車場もありました。【修善寺地図】

<湯ヶ島温泉>
 川端康成は大正7年の初めての伊豆旅行で湯ヶ島温泉に二泊しています。このあと川端康成はよほど湯ヶ島が気に入ったのか、毎年訪れるようになります。湯ヶ野温泉は文士たちの溜まり場になっていたようです。その当時の様子を秀子さんは、「特に記憶に残っているのほ梶井さんで、一見おっかない人でしたけれど、笑うととてもいい人だなという印象を与える人でした。十二月三十一日に落合楼に来られましたが、ちょっとお金がかかりすぎるというので主人のところに相談に来ました。それで私たちは湯川屋をすすめました。梶井さんよりも前に池谷さん、淀野隆三さん、外村繁さんが湯ケ島に来ておられました。……そのちょっと前に淀野さん、外村さんが連れ立って来られました。二人とも大変な美少年で、『青空』の同人の方はみな綺麗だなって感心したことを覚えています。『青空』の同人の中でも、三好達治さんはちょっとコチンコチンとしている人だなという印象です。…湯ケ島はほんとうに千客万来というところで、名前をあげますときりがありませんが、湯本館に泊った人でも藤沢桓夫さんとその友人の小野勇さん、それにまるで中学生みたいに若い感じだった保田興亜郎さんがいますし、変ったところでは大塚金之助さん、日夏秋之介さん、岸田国士さん、林房雄さん、若山牧水さん。足が御不自由でしたけれど、絵描きの鈴木信太郎さんもよくいらしてました。」、と書いています。川端康成が滞在したのは湯ヶ島温泉の湯本館で、湯ヶ島温泉口のバス停留所で降りると。狩野川の河原の方に降りていきます。川沿いの道から少し入ったところに湯本館はあります。川沿いの道を湯本館から少し歩くと「落合楼」、もう少し歩くと「湯川屋」となります。

右の写真が川端康成が滞在した湯本館です。「湯ヶ島の思い出」はこの湯本館で書かれています。建物は当時のままなので、「伊豆の踊子」に書かれている、「…湯ケ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下してて心に見ていた。…」、とありますので、実際にこの湯本館の玄関の板敷で踊ったのだと思います。残念ながら私はまだこの湯本館に泊まっておりません。【湯ヶ島地図】

次回は、「天城峠」から湯ヶ野温泉、下田へ向かいます。

●川端康成の「伊豆の踊子」を歩く(下) 初版2003年3月1日 <V01L02>
 今週は”川端康成の「伊豆の踊子」を歩く”の(下)として旧天城トンネルから、湯ヶ野温泉を経由して下田まで巡ります。私は取材のため二度ほど下田街道を訪ねましたが、まだまだ不十分で時間があれば再度訪ねてみたいです。特に湯ヶ島の湯本館と湯ヶ野の福田家、下田の甲州屋さんにはぜひとも泊まってみたいとおもっています。

<下田街道 天城峠>
 下田街道は三島駅近くの「三島大社」一の鳥居から下田までの街道ですが、旧天城トンネルができるまでは現天城峠の西側の二本杉峠を超えていた街道だったようです。吉田松陰やアメリカの初代駐日総領事ハリスが歩いて超えた峠は実は二本杉峠だったようです。「この隧道(トンネル)は下田街道の改良工事一環として、明治三十四年(1901)に貫通、同三十七年に完成した。全長四四五.五メートル、幅員四.一メートル、トンネル両端の抗門及び内部全体が切石積で造られ、川端康成の小説「伊豆の踊子」をはじめ多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。平成十三年六月十五日、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治後期を代表する隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。」、と旧天城トンネル北側の石碑に書かれています(南側の石碑にも書かれています)。五月の連休や行楽期間は車の通行か禁止されますが、その期間を除けば自由に車で通ることができます。ただトンネルの北側と南側の一部の道は舗装されておらず、また道幅も狭いため注意が必要です。

左の写真が旧天城トンネル北側です。川端康成が訪ねたころには写真の右側の所に茶屋があったようですが現在は休憩所とトイレになっていました(南側から撮影した写真も掲載しておきます)。上記に書かれているようにトンネルの幅が4.1mしかなく、トンネルの中では車がすれ違うことができません。昭和45年3月には新しい天城トンネルが開通し、車はそちらの方に廻っています。

川端康成の「伊豆の踊子」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

大正7年
1918
シベリア出兵
19
10月30日伊豆修善寺から下田へ旅行

大正11年
1922

23
7月 伊豆湯ヶ島で執筆
湯ヶ島での思い出
大正15年
1926
昭和元年
27
9月 伊豆湯ヶ島に戻る
伊豆の踊子

<旧天城トンネル>
 「伊豆の踊子」では修善寺、湯ヶ島温泉とすごした主人公がある期待を抱きながら天城トンネルに登ってきます。「…重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。…」、主人公の一つの期待とは「…あの日が修善寺で今夜が湯ケ島なら、明日は天城を南に越えて湯ケ野温泉へ行くのだろう。天城七里の山道できっと追いつけるだろう。そう空想して道を急いで来たのだったが…」、修善寺と湯ヶ島温泉で出会った踊子と再び出会うことができると期待していたのです。大正7年に川端康成自身が伊豆を旅行した時に主人公と同じように天城トンネルで出会うことを期待していたのでしょう。「折れ曲った急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座蒲団を外して、裏返しに傍へ置いた。「ええ……」とだけ言って、私はその上に腰を下した。坂道を走った息切れと驚きとで、「ありがとう」という言葉が咽にひっかかって出なかったのだ。踊子と真近に向い合ったので、私はあわてて懐から煙草を取り出した。踊子がまた連れの女の前の煙草盆を引き寄せて私に近くしてくれた。やっぱり私は黙っていた。踊子は十七くらいに見えた。…」、うれしさが溢れていますね。先にも書きましたが初々しい、新鮮な文体ですばらしいです。

