●永井荷風の幼少年期を歩く -6- <快楽亭、井上精一(唖々子)>
  初版2012年4月28日
  二版2016年7月15日 <V01L01> 吉井勇の井上唖々について書かれた文を追加 暫定版

 「永井荷風の幼少年期を歩く」の最終回です。永井荷風を調べ始めるときりがないので、幼少年期はこのくらいで終ります。改版は続けますので少しづつ良くなっていくとおもいます。今回は快楽亭と友人の井上精一を掲載します。


「イギリス大使館裏」
<快楽亭>
 最初は荷風が通ったという「快楽亭」です。この「快楽亭」は当時としては珍しい西洋料理店で、英国大使館裏の降り口に開業したのは明治33年(1900年)です。その後、明治35年に麻布新龍土町に移転し、屋号を地名から取り入れた「龍土軒」としています。2.26事件で有名な「龍土軒」となるわけです。
 生田葵山の「永井荷風といふ男」からです。
「…永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英国公使館裏に快楽亭と云ふ瀟酒な西洋料理店があって、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があった。當時四谷見附け外にあった学習院の若い公達が非常に快楽亭を贔屓にして、畫も夜も食事に来て居た。料理も相應なものであったが、それよりもお富ちゃんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快楽亭へは能く田懸けて往った。庇のお富ちゃんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになった。…」
 快楽亭のお富ざんと荷風のお話しはかなり有名ですね!!
 生田葵山が詳しく書いていますので状況がよくわかります。明治33年〜35年ですから麹町区一番町42番地に住み、第一高等学校入試を落ちて、六代目朝寝坊むらくの弟子になったり、日出國新聞社の社員になったりしてブラブラしていた頃です。まあ、暇だったわけです。
 柳田国男の「龍土會のころ」からです。
「… 文学者の集りは、そのころ英国大使館につとめてゐたコックと家政婦が結婚して、同大使館の裏通りに快楽亭といふ料理屋をはじめたのを、誰かが見つけて來て、そこで會を開かうといふことになり、拙宅の會をそのまゝもっていった。そこの亭主は×××だったが、大變純な男で後に麻布の龍土町に引越したので、會もそちらで開くやうになり、店の名前の龍土軒をとって龍土會と名づけられたものであった。
 まだ武林無想庵が青年のころで、いちばん主になって世話をしてゐた。薄田泣董、国木田獨歩なども來た。小山内薫などはまだ学生で、飛白の羽織などを着てゐるので、われわれは子供扱ひにしてゐた。そのころすでに小説の種になるやうなことをしてゐたのに、われくは知らずにゐたわけであった。…」

 快楽亭はあまり有名ではありません。やはり龍土軒の方が有名なわけです。ここでは龍土軒の説明はしません。あくまでも荷風を中心に掲載しますので快楽亭中心です。次は蒲原有明です。
 蒲原有明の「龍土會の記」からです。
「… そもそもの起りはかうである。話好きの柳田國男君がをりをり牛込加賀町の自邸で花袋、藤村、風葉、春葉、葵(生田)諸君と、それに自分も加へられて招待された會合があつた。この會には柳田君の學友で、後に派手な政治の舞臺に活躍することゝなつた江木翼さんの顏も見えた。それから暫く經つてその會を表に持ち出すことになつて、矢張同じ連中の顏ぶれで、その第一囘が麹町英國公使館裏通りのさゝやかな洋食店快樂亭で催された。明治三十五年一月中旬のことである。その時わたくしが肝入であつたといふのは、會場がわたくしの家に近かつたからでもある。この店は生田君などとは馴染が深かつた。その頃同じ區内の元園町に巖谷小波さんの住居があつて、木曜會といふのが設けられてあつた。これも極めて自由な會合で、わたくしは會員ではなかつたが、年中開放されてゐた巖谷さんの家の下座敷へしばしば出入したものである。玄關には澁い顏を時々思ひ出したやうににつこりさせる老執事が机を控へてゐたことをおぼえてゐる。たまには一六先生の義太夫の聲が奧の間から傳つてくるのを聽いたこともある。小波さんの門下であつた生田君として見れば、この界隈は綱張内のことゝて、快樂亭を會場とするやう、わたくしにすゝめたものと思はれる。實際快樂亭は我々が會合を開くには恰好な店で、場所も靜かであつた。坂路に寄せて建てた二階家で、食堂の方は一室ぎりであつたが、坂の上から平たく直に入れるやうになつてゐた。さういふ風の建て方であるから、料理はすべて下から運び上げるのである、入口には絡みつけた常春藤の青い房が垂れてゐた。表に向つた窓からは、折からの夕日に赤褐色に温く染められた公使館の草土手とその上につづく煉瓦の塀が眺められるのみである。單調ではあるが俗ではない。雜駁からは遠ざかつて、しかも却て風變りの趣がある。わたくしの眼底にはこの亭の印象がこびりついて忘じ難いものゝ一つとなつてゐるのである。…」
 ここで、快楽亭の場所が推定ですが分かりました。

