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最終更新日:2006年2月19日


●梶井基次郎の鳥羽・宇治山田、松坂、伊豆湯ヶ島を歩く
 初版2005年7月9日 <V01L01>  

 今週は「梶井基次郎を歩く」を掲載します。特に今回は梶井基次郎の大阪、京都、東京以外の地を訪ねてみました。小学校から中学時代の鳥羽・宇治山田、姉の家の松坂、川端康成などの伊豆湯ヶ島となります。



<ユリイカ「特集 梶井基次郎」>
 ユリイカの梶井基次郎特集の中で渡辺広士が書いています。「いまから半世紀も前、一人の青年が大正と昭和の二つの時代のはざまに病んで、三十一年の苦渋に満ちた生涯を生きた。肉体は病人でいたが、精神は極度に健康だった。彼は病人が肉体と、その肉体の中に束縛されて肉体と共に深く病みこもうとする心とを、生涯見つめとおした。病気のおかげで彼は、精神とは苦悩の中で苦悩する自己から退き、それ自体の自由を保っていることのできる、目に見えない力であることを知った。…」。三高時代には梶井基次郎は”小説家は胸の病気に罹っているぐらいでないと、いい文章は書けない”等と言っています。自分自身の病気について理解していたのでしょう。当時、肺結核は不治の病気ですから、其れなりの覚悟があったのでしょう。

左の写真がユリイカの「特集 梶井基次郎」の表紙です。私は三校の帽子をかぶり、檸檬を手に持った梶井基次郎の表紙のユリイカが大変気に入っています。梶井基次郎の三高時代のイメージがよく出ています。やはり、東京帝大よりは三高の方がインパクトがありますね!!東京より京都かな!!

【梶井基次郎】
明治34年大阪市西区土佐堀通で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる。北野中学から第三高等学校、東京帝大英文科に進む。小説家を志望し、伊豆湯ヶ島で川端康成、宇野千代らと過ごすが三高時代からの肺結核のために大阪に帰郷、卒業もできなかった。初の作品集『檸檬(れもん)』刊行の翌年の昭和7年に大阪天王寺近くで早逝。


梶井基次郎の鳥羽・宇治山田、松坂、伊豆湯ヶ島年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

梶井基次郎の足跡

明治44年
1911
辛亥革命
11
5月 三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽千七百二十六番地に転居
大正2年
1913
島崎藤村、フランスへ出発
13
10月 大阪市北区本庄西権限町千百九十一番地に転居
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
24
8月 三重県飯南郡松坂町殿町の姉 宮田富士方に滞在
昭和元年年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
26
11月 静岡県田方郡上狩野村湯ケ島に滞在


重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽>
 梶井基次郎は父親の鳥羽造船所転勤に伴って、家族と共に鳥羽に転居します。「…舞台は一転して明るい。その海のそばの、鳥羽の町へ来た。明治四十四年五月だった。新居は、三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽千七百二十六番地。通称、錦町。九鬼東隆が築いた鳥羽城の跡のある高台のふもとである。前に入江があって、相橋が架かる。……父宗太郎の通う合資会社鳥羽造船所なのである。錦町の家は、その社宅だった。下は四部屋と台所、二階は二部屋、それに別棟の風呂。…。」。鳥羽と聞くと、梶井基次郎と言うよりは”江戸川乱歩”ですね。乱歩が鳥羽造船所に勤めた時期は大正7年ですからずっと後です。

左上の写真付近に鳥羽造船所の社宅があり、一家はその社宅に住んでいました。「…五月二十二日・基次郎は鳥羽小学校の尋常科第五学年に転入した。担任は倉田英一先生。姉冨士は高等科二年生になった。兄の謙一は、宇治山田市の三重県立第四中学校へ入学し、寄宿舎へ行っている。家の左隣りが小学校で、垣根越しに校庭が見えた。校舎は木造二階建て。右隣りが海事局で、その横に細い坂道があった。登りつめると、大山舐神社である。…」。写真の右側はNTTですが、当時は鳥羽小学校がありました。ですから小学校の隣に住んでいたわけです。上記に書かれている”細い坂道”は写真の鳥居に坂道になります。現在の鳥羽小学校は移転して城山の上にありました。

三重県立第四中学校>
 梶井基次郎は鳥羽小学校から宇治山田市(現在の伊勢市)の三重県立第四中学校に進学します。「…四月、三重県立第四中学校へ入学した。宇治山田市船江町にあった。現在の宇治山田高校である。鳥羽小学校から四中へ合格するのは、大変なことだった。町の秀才と目された。この年、彼と医者の息子の松田重雄の二人が入った。同時に、四中の三年生に進んだ兄謙一は、宇治山田市一志町にあった杉木普斎方に下宿していた。級友の杉木部之助の家だった。普斎は、茶人で郷土史家。基次郎もここで厄介になり、通学した。…」。よっぽど成績がよかったようです。小津安次郎も宇治山田中学校卒業で同じ場所に記念碑が創られていました。梶井基次郎の方が先輩のようです。上記に書かれている下宿先の杉木家は月夜見宮のすぐ傍の厚生小学校の所にありました。