左上の写真は旧天城トンネルの南側出口付近で撮影しました。「…暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。」ありましたので、同じような構図で撮影してみました。

右の写真は国道414号線から分かれた旧天城トンネルへの道の途中を撮影したものです。「トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道が稲妻のように流れていた。この模型のような展望の裾の方に芸人達の姿が見えた。…」、白塗りの柵ではありませんが、木立に囲まれた舗装されていない急な上り坂です。「伊豆の踊子」の風景そのものですね!!

<湯ヶ野 福田家>
 天城トンネルを南に超えた主人公は先に出立した踊子達にすくに追いつきます。「六町と行かないうちに私は彼等の一行に追いついた。しかし急に歩調を緩めることも出来ないので、私は冷淡な風に女達を追い越してしまった。…」、先程と同じで、文体自体は幼稚なのですが、とても新鮮に読めます。「湯ケ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった。…湯ケ野の藁屋根が麓に見えるようになった頃、私は下田まで一緒に旅をしたいと思い切って言った。彼は大変喜んだ。…男が私を別の温泉宿へ案内してくれた。それまでは私も芸人達と同じ木賃宿に泊ることとばかり思っていたのだった。私達は街道から石ころ路や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向うは温泉宿の庭だった。…湯から上ると私は直ぐに昼飯を食べた。湯ケ島を朝の八時に出たのだったが、その時はまだ三時前だった。…」、ここで”小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った温泉宿”と紹介しているのが湯ヶ野温泉の福田家です。【湯ヶ野温泉地図

左上の写真が湯ヶ野温泉 福田屋さんです。「伊豆の踊子」に書いてある通り、下田街道から少し下り、河津川に架かっている小橋を渡った所にある温泉旅館です。建物も当時のままで、写真の右側には「伊豆の踊子文学碑」があります。

<伊豆急行 下田駅>
 伊豆半島の西側は大正13年に伊豆箱根鉄道駿豆線が修善寺まで開通したのに対して、東側の鉄道敷設は遅れます。昭和13年12月、当時の国鉄の伊東線開通により、熱海から伊東まで鉄道が敷設され、それに続き一度は伊東−下田間延長の閣議決定がされましたが、戦後その計画は中止されます。昭和31年2月、東京急行電鉄は伊東−下田間地方鉄道敷設免許を申請します。昭和36年2月、社名を「伊豆急行株式会社」とし同年12月10日伊東−下田間が全線開通しています(伊豆急行ホームページを参照)。と言うことは川端康成が初めて伊豆を訪ねて下田まで来たときも、その後も下田は鉄道の便がなかった訳です。原稿を書いていて、ここの掲載するのはおかしいかなとも思ったのですが、参考になるとおもい掲載しておきます。

右の写真は伊豆急行下田駅です。昭和36年12月までは鉄道の便が無かったわけで、川端康成が訪ねた当時は、ここ下田を訪ねるには東伊豆の伊東経由で来るよりは西伊豆の三島から修善寺経由で来る方が近かったと思います。又下田が有名なのは嘉永七年(1854)のペリー艦隊の来航で、「日米和親条約」の締結により下田は日本最初の開港場となっています(下田市のホームページ参照)。

<下田 甲州屋旅館>
 湯ヶ野温泉で主人公は踊子達と一緒に下田へ出立しようとしますが、「どうしても今日お立ちになるなら、また下田でお目にかかりますわ。私達は甲州屋という宿屋にきめて居りますから、直ぐお分りになります」と四十女が寝床から半ば起き上って言った。私は突っ放されたように感じた。「明日にしていただけませんか。おふくろが一日延ばすって承知しないもんですからね。道連れのある方がよろしいですよ。明日一緒に参りましょう」と男が言うと、四十女も附け加えた。…」、と言われ、湯ヶ野の出立を結局翌日に延ばすことにします。下田では、「甲州屋という木賃宿は下田の北口をはいると直ぐだった。私は芸人達の後から屋根裏のような二階へ通った。天井がなく、街道に向った窓際に坐ると、屋根裏が頭につかえるのだった。…私が甲州屋を出ようとすると、踊子が玄関に先廻りしていて下駄を揃えてくれながら、「活動につれて行って下さいね」と、またひとり言のように呟いた。…私は明日の朝の船で東京に帰らなければならないのだった。旅費がもうなくなっているのだ。学校の都合があると言ったので芸人達も強いて止めることは出来なかった。…」、主人公はここ下田で踊子達と分かれ、船で東京へ戻ります。【下田地図】

左の写真の中央の建物が「伊豆の踊子の宿」と書かれた看板の架かった甲州屋さんです。下田駅から歩いて5〜6分で現在も営業されています。

−まだまだ不十分なところもありますので継続して取材を続けたいとおもいます−

川端康成 伊豆地図−1−



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫版
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社
・文芸読本 川端康成:三島由紀夫、河出書房新社
・川端康成「伊豆の踊子」作品論集:原善、クレス出版

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール