●永井荷風の「里の今昔」を歩く
 初版2016年9月10日 <V01L02> 暫定版

 中央公論 昭和10年3月號の「残冬雑記」に”深川の散歩”、”元八まん”、”里の今昔”と順に書かれた中で、今回は”元八まん”を歩きます。


「中央公論」
<「中央公論 昭和10年3月號」 中央公論(前回と同じ)>
 「元八まん」が書かれたのは”甲戌十二月記”とあります。”甲戌”は干支の一つで、西暦年を60で割って14が余る年が甲戌の年となります(ウイキペディア参照)。昭和ですから、1934(昭和9年)となります。因みに、その前後の甲戌の年は、1874年と1994年となり、昭和では一回しかありません。こうゆう書き方も上手ですね、流石、荷風です。

 永井荷風の「元八まん」の書き出しです。
「 昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道もまた取広げられていたが、一面に石塊が敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲神社の境内に出ると、鳥居前の新道路は既に完成していて、平日は三輪行の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしはその日初めて聞き知ったのである。
 吉原の遊里は今年昭和 甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。
 江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の『今戸心中』、泉鏡花の『註文帳』の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。…」

 永井荷風はその土地の描写が本当に上手です。読み手が興味を引くように書きます。読み手がその土地に行きたくなります。

写真は中央公論、昭和10年3月号です。。目次は”残冬雑記”のタイトルで、”深川の散歩”、”元八まん”、”里の今昔”の順に書かれています。順に掲載しています。

「江東事典」
<「江東事典 史跡編」 江東区>
 戦前の城東区、現在の江東区については、江東区が発行している、「江東事典」、「江東区の文化財」が大変役に立ちます。荷風の書いている内容の確認や、関連事項を調べることができます。

  「江東事典 史跡編」から、”一七四 道しるべ標石”です。
「…    一七四 道しるべ標石
      南砂七丁目十四番十八号 富賀岡八幡宮ほか
 いまのように簡単に地図等が手に入らない時代、旅人にとって道標は大事な道案内であった。たびたびの災害や都市化の発展とともに、だんだんと少なくなったが、江東区内にもいくつかの道標が残っている。
  元八まんの道標
 富賀岡八幡宮(元八幡)は、「江戸名所図会」や広重の「江戸名所百景」などで知られた景勝の地で参詣者が多かった。東京名所図会には、「元〆川の岸に沿ひ五十軒より東南に進めば、川の盡る処に元はちまんとしるせし石標あり」とある。元〆川は、いまの元八幡通りとなっているところで、五十軒は、砂村の小字名でいまの江東図書館のあたりである。川の盡るところは、元〆川がいまの南砂三丁目公園のあたりで堀留となっていたところを指しているので、このあたりに、道標が建っていたのだろう。
 高さは、一メートル四十三センチで、正面に「是より 元八まん道 帰春老漁書」と刻まれている。いつごろ境内に移されたか不明だが、元〆川が道路になったのは関東大震災後であるから、これに伴って移転したのかも知れない。…」

 荷風が歩いた今の仙気稲荷通りから元八幡通りは、震災前は元〆川だったことが分かります。富賀岡八幡宮にある道標は、「江東事典 史跡編」には元々”南砂三丁目公園あたり”にあったとあるのですが、江東区地域振興部文化観光課文化財係(名前が長すぎる)発行の「下町文化 267、270号 江東の古道を行く 十方庵敬順が歩いた元八幡への道 1、2」に、”南砂6−10”にあったと書かれています(元〆川の東端)。この辺りだとおもいます(写真の右側)。

写真は江東区総務部広報課発行の「江東事典 史跡編」です。上記に書きましたが、江東区地域振興部文化観光課文化財係(名前が長すぎる)発行の「下町文化」が写真もついて分かりやすいです。「下町文化」は江東区のホームページからPDFでダウンロードできます。



明治40年砂村附近地図



「豊砂橋」
<豊砂橋>
 荷風の「元八まん」は、当時は福砂通り(江東区福住から砂町を結ぶことから、福砂通りと呼ばれた)、現在は葛西橋通りの豊砂橋から始まります。「深川の散歩」は葛西橋通りの崎川橋、又は茂森橋で終っていますので、そこから東へ850m進んだところが豊砂橋となります。まさに「深川の散歩」の続きです。

 永井荷風の「元八まん」より。
「… 或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄には豊砂橋としてあった。橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果はいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。
 道路は市中の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社らしいセメント造の建物と亜鉛板で囲った小工場が散在しているばかりで、人家もなく、人通りもない。道の左右にひろがっている空地は道路よりも地盤が低いので、歩いて行く中、突然横から吹きつける風に帽子を取られそうな時などは、道を行くのではなく、長い橋をわたっているような気がした。…」

