<「中央公論 昭和10年3月號」 中央公論(前回と同じ)>
「元八まん」が書かれたのは”甲戌十二月記”とあります。”甲戌”は干支の一つで、西暦年を60で割って14が余る年が甲戌の年となります(ウイキペディア参照)。昭和ですから、1934(昭和9年)となります。因みに、その前後の甲戌の年は、1874年と1994年となり、昭和では一回しかありません。こうゆう書き方も上手ですね、流石、荷風です。
永井荷風の「元八まん」の書き出しです。
「 昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道もまた取広げられていたが、一面に石塊が敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲神社の境内に出ると、鳥居前の新道路は既に完成していて、平日は三輪行の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしはその日初めて聞き知ったのである。
吉原の遊里は今年昭和
甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。
江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の『今戸心中』、泉鏡花の『註文帳』の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。…」。
永井荷風はその土地の描写が本当に上手です。読み手が興味を引くように書きます。読み手がその土地に行きたくなります。
★写真は中央公論、昭和10年3月号です。。目次は”残冬雑記”のタイトルで、”深川の散歩”、”元八まん”、”里の今昔”の順に書かれています。順に掲載しています。