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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成「浅草紅團」を歩く
  初版2001年11月24日
  二版2003年2月11日 アサヒビール本社の場所を修正
 <V02L03>

 少し寄り道をしましたが、”三人の作家の浅草散歩”の第二弾として川端康成の「浅草紅團」を歩いてみたいと思います。私のホームページの名称もこの「浅草紅團」に因んで名付けさせて頂きました。

<川端康成>
 ノーベル文学賞作家であまりにも有名ですね。生まれは明治32年(1899)大阪生まれ。一高、東大へ進み、東大在学中の大正10年に「新思潮」に掲載した「招魂祭一景」が菊池寛に認められて文壇にデビューします。大正13年には横光利一、今東光らと雑誌「文芸時代」を創刊し、「伊豆の踊子」、「雪国」、「千羽鶴」、「古都」などを次々に発表、昭和43年、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞します。昭和47年(1972)ガス自殺を図ります(72歳)。戦時中の鎌倉在住時は、久米正雄、高見順らと鎌倉文庫という貸本屋を開くなどして鎌倉文士の中心的な存在でした。(川端康成は別途特集を組みます)

左の本は「浅草紅團」の復古版として昭和51年7月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載され、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されました。文庫本は講談社版がありましたが、単行本は既に販売されていませんので、上記の本を古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。この小説は書き出しが面白いのです、書き出しというよりは”前書き”かもしれませんが「−作者イウ。コノ小説ノ進ムニ従ッテ、紅団員ハジメ浅草公園内 外二巣食ウ人達ニ、イカナル迷惑ヲ及ボスヤモ計リ難イ。シカシ、アクマデ小説トンテ、コレヲ許サレヨ。−」とあります。面白いですね。

<象潟署、富士尋常小学校、浅間神社>
 川端康成は震災後の浅草を紹介する為に次の書き出しから始めます。「大正地震の後の区画整理で、新しく書き変えられた「昭和の地図」を拡げよう。……浅草観音裏の停留場を北へ入ると、右は馬道町、左は千束町、それを少し行って、左側に象潟署、右側に富士尋常小学校、そこで浅間神社に突き当って四辻だ。社の石崖に沿うて進むと公設市場。それから吉原土手の掘割の紙洗橋だが、橋まで行かずに、とある路地を−いやしかし「とある路地」とは、余りに古臭い小説の書き出しだ。彼等はなにも死刑になる程の−それどころか、浅草に巣食う人力車夫程の、罪悪も犯していないのだから、いどころをはっきり書いてもいいのだ。」とあります。浅草紹介としては面白い書き出しです。高見順が浅草の南西の方を中心に紹介していたのを、川端康成は北東の方の紹介から入っています。象潟署(きさがたしょ)とは、今は名前が変わって浅草署、富士尋常小学校は富士小学校となっています。浅間神社の先の公設市場はもうありません。また”吉原土手の掘割(日本堤)”は既に埋め立てられて紙洗橋だけが残っています。橋の手前の露地は昔の雰囲気のまま残っています。

左の写真が浅草観音裏の停留場を少し北に入ったところから撮影したものです。正面が浅間神社、左が浅草署、右が富士小学校で、戦災で建物は変わってしまっていますが場所は昔のままです。もう少し歩くと紙洗橋交差点で、その先に紙洗橋跡があります。紙洗橋交差点を左に曲がると日本堤消防署で、その先が吉原になります。昔は浅草で遊んで、夜は吉原というルートでこの道を歩いたのではないかと思います。

<サッポロ・ビイル会社>
  今は隅田川を吾妻橋で渡った所にアサヒビールがあります。「浅草紅團」では「私の自動車は大通を浅草憲兵分遣隊の前まで行かぬうちに、二台の古自転車と並んで走った。直ぐ言問橋だ。…橋の上に大福餅や支那蕎麦の屋台店が出ている。向う岸に普請前の牛島神社は、……そして枕橋 − サッポロ・ビイル会社の「枕橋ビア・ホオル」 の大看板を左に見ながら、彼等は隅田公園へ入った。元の枕橋の渡に鉄橋が出来ようとして、大川の真ん中に起重機がすえられ、その真向いに五重の塔が立っている。…新しい隅田公園は、そこから長命寺まで、現代風にいうならば、商科大学の艇庫に突き当るまで、ボオト・レエスのコオスを河岸に沿うた、アスファルトの散歩道だ。昭和の向堤だ。」とあります。浅草観音裏の言問通りにある浅草憲兵隊分遣隊前から言問橋を渡り、墨田公園、枕橋と歩いてサッポロ・ビイル会社に至っています。昭和4年の時はサッポロビールで何故現在はアサヒビールなのか、少々調べてみました。明治39年(1906)、当時の麦酒上位三社(日本麦酒醸造会社(「ヱビスビール」)、札幌麦酒会社(「サッポロビール」)、大阪麦酒(「アサヒビール」)が合併し大日本麦酒が誕生しています(合併前には吾妻橋にサッポロビールの工場があった)。戦後の昭和24年(1949)、「過度経済力集中排除法」により、大日本麦酒は朝日麦酒と日本麦酒に分割され、9工場のうち、朝日麦酒は、吾妻橋、吹田、西宮、博多の4工場、ブランドとしては「アサヒビール」「ユニオンビール」「三ツ矢サイダー」を継承しています。そのため、戦後はアサヒビールに変わった訳です。

