●永井荷風の「深川の散歩」(第一回)
    初版2001年4月1日
    二版2016年8月1日  <V03L01> 新規に作成し直しました、暫定版

 15年ぶりに永井荷風の「深川の散歩」を一新しました。唖々についてもう少し書こうとおもい、「深川の散歩」の改版から始めました。以下は2001年に書かれたはじめの文章です。
 三名の作家の深川を追いかけて見たいと思います。今週は第一回目として永井荷風の「深川の散歩」に沿って散歩してみたいと思います。この「深川の散歩」の最後に”甲戌十一月記”と書いてあります。特に”甲戌”が分からないと思いますが干支の読み方で”きのえいぬ、こうじゅつ”と読み、昭和9年のことです(永井荷風55歳)


「中央公論」
<「中央公論 昭和10年3月號」 中央公論>
 「深川の散歩」が書かれたのは”甲戌十一月記”とあります。”甲戌”は干支の一つで、西暦年を60で割って14が余る年が甲戌の年となります(ウイキペディア参照)。昭和ですから、1934(昭和9年)となります。因みに、その前後の甲戌の年は、1874年と1994年となり、昭和では一回しかありません。こうゆう書き方も上手ですね、流石、荷風です。

 永井荷風の「深川の散歩」からです。
「 中洲の河岸にわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はその後箱崎川にかかっている土洲橋のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように清洲橋をわたって深川の町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。多年坂ばかりの山の手に家する身には、時たま浅草川の流を見ると、何ということなく川を渡って見たくなるのである。雨の降りそうな日には川筋の眺めのかすみわたる面白さに、散策の興はかえって盛になる。…

 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。
               甲戌十一月記 」

 永井荷風はその土地の描写が本当に上手です。読み手が興味を引くように書きます。読み手がその土地に行きたくなります。

写真は中央公論、昭和10年3月号です。目次には「深川の散歩」としては書かれておらず、”残冬雑記”のタイトルで、その中の一節が”深川の散歩”となっています。その他では”元八まん”、”里の今昔”となっています。順次掲載したいとおもいます。

「荷風の永代橋」
<「荷風の永代橋」 草森紳一>
 荷風が通っていた大石病院について調べていたら、良い本を見つけました。草森紳一さんの「荷風の永代橋」です。分厚くてビックリしました。878ページありました。普通なら上巻、下巻に分かれますが、一冊になっています。十分に枕になる本です。

  草森紳一さんの「荷風の永代橋」から、”序”です。
「 私は、かならずしも荷風の文業の熱烈な愛読者といえない。随筆の類はともかく、彼の小説はさほど好まないが、『断腸亭日乗』のみは、近代日本の叙事詩として嘆賞してやまないものである。たまたま私は、深川寄りの永代橋のたもとに二十年来住んでいる縁と、中国文学の徒であるというかぼそき縁をたよりに『断腸亭日乗』の空間を泳いでみたい欲望に駆られている。漢詩文は、荷風にとって、趣味というより、確執のあった父そのものである。わが永代橋は、体弱な彼が通いつづけた中洲病院にきわめて近い。
 「その頃、両国の川下には、葭簀張の水練場が四、五軒も並んでゐて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来
たくらゐで、かなり賑かなものであった」
 と永井荷風は、最晩年の随筆『向島』の中で、かく回想している。…」

 荷風と永代橋のみについて書かれているのではなく、隅田川全般について書かれていますので大変参考になります。特に大石病院については詳しく書かれています。

写真は草森紳一さんの「荷風の永代橋」です。2004年12月、青土社より発行されています。 残念ながら草森紳一さんは2008年に亡くなられています。

【草森 紳一(くさもり しんいち、1938年2月23日 - 2008年3月20日)】
 日本の評論家。北海道河東郡音更村(現・音更町)生まれ。北海道帯広柏葉高等学校を経て、1浪後慶應義塾大学文学部に入学して中国文学科に進む。大学時代は奥野信太郎や村松暎に師事。また慶應義塾大学推理小説同好会に参加、このときの先輩に紀田順一郎や田波靖男がいる。映画監督を志望し、1960年に東映の入社試験を受けたが面接で失敗。1961年、大学卒業後は婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社し、『男の服飾』を『MEN'S CLUB』に改名する発案をする[1]。編集室にあった『ELLE』『Mademoiselle』『PLAYBOY』『COSMOPOLITAN』『GQ』等に刺激を受ける。『婦人画報』編集部に移り伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』などを担当。真鍋博の推薦で『美術手帖』にマンガ評論を書き始める。1964年に退社し、慶應義塾大学斯道文庫勤務や慶應義塾大学文学部非常勤講師などを経て評論家となる。1973年『江戸のデザイン』で毎日出版文化賞受賞。マンガ、広告、写真など当時、文化の周縁とみなされていたジャンルを論じる著作が多い。
莫大な数の蔵書を保有していたことで知られる。30歳前後から、いわゆる「資料もの」といわれる仕事をするようになって、本がねずみ算式に増殖したとは本人の弁。「ひとたび『歴史』という虚構の大海に棹を入れると、収入の七割がたは、本代に消える。異常に過ぎる。いっこうに古本屋の借金は、減らない」と、自著『随筆:本が崩れる』に記している。(ウイキペディア参照)



