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最終更新日:2013年08月30日


●梶井基次郎の大阪を歩く(上) 初版2005年6月18日 <V01L02> 

 「梶井基次郎を歩く」を引き続き掲載します。今週は「梶井基次郎の京都を歩く」の予定でしたが、「大阪を歩く(上)」を先に掲載します。明治34年の生誕から北野中学を卒業する大正8年までを歩きます。



名水「此花乃井」>
 梶井基次郎が生まれてから二度目の転居先が大阪市西区江戸堀南通四丁目二十九番地でしたが、この住いのすぐ近くに大阪市内としては珍しい名水がありました。大阪は淀川の三角州に生まれた町であり、井戸を掘っても淀川の水しか出ない町でした。当然、川の水なので美味しくありません。しかしこの井戸水は特別だったようです。大阪市西区のホームページによると、「花乃井中学校の校庭は、江戸時代に石見津和野藩(亀井氏・4万3千石)の蔵屋敷があったところで屋敷内の井戸は大阪では珍しく良質の飲料水をたたえていた。明治元年(1868)明治天皇が大阪北御堂を行在所とされたとき、この井戸水を用水に供し、「此花乃井」の名を与えられ、以来通称を「花乃井」と呼び、大阪の名水として評判であった。明治42年(1909)5月、有志によって「此花乃井」の碑が建てられたが、昭和15年11月、この名水を永く保存するため、江戸堀町会連合会らにより、さらに石碑一基が建てられた。校名は通称の「花乃井」からとったものである」。と説明されています。地下水で淀川の水では無かったのでしょう。

左上の写真が名水「此花乃井」です(右側のビルは花乃井中学校)。右の板碑に上記と同じ文が書かれていました。井戸もありましたが、水は出るのでしょうか。冊があって中を見ることができませんでした。場所は、花乃井中学校の西の角が梶井基次郎宅で北の角が「此花乃井」になります。

【梶井基次郎】
明治34年大阪市西区土佐堀通で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる。北野中学から第三高等学校、東京帝大英文科に進む。小説家を志望し、伊豆湯ヶ島で川端康成、宇野千代らと過ごすが三高時代からの肺結核のために大阪に帰郷、卒業もできなかった。初の作品集『檸檬(れもん)』刊行の翌年の昭和7年に大阪天王寺近くで早逝。

梶井基次郎の大阪年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

梶井基次郎の足跡

明治34年
1901

幸徳秋水ら社会民主党結成

2月17日 大阪市西区土佐堀通五丁目三十四番屋敷で父 宗太郎、母 ヒサの次男として生れる
明治38年
1905

ポーツマス条約

5
10月 大阪市西区江戸堀南通四丁目二十九番地に転居
明治40年
1907

義務教育6年制

7
4月 江戸堀尋常小学校に入学
明治42年
1909
伊藤博文ハルビン駅で暗殺
9
12月 東京市芝区二本榎西町三番地に転居
明治43年
1910
日韓併合
10
1月 私立頌栄尋常小学校に転入(東京)
明治44年
1911
辛亥革命
11
5月 三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽千七百二十六番地に転居
大正2年
1913
島崎藤村、フランスへ出発
13
10月 大阪市北区本庄西権限町千百九十一番地に転居
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
14
2月 大阪市西区靱南通二丁目三十五番地に転居
4月 大阪府立北野中学校に転入学
大正5年
1916
世界恐慌始まる
16
3月 岩橋商店に丁稚奉公に入る
大正6年
1917
ロシア革命
17
4月 大阪府立北野中学校へ再入学
大正8年
1919
松井須磨子自殺
19
3月 大阪府立北野中学校を卒業
7月 第三高等学校に合格


大阪市西区土佐堀通五丁目三十四番屋敷>
 梶井基次郎は大阪市西区土佐堀通五丁目、現在の西区土佐堀三丁目に父 宗太郎、母 ヒサの次男として生まれます。「梶井基次郎は、明治三十四年(西暦一九〇一年)二月十七日、大阪市西区土佐堀通五丁目三十四番屋敷で生まれた。……土佐堀通りは、低い屋根瓦の商家が建ちならぶ問屋街である。丁稚車や人力車が往来した。その西端の、土佐堀川に架かる湊橋を南へ渡った突きあたりに安田運搬所があった。そこの社員の梶井宗太郎の家は、この西隣りにある。すぐ前の土佐堀川から、好が安治川や木津川へ出入りした。時は北清事変のあとだった。十七日の大阪朝日新聞は、元凶八名の処罰を清国皇帝が裁可したと報じた。…」。北清事変とは1898年に起こった義和団事件のことで、列国8ヶ国が戦線を布告すると、あっと言う間に鎮圧してしまいます。列強各国が中国に利権を求めた時代の始まりとなります。

