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最終更新日:2006年2月19日


●梶井基次郎の東京を歩く 初版2005年6月11日 <V01L01> 

 今週から「梶井基次郎を歩く」を掲載します。梶井基次郎は織田作之助より12年早く明治34年大阪に生まれています。三高から東京帝大に進み宇野千代らと親しくなりますが、昭和7年結核のため若くして死去します。



<評伝 梶井基次郎>
 「梶井基次郎を歩く」に大谷晃一さんの「評伝 梶井基次郎」を底本とさせて頂きました。大谷晃一さんは最近は「大阪学シリーズ」で有名な先生なのですが、元々関西の文学については先生の右に出るひとはおりません。いつも参考にさせて頂いております。「 この本の初版が上梓されたあとで、私は「事実そのままと事実離れ』という一文を雑誌『文藝』に青いた。その後の私の仕事そのものが、この命題との格闘になっている。客観的にゆるぎのない事実を積み重ねることによって梶井基次郎という人間に迫ろうとした。これがこの評伝の本質であり、あるいは評価でもあった。だから、その一文はこの本を補強し、かつは批判へも答えていると思われる。ここに再録にあたり、若干の手を加えた。…」。この文は「新装版のための後書」として大谷晃一さんによって書かれたものです。私のような散歩派は大谷晃一さんの本が非常に役立つのです。細かい番地まで入った住所が書かれており、分かるところは新しい住所も掲載されています。ただ、私も旧住所を確認しております。

左上の写真は「評伝 梶井基次郎」河出書房新社版の再新装版です。新装版は昭和58年、再新装版は平成元年発行です。

【梶井基次郎】
明治34年大阪市西区土佐堀通で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる。北野中学から第三高等学校、東京帝大英文科に進む。小説家を志望し、伊豆湯ヶ島で川端康成、宇野千代らと過ごすが三高時代からの肺結核のために大阪に帰郷、卒業もできなかった。初の作品集『檸檬(れもん)』刊行の翌年の昭和7年に大阪天王寺近くで早逝。

梶井基次郎の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

梶井基次郎の足跡

明治34年
1901

幸徳秋水ら社会民主党結成

2月17日 大阪市西区土佐堀通五丁目三十四番屋敷で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる
明治42年
1909
伊藤博文ハルビン駅で暗殺
9
12月 東京市芝区二本榎西町三番地に転居
明治43年
1910
日韓併合
10
1月 私立頌栄尋常小学校に転入
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
24
4月 東京帝国大学文学部英吉利文学科に入学
本郷区本郷三丁目十八番地蓋平館支店に下宿
12月 東京府荏原郡目黒町中目黒八百五十九番地に転居
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
25
3月 麻布区飯倉片町三十二番地に転居


東京市芝区二本榎西町三番地>
 生まれは大阪ですが父親の東京転勤に伴い東京市芝区に転居します。「…父宗太郎は東京にある安田商事合名会社の本店へ転勤になった。……東京は品川で降り、旅館若木屋に泊まる。何日かのちに落ち着いた家が、東京市芝区二本榎西町参番地である。四十二年十二月十日に転籍届を芝区役所へ出している。空っ風と霜解けの高台の町であった。東京も芝の金杉橋までが市街だった。それから南は田園で、家がぽつんぽつんと建っている。すぐ南が大崎村、田んぼで水車が回る。二本榎付近は起伏があり、森が多かった。東側の崖下が泉岳寺で、東海道線が走る。線路のすぐ外が海で、帆掛け舟がゆらゆら行くのが見えた。高台を古い道が通る。それを東へ折れる小路が明石横丁と呼ばれた。奥に旧明石藩主の松平家の屋敷があったからである。その横丁にある清林寺の山門の手前に、四軒の貸家が並んでいた。これが二本榎西町参番地である。…」。写真の左側の車の先に清林寺があります。写真の道を少し歩き、左に曲がると交差点に消防署と高輪警察署があります。

左上の写真の左側の家の付近が二本榎西町参番地です。右側が高輪台小学校となります。「…基次郎は十歳になった。この三学期から、彼は私立頌栄尋常小学校の三年生に編入した。兄謙一は五年生である。姉富士は芝区高輪台町の飯田家政女学校付属高等小学校へ通った。公立校の転入手続きがうまく行かなかっただけでない。頌栄校は近かったし、梶井家が借りたのは頌栄校校主の岡見清致の持ち家だった。この小学校は頌栄高等女学校の付属である。…」。小学校は高輪台交差点の近くの私立頌栄尋常小学校に入学しています。現在も頌栄女子学院として残っていますが、中、高のみで小学校は無くなっていました。

<東京帝国大学>
 梶井基次郎は織田作之助とは違って、何とか第三高等学校を卒業し東京帝国大学に入学します。「…基次郎は片っ端から教授の家を歴訪した。胸の病気で歩くのも苦しいのでと、人力車に乗って行く。母が卒業をひたすら待っているので、と卒業を嘆願する。……このおかげか、あるいは基次郎が踏ん張って最後の勉強をしたからか。三学期は平均で何と七十一点も取った。物理実験などは九十四点と高く、あの大浦八郎教授の英語第二科は実に八十五点である。学年平均がそれでも六十一点だから、三学期のこの奮闘がなかったら、とても卒業できなかった。百十七人中、百八番で特別及第に判定された。欠席は百十四日と多いが、これは病気のためと同情されたのだろう。……。」。”百十七人中、百八番”で病欠などもいるでしょうから殆どビリですね。特別及第で救われたのでしょう。やっぱり人情に訴えるのが一番いいみたいです。