右の写真が三重県立宇治山田中学校跡の碑です。当時の三重県立第四中学校は宇治山田市船江町にありましたが現在の住所で伊勢市船江一丁目になります。写真の碑は船江公園の中です。現在の三重県立宇治山田高校は伊勢市浦口三丁目の岡の上にあります。昭和30年(1955)宇治山田市から伊勢市に名称変更しています。市町村合併によるのですが、残念ですね。

湯ケ島温泉 湯川屋>
 昭和元年末(大正14年)に梶井基次郎は静養のため伊豆に向かいます。「…明けて昭和二年(一九二七年)の元日、基次郎は数えて二十七歳である。湯ケ島温泉世古の滝の湯川屋へ移った。三食付きで一日二円と安い。宿帳に書いた字の達筆に、主人の安藤傑作は感服した。部屋は日当たりのよい南向きの三階で、すぐ目の下が猫越川である。その急流は間もなく狩野川の本流に入る。深い谷あいの向こうに杉林の山が連なる。西平の湯本館にいる川端康成に、落ち着いたと報告に行く。雑誌『文芸戦線』や『辻馬車』の話を聞いた。自分より二つ若い林房雄の活躍ぶりや、六つも下で姫路高校生の赤木健介を川端が発見して『文芸時代』に書かせた話が、基次郎を刺激した。…」。その当時の伊豆湯ヶ島が文士のたまり場となっていました。川端康成、尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎などが入れ代わりに滞在します。【湯ヶ島地図】

左の写真の正面が湯川屋です。川端康成の滞在していた湯本館からは500m位の距離です。

湯ヶ島 梶井基次郎記念碑>
 「…私はその療養地の一本の闇の街道を今も新しい印象で思い出す。それは溪の下流にあった一軒の旅館から上流の私の旅館まで帰って来る道であった。溪に沿って道は少し上りになっている。三四町もあったであろうか。…… しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞がっていた。…… 橋を渡ると道は溪に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでのまっすぐな道である。…… 街道はそこから右へ曲がっている。…… 電燈の見えるところが崖の曲り角で、そこを曲がればすぐ私の旅館だ。…」。梶井基次郎の「闇の絵巻」です。湯ヶ島が描かれています。川端康成が滞在していた湯本館から梶井基次郎の滞在していた湯川屋までの道のりを書いています。”下流の一軒の旅館”は湯本館」、”橋”は西平橋」、”ある旅館の裏門”は落合楼の裏門」、”私の旅館”は「湯川屋」となります。【湯ヶ島地図】

右の写真は川端康成筆による梶井基次郎記念碑です。先程の湯川屋の道路を挟んで向かい側に梶井基次郎記念碑がありました。少し奥まった所にあります。

三重県飯南郡松阪町殿町>
 梶井基次郎の「城のある町にて」から、「…「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。着いた翌日の夜。義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。…… 風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑わっていた。暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。白堊の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。…」。大正末期から昭和初期の松坂市内の様子をよくあらわしています。住所の通り殿町ですからお城の傍でした。

左の写真の左側の借家の並びに姉の家がありました。「…「…八月に入ってすぐ、三重県飯南郡松阪町殿町の姉宮田富士方へ出かける。現、松阪市。この年の四月に、富士の夫の汎は松阪商業学校の体育教師に転じ、富士も松阪第二小学校へ移っていた。ここでも、汎は快く病気の基次郎を迎えた。長女の寿子は七つ。汎の母よしも同居している。汎の妹ふさは亀山の三重県女子師範に在学し、夏休みで帰っていた。十九歳だった。母ヒサと弟良吾と三人で来たが、基次郎だけが残る。良書がこの兄をライオンと呼んだ。胸の病気だというのに、病人らしくなく元気のように、ふさには見えた。がっちりした体で、脂気のないこわい髪を長く伸はしている。基次郎は二階奥の四畳半に寝起きした。。…」。写真の中で、木が茂った所の家が姉の家でした。


<梶井基次郎の鳥羽、宇治山田、松坂地図>

【参考文献】
・評伝 梶井基次郎:大谷晃一、河出書房新社
・新潮日本文学アルバム 梶井基次郎:新潮社
・梶井基次郎ノート:飛高隆夫、北冬舎
・ユリイカ 特集 梶井基次郎:青土社
・檸檬:梶井基次郎、近代文学館の名著復刻全集

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