●永井荷風の「里の今昔」を歩く
 初版2016年9月10日 <V01L02> 暫定版

 中央公論 昭和10年3月號の「残冬雑記」に”深川の散歩”、”元八まん”、”里の今昔”と順に書かれた中で、今回は”里の今昔”を歩きます。


「中央公論」
<「中央公論 昭和10年3月號」 中央公論(前回と同じ)>
 「里の今昔」が書かれたのは”甲戌十二月記”とあります。”甲戌”は干支の一つで、西暦年を60で割って14が余る年が甲戌の年となります(ウイキペディア参照)。昭和ですから、1934(昭和9年)となります。因みに、その前後の甲戌の年は、1874年と1994年となり、昭和では一回しかありません。こうゆう書き方も上手ですね、流石、荷風です。

 永井荷風の「里の今昔」の書き出しです。
「 昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道もまた取広げられていたが、一面に石塊が敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲神社の境内に出ると、鳥居前の新道路は既に完成していて、平日は三輪行の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしはその日初めて聞き知ったのである。
 吉原の遊里は今年昭和 甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。
 江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の『今戸心中』、泉鏡花の『註文帳』の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。…」

 永井荷風はその土地の描写が本当に上手です。読み手が興味を引くように書きます。読み手がその土地に行きたくなります。

写真は中央公論、昭和10年3月号です。。目次は”残冬雑記”のタイトルで、”深川の散歩”、”元八まん”、”里の今昔”の順に書かれています。順に掲載しています。

「資料目録 一葉」
<「資料目録 樋口一葉」 台東区立一葉記念館>
 荷風も「里の今昔」の中で、樋口一葉の「たけくらべ」を取り上げています。明治の新吉原界隈を知るには樋口一葉の「たけくらべ」が必要不可欠です。又、一葉記念館が直ぐ傍にあり、情報を得ることができます。その中でも「資料目録 樋口一葉」がベストです。樋口一葉の全てが書かれており、他に調べる必要がありません。非常に参考になります。

  「資料目録 樋口一葉 はじめに」からです。
「 台東区立一葉記念館は、女流文学者単独のものとしては、我が国第1号の記念館として昭和36年5月11日に開館いたしました。
 当館が位置する龍泉寺町は、樋口一葉が9ヵ月余りの間、居を構え、母子3人で生活苦と闘いながら、不朽の名作「たけくらべ」の素材を得た地であります。このことに感銘を受けた地元の人々は、昭和11年、菊池寛の撰文による「一葉記念碑」を一葉の旧居跡近くに建て、さらに、同23年には「一葉協賛会」を結成し、記念館建設のために敷地を台東区に寄付しました。一葉協賛会の「一葉の文学を顕彰し、その功績を永く後世に遺したい」という熱意と多大な努力に区が応える形で、当館が開設されました。そして、平成14年8月、一葉が「新五千円札」の肖像に決定したのを契機に、当館も全面改築され、同18年11月にリニューアルオープンし、現在に至っております。
 この『新版・資料目録』は、当館の展示構成に合わせて、一葉の父母の時代から、小説家を志すまでの経緯、龍泉寺町での生活、奇蹟の十四ヵ月と称される晩年の執筆活動、没後顕彰され続けている一葉の姿に至るまで、わかりやすく編集・解説したものです。ご一読いただき、樋口一葉を学ぶ一助となれば幸いに存じます。
 新版第1・2刷同様、第3刷作成にあたり、貴重な資料をご提供くださいました皆様、各関係機関の方々に心から御礼申し上げます。」

 古い一葉記念館の写真があるので掲載しておきます。木造二階建てでした。現在の記念館と比べてください。

写真は台東区立一葉記念館発行の「資料目録 樋口一葉」です。1,500円です。通販でも買えるようです。。



台東区、浅草〜三ノ輪界隈地図



「見返柳の立っていた大門外の堤跡」
<見返柳の立っていた大門外の堤>
 荷風の「里の今昔」というタイトルからは”吉原”は思い浮かびませんでした。下町の話かなとおもったのですが、違いました。最初は明治の頃の吉原から書き始めています。面白い書き始めです。

