<快楽亭>
最初は荷風が通ったという「快楽亭」です。この「快楽亭」は当時としては珍しい西洋料理店で、英国大使館裏の降り口に開業したのは明治33年(1900年)です。その後、明治35年に麻布新龍土町に移転し、屋号を地名から取り入れた「龍土軒」としています。2.26事件で有名な「龍土軒」となるわけです。
生田葵山の「永井荷風といふ男」からです。
「…永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英国公使館裏に快楽亭と云ふ瀟酒な西洋料理店があって、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があった。當時四谷見附け外にあった学習院の若い公達が非常に快楽亭を贔屓にして、畫も夜も食事に来て居た。料理も相應なものであったが、それよりもお富ちゃんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快楽亭へは能く田懸けて往った。庇のお富ちゃんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになった。…」。
快楽亭のお富ざんと荷風のお話しはかなり有名ですね!!
生田葵山が詳しく書いていますので状況がよくわかります。明治33年〜35年ですから麹町区一番町42番地に住み、第一高等学校入試を落ちて、六代目朝寝坊むらくの弟子になったり、日出國新聞社の社員になったりしてブラブラしていた頃です。まあ、暇だったわけです。
柳田国男の「龍土會のころ」からです。
「… 文学者の集りは、そのころ英国大使館につとめてゐたコックと家政婦が結婚して、同大使館の裏通りに快楽亭といふ料理屋をはじめたのを、誰かが見つけて來て、そこで會を開かうといふことになり、拙宅の會をそのまゝもっていった。そこの亭主は×××だったが、大變純な男で後に麻布の龍土町に引越したので、會もそちらで開くやうになり、店の名前の龍土軒をとって龍土會と名づけられたものであった。
まだ武林無想庵が青年のころで、いちばん主になって世話をしてゐた。薄田泣董、国木田獨歩なども來た。小山内薫などはまだ学生で、飛白の羽織などを着てゐるので、われわれは子供扱ひにしてゐた。そのころすでに小説の種になるやうなことをしてゐたのに、われくは知らずにゐたわけであった。…」
快楽亭はあまり有名ではありません。やはり龍土軒の方が有名なわけです。ここでは龍土軒の説明はしません。あくまでも荷風を中心に掲載しますので快楽亭中心です。次は蒲原有明です。
蒲原有明の「龍土會の記」からです。
「… そもそもの起りはかうである。話好きの柳田國男君がをりをり牛込加賀町の自邸で花袋、藤村、風葉、春葉、葵(生田)諸君と、それに自分も加へられて招待された會合があつた。この會には柳田君の學友で、後に派手な政治の舞臺に活躍することゝなつた江木翼さんの顏も見えた。それから暫く經つてその會を表に持ち出すことになつて、矢張同じ連中の顏ぶれで、その第一囘が麹町英國公使館裏通りのさゝやかな洋食店快樂亭で催された。明治三十五年一月中旬のことである。その時わたくしが肝入であつたといふのは、會場がわたくしの家に近かつたからでもある。この店は生田君などとは馴染が深かつた。その頃同じ區内の元園町に巖谷小波さんの住居があつて、木曜會といふのが設けられてあつた。これも極めて自由な會合で、わたくしは會員ではなかつたが、年中開放されてゐた巖谷さんの家の下座敷へしばしば出入したものである。玄關には澁い顏を時々思ひ出したやうににつこりさせる老執事が机を控へてゐたことをおぼえてゐる。たまには一六先生の義太夫の聲が奧の間から傳つてくるのを聽いたこともある。小波さんの門下であつた生田君として見れば、この界隈は綱張内のことゝて、快樂亭を會場とするやう、わたくしにすゝめたものと思はれる。實際快樂亭は我々が會合を開くには恰好な店で、場所も靜かであつた。坂路に寄せて建てた二階家で、食堂の方は一室ぎりであつたが、坂の上から平たく直に入れるやうになつてゐた。さういふ風の建て方であるから、料理はすべて下から運び上げるのである、入口には絡みつけた常春藤の青い房が垂れてゐた。表に向つた窓からは、折からの夕日に赤褐色に温く染められた公使館の草土手とその上につづく煉瓦の塀が眺められるのみである。單調ではあるが俗ではない。雜駁からは遠ざかつて、しかも却て風變りの趣がある。わたくしの眼底にはこの亭の印象がこびりついて忘じ難いものゝ一つとなつてゐるのである。…」
ここで、快楽亭の場所が推定ですが分かりました。
★写真は英国大使館の北西角の交差点から英国大使館の裏通りを撮影したものです。上記の書いてある”坂路に寄せて建てた二階家”を考慮すると、番町ハウス付近ではないかとおもいます。坂上からの写真も掲載しておきます(左から二番目のビル付近)。