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最終更新日:2006年2月19日

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●「松本清張、坂口安吾、井伏鱒二、つかこうへい」の蒲田を歩く
  初版:2002年8月10日 V03L01 最終更新日:2003/7/20 南雲病院の場所を修正
  今週は趣を少し変えまして、京浜東北線で横浜に向かって走ると、都内最後の駅、蒲田を歩いてみたいとおもいます。蒲田というと、一番庶民に有名なのは「ゆざわや」でしょう。最初は小さなお店だったのですが、あっとゆうまに大きくなってしまいました。蒲田の町は「ゆざわや」の赤い袋を下げた人で溢れていますが、今回は「ゆざわや」のお店を紹介するのではなくて、松本清張、坂口安吾、井伏鱒二、つかこうへいの”蒲田文学散歩”としゃれてみたいとおもいます。

matsumoto-kamata49w.jpg<蒲田駅>
 この蒲田駅は東急多摩川線、池上線の発着駅であり、JR京浜東北線との乗換駅でもあります。昭和初期に松竹キネマ蒲田撮影所が東口にあったこともあり、駅の発着音は蒲田行進曲が使われています。この駅のいちばんの特徴は、京浜東北線の 蒲田操車場が近くにあることで、京浜東北線の始発電車がこの駅から発車します。この操車場が有名になったのは下記に紹介される松本清張の「砂の器」からです。

左の写真がJR京浜東北線、蒲田操車場です。京浜東北線のみの操車場かとおもっ たのですが、時折、他の路線の色の違う電車も見かけます。こちらが蒲田駅の東口西口の写真です。


蒲田駅付近地図
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kamata14w.jpg松竹キネマ蒲田撮影所跡>
 この蒲田が戦前有名だったのは、大正9年(1920)から大船に移転する昭和11年(1936)までの17年間「松竹キネマ蒲田撮影所」が蒲田駅東口にあったからです。原作:つかこうへい、監督:深作欣二で、風間杜夫の”銀ちゃん”の「蒲田行進曲」の映画は有名ですね。つかこうへいの「蒲田行進曲」の書き出しは「スタジオの中は、うだるような暑さだ。頭の上から十キロワットの照明が三十台もギラつき、天窓も通気孔もなく、鉄の扉を閉めると空気は淀んだまま流れようもない。衣裳はぐっしょり汗を吸いこみ、体が倍くらいに重くなっていた。羽織の衝から汗がポク ボタしたたり落ちて、足元のコンクリートに黒い水たまりをつくっている。俺たち大部屋は、スタッフの打ち合わせの間、スターさんのように外に息ぬきにでることもできず、暗がりにひとかたまりになって、じつと待っている。「土方歳三、準備OKですね」 「よろしくおねがいします」浅黄色のだんだら模様の羽織に、額には??誠?≠フ鉢巻きを締めた銀ちゃんは、初の主演作品ということもあって、神妙な顔つきであちこちに深々と頭を下げた。銀ちゃん、のはじめての主演作品だ。俺たちもがんばんなきゃあ。」とあります。ただこの撮影場所は京都の太秦です。。

左の写真は昭和61年に「キネマの天地」で使われた松竹橋です。松竹キネマ蒲田撮影所は高砂香料に売却され、その高砂香料の跡地は「アロマ・スクエア」として再開発されています。この松竹橋は「アロマ・スクエア」に記念碑として残っています。


matsumoto-kamata50w.jpg<砂の器>
 あまりにも有名なので、説明する必要もないかとおもいますが、松本清張の「砂の器」の書き出しはこの蒲田から始まります。「国電蒲田駅の近くの横丁だった。間口の狭いトリスパーが一軒、窓に灯を映していた。十一時過ぎの蒲田駅界隈は、普通の商店がほとんど戸を入れ、スズラン灯の灯だけが残っている。これから少し先に行くと、食べもの屋の多い横丁になって、小さなバーが軒をならべているが、そのバーだけはぽつんと、そこから離れていた。場末のバーらしく、内部はお粗末だった。店をはいると、すぐにカウンターが長く伸びていて、申しわけ程度にボックスが二つ片隅に置かれてあった。だが、今は、そこにはだれも客は掛けてなく、カウンターの前に、サラリーマンらしい男が三人と、同じ社の事務員らしい女が一人、横に並んで肘を突いていた。」このあと、国電蒲田操車場で男の死体が発見され事件が始まります。この続きは……。