写真は英国大使館の北西角の交差点から英国大使館の裏通りを撮影したものです。上記の書いてある”坂路に寄せて建てた二階家”を考慮すると、番町ハウス付近ではないかとおもいます。坂上からの写真も掲載しておきます(左から二番目のビル付近)。



永井荷風の東京地図 -4-



「黐(もち)の木坂下」
<井上精一(唖々子)>
 2016年7月15日 吉井勇の文を追加
 二番目は荷風の友人である井上精一(唖々)です。二人が初めて出会ったのは荷風が高等師範学校附属尋常中学校に入学した頃なので、明治24年から25年頃だとおもいます。下記にも書いていますが、成績は荷風より遥かに良かったようです。
 永井荷風の「梅雨晴」からです。
「… わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしょで寄席へ通う頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の一カ年を校内の寄宿舎に送った後、飯田町三丁目黐(もち)の木坂下向側の先考如苞翁の家から毎日のように一番町なるわたしの家へ遊びに来た。ある晩、寄席が休みであったことから考えると、月の晦日であったに相違ない。わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪とおうと九段の坂を燈明台の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上って来る一人の男がある。電車の通らない頃の九段坂は今よりも嶮わしく、暗かったが、片側の人家の灯で、大きなものを背負っている男の唖々子であることは、頤の突出たのと肩の聳えたのと、眼鏡をかけているのとで、すぐに見定められた。
「おい、君、何を背負っているんだ。」と声をかけると、唖々子は即座に口をきく事のできなかったほどうろたえた。横町か路地でもあったら背負った物を置き捨てに逃げ出したかも知れない。
「君、引越しでもするのか。」
 この声の誰であるかを聞きわけて、唖々子は初めて安心したらしく、砂利の上に荷物を下したが、忽命令するような調子で、
「手伝いたまえ。ばかに重い。」
「何だ。」
「質屋だ。盗み出した。」
「そうか。えらい。」とわたしは手を拍うった。唖々子は高等学校に入ってから夙はやくも強酒を誇っていたが、しかしわたしともう一人島田という旧友との勧める悪事にはなかなか加担しなかった。然るにその夜突然この快挙に出でたのを見て、わたしは覚えず称揚の声を禁じ得なかったのだ。
「何の本だ。」ときくと、
「『通鑑』だ。」と唖々子は答えた。
「『通鑑』は『綱目』だろう。」
「そうさ。『綱目』でもやっとだ。『資治通鑑』が一人でかつげると思うか。」
「たいして貸しそうもないぜ。『通鑑』も『要』の方がいいのだろう。」
「これでも一晩位あそべるだろう。」…」

 高等師範学校附属尋常中学校から第一高等学校ですからエリートですね。そうとう頭が良かったとおもいます。このお話しは荷風が六代目朝寝坊むらくの弟子のころで、唖々が第一高等学校二年生ですから明治31年だとおもいます。

