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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の初恋を歩く 初版2004年1月22日 <V01L01>
 今週は以前やり残した「川端康成の初恋を歩く」を掲載します。川端康成の「篝火」、川嶋至氏の「川端康成の世界」を参照しながら岐阜市から江刺市を歩いてみました。江刺市は岩手県です。

岐阜駅>
 川端康成は東京帝国大学二年生のとき、彼女にあうために何回か岐阜を訪ねています。川端康成が伊豆に旅行して踊り子に出会ったのが大正7年のことですから、伊豆から3年経過しています。何方が初恋かとなると問題ですが、結婚という意志を固めたのは岐阜の彼女だったとおもいます。川嶋至氏の「川端康成の世界」では、「…この恋愛事件に立ち合った友人たちの証言が文章になっているので、それらによって、この事件をもう少し具体的にしてみよう。 結婚申し込みの第一回目の岐阜行きに同行した友人は三明永無氏で、最近当時をふりかえって、「川端康成の思い出」(昭四十四)を書いている。また、みち子の実父を尋ねた岩谷堂行きに同行したのは、前記三明氏のほかに、鈴木彦次郎氏と最近亡くなった石浜金作氏で、それぞれ「川端君と盛岡」(昭四十三)、「無常迅速−昔春修業記−」(昭二十五)という文章を書いている。鈴木氏の文章を紹介しておこう。 私たちが高校生のころ、本郷真砂町にエランという小さなカフェがあった。(中略)平出修の弟の細君だったとかいう通称おばさんがマダムで、彼女が娘のように可愛がっていた、まだ十四、五のちよという少女と、素人くさい女給と二人いるきりで、カフェらしい華かさもなく、どこか家庭的な雰囲気さえある店であった。(中略)……「エランへ寄ろう」と誘うのは、きまって、同級の三明永無か石浜で、川端と私は、そのあとにくっついてゆく存在だった。従って、ちょと賑かに談笑するのは前二者で、川端は口数も少なく、あの大きな目を、ぎょろぎょろさせながら、コーヒーをすすっているにすぎなかった。 その川端が、ちよと結婚すると、静かに宣言したのは、大正十年の秋だった。…」。周りの友人たちにとっては川端康成の結婚宣言は青天の霹靂だったのでしょう。驚く様子が手にとるようにわかります。上記に書かれている「川端君と盛岡」(昭四十三)、「無常迅速−青春修業記−」(昭二十五)の二冊とも手に入りませんでした。盛岡を訪ねたときには図書館で探してみようとおもっています。

 彼女が働いていた本郷真砂町のカフェ「エラン」の場所については、不明な点が多いのですが、「真砂町の通り、壱岐坂より手前」にあったようです。”真砂町の通り”がよく分からないのですが春日通りとは直角に交わる通りでアライ理髪店と本郷台中学横の通りか、又は真砂図書館の前の通りではないかとおもっています。そうすると壱岐坂より手前は本郷二丁目31〜35辺りかなと推定しています。

左上の写真は旧岐阜駅です。現在の岐阜駅(裏側の写真です)は高架になり立派な駅舎になっています。写真の旧駅舎の裏側にあります。

川端康成年表(大正9年〜11年)

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

大正9年
1920
国際連盟成立
21
7月 第一高等学校を卒業
9月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
9月 市外東大久保一八一 中西方に住む鈴木の部屋に同居
10月 小石川区中富坂一七 に住む菊池寛を訪ねる
11月 浅草小島町十三、高橋竹次郎方(帽子修繕屋の二階)に移る
  
大正10年
1921
日英米仏4国条約調印
22
5月 浅草小島町七二、坂光子方に転居
9月 岐阜を三明永無と訪れ伊藤初代と婚約する
10月 友人と岩手県岩谷堂に行き初代の父に会う
10月 本郷区根津須賀町十三、戸沢方に下宿
新思潮発刊
大正11年
1922
ワシントン条約調印
23
1月 本郷区駒込林町二二七、佐々木方
3月 本郷区林町十一、氷宮方
本郷区千駄木町三八、牧瀬方 
湯ヶ島での思い出