 永井荷風の「里の今昔」より。
「… わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行ったのは明治三十年の春であった。『たけくらべ』が『文芸 倶楽部』第二巻第四号に、『今戸心中』が同じく第二巻の第八号に掲載せられたその翌年である。
 当時遊里の周囲は、浅草公園に向う南側 千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田や竹藪や古池などが残っていたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」などいう江戸座の発句を、そのままの実景として眺めることができたのである。
 浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであろう。
 その頃、見返柳の立っていた大門外の堤に佇立んで、東の方を見渡すと、地方今戸町の低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚ッ原の女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元結の製造場などがあって、山谷堀へつづく一条の溝渠が横わっていた。毒だみの花や、赤のままの花の咲いていた岸には、猫柳のような灌木が繁っていて、髪洗橋などいう腐った木の橋が幾筋もかかっていた。…」

 新吉原の大門外には日本堤という大きな土手がありました。江戸時代に築かれた土手で、隅田川の氾濫をここでくい止めるための土手だったようです。昭和2年に取り壊されて、道路になっています。日本堤から吉原に入る道が曲がっているのは何故かとおもったら、土手を上るために斜めに曲がっているんですね!

【日本堤】
 江戸幕府による荒川をはじめとする治水事業により元和6年(1621)待乳山を崩した客土で、浅草聖天町の今戸橋(待乳山聖天付近)から北東方向へ箕輪浄閑寺にかけて堤防が築かれた。全国の諸大名により60余日で完成したため日本堤だともいうが記録がなく確証が薄い。また土手が二本あったから「二本堤」という説もあるが、これも場所が特定できていない。山谷堀はこの土手の北側にあり、石神井用水から別れた音無川など上流部からの排水路として機能していた。土手上は周囲を見渡せる見通しのよい街道(6町余りの長さがあったことから土手八丁と呼ばれた)として利用された。明暦の大火の後に土手南側に人形町から遊郭が移転し吉原となってからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。(ウイキペディア参照)

 樋口一葉の「たけくらべ」の書き出し
「 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ処とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるやう、…」

 広津柳浪の「今戸心中」の書き出し
「 太空は一 片の雲も宿めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ッた声のさざめきも聞えぬ。
 明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖かく小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が身に浸みる。…」

写真は現在の日本堤跡、見返り柳附近を吉原側から撮影したものです(ガソリンスタンドの柱の所に見返り柳があります)。反対側から見返り柳と吉原大門入口を撮影した写真も掲載しておきます。江戸時代の「東都花暦十景の吉原、日本堤」を掲載しておきます。日本堤の高さが分かります。日本堤跡が何処かに残っていないか探したところ、台東区教育委員会発行の「いま・むかし 下谷・浅草写真帖」に三ノ輪土手の写真が掲載されており、日本堤跡の痕跡を見ることができます(左の端が三ノ輪の浄閑寺で、右の道が日本堤跡、正面やや左の下へ下がる道が昔の石神井用水跡で、先で山谷堀に繋がります、右側が左側に比べてやや高くなって居るのが分かります)。

「竜泉寺町の通」
<竜泉寺町の通>
 日本堤を吉原前から北に少し進むと、左に竜泉寺町の通があります。現在の入口の写真を掲載しておきます。当時は土手から降りるので、少し斜めになった道でした。ここから先は、樋口一葉の「たけくらべ」の世界になります。