「土洲橋の大石病院跡」
<土洲橋の病院>
 荷風が大正から昭和初期にかけて通っていた病院が大石病院です。この病院の院長 大石貞夫は荷風の弟である貞二郎と同級で、親しくなり往診も時々頼んでいたようです。

草森紳一さんの「荷風の永代橋」によると
「…まだこのころ、大石国手の中洲病院は存在しない。大石貞夫は、大正二年渡欧。大正三年の十二月、帰朝。大正四年、日本橋の鎧橋の際に開院。鎧橋病院という。大正八年、中洲養生院を引き継ぎ、中洲病院を開く。この履歴は、『日本医事新報』の「永井荷風と大石貞夫(3)」(昭和三十一年九月二十二日号)にある。大正六年九月廿一日の『断腸亭日乗』に「大石国手来診」とあるのは、中洲病院から出張してきたのでなく、鎧橋病院からとわかる。…」
 院長の大石貞夫については大石国手(国手は名医、医師への敬称)、冬牆子(大石の俳号)とも書かれています。”日本橋の鎧橋の際に開院。鎧橋病院という”については、大正8年の帝国医師名簿によると、南茅場町川岸5 と記載があります。中洲養生院については、明治43年の東京医療案内には、日本橋區中州川岸とあります。中州病院については断腸亭日乗の昭和7年4月18日に清洲橋と中州病院の絵が掲載されており、現在の写真と比べて位置関係がよく分かります。

 永井荷風の「深川の散歩」より。
「 中洲の河岸にわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はその後箱崎川にかかっている土洲橋のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように清洲橋をわたって深川の町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。多年坂ばかりの山の手に家する身には、時たま浅草川の流を見ると、何ということなく川を渡って見たくなるのである。雨の降りそうな日には川筋の眺めのかすみわたる面白さに、散策の興はかえって盛になる。…」
 大石貞夫の大石病院について纏めてみました。
・大正4年(1915):日本橋の鎧橋の際に鎧橋病院を開業(南茅場町川岸5、現在の茅場町1丁目1−11附近)
・大正8年(1919):中洲養生院を引き継ぎ、中洲病院を開業(日本橋區中州川岸)
・大正12年(1923):関東大震災で中洲病院は倒壊、札幌に移る
・昭和2年(1927):中洲病院を再建
・昭和7年(1932):中洲病院の出資者が破産したため土州橋へ大石病院を移転
・昭和10年(1935):大石病院の大石貞夫死去

写真の正面やや左の角に土州橋の大石病院がありました。写真の右側はロイヤルパークホテルです。火保図で確認済みです。



箱崎・深川附近地図



「清洲橋」
<清洲橋という鉄橋>
 清洲橋についてはウイキペディアを参照します。

【清洲橋(きよすばし)着工 大正14年3月、竣工 昭和3年3月】
隅田川にかかる橋で、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋(英語版、ドイツ語版)の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 清洲橋という鉄橋が中洲から深川|清住町の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳しているので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。
 或日わたくしはいつもの如く中洲の岸から清洲橋を渡りかけた時、向に見える万年橋のほとりには、かつて芭蕉庵の古址と、柾木稲荷の社とが残っていたが、震災後はどうなったであろうと、ふと思出すがまま、これを尋ねて見たことがあった。
 清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とを聳かしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない平い倉庫の立ちつづく間に、一条の小道が曲り込んでいて、洋服に草履をはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声が俄に耳につく。…」

 先ず、橋は下流に向って永代橋上流に向って新大橋が見えます。永代橋は手前に首都高9号線があり、現在は綺麗には見えません。新大橋は昭和52年に架け替えられていますので、荷風が見た新大橋は此方になります。又、”削除浅野セメントの製造場”は現在は讀賣新聞の印刷所になっています。

【永代橋(えいたいばし)】
隅田川にかかる橋で、東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。元禄時代より橋は架けられており、明治30年(1897)道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。明治37年(1904)には東京市街鉄道(後の東京都電)による路面電車も敷設された。しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年(1926)に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。(ウイキペディア参照)

