<竜泉寺町の通> 日本堤を吉原前から北に少し進むと、左に竜泉寺町の通があります。現在の
入口の写真を掲載しておきます。当時は土手から降りるので、少し斜めになった道でした。ここから先は、樋口一葉の「たけくらべ」の世界になります。
永井荷風の「里の今昔」より
「… 見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降る細い道があった。これが竜泉寺町の通で、『たけくらべ』第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄漿溝(おはぐろどぶ)に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋(はねばし)が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立っている四辻に出る。このあたりを大音寺前と称えたのは、四辻の西南の角に大音寺という浄土宗の寺があったからである。辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数えたのであった。
長屋は追々まばらになって、道もややひろく、その両側を流れる溝の水に石橋をわたし、生茂る竹むらをそのままの垣にした閑雅な門構の家がつづき出す。わたくしはかつてそれらの中の一構が、有名な料理屋田川屋の跡だとかいうはなしを聞いたことがあった。『たけくらべ』に描かれている竜華寺という寺。またおしゃまな娘
美登里の住んでいた大黒屋の寮なども大方このあたりのすたれた寺や、風雅な潜門の家を、そのまま資料にしたものであろうと、通るごとにわたくしは門の内をのぞかずにはいられなかった。江戸時代に楓の名所といわれた正燈寺もまた大音寺前にあったが、庭内の楓樹は久しき以前、既に枯れつくして、わたくしが散歩した頃には、門内の一樹がわずかに昔の名残を留めているに過ぎなかった。
大音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向いになって、もとの処に仮普請の堂を留めているが、しかし周囲の光景があまりに甚しく変ってしまったので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないような気がするほどである。…」
竜泉寺町の通りを少し歩くと、新吉原の角にあたり、ここからお歯黒溝が始まります。
その辺りの写真を掲載しておきます。道は荷風が書いた”道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立っている四辻に出る”の通り、大音寺通り(現在の茶屋町通り)の樋口一葉の住んだ家の前を通って、現在の国際通りの
竜泉交差点にでます。「資料目録
樋口一葉」に当時の大音寺通りの街並みが詳しく書かれています。上記の”火の見梯子”は竜泉交差点を渡った右に書かれていました。
”辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出る”は、当時の竜泉寺と千束稲荷は向かい合わせにあり、北に三ノ輪に向って歩き、左に曲がてから
竜泉寺に至ります。
千束稲荷は昭和通りが出来るときに東に移転しています。又、竜泉交差点を真っ直ぐ抜けて、昭和通りを越えて坂本通り(金杉通り)に出る左角に
三島神社があります。
”有名な料理屋田川屋の跡”については、江戸名所図会に”
吉原田圃の裏手、鷲明神の西に位置する大音寺前の料理屋”とあります。詳細な場所は不明です。
”江戸時代に楓の名所といわれた正燈寺もまた大音寺前にあった”の
正燈寺は大音寺の西横にあります。江戸時代の地図では正燈寺を燈洞寺と誤植していますので、要注意です。
樋口一葉の「たけくらべ」より
「… 春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事この通りのみにて七十五輛と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうに成れば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、この時節より通ひ初るは浮かれ浮かるる遊客ならで、身にしみじみと実のあるお方のよし、遊女あがりの去る女が申き、このほどの事かかんもくだくだしや大音寺前にて珎らしき事は盲目按摩の二十ばかりなる娘、かなはぬ恋に不自由なる身を恨みて水の谷の池に入水したるを新らしい事とて伝へる位なもの、八百屋の吉五郎に大工の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせしと問ふにこの一件であげられましたと、顔の真中へ指をさして、何の子細なく取立てて噂をする者もなし、大路を見渡せば罪なき子供の三五人手を引つれて開いらいた開らいた何の花ひらいたと、無心の遊びも自然と静かにて、廓に通ふ車の音のみ何時に変らず勇ましく聞えぬ。…」
”内削除四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟りかとうら悲し”は日暮里村蛇塚(日暮里駅北側)の火葬場のことをいっています。
★写真は大音寺通り(現在の茶屋町通り)の樋口一葉の住んだ家の附近です。左から二軒目前に
樋口一葉記念碑が建っています。記念碑に書かれていますが、一葉の家は記念碑から東に6mのところです。