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最終更新日:2006年2月19日


●梶井基次郎の大阪を歩く(下)
 初版2005年9月17日 <V01L01>  

 今週は掲載が遅れていました「梶井基次郎を歩く」の最終回を掲載します。梶井基次郎は大正13年、第三高等学校から東京帝国大学に入学しますが、体調が思わしくなく昭和3年故郷の大阪に戻ります。



<阪堺電軌上町線>
 阪堺電軌上町線を紹介します。梶井基次郎とは関係がないようですが、梶井一家が住んだ阿倍野区王子町二丁目は天王寺からこの路面電車で二駅目の東天下茶屋駅で下車します。この阪堺電軌上町線は明治30年5月に設立された大阪馬車鉄道株式会社です。明治42年12月南海鉄道に合併、上町線とよばれるようになりました。電化工事は南海鉄道が引き継ぎ、翌43年10月1日に完成、同日から天王寺西門前〜住吉神社前間の運転営業をはじめました。さらに大正10年12月、天王寺西門前〜天王寺駅前間を大阪市に譲渡し、これによって同線の起点が現在の天王寺駅前に移転し、ほぼ今日の姿にちかい状態になっています(阪堺電軌のホームページ参照)。梶井基次郎はこの路面電車に何回乗ったのでしょうか。昔のイメージと余り変わらない一両の電車が走っています。

左上の写真は阪堺電軌上町線、東天下茶屋駅です。この駅で降りて左側に歩いていくと王子町二丁目になります。それにしても大阪の電車の色は面白いです。専用線と路面の両方を走っている電車です。東京ではとっくに無くなってしまった私鉄の路面電車です。

【梶井基次郎】
明治34年大阪市西区土佐堀通で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる。北野中学から第三高等学校、東京帝大英文科に進む。小説家を志望し、伊豆湯ヶ島で川端康成、宇野千代らと過ごすが三高時代からの肺結核のために大阪に帰郷、卒業もできなかった。初の作品集『檸檬(れもん)』刊行の翌年の昭和7年に大阪天王寺近くで早逝。


大阪市天王寺区阿倍野町九十九番地>
 大正13年、梶井一家は靱南通りの玉突き屋を経営しながら大阪市天王寺区阿倍野町九十九番地に転居します。『のんきな患者』の中では、「…その五六年も前吉田の父がその学校へ行かない吉田の末の弟に何か手に合った商売をさせるために、そして自分達もその息子を仕上げながら老後の生活をして行くために買った小間物店で、吉田の弟はその店の半分を自分の商売にする積りのラヂオ店に造り変へ、小間物屋の方は吉田の母親が見ながらずつと暮らして来たのであった。それは大阪の市が南へ南へ伸びて行かうとして十何年か前まではまだ草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまひ、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさん出来て、野原の名残りが年毎にその影を消して行きつつあるといふ風の町なのであった。吉田の弟の店のあるところはその間でも比較的早くから出来てゐた通り筋で両側はそんな町らしい、いろんなものを商ふ店が立ち並んでゐた。…」。この中に出てくる吉田は、梶井一家のことです。吉田の弟とは三弟の勇のことでラジオ屋も本当のお話です。

左上の写真右角が阿部野町九十九です。商店街の中ですが少し寂れています。現在は他の方がお住まいのようです。昭和3年の住居表示で大阪市天王寺区阿倍野町、次が住吉区王子町二丁目となり、現在は阿倍野区王子町二丁目と移り変わっていました。

梶井基次郎の大阪年表 (下)

和 暦

西暦

年  表

年齢

梶井基次郎の足跡

昭和元年年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
26
11月 静岡県田方郡上狩野村湯ケ島に滞在
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
28
9月 大阪市天王寺区阿倍野町九十九番地の実家に静養のため帰京
昭和4年
1929
世界大恐慌
29
1月 父死去
12月 宇野千代と神戸で会う
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
30
5月 兵庫県川辺郡伊丹町堀越町二十六に転居
9月 兵庫県川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上に転居
昭和6年
1931
満州事変
31
5月 「檸檬」発刊
10月 住吉区王子町二丁目に転居
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
32
3月24日 住吉区王子町二丁目で死去


兵庫県川辺郡伊丹町堀越町
 大谷晃一の「評伝 梶井基次郎」によると、「…昭和五年(一九三〇年)五月三十一日夜、梶井基次郎と母ヒサは、兵庫県川辺郡伊丹町堀越町二十六の兄謙一方へ行った。現、伊丹市清水町二丁目。…… 謙一の家は古風な伊丹の町のはずれで、後ろが崖である。謙一が無線交信を始めていた。二階建てで、下は八畳と六畳、上は四畳半二間。謙一は数え三十二歳、妻あき江は二十八歳、長男の誠は七つ、次男の功は四つ、三男の清は三月に生まれたばかり。子供が三人いて静かでないが、久し振りで木や草を見て気持がせいせいする。不便だが、健康的でご飯もおいしい。ところが、三十八度の熱が出た。ほとんど読書もできず、散歩にも出られない。二階で寝椅子に長くなり、長らく見なかった雲を見る。…」。阪急伊丹駅から750mくらいですから徒歩10分位です。JRの伊丹駅でも歩けますが少し遠いようです。

左上の写真の路地正面向かい側に梶井基次郎の兄謙一が住んでいました。堀越町は現在兵庫県伊丹市清水二丁目となっています。交通の便では阪急伊丹線が開通したのが大正9年ですから、阪急伊丹線を使っていたようです。