 永井荷風の「里の今昔」より
「… 見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降る細い道があった。これが竜泉寺町の通で、『たけくらべ』第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄漿溝(おはぐろどぶ)に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋(はねばし)が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立っている四辻に出る。このあたりを大音寺前と称えたのは、四辻の西南の角に大音寺という浄土宗の寺があったからである。辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数えたのであった。
 長屋は追々まばらになって、道もややひろく、その両側を流れる溝の水に石橋をわたし、生茂る竹むらをそのままの垣にした閑雅な門構の家がつづき出す。わたくしはかつてそれらの中の一構が、有名な料理屋田川屋の跡だとかいうはなしを聞いたことがあった。『たけくらべ』に描かれている竜華寺という寺。またおしゃまな娘 美登里の住んでいた大黒屋の寮なども大方このあたりのすたれた寺や、風雅な潜門の家を、そのまま資料にしたものであろうと、通るごとにわたくしは門の内をのぞかずにはいられなかった。江戸時代に楓の名所といわれた正燈寺もまた大音寺前にあったが、庭内の楓樹は久しき以前、既に枯れつくして、わたくしが散歩した頃には、門内の一樹がわずかに昔の名残を留めているに過ぎなかった。
 大音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向いになって、もとの処に仮普請の堂を留めているが、しかし周囲の光景があまりに甚しく変ってしまったので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないような気がするほどである。…」

 竜泉寺町の通りを少し歩くと、新吉原の角にあたり、ここからお歯黒溝が始まります。その辺りの写真を掲載しておきます。道は荷風が書いた”道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立っている四辻に出る”の通り、大音寺通り(現在の茶屋町通り)の樋口一葉の住んだ家の前を通って、現在の国際通りの竜泉交差点にでます。「資料目録 樋口一葉」に当時の大音寺通りの街並みが詳しく書かれています。上記の”火の見梯子”は竜泉交差点を渡った右に書かれていました。

 ”辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出る”は、当時の竜泉寺と千束稲荷は向かい合わせにあり、北に三ノ輪に向って歩き、左に曲がてから竜泉寺に至ります。千束稲荷は昭和通りが出来るときに東に移転しています。又、竜泉交差点を真っ直ぐ抜けて、昭和通りを越えて坂本通り(金杉通り)に出る左角に三島神社があります。

 ”有名な料理屋田川屋の跡”については、江戸名所図会に”吉原田圃の裏手、鷲明神の西に位置する大音寺前の料理屋”とあります。詳細な場所は不明です。

 ”江戸時代に楓の名所といわれた正燈寺もまた大音寺前にあった”の正燈寺は大音寺の西横にあります。江戸時代の地図では正燈寺を燈洞寺と誤植していますので、要注意です。

 樋口一葉の「たけくらべ」より
「… 春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事この通りのみにて七十五輛と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうに成れば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、この時節より通ひ初るは浮かれ浮かるる遊客ならで、身にしみじみと実のあるお方のよし、遊女あがりの去る女が申き、このほどの事かかんもくだくだしや大音寺前にて珎らしき事は盲目按摩の二十ばかりなる娘、かなはぬ恋に不自由なる身を恨みて水の谷の池に入水したるを新らしい事とて伝へる位なもの、八百屋の吉五郎に大工の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせしと問ふにこの一件であげられましたと、顔の真中へ指をさして、何の子細なく取立てて噂をする者もなし、大路を見渡せば罪なき子供の三五人手を引つれて開いらいた開らいた何の花ひらいたと、無心の遊びも自然と静かにて、廓に通ふ車の音のみ何時に変らず勇ましく聞えぬ。…」
 ”内削除四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟りかとうら悲し”は日暮里村蛇塚(日暮里駅北側)の火葬場のことをいっています。

写真は大音寺通り(現在の茶屋町通り)の樋口一葉の住んだ家の附近です。左から二軒目前に樋口一葉記念碑が建っています。記念碑に書かれていますが、一葉の家は記念碑から東に6mのところです。