右の写真が現在のJR蒲田操車場です。「砂の器」は昭和49年(1974) 主演:丹波哲郎、加藤剛、森田健作で映画化されており、撮影場所を現在と見比べてみると、操車場の場面は右写真の場面で、当時とほとんど変わっていません。その他では蒲田駅近くの新呑川の付近でロケ撮影されており、二カ所(宮之橋御成橋)を見比べましたが、日本工学院の建物が増えた以外は、ほとんど現在と同じでした。ただし映画では宮之橋の場面で、看板が”BAR三美”となっていましたが実際は”スナックゆうこ”でした。

ibuse-kamata21w.jpg<本日休診> 2003/7/20 南雲病院の位置を変更
 井伏鱒二も蒲田を題材にして小説を書いています。「こんな看板が、最近、蒲田駅前の広場のはずれに立てられた。大きな立看板である。以前、戦争前にも同じ場所に「三雲産婦人科医院 − 院長 医学博士 三雲八春」という小型の立看板が出してあった。それは戦災のとき火をかぶって、焼けトタンになったのを誰か持って行った。戦災では、三雲産婦人科医院自体も焼け失せた。今度、もと通りに建築して「三雲病院」と面目を改めて再出発したわけである。この病院の三雲伍助院長はまだ独身の若輩で、顧問をしている三雲八春先生の甥である。八春先生は、この土地の警察医もしているので」は井伏鱒二の「本日休診」の書き出しです。ここに出てくる三雲医院は蒲田に実在する医院をモデルにして書かれています。このお医者さんは南雲今朝雄さんといい、旧番地で女塚四丁目六番地(現在の西蒲田7丁目30と45の間の路の辺り)に病院かありました。当時の蒲田駅前は路が入り組んでいたため、区画整理が行われ、そのため南雲病院は御園一丁目一番地(現在の西蒲田7丁目25番付近)に移転します。現在、南雲病院は既になく、跡地はホテルになっていました。南雲今朝雄さん自身も「実説 本日休診」を書かれていました。

ibuse-kamata21w.jpg左上の写真の中央左の路辺りに当初の南雲病院がありました。

左の写真は現在の西蒲田7丁目25番付近です。現在は”URBAIN HOTEL”になっていて南雲医院はもうありません。大田区南糀谷4丁目に南雲医院がありますが、ご親戚の方だそうです(お孫様からご連絡いただきました)。



ango-kamata31w.jpg<白痴>
 蒲田からは一駅離れますが、戦後文壇の”三羽がらす”の一人、坂口安吾が「矢口ノ渡」に住んでいました。矢口ノ渡付近を描いた坂口安吾の「白痴」の書き出しがまた面白いです。「その家には人間と隊と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない。物置のようなひん曲った建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分らぬ子供を孕んでいる。伊沢の借りている一室は母屋から分離した小屋で、ここは昔この家の肺病の息子がねていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。それでも押入と便所と戸棚がついていた。主人夫婦は仕立屋で町内のお針の先生などもやり(それ故肺病の息子を別の小屋へ入れたのだ)町会の役員などもやっている。間借りの娘は元来町会の事務員だったが、町会事務所に寝泊りしていて町会長と仕立屋を除いた他の役員の全部の者(十数人)と公平に関係を結んだそうで、そのうちの誰かの種を宿したわけだ。」、太宰とは違う文体での”おもしろさ”かあります。
 
右の写真が坂口安吾宅跡です。現在は新潟日報社の社宅になっています。この家に坂口安吾が住んでいるときに奥さんの三千代さんが盲腸になり、ちょうどそのときに南雲医院の別院武蔵新田駅の側にあり、そこに入院します。そこから坂口安吾と南雲医院とのつきあいが始まります。終戦間際に南雲医院の別院が武蔵新田駅近くにできたのは、昭和20年7月に須崎遊郭の一部がここに移って遊郭街を作ったからで、戦後もカフェー街が残っていたようで、今でも色タイルを貼った、入り口が二つある当時の建物がのこっています。


矢口ノ渡、武蔵新田駅付近地図
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【参考文献】
・ジョン万次郎漂流記 本日休診:井伏鱒二、角川文庫
・実説本日休診:南雲今朝雄、宝文館
・白痴:坂口安吾、新潮文庫
・定本 坂口安吾全集(第十三巻):坂口安吾、冬樹社
・砂の器(上)、(下):松本清張、新潮文庫
・DVD 砂の器:松竹株式会社
・蒲田行進曲:つかこうへい、光文社文庫
・DVD 蒲田行進曲:松竹株式会社
・赤線跡を歩く:木村聡、ちくま文庫
 
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