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最終更新日:2006年2月19日


●梶井基次郎の京都を歩く
 
初版2005年6月25日
 
二版2005年10月5日 
<V01L02> 京都丸善を追加 

 今週も引き続き「梶井基次郎を歩く」を掲載します。今週は「梶井基次郎の京都を歩く」です。大正8年の第三高等学校入学から大正13年の卒業までを歩きます。



「檸檬(れもん)」>
 梶井基次郎の初の作品集「檸檬」が発刊されたのが昭和6年5月15日でした。お金が余りなかったのでしょう、表紙のデザインは非常にシンプルで、題名と筆者名だけです。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。…」。これは、「檸檬」の書き出しです。この「檸檬」に関して親友三好達治が戦後「文芸」で書いています。「…『「樺稼」は梶井にとつては一寸異風の作』で、「所詮梶井文学中に異色を放ちながら、その中支脈たるにとどまった程であるが、いはばこの分脈は彼の文学に於ける酒落つ気と遊戯気分との良き面白き現れであった意味が多分で…」。良いことを書いてくれますね。丸善の本棚にレモンを置いてくるなどは、まさに洒落っ気です。残念ながら梶井基次郎は「檸檬」が出版された翌年の昭和7年3月24日、大阪市住吉区王子町二丁目で死去します。

左の写真が近代文学館の名著復刻全集の「檸檬」です。非常にシンブルな本です。

「八百卯(やおう)」>
 「檸檬」は梶井基次郎の第三高等学校時代を題材にしているため、当時の京都の町並みが書かれています。「…とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。――実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか…」。この「檸檬」は原稿用紙何枚かの小作品ですが、ここに書かれている果物屋というのが「八百卯」です。もともと有名なフルーツパーラーで、現在は経営者の方が無くなられてお店は閉められています。一階のショーウインドには梶井基次郎の記事が掲載されていました。一階が果物屋で二階がフルーツパーラーになっていました。

左上の写真正面のビルが「八百卯」です。京都風に地名を言うと寺町通二条角となります。正面左が二条通り、正面やや右が寺町通りとなります

。右の写真は「鎰屋」です。「…また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。…」。ここに出てくる「鎰屋」はもうありません。当時は洒落た喫茶店で学生に人気があったのでしょう、彼らは二階から「八百卯」を見たわけです。少し前はガソリンスタンドで、現在は一階がコンビニのマンションになっています。「八百卯」から寺町通りを40m程歩いた左側にありました。

そして最後に「丸善」が登場します。「…生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。…」。当時のハイカラな品物が置かれていたのでしょう。夢を見るような感じですね!。戦前の「丸善」ですから麩屋町三条西入ルにあったようです(写真の左側です)。京都丸善はなんと明治5年(1872)年に開設され、現在の丸善の中京区河原町通蛸薬師上ル右側に移ったのが昭和15年(1940)です。

京都丸善が平成17年10月10日に閉店します。最後の記念ということで梶井基次郎の「檸檬」を特別販売していました。特に岩波文庫の方は当時の丸善の写真の入った帯を付けて販売していました。そして、スタンプも置いてありましたので押してしまいました。暇な人は京都丸善に行こう!! 2005/10/5 追加

【梶井基次郎】
明治34年大阪市西区土佐堀通で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる。北野中学から第三高等学校、東京帝大英文科に進む。小説家を志望し、伊豆湯ヶ島で川端康成、宇野千代らと過ごすが三高時代からの肺結核のために大阪に帰郷、卒業もできなかった。初の作品集『檸檬(れもん)』刊行の翌年の昭和7年に大阪天王寺近くで早逝。