明治39年、下谷及浅草區地図



「大音寺」
<大音寺>
 永井荷風の「里の今昔」、樋口一葉の「たけくらべ」に度々登場する大音寺です。現在は寺内に入れず、昔に比べて寂しいお寺になっています。

 永井荷風の「里の今昔」より
「… 大音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向いになって、もとの処に仮普請の堂を留めているが、しかし周囲の光景があまりに甚しく変ってしまったので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないような気がするほどである。明治三十年頃、わたくしが『たけくらべ』や『今戸心中』をよんで歩き廻った時分のことを思い返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立っている処ではなくして、別の処にあってその向きもまたちがっていたようである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向い、道端からはずっと奥深い処にあったように思われるが、しかしこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲って行ったような気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処をいったのである。裏田圃とも、また浅草田圃ともいった。単に反歩ともいったようである。…」
 ”大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立っている処ではなくして、別の処にあってその向きもまたちがっていたようである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向い、道端からはずっと奥深い処にあった”と書いています。明治時代の地図を見ると、北側に門があったようなので、荷風が書いた通りとおもわれます。

 ”お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲って行ったような気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方に太郎稲荷の森が見えた”は、お酉様(鷲神社)はその通りです。又、太郎稲荷(江戸時代は柳河藩主立花氏の下屋敷内にあった)についても書いてある通りです。

写真は現在の大音寺です。入口は昭和通りに面していて、震災前とは違っています。



明治初期の吉原付近地図



「太郎稲荷」
<太郎稲荷>
 広津柳浪の「今戸心中」を荷風が「里の今昔」の中で解説しています。明治に書かれたものを昭和初めに荷風が解説し、今、私が再度解説します。

 永井荷風の「里の今昔」より
「… 吉原田圃の全景を眺めるには廓内京町一、二丁目の西側、お歯黒溝に接した娼楼の裏窓が最もその処を得ていた。この眺望は幸にして『今戸心中』の篇中に委しく描き出されている。即ち次の如くである。

忍ヶ岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽が際立ッて映ッている。入谷はなお半分 靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏が噪ぎ始めた。大鷲神社の傍の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二、三個の人が見われた。鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂いながら流れている。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中に岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。

 この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走っているさまを目撃すると、かつて三十年前に白鷺の飛んでいたところだとは思われない。わたくしがこの文についてここに註釈を試みたくなったのも、滄桑の感に堪えない余りである。
「忍ヶ岡」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷にあって、文化のころから流行りはじめた。屋敷の取払われた後、社殿とその周囲の森とが浅草光月町に残っていたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、その社殿さえわずかに形ばかりの小祠になっていた。「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思われる。その名前や何かはこれを詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿があって、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかった。
『今戸心中』はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼にあった情死を材料にしたものだという。しかし中米楼は重に茶屋受の客を迎えていたのに、『今戸心中』の叙事には引手茶屋のことが見えていない。その頃裏田圃が見えて、そして刎橋のあった娼家で、中米楼についでやや格式のあったものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒と、京一の稲弁との二軒だけで、その他は皆 小格子であった。
『今戸心中』が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられているのみならず、また妓楼全体の生活が渾然して一幅の風俗画をなしているからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて、年末の煤払いに終っている。吉原の風俗と共に情死の事を説くには最も適切な時節を択んだところに作者の用意と苦心とが窺われる。わたくしはここに最終の一節を摘録しよう。

小万は涙ながら写真と遺書とを持ったまま、同じ二階の吉里の室へ走ッて行ッて見ると、素より吉里のおろうはずがなく、お熊を始め書記の男と他に二人ばかり騒いでいた。小万は上の間に行ッて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の燈火が散見き、遠く上野の電気燈が鬼火のように見えているばかりである。
次の日の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或 露地の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱捨てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。(略)お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遣ッては、七日七日の香華を手向けさせた。。…」

 ”忍ヶ岡”は現在の上野の山をいいます。上野の古名。武蔵野(山手)台地最東端に当たる上野山およびその周辺を指し、この台地は忍ヶ岡とも呼ばれていました。江戸時代初期に伊賀上野を領していた藤堂高虎らの屋敷があったため,上野の地名がついたといわれていますが,周囲の低地から見て上野と名づけられたともいわれています。(コトバンク参照)

 ”現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し”は現在の昭和通りのことです。
 ”東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走っている”は事問通りと浅草通りとおもわれます。