【新大橋(しんおおはし)】
 隅田川にかかる橋で、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目。この橋は元禄時代から架けられており、明治18年(1885)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年(1977)に現在の橋に架け替えられた。旧橋は前記のようなデザインを有する貴重な建築物として、愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。(ウイキペディア参照)

油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。”はそれぞれ撮影しておきました。又、橋柱は上の橋の橋柱が四本とも残っていました。

写真は現在の清洲橋です。撮影は影ができないように左岸から撮影しています。

「万年橋(萬年橋)」
<万年橋(萬年橋)>
 清洲橋を渡り倉庫街を左に向うと、小名木川に架かる万年橋になります。この橋は討入り後の四十七士が吉良上野介の屋敷から泉岳寺に向う途中に渡った橋です。昭和5年に現在の橋に架け替えられています。それ以前は木造の橋でした。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… この静な道を行くこと一、二町、すぐさま万年橋をわたると、河岸の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくしはこの湫路の傍に芭蕉庵の址は神社となって保存せられ、柾木稲荷の祠はその筋向いに新しい石の華表をそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な好事家の跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。…」
 万年橋を渡って直ぐに左に曲がると右手に”芭蕉庵の址は神社”があり、少し進むと左手に”柾木稲荷の祠”があります。”新しい石の華表”はこのことだとおもいます。

写真は現在の万年橋(萬年橋)です。小さな橋ですがなかなか趣のある橋です。関東大震災前までは、万年橋を渡って直ぐ左に柾木稲荷がありました。芭蕉庵もこの近くにあったと言うことらしいです。現在は芭蕉記念館が近くにあります。

「常盤亭跡」
<常盤亭>
 柾木稲荷の前を川沿いに進むとT字路に突き当たり左側が、当時の”乗合汽船発着処”となります。現在は隅田川の堤防があるのみです。右側に進むと直ぐに萬年橋北詰交差点となります。この角には知る人ぞ知る”立食い蕎麦屋”があります。”深川芭蕉そば”です。そのまま進むと、次の常盤一丁目交差点が六間堀にかかった猿子橋跡です。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 華表の前の小道を迂回して大川の岸に沿い、乗合汽船発着処のあるあたりから、また道の行くがままに歩いて行くと、六間堀にかかった猿子橋という木造の汚い橋に出る。この橋の上に杖を停めて見ると、亜鉛葺の汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸きれを翻しながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。かくの如き昔ながらの汚い光景は、わたくしをして、二十年前亡友A氏と共にしばしばこのあたりの古寺を訪うた頃の事やら、それよりまた更に十年のむかし噺家の弟子となって、このあたりの寄席、常盤亭の高座に上った時の事などを、歴々として思い起させるのである。…」
 ”二十年前亡友A氏”とは井上精一(唖々)のことです。

 又、寄席の”常盤亭”は六代目三遊亭圓生の「寄席切絵図」によると、常盤町二丁目2番辺りになります。(現在の常盤二丁目13−5附近)
「     寄席雑記  常 盤 亭               川 口 松 太 郎
 深川の高橋で電車を降りると、すぐ右がわの露次ぐちに、常盤亭のつるし看板がぶらさかっている。燕枝、小燕枝、今輔、トリが馬生という顔ぶれで、おきに大きく「柳連芸演競」と書いてあった。
 一体、深川は寄席のすくないところである。ことに色物席は、この常盤一軒きりで、あとは、たいてい浪花節の定席になっている。木場の兄い連が、夜ふけて帰る道すがらうなりだす『赤垣』の一節こそ、すなわち、浪花節の多いゆえんである。
 水に浮いているような深川の町を歩いていると、なんだかこう忘れていたものにひょっくり出会ったような、淡いなつかし味を感ずる。東六間堀だとか、徳右衛門町だとか、富川町なぞ、町の名前そのものが、もうすでに嬉しいものになってしまう。「ところもちょうど閻魔堂……」と、『髪結新三』の名ぜりふにある、その閻魔堂橋も、すこし先の亀住町のまンなかにある。菊五郎の新三や、吉右衛門の源七、のっぺりした勘弥の才三なぞが、ふと私の頭を通りすぎて行った。(圃生註・才三は誤り。正しくは忠七)
 常盤亭の出来たのは、いまから約二十五年前。隅のほうのうすぐらいところに町内の若い衆が集まってくる昔の寄席の、渋い面かげの失せた寄席の多いこのごろ、私は常盤亭のあることをよろこぶ。…(大正6年8月号)」