西方寺>
 彼女が東京から移り住んだのは岐阜駅裏の西方寺でした。川端康成はこの恋愛経験を後に「篝火」として書いています。「岐阜名産の雨傘と提灯を作る家の多い田舎町の澄願寺には、門がなかった。道に立ち停って、境内のまばらな立樹越しに奥を窺っていた朝倉が言った。「みち子がいる、いる、ね、立ってるだろう。」 私は朝倉に身を寄せて伸び上った。「梅の枝の間に見えるだろう。……和尚の壁塗りを手伝ってるよ。」 落着きを失っている私には、その梅の木さえ見分けがつかなかった。けれども、小さい板に水でこねた壁土を載せて背つぎの上の和尚に捧げているみち子の姿が、見えないのに、ひと滴の感じを、ぽとり私の心に落した。壁土をいじっているのは私であるかのような軽い恥しさと寂しさのまま、境内へ歩いて行った。本堂の正面から、私達は新しい木の階段を昇り、新しい障子を開いた。これが人の −いや、みち子の住居であろうか。屋根瓦を置いただけと言ってもいい、普請中の本堂は、がらんと広く、虚しく、荒れていた。…… 「名古屋へいらっしゃいましたの? 皆さんご一緒なんですか。」 「昨夜は静岡で泊った。名古屋は今日行くんだが、俊さんと僕だけ行くのをやめて来たんだ。」 朝倉は私と示し合せてある通りの嘘を言った。半月の間に二度も、東京から岐阜のみち子を訪ねて来るのは穏かでないので、養父母の手前をつくろうために、名古屋方面へ行く修学旅行のついでに寄ると、みち子への手紙にも書いてやってあった。そして私達は前夜、静岡の宿で寝たのではなく、汽車の中で催眠薬を飲んでいたのであった。…」。これは「篝火」の書き出しです。なにか川端康成のは恋愛そのままを書いているようです。岐阜はそのままですが、澄願寺は西方寺になります。これは三木秀正さんが書かれた『川端康成「篝火」研究』(「岐阜の文学」自主研究8)から探し出しました。見つけられたのは故島秋夫氏(元東海女子短大講師)だそうです。

左の写真は岐阜駅裏にある西方寺です。岐阜は空襲で焼けていますので、現在の西方寺は戦後に建て直されたものです。上記に書かれている本堂も建て直されているわけですか、本堂の前の木だけが当時のままかもしれません。

瀬古写真館>
 「篝火」に沿って岐阜市内を歩いてみました。「…暫くしてみち子は、近路だと、小さい天満宮の境内へ折れて行った。寒さに敏い桜の落葉が思い出したように立ち上って微かな秋の音で湿った地を走り、また直ぐ風に見棄てられると静かに死んだ。境内の裏の畦路から、やがて広い道に出た。…」。この”小さい天満宮の境内”は岐阜駅の南にある加納天満宮だとおもわれます。「…東海道線の陸橋で、朝倉は二人を待っていた。「あすこに踏切が見えますでしょう。あの踏切を越えてお使いに行く時に、わたしよく東京へ行く汽車を眺めているんですよ。」とみち子は陸橋から遠くを見て言った。…」。”東海道線を跨ぐ陸橋”は現在は無くなっています。東海道線が高架になってしまって当時と逆になっていました。しかし陸橋の名残が残っていました。「…「ねえさん、お湯は沸いてるかい、岐阜で写真屋はどこがいいんだ。」と私はつづけさまに女中に聞いた。……「要するに、君に好意はあるんだが、即答は出来ないと言うんだ。考えているんだ。…‥さっき電車の中で僕が、三人で写真を写そうと言ったら、その時、ええ写しましょうって言ったから、大抵大丈夫だろうと思うがね。まあ、今、湯の中でゆっくり話すよ。」…」。また日記の中でも岐阜の写真館のことが書かれていました。「…大正十一年四月四日、岐阜の写真屋より送り来し例の写真袋を取り出だして、みち子と二人にて撮りし写真を見る。いい子だったのに、いい女だのにの念しきりなり。…」、ともあります。この写真館は岐阜市役所前の「瀬古写真館」でした。