 ”セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていた”とありますので、豊砂橋跡から葛西橋通りの東を撮影しておきました。当然ですが荒川の土手(ここから2.2Km)はまだ見えません。

写真は葛西橋通りの豊砂橋跡を西側から東側を撮影したものです。埋め立てられているので、橋柱もありませんでした。



江東区砂町附近地図



「鉄道線路の土手」
<鉄道線路の土手>
 葛西橋通りの豊砂橋跡から東に500m進むとJRの線路(越中島支線)に当たります。当時は、南砂に汽車製造株式会社(川崎重工と合併吸収)があり、そのための支線でしたが、昭和16年の地図(下記)には記載がありません。開戦直前のため、わざと消されていたようです。

 永井荷風の「元八まん」より
「… 道が爪先き上りになった。見れば鉄道線路の土手を越すのである。鉄道線路は二筋とも錆びているので、滅多に車の通ることもないらしい。また踏切の板も渡してはない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地のところどころに汚い長屋建の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、何となく知らぬ国の村落を望むような心持である。遥のかなたに小名木川の瓦斯タンクらしいものが見え、また反対の方向には村落のような人家の尽きるあたりに、草も木もない黄色の岡が、孤島のように空地の上に突起しているのが見え、その麓をいかにも急設したらしい電車線路が走っている。…」
 ”遥のかなたに小名木川の瓦斯タンクらしいものが見え”とあり、調べてみると、小名木川と横十間川の交差するところに、東京瓦斯の深川工場砂町工場があり、タンクがあったようです(現在はありません)。当時の地図を掲載しておきます。

写真は現在の葛西橋通りと交わるJRの線路(越中島支線)です。名前は幹線27号踏切です。右隣の踏切(昔からある)が締川踏切と名前があるのに、番号だけとは寂しいです。

「稲荷神社」
<こんもりした樹木と神社>
 荷風は葛西橋通りにある越中島支線の踏切を越えた後、右側の小径に入ったとおもわれます。その後、現在の明治通りに出ています。踏切から明治通りまで100m余りですので、脇道に入ったとしても余り変らないとおもいます。

 永井荷風の「元八まん」より
「… セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく荒川放水路の土手に達するつもりであったので、少し疲労を覚えると共に、俄に方角が知りたくなった。丁度道の片側に汚い長屋建の小家のつづきはじめたのを見て、その方の小路へ曲ると、忽ち電車の線路に行当った。通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて境川、右へ行けば直ぐに稲荷前の停留場へ出るのだというのである。…

 突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日
深川の町からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである。道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に、「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲る角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の榜示杭が立っていた。…」

 ”電車の線路に行当った”と書いています。昭和9年12月ですから、城東電気軌道株式会社が須崎−水神森の路線を運営しており、その路線に当たったとおもわれます。城東電気軌道株式会社は、後に東京市に買収されて都電の路線になっています。荷風が歩いた辺りに丁度、稲荷前駅と稲荷前派出所がありました。(下記の地図参照)
 ただ、”東の方へ曲る角に巡査派出所があって”とあるのですが、場所があいません。

写真は現在の仙気稲荷神社です。当時と比べて相当小さくなっています。仙気稲荷神社については「江東事典」を参照しました。
「    一七一  砂村稲荷神社跡
                  南砂三丁目四番二号
 当社は、江戸時代から「砂村の仙気稲荷」の名でよく知られていた。おうち(大智)いなり、大市いなりなどといわれ、文化文政のむかしから、せんきの治病に霊験ありと伝えられていた。当時、参詣者が多く繁栄していた。とくに初午の日には大勢の参詣者で賑わった。…

 当社は、昭和二十年の戦災によって社殿を焼失、一時仮殿が建てられたが、昭和四十二年千葉県へ移転し、跡地には都営住宅が建てられ、その一隅に小祠がある。
 なお、せんき(疝気)とは、漢方で、大腸、小腸、生殖器など下腹部が痛む病気のことである。
 境内には、江戸時代から奉納された天水桶や石造物が多く残り、文久三年(一八六三)に大島の釜六の鋳造した天水桶、力石の「鳳卵石」など数個、「元砂村はやし連碑」など重要なものがあった。しかし、移転する時、力石は富賀岡八幡宮に移されたが、その他の石造物などは埋められてしまった。」
 とあります。大きな看板はありますが、ご本尊は移転してしまったようです。しかしまだ小さな祠があります。”力石の「鳳卵石」”は富賀岡八幡宮で見つける事ができました。