 ”黐ノ木坂”と”冬青木坂”は「江戸東京坂道辞典」によると、”冬青木坂”が正しく、別名”黐ノ木坂”となっています。昔、黐の木又は黐の木に似た木があったため、この名がついたようです。

 吉井勇の「わが回想録」の中に井上唖々について書いていたのを見つけました。
「… もう一人荷風氏がよくプランタンに伴れて来た井上唖々氏は、昔は帝大独文科の秀才だったさうであるが、その頃はもうすっかり世の中を諦めてしまって、深川あたりの裏長屋に、芸者上りの恋女房と、うき世を棄てた侘住居、のらりくらりと日を送ってゐるやうな男なのだった。酒が好きで私も三四度一緒に飲んだことがあるが、その隠逸ぶりは徹底したものであって、何もかも棄ててしまった境涯は、むしろ私には羨ましい位のものであった。たしか荷風氏が数年前に発表された「残冬雑記」の中にも、この唖々氏の日記の一節が引いてあったやうに思ふ。…」
 荷風以外で井上唖々について書かれているのは珍しいです。

 荷風が「断腸亭日乗」のなかで井上精一(唖々)の簡単な評伝を書いています。(第二巻 昭和5年7月11日)
「余平生唖々子の詳伝をつくらむと思ひながら老いて傾く遂に果さず、年々物事忘れ勝ちになり行けばこゝに思出るまゝを識し置くべし、唖々子姓は井上氏名は精一といふ、初め九穂と号し又玉山と称す、晩年不願醒客と号せり、加州藩士井上如苞苞翁の長男にて明治十一年某月某日尾州名古屋の城下に生る、是厳君如苞翁維新の後内務省に出仕し名古屋の県庁に祇役せし時なりと云ふ、幾くもなくして厳君は転任し家眷春を携へて東京に来れり、当時鉄道は横浜以西には未布設せられず、旅人は人力車にて東海道を行き箱根の山はむかしに変らず駕寵にて越えたりと云ふ、唖々子晩年幼時の追憶を筆にせしことありしが其の草稾は散逸してまた見ること能はず、悲しむべきなり、余の始めて唖々子と交を訂せしは明治廿五六年の春余が神田一橋なる高等師範学校附属尋常中学校に入りし時なり、子は学課の成績好かりしが殊に漢学と歴史との二科は常に教師の歎称する所なりき、明治三十年春尋常中学の課程を卒へ、其年の夏第一高等学校第一科に入り、やがて帝国大学文科に進まむとする前年、病を得て休学し、一時鎌倉の旅宿に養生し居たり、医学博士青山氏の診断を受けしに肺病なれば数年間勉学は思ひ止まるがよしとの忠告を受けたりと云ふ、唖々子が酒を好み又俳句漢詩をつくり始めしはこの時なり、明治三十二年に至り高等学校を退学し、予及木曜会の諸生と提携して文学雑誌活文壇を刊行せり、当時の事は予が書かゝでもの記と題するものに識したれば茲に贅せず、雑誌活文壇廃刊の後唖々子は雑誌発売の書店大学館の編輯員に雇はれ、大正改元の秋頃まで凡そ十四五年間通勤し居たり、其頃子は田村西男岡鬼太郎氏等の刊行せし笑といふ雑誌に屡短篇小説を寄稿せLが皆散逸して再び見るべからず、大学館より出版したりし単行本二三種も今は悉く散佚したり、余はこゝに単行本の表題を識し置くべし、乃ち夜の女、小説修行、猿論語等なり、子は二十歳の頃より当時の青年とは全く性行を異にしたる人にて名聞を欲せず成功を願はず唯酒を飲むで喜ぶのみ、酒の外には何物をも欲せざる人なり、生れながらの酒仙とも謂ふ可し、されば平生作る所の文章俳句の如きも世の文学雑誌に掲載することを好まず、酔後徒然の折よ草稿を浄書し自ら朗読して娯しみとなすのみなりき、明治四十四五年の頃甲州の人某氏の女を要り男子二人を挙げたり、大正三四年の頃より旧加州藩主前田侯爵家歴史編纂所の部員となり、ついで籾山書店の編輯員に雇はれしが幾くならずして職を辞し、余と共