 ”「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思われる。その名前や何かはこれを詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿”の大音寺前の温泉は調べましたが不明です。「松源」は上野松源の支店で下谷金杉村入谷、「紫明館」は根津遊郭の八幡屋跡の温泉旅館、「植半」は木母寺境内、「有馬温泉」は向島秋葉神社境内、となります。

 京町二丁目の「中米楼」は現在の千束3丁目26附近とおもわれます。吉原今昔図によると、明治27年の地図には記載がありますが、大正12年(震災前)には記載がありません。

 京二の「松大黒」は現在の千束3丁目27附近とおもわれます。吉原今昔図によると、明治27年の地図には記載がありますが、大正12年(震災前)には記載がありません。

 京一の「稲弁」は、そのままの名前の楼はなく、「菊稲辨楼」のこととおもわれます。現在の千束3丁目44附近とおもわれます。吉原今昔図によると、明治27年の地図には記載がありますが、大正12年(震災前)には記載がありません。

写真は現在の太郎稲荷です。荷風が書いた”「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷にあって、文化のころから流行りはじめた。屋敷の取払われた後、社殿とその周囲の森とが浅草光月町に残っていたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、その社殿さえわずかに形ばかりの小祠になっていた”とありますが、全くその通りで、現在もありますが、小祠となっています。



江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図



「浄閑寺」
<浄閑寺(じょうかんじ)>
 投げ込み寺や無縁寺と呼ばれている浄閑寺は荷風が書いたため有名になったのかなとおもっています。日本堤の北の端にあたり、三ノ輪の直ぐ傍となります。

 永井荷風の「里の今昔」より
「… 箕輪の無縁寺は日本堤の尽きようとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一、二町の処にあった浄閑寺をいうのである。明治三十一、二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てていた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。その他の石は皆小さく蔦かつらに蔽われていた。その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは宮戸座の役者たちが新 比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであった。新比翼塚は明治十二、三年のころ品川楼で情死をした遊女 盛糸と内務省の小吏谷豊栄人の追善に建てられたのである。(因にいう。竜泉寺町の大音寺もまた遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉でつくった遊女なにがしの墓のある事を故老から聞き伝えて、わたくしは両三度これを尋ねたが遂に尋ね得なかった事がある。)
 日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三、四十年後の今日、これを追想すると、恍として前世を悟る思いがある。堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その幹の間から、堤の下に竹垣を囲し池を穿った閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつづいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮っていた。そして遥か東の方に小塚ッ原の大きな石地蔵の後向きになった背が望まれたのである。わたくしはもし当時の遊記や日誌を失わずに持っていたならば、読者の倦むをも顧ずこれを採録せずにはいなかったであろう。」

 ”新比翼塚は明治十二、三年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄人の追善に建てられたのである”とあり、新比翼塚は昔とは位置が変って、入口を入った直ぐの左側にあります。又、浄閑寺史蹟の看板に、”新比翼塚、並谷豊栄人盛紫”とあり、新比翼塚の他に谷豊栄人、盛紫の墓があるように書かれています。

 永井荷風の「断腸亭日乗 昭和12年6月22日」の記述に
「…庫裏の戸口に至り、谷豊栄・遊女盛糸が墓のある処を問ひて香花 を購ふ。僧は門内左側に井戸と茨の垣あるあたりを指したれば線香樒(しきみ)を受取り歩み行くに、そのあたりに唯一人遊びゐたる十二三歳ともおぼしき少 女、並びたる二個の墓石を教へ、其傍に立ち独語のやうに二人仲好並んでゐるのと言ふ。この少女は寺の娘なるべし。折々墓詣する人の来るを案内して、其来歴 をも知れるなるべし。十二三の年にて情死といふ事を知れるや否や。或は唯仲の好かりし二人の男女の墓とのみ思へるにや。余は何とも知れず不可思議なる心地 して姑くは少女の顔を見まもりたり。目黄不動の門前に立戻りバスに乗り、銀座ふじあいすに朝飯を食し、十時過家にかへる。英文不夜城載する所の写真を見るに、盛糸・豊栄の墓は現在のものゝ如く密接せず。其間少し離れて立てられたり。現在のものは後に立直せしものなるべし。六月以来毎夜吉原にとまり、後朝の わかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰の さまは変りたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域 娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。銀座に飯して帰れば十一時な り。午後蔵書の中より吉原に関するものを取出して読む。夜執筆二三葉。早く寝につく。…」
 ここにも”盛糸・豊栄の墓は現在のものゝ如く密接せず。其間少し離れて立てられたり。現在のものは後に立直せしものなるべし”とあり、二人の墓があるように書かれています。浄閑寺で少し探して見たところ、見つける事が出来ました。二人の墓は並んでいました。上記に書かれている通り、当初は並んでいなかったようです。