 高橋の電停は現在の清澄通りの高橋交差点のところです。

写真の常盤二丁目公園の先辺りに常盤亭がありました。当時の地番で常盤町二丁目2番辺り、現在の常盤二丁目13−5附近となります。この地番に関しては、大正6年発行の東京演芸地図に記載のものです。ただ、東京演芸地図に記載の場所は常盤町一丁目になっていて一致していません。又、大正10年発行の地図では常盤町二丁目の番地の付け方が明治時代とは逆になっていて、6番地となります。推定ですが誤記だとおもわれます。

「長慶寺」
<長慶寺>
 曹洞宗のお寺で、寛永6年(1629)には開山していたようです。慶長20年(1615)が大坂夏の陣ですから、江戸幕府も徳川家光となり、落ち着いてきて、江戸が発展しつつあった頃だとおもわれます。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 東森下町には今でも長慶寺という禅寺がある。震災前、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊日本左衛門の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬の背新道と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬えたので。歩き馴れぬものはきまって足駄の横鼻緒を切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保豊後守の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と称えていた。…」
 ”芭蕉翁の句碑と、巨賊日本左衛門の墓”については関東大震災で倒壊したようで、芭蕉翁の碑(作り直した大きな碑台石だけになってしまった碑(左側は宝晋斎其角墓)がありますが、巨賊日本左衛門の墓については残っていません。又、上記には”六間堀”と書かれていますが”五間堀”の間違いではないかとおもわれます。六間堀は万年橋横から真っ直ぐに北に上がっている堀です。六間堀から分かれた支流は五間堀です(下記にある江戸切絵図を参照)。

写真は現在の長慶寺です。この辺りは関東大震災後の区画整理で、すっかり変ってしまっています。長慶寺が小さくなり、裏にあった墓地が無くなっています。昔の面影は全くありません。下記に現在の地図の上に大正10年の地図を重ねた地図を掲載しておきます。黄色い色の道が大正10年の地図です。現在の道筋との違いがわかります。



長慶寺付近地図


「唖々が住んでいた路地」
<平家建の長屋>
 ここでは井上精一(唖々)の住まいを探してみます。下記には”わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町の裏長屋に住んでいた”と書かれています。”わが亡友A氏”は井上精一(唖々)のことです。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方本所竪川に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の陋巷を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町の裏長屋に住んでいたことがあった。…

 かつてわたくしが籾山庭後君と共に月刊雑誌『文明』なるものを編輯していた時、A氏は深川夜烏という別号を署して、大久保長屋の事をかいた文を寄せられた。今その一節を見るに、湯灌場大久保の屋敷跡。何故湯灌場大久保と言うのか。それは長慶寺の湯灌場と大久保の屋敷と鄰接している所から起った名である。露地を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久の家で、即ち私の寄寓する家である。阿久はもと下谷の芸者で、廃めてから私の世話になって二年の後、型ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。右隣りが電話のボタンを拵える職人、左隣がブリキ職。ブリキ職の女房は亭主の稼ぎが薄いので、煙突掃除だの、エンヤラコに出たりする。それで五人の子持である。お腹がふくれると、口が殖える将来を案じて、出来ることなら流産てしまえば可いがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、出水の時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。…」

 上記に書かれている”湯灌場(ゆかんば)”とは、葬儀に際し遺体を入浴させ、洗浄する場所のことです。”大久保の屋敷”は下記の江戸切絵図を見てもらうとよく分かります。長慶寺の項に”この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建の長屋が秩序なく建てられていて”とあります。北側の五間堀との間は長屋を建てられる程の幅はありませんので、東側の五間堀の間と推測しています。現在の道路からすると、この写真の右側附近に墓があって、その先の路地ではないかと考えています。

写真は上記地図@の路地の写真です。当時の路地が残っているのはココのみとおもわれます。墓と五間堀との間とすれば、この路地の右側5軒目となるわけです。あくまでも推定です。

 続きます!



江戸切絵図



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
明治29年 1896   17 荒木古童(竹翁)に弟子入りして尺八を習う
岩渓裳川の講義を聴講
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居
         
大正8年
1919
松井須磨子自殺 40 11月 麻布区市兵衛町1-6に土地百坪を借りる
         
大正9年 1920 蒋介石北伐を開始
NHK設立
41 5月 新居完成、5月23日引越し、偏奇館と名付ける
         
大正12年 1923 関東大震災 44 7月 井上精一(唖々子)死去
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
65 3月22日 杵屋五叟(大島一雄)の次男永光を養子とする
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに引越す
5月25日 空襲で焼け出され、宅氏邸に身を寄せる
6月3日 明石へ疎開する