に雑誌花月を刊行すること凡半年、大正七年の冬毎夕新聞社の聘に応じ初めは黒田湖山と共に新聞紙の三面に筆を執りしが、二三年の後同社内の活版所校正係となれり、子は其時余に語りて日く、日々愚にもつかぬ世間の俗事を記述するは永く堪ふべき所ならず、校正係となりて手偏と木偏の誤を訂正するの労遥に少きを思ふなり、新聞社にては初月給を増すぺければ三面記者の主席に坐せられたき由言出せしが、余はこれに荅へて月給は減少せらるゝも差閊閊なし、それよりは酒飲む暇の多き閑職こそ望ましけれと言ひしに、社中の者唖然として返す言葉もなかりしは近来の快事なりしと、唖々子が人物の如何はこれにて推察せらるべし、大正十一年の冬頃より酒量も次第に減じ豪気亦昔日の如くならず余を始め知友相逢ふ毎に子に迫りて是非にも医薬を用ゆべしと忠告せしが、子は唯冷笑するのみなり、翌年六月の中旬友人某々等と共に麹巷の旗亭に登り、飲んで夜深に至り酔倒して遂に起つ能はず、翌朝友人に扶けられて東大久保の就居に帰りしが、病遽に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しぬ、年を享ること四十有六なり、小石川白山蓮久寺なる先塋の側に葬らる、子の厳君如苞翁は子に先立つこと二年大正十年某月七十余才の高齢にて世を去り継母酒井氏もついで没したり、子の実母某氏は子が幼年の頃肺を病んで没せしと云ふ、子の弟梧郎君は子に先だち大正四五年頃急性肺炎にて世を去りぬ、子の妹もと子は東京府女子尋常師範学校を卒業し多年牛込区津久土町小学校の教員たり、前田男爵家の家令小野木氏に適き今猶恙なしと云ふ、唖々子の遺族は今何処に住居せるや久しく音信を断ちたれば知らず、唖々子尋常中学校に通学せし頃には本郷東竹町の家に在り、高等学校に学びし時には厳君は家を麹町飯田町三丁目に移したり、恰是時余が家も小石川より飯田町もちの木坂に移りしかば日として相見ざるはなく交誼水魚の如くになりき、此間凡一二年唖々子の先君は千葉県安房郡の郡長となり任地に出張せられしかは、唖々子は後母の実家酒井佐保氏の家に寄寓せしことあり、酒井氏は後に第一高等学校の校長となりし学者なり、唖々子の厳君が官職を去り旧藩主前田侯爵家の家扶となり本郷元富士町なる侯爵家の邸内に移居せられLは明治三十年頃なるべし、子は大正十年厳君の世を去りし後まで凡二十余年侯爵家邸内の御長屋に住みしなり、明治四十三年八月都下大洪水の頃子は凡一年あまり元下谷の妓なりし女と狎れ親しみ深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり、子が別号を深川夜烏と称せしは此の故なり、」
 簡単にまとめた年譜です。
明治11年 加州藩士井上如苞苞翁の長男にて尾州名古屋の城下に生る
明治25年 高等師範学校附属尋常中学校に入学、本郷東竹町に居住
明治30年 第一高等学校第一科に入学、麹町飯田町三丁目に居住?
明治32年 第一高等学校を退学、雑誌発売の書店大学館の編輯員になる、本郷元富士町の前田公職邸内
明治43年 深川東森下町の女の家に居住
大正3〜4年 旧加州藩主前田侯爵家歴史編纂所の部員となる、ついで籾山書店の編輯員になる、
         本郷元富士町の前田公職邸内?
大正12年7月11日 死去、東大久保町438番地に居住

写真は「冬青木坂(もちのきざか)」から坂下を撮影したものです。坂下の道路を越えた辺りが”飯田町三丁目黐(もち)の木坂下向側の先考如苞翁の家”となります。番地が分かりませんでしたので詳細の場所は不明です。