昭和16年城東区地図−1−



「中央寺」
<不動院という門構の寺>
 荷風は城東電気軌道の稲荷前駅から荒川に向って一本道を歩いて行きます。この道は「江東事典 史跡編」の項で説明していますが、元〆川を埋め立てた道なのです。今の仙気稲荷通りから元八幡通りです。

 永井荷風の「元八まん」より
「… わたくしが偶然 枯蘆の間に立っている元八幡宮の古祠に行当ったのは、砂町海水浴場の榜示杭を見ると共に、何心なく一本道をその方へと歩いて行ったためであった。この一本道は近年つくられたものらしく、敷きつめられた砂利がまだ踏みならされていない処もある。右側は目のとどくかぎり平かな砂地で、その端れは堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根を並べている。普請中の貸家も見える。道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く。職人らしい男が二、三輛ずつ自転車をつらね高声に話しながら走り過る……。…」
 上記の中で調べられる固有名詞は”不動院という門構の寺”しかありません。この”不動院”を探したのですが見つかりません。

 「江東事典 史跡編」で探してみました。
「    一七五  中 央 寺
              南砂七丁目十五番二十号
 中央寺は、寛永七年こ六三〇)深川御船蔵町(幕府所有の船舶の格納庫があったところで、現在の新大橋一丁目にあたる)に建てられ、もとは真言宗で大日堂があったのを寛永のころに曹洞宗に改められたと伝えられる。当寺に幕府の官船安宅丸に安置してあったという大日如来像が移されてあったが大正十二年の震災で焼失した。…

 嘉永三年二八五〇)、本所番場町にあった遠州秋葉寺三沢坊権現の宿坊三聖軒をこの中央寺に合併して三沢坊を本尊として祈祷を行い、防火の神として江戸市内の消防組からあつく信仰された。当寺は、大正十二年の震災後に一時江戸川区へ移転したが、昭和二十三年、当所にあった不動堂が解散したので、その跡地を買収して移転してきた。」

 上記に書かれている中央寺が不動院のところに移転してきたのが分かります。戦前の地図を見ると不動院の場所が分かりました。

写真は現在の中央寺です。気をつけて歩いていないと見過ごします。



昭和16年城東区地図−2−



「富賀岡八幡宮」
<元富岡八幡宮>
 荷風はやっと富岡八幡宮にたどり着きます。稲荷前から1.2Km程の距離です。荷風は盛んに”元富岡八幡宮”と書いています。深川八幡の元の鎮座地であるので元八幡とよぶのは間違いで、砂村の八幡宮は神像の旧地、すなわち元八幡と解釈するのが正しいようです(下記の「江東事典 史跡編」を参照)。

 永井荷風の「元八まん」より
「… 空はいつの間にか暮れはじめた。わたくしが電報配達人の行衛を見送るかなたに、初て荒川放水路の堤防らしい土手を望んだ時には、その辺の養魚池に臨んだ番小屋のような小家の窓には灯影がさして、池の面は黄昏れる空の光を受けて、きらきらと眩く輝き、枯蘆と霜枯れの草は、かえって明くなったように思われた。ふと枯蘆の中に枯れた松の大木が二、三本立っているのが目についた。近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた築山がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の木立が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と溝とがあるので、道の此方からすぐ境内へは這入れない。
 わたくしは小笹の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立っている鳥居の方へ出たが、その時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜の家の破障子に薄暗い火影がさし、歩く足元はもう暗くなっていた。わたくしは朽廃した社殿の軒に辛くも「元富岡八幡宮」という文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲った小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと踵を回らした。」

 昭和16年の地図を見るとこの辺りは養魚場ばかりです。その中に富賀岡八幡宮があるといった感じです。”社殿の軒に辛くも「元富岡八幡宮」”とあるのですが、現在の鳥居の上に架かっている額(額束?)を見ると、「富岡八幡宮」となっていて、元と賀が付いていません。昔は「元富岡八幡宮」になっていたのかもしれません。

 ”灌木に蔽われた築山”は富士塚の事とおもわれます。現在も残っていました。富士塚の前にある江東区教育委員会の説明文によると、元々は現在地より30m北側にあり、昭和37年に現在地に移設されたようです。説明文の下の写真を見ると、南砂元八幡通り交差点の南西角にあったとおもわれます。