左上の写真の川向こうが当時の西区土佐堀通五丁目となります。写真右側の橋が現在の湊橋です。大谷晃一さんの「評伝 梶井基次郎」では、”湊橋を南へ渡った突きあたり”と書いてあります。昔の湊橋は現在の湊橋より数十メートル東側にありました(下記の地図参照)。当時は中之島から湊橋を渡ると土佐堀通とのT字路になっていました(江戸堀北通(現在の土佐堀通)まで通じていなかった。)。ですから、この付近だとおもわれます。
<梶井基次郎の大阪地図 -2->


大阪市西区江戸堀南通四丁目二十九番地>
 梶井基次郎の二軒目の家は通うことになる江戸堀尋常小学校のすぐ横になります。「…明治三十八年(一九〇五年)十月、一家は大阪市西区江戸堀南通四丁目二十九番地へ移っている。土佐堀通の家からは、すぐ近い。何か会社で不都合でもあったのか、自らの家を構えたのか。学校のそばへ引っ越すのは、ヒサが言い張った。それは、孟母三遷ともいえる。日露戦争が終わった翌月である。江戸堀尋常小学校から西へ四軒目だった。現、西区江戸堀二丁目八。花乃井中学の北西角。物心ついた基次郎が見たのは、以上のような家庭の光景であった。生涯、彼の中で二つのものが交錯し、戦った。彼自身の言葉を借りれば、生活に立ち向かう傾向と、そして退廃に向かう傾向と。それは、そのまま母ヒサと父宗太郎に当てはまる。賢い働き者の母、酒飲みで怠け者の父。この二つが自分に引き継がれているのを、のちに基次郎は知る。…」。上記にも書きましたが江戸堀尋常小学校を挟んで名水「此花乃井」の反対側になります。江戸堀尋常小学校は既にありません。現在は花乃井中学校になっています。土佐堀五丁目三十四番からは400m位です。

右の写真の右側角が西区江戸堀南通四丁目二十九番地です(金網の所)。正面は当時の江戸堀尋常小学校跡、現在の花乃井中学校です。「…明治四十年(一九〇七年)四月一日、基次郎は大阪市西区江戸堀尋常小学校へ入学した。姉富士は五年生、兄謙一は三年生。学校は家のそばである。紺がすりに、はかまを穿いて、ガス灯のついた石造りの校門をくぐると、明治三十八年戦勝の記念碑が立っている。突きあたりに桃山御殿風の木造校舎があった。運動場はごく狭い。桜が咲いている。その奥に井戸があり、水がどんどん出ていた。古い大阪の名水で、此花乃井と呼ばれていた。雨天体操場を増築中で、この年の八月にでき上がる。西区の名門校とされていた。校長は八上伊三郎で、評判が高かった。雑喉場の海産物問屋の子が多い。いまと違ってこの西船場は、問屋の町としてにぎやかに栄えていた。…」。結構有名な学校だったようです。昭和20年3月の空襲で被災し、戦後の昭和24年中学校に変わっています。

大阪市北区本庄西権限町千百九十一番地>
 大正2年、父親の転勤に伴って梶井一家は鳥羽から大阪に戻ってきます。「…大正二年十月、宗太郎は大阪の安田鉄工所へ転勤せねはならなかった。……十月二十日に、大阪市北区本庄西権現町千百九十一番地に転入した。いまは北区鶴野町一番地で、ビジネスホテル近松の前の新御堂筋のあたり。阪急梅田駅の東側である。当時は場末で、電燈もなかった。旧三国街道が通り、鶴乃茶屋がここにあった。ごみごみした路地が多かった。そこから、上福島の安田鉄工所はごく近い。仮住まいであった。妻ヒサと、勇や良書も一緒に来た。二人はまだ小学校へ上がっていない。勇はこの家のランプを覚えている。順三ときくも同行した。謙一や基次郎は、翌年春まで宇治山田に残っている。この二人は、三重県立第四中学の三学年と一学年を修了しなければならなかった。…」。梶井家は大阪から東京、鳥羽、大阪と父親の転勤に伴って転居しています。中学生の梶井基次郎と兄は三重県立第四中学校(現 三重県立宇治山田高等学校)に在学していたため、宇治山田市(現在の伊勢市)に学期末まで在学する必要があったようです。