 ”遥か東の方に小塚ッ原の大きな石地蔵の後向きになった背が望まれたのである”は、現在の延命寺境内にある首切地蔵(延命寺)の事ではないかとおもいます。正面の写真も掲載しておきます。延命寺前にある荒川区教育委員会の看板によると、”首切地蔵は、寛保元年(一七四一)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された”とあります。

写真は現在の浄閑寺です。10年ぶりで訪ねたのですが、綺麗なお寺になっていました。古くからのお寺なので、永井荷風の記念碑など色々ありました。是非とも訪ねて下さい。

「猿之助横丁」
<震災の時まで、市川猿之助君が多年住んでいた家>
 荷風は新吉原から浅草に向う道を二筋書いています。吉原大門を出て日本堤を右に曲り、浅草に向う道です。

 永井荷風の「里の今昔」より
「… わたくしは遊廓をめぐる附近の町の光景を説いて、今余すところは南側の浅草の方面ばかりとなった。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋あった。その一筋は大門を出て堤を右手に行くこと二、三町、むかしは土手の平松とかいった料理屋の跡を、そのままの牛肉屋 常磐の門前から斜に堤を下り、やがて真直に浅草公園の十二階下に出る千束町二、三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道哲の寺のあるあたりから田町へ下りて馬道へつづく大通である。電車のないその時分、廓へ通う人の最も繁く往復したのは、千束町二、三丁目の道であった。
 この道は、堤を下ると左側には曲輪の側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあって、車夫や廓者などの住んでいた長屋のつづいていた光景は、『たけくらべ』に描かれた大音寺前の通りと変りがない。やがて小流れに石の橋がかかっていて、片側に交番、片側に平野という料理屋があった。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑な町になるのであった。
 震災の時まで、市川猿之助君が多年住んでいた家はこの通の西側にあった。酉の市の晩には夜通し家を開け放ちにして通りがかりの来客に酒肴を出すのを吉例としていたそうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であったという話を聞いたことがあった。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他は、皆 田間の畦道であった事が、地図を見るに及ばずして推察せられる。」

 ”むかしは土手の平松とかいった料理屋の跡を、そのままの牛肉屋 常磐の門前から斜に堤を下り”とあり、”土手の平松”は、料理屋の平松(明治10年の懐中東京案内に”浅草土手”の記載)までは分かるのですが、場所が特定できません。又”牛肉屋 常磐”は、浅草には牛肉の常盤は何軒かあるのですが、現在の浅草五丁目(昭和初期の日本堤一丁目)に常盤は見当たりません。

 ”浅草公園の十二階下に出る千束町二、三丁目の通り”は今の千束通りの事とおもいます。

 ”他の一筋は堤の尽きるところ、道哲の寺のあるあたりから田町へ下りて馬道へつづく大通である”の道哲がいたところは”西方寺の門前すこしき所空き地”で、西方寺(明治24年に巣鴨に移転)は山谷堀の吉野橋のところで、上記に書かれている”馬道”とは一筋違っています。行き過ぎているのです。田町を通って馬道へ行くには、山谷堀橋のところで日本堤を降りなければなりません。

 ”片側に交番、片側に平野という料理屋”は、交番の位置から推定しました。当時交番があったのは浅草四丁目の交差点南東角です。”平野という料理屋”については不明です。交番の反対側ということで、場所だけは分かります。