 「江東事典 史跡編」を参照します。
「    一七二  富賀岡八幡宮
              南砂七丁目十四番十八号
 当社は、元八幡の名で知られ、応神天皇を祭神とする古い神社である。海浜が埋立てられてまもなく、寛文五年(一六六五)には、砂村の鎮守として存在し、深川富岡八幡宮別当永代寺がこの社を管理していた。境内には、明治末年頃まで、松の大木が密生して森の中に社殿がありよい風景であった。
 この社を、深川八幡の元の鎮座地であるので元八幡とよぶといわれているが、これは間違いである。深川八幡宮は、寛永のはじめ頃、僧長盛が京都から八幡の神像をもって江戸に来て、深川に神社を創立した。ところが寛永十年(一六三三)関東郡代伊奈氏の臣興津角左衛門がさらに八幡神像一体を深川八幡宮へ寄付したので、深川の神像が二体になった。この興津氏奉納の新しい神像は一時、砂村の富賀岡八幡宮に置かれ、後に深川の富岡八幡宮に寄付されたもので、砂村の八幡宮は神像の旧地、すなわち元八幡とよぶようになったと推定される。
 昔の当社は、閑静な自然の景色に富み、江戸市民の遊覧地であった。参道に桜の並木がつづき、「元八幡桜道」とよばれていたが、明治四十三年の大津波で、桜も境内の松林も全滅してしまった。」


写真は現在の富賀岡八幡宮です。最寄りの駅は東西線南砂町駅で、富賀岡八幡宮までは800m位です。ただ、倉庫街で、トラックも多く、散歩という雰囲気では歩けません。東陽町から都営バス(亀21)で「南砂6丁目」まで乗ったほうが良いとおもいます。

「東陽町三丁目交差点」
<洲崎大門前の終点>
 荷風は暗くなってきたため、富賀岡八幡宮から編奇館に帰ります。昭和9年末には偏倚館は完成していました。上記にも書きましたが、富賀岡八幡宮は交通の便の悪いところです。当時の最寄駅は城東電気軌道の稲荷前駅となりますので、戻らなければなりません。

 永井荷風の「元八まん」より
「… わたくしは枯蘆の中の水たまりに宵の明星が熒々として浮いているのに、覚えず立止って、出来もせぬ俳句を考えたりする中、先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまったが、やがて稲荷前の電車停留場へ来ると、その女は電柱の下のベンチに腰をかけ、電燈の光をたよりに懐中鏡を出して化粧を直している。コートは着ていないので、一目に見分けられる着物や羽織。化粧の様子はどうやら場末のカフェーにいる女給らしくも思われた。わたくしは枯蘆の中から化けて出た狐のような心持がして、しげしげと女の顔を見た。
 電線の鳴る音を先立てて、やがて電車が来る。洋服の男が二人かけ寄って、ともどもに電車に乗り込む。洲崎大門前の終点に来るまで、電車の窓に映るものは電柱につけた電燈ばかりなので、車から降りると、町の燈火のあかるさと蓄音機のさわがしさは驚くばかりである。ふと見れば、枯蘆の中の小家から現れた女は、やはり早足にわたくしの先へ立って歩きながら、傍目も触れず大門の方へ曲って行った。狐でもなく女給でもなく、公休日にでも外出した娼妓であったらしい。わたくしはどこで夕飯をととのえようかと考えながら市設の電車に乗った。
 その後一年ほどたってから再び元八まんの祠を尋ねると、古い社殿はいつの間にか新しいものに建替えられ、夕闇にすかし見た境内の廃趣は過半なくなっていた。世相の急変は啻に繁華な町のみではなく、この辺鄙にあってもまた免れないのである。わたくしは最初の印象を記憶するためにこの記をつくった。時に昭和九年 杪冬の十二月十五日である。
 元八幡宮のことは『江戸名所 図会』、『葛西志』、及び風俗画報『東京近郊名所図会』等の諸書に審である。
                                         甲戌十二月記」

 荷風は城東電気軌道で稲荷前から洲崎まで乗車し、東京市電に乗換えたとおもわれます。

写真は現在の東陽町三丁目交差点です。交差点を右に入ると洲崎遊郭跡です。「鉄道廃線跡を歩く \」、東京都電38系統専用軌道【水神森〜洲崎】によると、”東陽公園前の電停からは東京市電と線路を共用して洲崎まで走って、ここが終点であった”とあります。城東電気軌道と東京市電は同じ線路の上を走っていたわけです。

 永井荷風の「元八まん」はこれで終ります。次週も永井荷風です。



城東区路線図

永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
明治29年 1896   17 荒木古童(竹翁)に弟子入りして尺八を習う
岩渓裳川の講義を聴講
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居
         
大正8年
1919
松井須磨子自殺 40 11月 麻布区市兵衛町1-6に土地百坪を借りる
         
大正9年 1920 蒋介石北伐を開始
NHK設立
41 5月 新居完成、5月23日引越し、偏奇館と名付ける
         
大正12年 1923 関東大震災 44 7月 井上精一(唖々子)死去
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
65 3月22日 杵屋五叟(大島一雄)の次男永光を養子とする
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに引越す
5月25日 空襲で焼け出され、宅氏邸に身を寄せる
6月3日 明石へ疎開する