兵庫県川辺郡稲野村大字千僧>
 梶井一家は伊丹で一回転居します。家が広いことと兄謙一の都合だったようです。「…九月二十八日、伊丹から北へ八町ばかりの所へ、謙一たちと一緒に引っ越した。兵庫県川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上である。現、伊丹市千僧池西。人跡まれで、西隣に猪名野山安楽院という寺がある。周りは苺や蜜柑や水蜜桃の畑で、千僧池はじめ睡蓮の花咲く池が多い。北に西国街道の松並木が見えた。ここへ来たのは、謙一の無線交信に都合がいい事が一つ。それに家が広くて、離れがあるのが基次郎に具合がよい。不便なので、家賃が月十五円と安い。少し土地が高いらしく、母家の縁側から大阪の三越百貨店屋上の赤いネオンサインが水平に見えた。離れは八畳と六畳で、基次郎とヒサが寝起きした。敷地は五百坪もあり、ヒサは朝凪や茄子を作った。八畳に無線機を置いてあるのを、基次郎はうるさがる。伊丹の停留所へもうんと遠いので、この冬はどこへも出ないで、温かな部屋で過ごそうと決心する。人に会う事も少なくなる。南向きの縁側がうれしく、少し調子に乗って日光浴をやり過ぎた。熟を出す。…」。当時は周りは畑だけの田舎でした。それにしても伊丹から北浜の三越がよく見えるものです(現在三越は無くなっています)。直線で14Km以上離れています。

右の写真が安楽院で、右の路地を入った先の左側でした。現在は住宅街で西国街道(171号線)脇の自衛隊千僧駐屯地の直ぐ傍です。近くの公園に梶井基次郎の記念碑が建てられていました。この家の周りの風景を三好達治宛ての書簡にも書いています。「僕の南縁から広い空が見える。この辺は坦々たる平野で この広い空に棚引くものは平野の雲だ、此頃非常に美しく思ってゐるものに 広い空かけて真一文字に刷毛で刷いたやうな実に高い雲がある、氷片のパーティクルで出来てゐるといふのはこの裏のことだらう。動かない。」。上手に表現しますね。

<梶井基次郎の伊丹付近地図>


住吉区王子町二丁目>
 昭和6年10月、母ヒサと基次郎は住吉区王子町二丁目に移ります。母ヒサは基次郎の死期を悟ったのでしょう、基次郎の表札を掲げます。「…昭和六年(一九三一年)十月二十五日、梶井基次郎は大阪市住吉区王子町二丁目十三番地に一戸を構えた。現、阿倍野区王子町二丁目十七〜二十九。生まれて初めて、自分の表札を出した。弟の勇のラジオ屋から二分ほどの所だった。細い路地の中の長屋である。隣に植木職人がいた。赤煉瓦を敷いた路地からじかに格子があった。入ると、玄関が二畳、座敷四畳半、台所三畳の三間しかない。平屋である。家賃が月十三円五十銭。いつも浴衣を着て、肩の薄い、丈夫そうでない若い男が来た、と近所の北野五月は思った。狭屋わずかに身を容るるのみ、言語道断の家ですが、と基次郎は友人たちに通知した。母ヒサは彼に朝飯を食べさすと勇の家へ行く。向うで煮炊きし、正午に持って来る。六時過ぎの夕食も同じ。朝のうちは、一人で机に向う。午後は、気持がよければ机に坐り、そうでないと寝床へ入って本を読む。夕飯以後は思い詰めるような事は何もしない。弟の家へ気晴らしに出かける。…」。三男勇が住んでいる阿倍野町九十九番地の直ぐ近くの路地の長屋住いになります。母としては最後に一家を建ててやりたかったのでしょう。

左上の写真の右側になります。写真の反対側から阿倍野筋に出ると梶井基次郎の記念碑が建てられています。表の通りから見た写真も掲載しておきます。

常国寺>
 「…夕方前、意識が不明瞭に陥る。夜になり、呼吸がせわしい。脈が不確かで、手の指先がいやに冷たく、呼吸が三十ぐらいしかない。ヒサは勇の家へ走る。柚木医師が駆け付けたのは十二時であった。あと二時間と告げる。枕頭にいるのは、母ヒサ、弟の勇と良書、弟嫁の豊子、その両親の永山沼、きくの六人である。…… 昭和七年三月二十四日午前二時であった。数えて三十二歳。…… 遺言にょって寝棺に入れて茶の薬を詰め、草花で飾る。戒名は、泰山院基道信士。終の栖となったこの小さな長屋で、二十五日午後二時から告別式をした。…… 三時に出棺し、ここから遠くない阿部野斎場の特等の火蓋で焼かれた。骨は大阪市南区中寺町の常国寺にある梶井家先祖代々の墓の下に埋められた。…」。32歳で死去します。

右の写真は常国寺の梶井基次郎のお墓です。お墓が三つ並んでおり、右側に梶井家のお墓がありました。

<梶井基次郎の天王寺地図>

【参考文献】
・評伝 梶井基次郎:大谷晃一、河出書房新社
・新潮日本文学アルバム 梶井基次郎:新潮社
・梶井基次郎ノート:飛高隆夫、北冬舎
・ユリイカ 特集 梶井基次郎:青土社
・檸檬:梶井基次郎、近代文学館の名著復刻全集

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