 ”市川猿之助君が多年住んでいた家はこの通の西側にあった”は、現在”猿之助横丁”という石柱があり、その横辺りに猿之助の住居が有ったと推定しています。

写真は現在の猿之助横丁の碑です。空襲で焼失したものを昭和36年に再建された碑です。

「浅草 鷲神社」
<初酉>
 ここでは荷風は文学論を語っています。私が読むと、一葉と柳浪の文体は明らかに違います。荷風は”情調の叙事詩的なることは同一”と言っていますが理解するのは大変です。

 永井荷風の「里の今昔」より
「… 一葉が文の情調は柳浪の作中について見るも更に異る所がない。二家の作は全くその形式を異にしているのであるが、その情調の叙事詩的なることは同一である。『今戸心中』第一回の数行を見よ。

太空は一片の雲も宿めないが黒味わたッて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇顔の電気燈は、軒より下の物の影を往来へ投げておれど、霜枯三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ッた声のさざめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖く小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が感じられる。
少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。
廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今 室の外へ出している所もある。遥かの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。

 遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲っていた。この哀調は、小説家がその趣味から作り出した技巧の結果ではなかった。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京にあっては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があった。しかし歳月の過るに従い、繁激なる近世的都市の騒音と燈光とは全くこの哀調を滅してしまったのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残っていた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里において殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである。
 遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを論ずるに及ばない。ギリシャ古典の芸術を尊むがために、誰か今日、時代の復古を夢見るものがあろう。
                                           甲戌十二月記」

 ”大門から水道尻”とは、大門は新吉原の入口にあった門で、水道尻は角海老楼(戦後も残っていたが現在はマンション)の交差点を挟んで斜め前にあった井戸(上水道)の事のようです。明治27年の吉原の地図に記載があります。

写真は現在の浅草の鷲神社です。後に台東病院(旧吉原病院)のビルが見えます。”明後日が初酉の十一月八日”とあるのは例年11月の一の酉の日を言います。浅草 鷲神社の平成28年 酉の市は一の酉が11月11日(金)、二の酉が11月23日(水)となっています。江戸時代の錦絵を掲載しておきます。

【浅草の鷲神社】
江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲神社 (台東区)(おおとりじんじゃ)と酉の寺 長國寺(とりのてら ちょうこくじ)境内で行われた酉の市である。江戸時代には浅草の鷲大明神(本地)は鷲の背に乗る妙見菩薩とされた。「現在の足立区花畑の大鷲神社を「上酉、本酉」、千住にある勝専寺を「中酉」、浅草の鷲神社と酉の寺 長國寺を「下酉、新酉」と称しており、江戸時代に盛大な酉の市はこの3カ所であった。幕末には巣鴨、雑司ヶ谷などの大鳥神社でも酉の市が開催されるようになる。明治時代になると千住・勝専寺の酉の市は閉鎖されたが、江戸時代から続く酉の市はいくつかあり現在も賑わっている。
浅草の鷲神社 (台東区)と酉の寺 長國寺の東隣には新吉原という遊郭が存在し、酉の市御例祭の日には遊郭内が開放されたといわれ、地の利も加わり最も有名な酉の市として現在に至る。(ウイキペディア参照)

 永井荷風の「里の今昔」はこれで終ります。



明治40年、浅草〜吉原界隈地図

永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
明治29年 1896   17 荒木古童(竹翁)に弟子入りして尺八を習う
岩渓裳川の講義を聴講
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居
         
大正8年
1919
松井須磨子自殺 40 11月 麻布区市兵衛町1-6に土地百坪を借りる
         
大正9年 1920 蒋介石北伐を開始
NHK設立
41 5月 新居完成、5月23日引越し、偏奇館と名付ける
         
大正12年 1923 関東大震災 44 7月 井上精一(唖々子)死去
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
65 3月22日 杵屋五叟(大島一雄)の次男永光を養子とする
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに引越す
5月25日 空襲で焼け出され、宅氏邸に身を寄せる
6月3日 明石へ疎開する