右の写真の銀色のビルがアサヒビール本部(アサヒビールタワー)で、上の白いところがビールの泡をあらわしているそうです。右側にある雲のようなオブジェのビルはスーパードライホールです。一番左側のビルが墨田区役所で写真正面の橋は吾妻橋です。アサヒビール本部ビルの左側が墨田公園になります。公園の中に牛島神社があります。

<二天門通>
 浅草寺には東西南北に出口があり、東の出口は二天門です。この二天門から隅田川までを二天門通りといいます。「浅草紅團」では「浅草寺の東の出入口、二天門から、二天門通を、真直ぐ大川へ突きあたれば、それでいいのだ。電車道を横切る、川べりは山之宿町、河岸は公園工事中、左言問橋、直ぐ右に東武鉄道の鉄橋架橋中、岸に二三十般小船がある。そのうちの紅丸、「紅丸」とは船尾に赤い字 − などくどくど書かなくとも、二天門から河岸が見えるのだ。地図の表のみくじには、「待ち人来たらず。」とある。」とあります。今では二天門から言問橋や隅田川は到底見えませんが、途中に台東区民会館があり、団体客用のバス車庫があるため、大変な混雑です。「浅草紅團」が書かれた年は東武鉄道は未だ工事中で、浅草に乗り入れたのは昭和6年5月25日、同年11月1日、同所に松屋百貨店が開業しています。

左の写真がF台東区民会館前から二天門を撮影したものです。写真の右側が台東区民会館で、左側には駐車場に入りきれない団体バスが停まっており、団体バスが停まるたびに団体客がどっと降りてきます。

地下鉄ビル>
 昭和初期の浅草を紹介するときには必ずこの「地下鉄ビル」と「地下鉄食堂」が出てきます。「浅草紅團」では「右の方に、エレヴェタアと並んで食券の売場だ。「食べなければ、塔へ上るの、いけないってわけないでしょう。ほれごらんなさい、ちゃんと書いてあるわよ。− 地上鉄塔四十メエトル、御自由にお登り下さい。」…「−あら、もう六階なの?」 エレヴエタアの前が調理室だ。その横を屋上庭園へ出て、黒と白の化粧煉瓦の市松模様を踏みながら、…食堂は二階から五階、それぞれ壁紙の色や装飾灯までちがえて、近代風に明るい清潔だ。二階と三階は禁酒だ。しかし、私達が入った、緑色の壁の五階でも、もちろんコオヒは飲めるのだ。西窓の街の向うに、上野松坂屋の旗が見える。……尖塔−教会の屋根の鐘楼のような、円いコンクリイトの塔だが、東西南北に四つの見晴し窓、窓の裾は金網、壁は裾だけ緑色で、上は薄水色、円い天井にガラスの装飾灯だ。…東の窓は−目の前に神谷酒場。その左下の東武鉄道浅草駅建設所は、板囲いの空地。」とあります。当時はビル全体が食堂で、ビルの屋上に登る事ができたようで、この地下鉄ビルの周りには高いビルはなく、上野の松阪屋が見えたのですからすごいですね。地下鉄食堂のメニューが「浅草紅團」には書かれています。値段が高いですね、高級食堂だったようです。
 
地下鉄食堂メニュー 当時の価格 換算価格
御飯、パン、コオヒ、紅茶 五銭 500円
レモン・ティ、ソオダ水 七銭 700円
アイスクリイム、ケユキ、パインナップル、果物 十銭 1000円
エビ・フライ、ライスカレエ、お子様料理 二十五銭 2500円
ビフテキ、カツレツ、コロッケ、ハムサラダ、ロオルキャベツ、ビイフシチュウ 三十銭 3000円
ランチ 三十五銭 3500円

【前回の高見順「如何なる星の下に」でも記載した”マッチ”の価格で換算しています(約千倍)】

右の写真が現在の地下鉄ビルです。当時の地下鉄ビルと違うのはこのビルの一番上に尖塔がありません。戦災でなくなってしまった様です。ビルの中も食堂は無くなっており、営団地下鉄の事務所になっています。


今回だけでは紹介しきれませんので、別途続きを行いたいと思います。

 

「浅草紅團」浅草地図



【参考文献】
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫

【住所紹介】
・浅草署:東京都台東区浅草4-47
・アサヒビール:東京都墨田区吾妻橋1-23
・地下鉄ビル:東京都台東区浅草1-1

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