左の写真の中央やや左の白い六階建てのビルがビジネスホテル近松跡です。現在は貸しビルになっていました。このビルの前辺りが北区本庄西権限町千百九十一番地です。道路は新御堂筋で、当然、当時はこのような路はありませんでした。

大阪市西区靱南通二丁目三十五番地>
 梶井一家は半年も経たずに北区から西区に引っ越します。「…父宗太郎は家を探し、西区轍南通二丁目三十五番地の借家に入った。…… 靭南通は本町の西に続く市電通りだった。プラタナスの並木があった。信濃橋交差点を西へ入ったすぐで、このあたりは落ち着いた問屋町だった。梶井の新居は、格子戸をはめた仕舞屋風で、広かった。左隣りはタオル問屋の倉橋商店、その次はやはり肥料問屋の橋詰商店。少し西へ行くと、塩干魚を荷揚げした永代浜があった。昔は、干しイワシなどの塩干魚が主な肥料になった。家の裏は阿波堀川で、東側に花屋橋が架かっていた。いま、川は埋められている。梶井家の跡は釣具問屋の株式会社ダンで、間口は二間。西区靱本町二丁目百二十六番地になっている。この家は、一家が以後十二年間もいた。基次郎の生涯の主要な時期を通しての実家だった。文学の上にとっても。にもかかわらず、彼はその家の具体的な描写を全くしていない。あるいは、商売の町のただ中であり、あとで父がここで玉突き屋を始めたこの家に、俗悪の感情を抱いていたのではないか。その形跡は確かにある。…」。現在の靱公園のすぐ近くです。この靱公園の中に梶井基次郎の記念碑が建てられています。

右の写真のトヨタレンタカー・リースの看板の右隣のビルの所が西区靱南通二丁目三十五番です。現在の西区西本町二丁目8番です。この付近は空襲で全て焼けています。戦後の米軍の進駐で付近は米軍飛行場となってしまいます。その飛行場が返還されて靱公園となりました。ですから、戦前から靱公園があるわけではありません。米軍の飛行場のおかげで横長の靱公園が出来たわけです。

大阪府立北野中学校>
 大正3年3月まで三重県立第四中学校に在学していたため、編入学は4月になりました。「…謙一と基次郎は、大阪府立北野中学校で転入学希望者の学力検定試験を受けた。四月十日から三日間であった。北野中学は大阪一の名門校で、転入は非常に難しかった。当時、大阪市内には北野、天王寺、市岡、今宮の四中学があった。入れなかった者は府下の中学校へ進み、転入をねらった。ことに北野には秀才が集まった。しかし、謙一と基次郎の兄弟は、それぞれ四年と二年の転入試験にみごと合格する。…… 当時、同校は大阪市北区北野芝田町にあった。市内の北端で、敷地の一部は大阪府西成郡中津村下三番にまたがっていた。木造二階建て、煉瓦塀。校庭のポプラ並木が有名だった。現在の大阪市北区芝田町の済生会中津病院が、その跡である。…」。大阪府立北野中学校はかなり有名です。「東京紅団」で紹介している手塚治虫や森繁久弥等が北野中学校の卒業生です。この北野中学校時代に梶井基次郎は一度、丁稚奉公に出ています。この時に結核に罹ったのではないかとおもわれています。

左上の写真が北野中学校跡の記念碑です。現在は済生会中津病院となっています。昭和6年に十三に移転するまでこの地にありました。十三にある現 大阪府立北野高校の写真も掲載しておきます。

次回は第三高等学校時代を掲載します。

<梶井基次郎の大阪地図 -1->

【参考文献】
・評伝 梶井基次郎:大谷晃一、河出書房新社
・新潮日本文学アルバム 梶井基次郎:新潮社
・梶井基次郎ノート:飛高隆夫、北冬舎
・ユリイカ 特集 梶井基次郎:青土社

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