梶井基次郎の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

梶井基次郎の足跡

大正8年
1919
松井須磨子自殺
19
3月 大阪府立北野中学校を卒業
7月 第三高等学校に合格
9月 第三高等学校に入学、京都市上京区二条川東大文字町百六十番地の中村方に下宿
10月 北寮第五室に入寮
大正9年
1920
国際連盟成立
20
4月 上京区浄土寺町小山の赤井方に下宿
大正10年
1921
日英米仏4国条約調印
21
6月 上京区吉田中大路町に下宿
11月 上京区北白川西町の沢田方に下宿
大正12年
1923
関東大震災
23
5月 上京区寺町通荒神口下ル松蔭町の梶川方に下宿
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
24
1月 上京区岡崎西福ノ川町の大西方に下宿
3月 第三高等学校を卒業
4月 東京帝国大学入学


第三高等学校>
 梶井基次郎は当初大阪高工を受験しますが落ちます。「…大阪高工の入学試験は三月下旬に行われた。その年の競争率は十倍に達した。基次郎は兄と同じ電気科を志望する。が、不合格に終わった。北野中学から十三人が受け、五人が通った。むしろ、三高よりも難しいとされた。…」。それで、あわてて四カ月後に第三高等学校を受験します(当時は9月入学だった)。「…七月八日から体格検査、十一日から学科試験があった。受験番号は六百十五番。基次郎は南禅寺の僧庵に泊まった。その間、宇賀といつも連れ立っていた。二十四日に合格が決まった。北野中学からは十人が入った。…」。やっとのことで第三高等学校に入学します。「…大正八年(一九一九年)九月十二日に、第三高等学校の入学宣誓式があった。梶井基次郎は理科甲類一組の新入生となる。…」。ホッとしたでしょう!!

左上の写真が旧第三高等学校正門です。現在の京都大学総合人間学部への門です。

上京区二条川東大文字町百六十番地 中村方>
 梶井基次郎が京都での最初の下宿が左京区二条川端東入ル上ルの中村方でした。「…九月七日に、京都市上京区二条川東大文字町百六十番地の中村金七万に下宿している。宗太郎の母スヱの親類になる。剣道具を作っていた。現、左京区二条川端東入ル上ルの長屋である。たちまち、閉口した。狭いし、重い病気の年寄りがいる。鼻をかんだ紙を乾かして便所で使うのに、京都の人は始末屋やとたまげた。……十月二日、寄宿舎北寮第五室に欠員があって、入寮することができた。…」。鼻をかんだ紙を便所で使うのは昔よく聞いたような気がします。さすが京都という感じです。しかし居たたまれず、結局寮に入ります。

右の写真の中央やや左側の駐車場奥辺りに中村方がありました。ここの場所は正確に把握できました。「…この年に学制が変わった。新学年が九月から四月になった。で、この学年は一、二学期が終わった三月までに短縮される。基次郎の成績は、十二科目を平均して六十五点の合格点である。英語第一科の七十六点が最高で、注意点は鉱物地質の五十二点だけ。欠席は四十五日である。九、十月を休学したが、あとはよく出席した計算になる。百二十七人中、九十七番で及第した。…」。殆どすれすれですね。この年に学制が変わって、9月から4月に入学時期が変わります。

上京区浄土寺町小山 赤井方>
 第三高等学校に入学してから一年の間に三回下宿を変わります。「…春休みが終わり、四月十三日に京都へ帰った。寮を出る。上京区浄土寺町小山の赤井方に、下宿した。銀閣寺のすぐ西北で、田んぼの中にぼつぼつ家が建っていた。現、左京区浄土寺小山町。銀閣寺から若王子へ、手ごろな散歩をする。…」

左の写真の正面の先が小山町です。正確な番地がわかりませんので、詳細の場所は不明です。

上京区吉田中大路町>
 第三高等学校のすぐ近くの下宿に引っ越します。「…:六月ごろ、基次郎は三高東門を下った吉田中大路町に下宿した。その時、中谷の父が田舎の三重県一志郡七栗村から息子の暮らしを見に来る。同棲を隠していた中谷は弱った。で、英子を基次郎に預かってもらう。基次郎が迎えに来ると、雨が降って来た。番傘が一本しかない。基次郎と英子は相合傘になった。下宿の若いおかみのまさが、大声ではやし立てる。あいやご両人とか、恋の道行きとか。みなが閉口した。中谷の父は三日いて、帰った。京都駅で見送った中谷は、その足で基次郎の下宿へ英子を迎えに行った。彼女は部屋の隅でぽつねんと坐っていた。新妻を三日も友人の所へ預けても、中谷は平気だった。最愛の妻と第一の親友とを疑うくらいなら死んだ方がましだ、と中谷は思った。讃美歌の一件などがあっても、基次郎は信じるに足る人間であった。…」。今も昔もこういう話はありますね。友人の彼女を預かるのは大変です。