右の写真が現在の瀬古写真館です。長良橋通りの岐阜市役所の真ん前に立派なビルが建っていました。

鐘秀館跡>
 「篝火」では二人は長良川沿いの旅館に泊まります。「…岐阜駅前から電車で長良川へ行った。南岸の宿の玄関に立っていると、おかみが出て、この間の嵐に二階も階下も雨戸を破られて休んでいると言った。……川向うの宿屋へ行こう。北風だったんなら向う岸は助かってるだろう。」 …… 私達は長良橋を渡った。早瀬の上に時雨がまた青もなく来ていた。通された二階八畳は川面に向って晴れやかな眼を開いていた。廊下に出て川上から川下までを見渡さずにはいられなかった。金華山の緑が向う岸に雨の色で微白く煙っている。その頂に模擬城の三層楼の天主閣が浮んでいる。さっきの曳船はもう川上に上ったらしい。心が爽かに拡がる眺望であった。…」。二人が乗った電車は今は廃止されている名鉄長良北町線(普通の民営市電です)でした。”嵐に二階も階下も雨戸を破られて”の旅館は三木秀正さんの『川端康成「篝火」研究』(「岐阜の文学」自主研究8)によると「ホテルパークみなと館」です。この旅館は現存していました。また対岸の旅館は「鐘秀館」で、現在は十六銀行の研修センターになっています。

左の写真は長良橋から鐘秀館跡を撮影したものです。中央やや左側のビルが十六銀行の研修センターでした。宿泊ができなかった「ホテルパークみなと館」の写真も掲載しておきます。そのままの「篝火」でした。

江刺市立岩谷堂小学校>
 川端康成は岐阜で彼女と婚約します。鈴木彦次郎の「川端君と盛岡」によると、「…ともかく、ちよは岩手県岩谷堂に住む父親の許しさえあれば、川端の申し込みを承諾するといったと.いう。「善はいそげと世馴れた哲学専攻の三明の主唱で、石浜、私、そして、もちろん川端をふくめての四人は、これも、あやしげな学生と間違えられないようにと三明のアドバイスで、めずらしく、東大の制服を、そろって着用して旅立った。水沢駅へ着いたのほ、忘れもしない十月十六日の早朝であった。そこから、父親の勤めている岩谷堂小学校へ、一気に自動車を飛ばした。突然、四人の東大生の訪問を受けた謹直そうな校長は、あっけにとられながらも、用務員をしているちよの父親を校長室へ呼んでくれた。人のよさそうな五十年配の、どこか、ちょの面影を宿す父親ほ、制服姿の四人に囲まれて、終始、おどおどしながらも、「よろしくお願いしあす」と、承諾の意を述べた。…」。無事、婚約できたのですが、残念ながらこの後彼女より婚約を破棄されます。理由はよく分からなかったようで、いろいろな本を見ましたがはっきりは書いていません。それにしても東北本線水沢駅までよく訪ねたものです。恋はやっぱり盲目ですね!!!

右の写真は江刺市立岩谷堂小学校の校門です。現存します。江刺市は岩手県にあり、東北本線の水沢駅(一の関の先で花巻の手前)から東北に約8Km程で、東北新幹線の水沢江刺駅からの方が近いかもしれません。

川端康成 岐阜地図


川端康成 江刺地図



【参考文献】
・『川端康成「篝火」研究』(「岐阜の文学」自主研究8):三木秀正
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・伊豆の踊子:川端康成、講談社文芸文庫
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫版
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社

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