「西向天神社」
<西向天神>
 井上精一は、荷風と出会ってからも何度か住まいを変えています。荷風とよく会っていたのは飯田町に住んでいたころで、その後は父親と一緒に本郷元富士町の前田公職邸内に住んでいたのではないでしょうか(推定)。一時、深川に住んだこともあるようですが、結局本郷元富士町にもどっています。(大正7年12月書簡、本郷元富士町二丁目前田侯邸内井上精一宛)
 本郷の前田侯爵邸(旧加賀藩邸)は明治4年に文部省に移管され東京帝国大学用地となっていますが、南西の一部が前田侯爵邸として残っていました。この残りの土地は大正15年に東京帝国大学に移管されます(駒場に代替地、現在の都立近代文学博物館)。
  永井荷風の「梅雨晴」からです。
「… 当時のわたしを知っているものは井上唖々いのうえああ子ばかりである。唖々子は今年六月のはじめ突然病に伏して、七月十一日の朝四十六歳を以て世を謝した。
 二十年前わたしの唖々子における関係は、あたかも抽斎の子のその友某におけると同じであった。
 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き通っていたのを幸さいわい、わたしは唖々子の病を東大久保西向天神の傍なるその居に問うた。枕元に有朋堂文庫本の『先哲叢談』が投げ出されてあった。唖々子は英語の外に独逸語にも通じていたが、晩年には専漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋なることを憤どおっていた。
 わたしは抽斎伝の興味を説き、伝中に現れ来る蕩子とうしのわれらがむかしに似ていることを語った。唖々子は既に形容枯槁して一カ月前に見た時とは別人のようになっていたが、しかし談話はなお平生と変りがなかったので、夏の夕陽の枕元にさし込んで来る頃まで倶ともに旧事を談じ合った。内子はわれわれの談話の奇怪に渉わたるのを知ってか後堂にかくれて姿を見せない。庭に飼ってある鶏が一羽縁先から病室へ上って来て菓子鉢の中の菓子を啄ついばみかけたが、二人はそんな事にはかまわず話をつづけた。…」

 唖々は大正8年以降に本郷元富士町から東大久保に転居しています。何故かとおもったら、東大久保の近くにも前田侯爵邸がありました(下記の地図を参照)。前田侯爵と共に移っていたのではないでしょうか!!

写真は東大久保の西向天神です。唖々の住まいはこの西向天神から南に200m、東大久保町438番地となります((写真の交差点左側付近)。現在の天神幼稚園手前付近となります。

「蓮久寺」
<蓮久寺>
 唖々のお墓が文京区白山五丁目の蓮久寺にあります。本郷元富士町の前田侯爵邸から近かったためかなともおもいます。
 永井荷風の「断膓亭日乗」第二巻からです。
「…坂の下に蓮久寺とよべる法華寺あり。これ去年癸亥七月十二日わが狎友唖々子井上精一君が埋骨のところなり。門に入るに離々たる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば、井上氏の塋域を問ふ。導かれて行くにいまだ一周忌にも到らざれば、冢土新にしていまだ碑碣を建てず。…」
 蓮久寺で唖々のお墓を探してみました。比較的新しいお墓が多かったので、簡単に見つけることができました。古いお墓を探せば良いわけです。ただ、唖々のお墓は上の二段は古いままで、下部が新しくなっていました。唖々にはお子様が二人いましたので、何方かが対応されているようです。 

写真は現在の白山五丁目の蓮久寺です。とてもきれいなお寺です。お墓の写真を掲載しておきます。墓誌が左側にありましたので確認ができました。



永井荷風の東京地図 -6-



永井荷風の東京地図 -7-



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
明治29年 1896   17 荒木古童(竹翁)に弟子入りして尺八を習う
岩渓裳川の講義を聴講
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居
         
大正12年 1923 関東大震災 44 7月 井上精一(唖々子)死去