右の写真は吉田東通りを吉田神社の方面に撮影したものです。詳細の場所は不明です。

上京区北白川西町 沢田方>
 今出川通りから少し入った北白川西町の下宿に移ります。「…十一月、上京区北白川西町の沢田三五郎方の下宿に移った。現、左京区。当時はそこから吉田山まで一面の花畑だった。星と水車と地蔵堂と水の音の中を歩いて行く。花百姓の沢田方が、学生あて込みの細長い平屋を大正八年に建てた。西端の六畳が基次郎の部屋で、家賃は月一円五十銭だった。食費は朝十五銭、昼十八銭、夜二十銭。部屋の窓を開けると、そこは小さな崖の上になる。眺めがいい。彼はなぜここを選んだのか、叫つはこの崖のゆえではないか。崖上の感情がここに育っている。…」。すぐ近くに農学部があり、現在も静かな所です。少し前までは当時の建物が残っていたのですが、現在はマンションの駐車場になっています。

左の写真の左側駐車場の所に下宿がありました。この場所は正確に分かりました。


上京区寺町通荒神口下ル松蔭町 梶川方>
 大正12年5月、御所の東側の立命館大学の近くに引っ越します。「…御所の東の下宿へ引っ越したのは、その前後である。上京区寺町通荒神口下ル松蔭町、梶川方。粗壁で紅殻格子の古びた家である。二階の四畳半を借りた。家族は、七十余りの老婆と三十歳の小学校の女教師であった。二人とも粗野な調子で人の悪口ばかり言っている。それでいて、娘の方は基次郎には親切で、変に若々しい調子を向ける。夜、二階へ上がって来て、基次郎の枕もとに坐り込む。男は勝手で女は損だと彼女が言い出して、愚にもつかない議論をする。…」。後で、本にも書いていますが、この女性とはなにもなかったようです。モウションをかけられていたのでしょうね。

右の写真の右側辺りです(路は寺町通りで、左は御所です)。詳細の場所は不明ですが寺町通荒神口下ルですから、順当に考えると現在の鴨沂高等学校の所になります。鴨沂高等学校は戦前の京都第一高女なので、場所的にはよく分からないという感じです。

上京区岡崎西福ノ川町 大西方>
 第三高等学校時代、最後の下宿が大岡崎西福之川町の大西方でした。「…大正十三年 (一九二四年)、基次郎は数えて二十四歳である。一月八日に三学期が始まると、岡崎西福之川町の大西武二郎方へ下宿を移した。卒業試験にそなえ、生活を立て直そうとした。学校に近い。二階の南向きの六畳で、小ぎれいだった。が、例のズックの袋に小便を入れてぶら下げていた。浅見が訪ねて、びっくりした。少し漏っていた。下の人に遠慮して、便所へ行かないのだった。このかばんは、卒業のときに武田麟太郎がもらい、大事に保存した。…」。卒業を控えてしっかり勉強しようとおもったのでしょう。この後、第三高等学校を”百十七人中、百八番”の特別及第で卒業します。よかったよかった!!

左上の写真は白河養護学校付近から西福之川町を撮影したものです。大西方は何軒かあったのですが、どの大西宅か確証がありません。


<梶井基次郎の京都地図 -1->

【参考文献】
・評伝 梶井基次郎:大谷晃一、河出書房新社
・新潮日本文学アルバム 梶井基次郎:新潮社
・梶井基次郎ノート:飛高隆夫、北冬舎
・ユリイカ 特集 梶井基次郎:青土社
・檸檬:梶井基次郎、近代文学館の名著復刻全集

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