右の写真は現在の東京大学赤門です。この門の左側の小門が通れます。

本郷の玉突き屋>
 よく玉突き屋に行っていたようです。「…本郷の玉突き屋で、忽那と中谷が玉を突いていた。そこへ、基次郎があらわれた。ひょいとキューを手にし、いとも簡単に四つ玉で百を突いて上がりにした。好んで難しく派手な取り方をした。自分たちは四十か五十の腕なので、忽那は驚いた。あいつの家は玉突き屋だからや、と中谷はささやいた。基次郎はすぐやめて出て行った。その後、彼が玉を突くのを忽那は一度も見なかった。…」。大阪の実家が玉突き屋ですから、上手いのは当然です。

左の写真の中央やや左の白い四階建てのビルの二階に梶井基次郎達が行っていた玉突き屋がありました(東大赤門前)。このビルは戦前からあるビルで、空襲のときこのビルの左側まで焼けて右側は助かったそうです。残念ながらこのビルは既に取り壊されています。現在はローソンになっていました。

本郷区本郷三丁目十八番地蓋平館支店>
 東京帝国大学に入学して最初の下宿が蓋平館支店でした。「…大正十三年四月八日、梶井基次郎は東京帝国大学へ入るべく意気揚々と上京した。本郷区追分町の矢野潔の下宿に滞在し、同じく本郷三丁目十八の蓋平館支店に落ち着いた。…。」。本郷三丁目十八は現在の丸ノ内線本郷三丁目駅付近です。本郷界隈は空襲でほとんと焼けてしまっていますので、昔の面影は殆どありません。追分の方は焼けていませんので少しは昔の面影があります。東大からは本郷通りで数百メートルです。

右の写真の左側が丸ノ内線本郷三丁目駅です。地下鉄丸ノ内線が開通したのは戦後ですから、当時は駅も何もなかったのです。赤い入り口の少し先の左側辺りに蓋平館支店がありました。



東京府荏原郡目黒町中目黒八百五十九番地>
 体調が思わしくないため、すこし休みたかったのでしょう。本郷界隈では訪問者が多いため、かなり遠い山手線目黒駅から少し歩いた目黒川傍に引っ越します。「…十二月三日、基次郎は東京府荏原郡目黒町字中目黒八百五十九番地の八十川方へ移る。現、目黒区目黒三丁目。本郷では訪問者が多すぎて、おちおち原稿も書けない。そこで郊外へ逃げ出した。東京へ出るのが、うんざりするはどの一仕事である。……部屋は二階の八畳で、東南に窓がある。ながめが広くて気持がいい。冬の日を浴びて安閑としている。家を少し出ると、富士が見える。空が澄んでいる。…」。目黒川を超えて山手通りからすこしはいった所です。

左の写真の右側が東京府荏原郡目黒町字中目黒八百五十九番地付近です。この道の先が山手通りになります。

麻布区飯倉片町三十二番地>
 梶井基次郎東京最後の住いが飯倉片町でした。飯倉片町というと島崎藤村ですね。「…大正十四年五月三十一日、基次郎は東京市麻布区飯倉片町三十二番地の堀口庄之助方へ引っ越した。……往時から、この辺は植木屋が多く、前の道は植木坂と呼ばれた。庄之助は石積みの名人と言われた人で、そのころは祐天寺にいて、養子で植木職を継いだ繁蔵と、嫁入りして来たばかりの律子の若い夫婦がいた。基次郎は電信棒の張り紙を見て、二階の表の四畳半に入る。見晴らしがいい。下宿代は月十円。さっそく、淀野隆三や外相茂や忽那吉之助が来る。遠い目黒で身を焦がした弘独が痕やされる。外相と淀野は近くの麻布市兵衛町にいる。  私の部屋はいゝ部屋です。……一つの窓は樹木とそして崖とに近く、一つの窓は奥狸穴などの低地をへだてゝ飯倉の電車道に臨む展望です。(『橡の花』)。…」。一の橋や麻布に近く、住みやすい土地です。

右の写真の少し先、右側になります。島崎藤村宅(麻布区飯倉片町三十三番地で一番違い)は右側の道を少し歩いて左側に入った所です。「…四月二十九日は熟がなく、安心する。下宿の裏の、島崎藤村の家を外村と訪問した。藤村はこの年『嵐』を書いた。五十五歳。文壇の大家であり、文学青年には簡単に会わない。下宿の主人の堀口繁蔵が庭仕事で島崎家に出入りしていたので、口をきいてもらう。……さて、基次郎は制帽をかぶり、冴えない顔でひげを生やして行く。藤村先生は敷居に端坐してあいさつを受けた。玄関わきの四畳半に通された。藤村は何も言わない。火鉢の煙草の吸殻を集めている。…」。島崎藤村はこの飯倉片町に大正7年から昭和11年まで住んでいますから、梶井基次郎が飯倉片町に引っ越した大正14年3月からは重なっていたわけです。ただ、島崎藤村が梶井基次郎について書いたものはないようです。

次回は「梶井基次郎の京都を歩く」です。

<梶井基次郎の東京地図>

【参考文献】
・評伝 梶井基次郎:大谷晃一、河出書房新社
・新潮日本文学アルバム 梶井基次郎:新潮社
・梶井基次郎ノート:飛高隆夫、北冬舎
・ユリイカ 特集 梶井基次郎:青土社

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