●永井荷風の幼少年期を歩く -5-
    初版2012年2月27日 <V01L03> 暫定版

 「永井荷風の幼少年期を歩く」の第五回です。永井荷風は10代後半から四人の先生について、書、画、漢詩、尺八を学んでいます。この四人の先生はこの時代、明治中期から後期にかけて、名の知れた一流の先生ばかりでした。自らが進んで学んだ先生も含めて全て親ががりであり、後の荷風は、この四人の先生抜きには語れないとおもいます。


「麹町区三番町六十三番地」
<岩渓裳川(いわたにしょうせん)先生>
 先ず最初は岩渓裳川先生です。岩渓裳川先生は明治後期から大正期にかけて、国分青崖と並んで詩壇の大御所でした。なぜこの大先生に学ぶことができたのかというと、やはり父親久一郎の紹介でした。久一郎は明治22年に、文部大臣榎本武揚の首席秘書官になっており、岩渓裳川先生も文部省の官吏にあったため、知り合ったとおもわれます。
 永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「… 漢詩の作法は最初父に就いて学んだ。それから父の手紙を持って岩渓裳川先生の門に入り、日曜日ごとに『三体詩』の講義を聴いたのである。裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側まで古本が高く積んであったのと、床の間に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。…」
 岩渓裳川先生については私は全く知識がないので、秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」を参照します。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「… 岩渓裳川、名は晋、字は士譲、安政二年〔一八五五年〕に生れた。家は代々儒学を似て丹波福知山藩朽木侯に仕えた。裳川は年少のころより詩才あり、森春清に学んで永坂石?、森槐南と共に森門の逸材と称せられた詩人である。園棋を嗜み、俳句をも善くした。『裳川自選嚢』五巻がある。永井久一郎と親交があった。井上唖々も荷風と共に裳川に詩を学び、荷風が喧々と交を結んだのも裳川が詩講の席であった。…」
 明治期の詩人というと、正岡子規や樋口一葉を思い浮かべてしまいます。少し俗っぽいのかもしれてません。やはり、漢詩などでは一流だったのだとおもいます。

 岩渓裳川先生の住まいについては明治期の出版物で調べてみましたが書かれておらず、新聞で再度調べてみました。
・讀賣新聞:明治44年(1911)6月23日 朝刊 自宅の犬のついて書かれていた 麹町区三番町六十三番地
・朝日新聞:昭和18年(1943)3月30日 朝刊 死去 89歳 小石川區水道端町二ー十六番地
 荷風の「十六、七のころ」で”市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた”と書いており、読売新聞の”麹町区三番町六十三番地”とは違っていたのですが、明治20年代の”三番町六十三”は後に四番町に変わっていました(現在は九段北三丁目)。

写真は現在の内堀通り、一口坂の交差点を東から西に向かって北側を撮影したものです。”三番町六十三番地”は写真右側の角から左に三軒目のビルのところになります。荷風が岩渓裳川先生のところに通っていた明治20年代の住まいは不明です。推定ですが麹町区三番町六十三番地ではないかとおもっています。

「麹町区麹町基園町一丁目二十二番地」
<岡三橋(おかさんきょう)先生>
 二人目が岡三橋先生です。住まいが麹町なので、地図つながりで二番目に紹介します。岡三橋先生は長州人で明治期の書家、名は守節(竹冠ではなくて草冠が正しい)、字は止私、三橋・雨香などと号しています。国会図書館で岡三橋で検索すると、何冊かの本が表示されます。奥付を見ると、”岡守節(竹冠ではなくて草冠)”の名前と住所が書かれています。教科書等を書かれていたようです。明治期に亡くなられています。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…岡三橋、名は守節、別に雨香と号した。山口藩士にして剣法に長じ、又臨池の技を能くし、内閣書記官であった。明治年間に歿した人である。…」
 荷風の父親とは内閣書記官つながりですね。岡三橋先生は代々毛利家に仕えた武士の子で、武術と書法に長じ、維新後は内閣書記官等を歴任しています。
 国会図書館での検索から
・「万葉かな」奥付より:明治11年11月 麹町区麹町基園町七番地
・「後赤壁賦」奥付より:明治14年3月 麹町区麹町基園町一丁目二十二番地
・「商売往来」奥付より:明治17年6月 麹町区麹町基園町二十六番地
 明治17年以降の出版物はありませんでした。明治期の新聞を調べたところ少し記載がありましたが住所に繋がる記載はありませんでした。上記の奥付の番地を見ると、近い番地ですが少しづつ違います。明治28年の麹町区の地図を見ると、基園町は一丁目と二丁目に分かれていました。又、二丁目には26番地はありませんでしたので、一丁目の26番地ではないかと推定しています。

写真の右側が麹町区麹町基園町一丁目二十二番地、現在の麹町二丁目14番地です。左側が麹町区麹町基園町一丁目二十六番地となります。荷風が通った明治20年代に住んでいた場所は不明です。推定ですが麹町区麹町基園町二十六番地ではないかとおもっています。



永井荷風の東京地図 -4-



「小石川區久堅町八十一番」
<岡不崩(おかふほう)先生>
 三人目が岡不崩先生です。明治から大正、昭和初期の日本画家です。荷風との付き合いは長く、昭和初期まで続いていたようです。
  秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…岡不崩、名は吉寿、はじめ蒼石と号した。加州金沢の人である。狩野芳崖の高弟にして横山大観、下村観山らとともに東京美術学校第一期の入学者であったが、不崩は業半に抜擢せられ高等師範学校講師兼附属中学校教師として教鞭を執った。…
… 不崩は花鳥山水画に長じたが、後年その名は固界におけるよりも本草学者として知られ、特に牽牛花の研究栽培の権威であった。著書に『牽牛花図譜』『あさがは手引草』『あさがほ錦の露』『朝顔図説と培養法』『あさがほ明治花選』『阿佐加保源流考』『万葉草木考』『あさがほ流行史』等がある。荷風とは晩年まで交際があった。荷風が後年日本画を能くしたのは、ともかくも師に就いて学んだからである。…」

 ”東京美術学校第一期の入学”とはすごいです(現在の東京藝術大学)。荷風は良い先生に恵まれていますね。これも父親のおかげかもしれません。

【画家 岡不崩(おかふほう)】(日本美術年鑑参照)
1869−1940 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治2年福井県大野町に生まれる。名吉壽(よしひさ)、初号蒼石、別 号楽只園・南山亭・梅渓。明治13年に上京。明治16年「狩野友信」に入門。友信の紹介で狩野芳崖に師事し北宗画を極め、山水花鳥画をよくする。師匠芳崖が東京美術学校の開校を目前に逝去し(明21、11、5)、前途の指針をなくしかけたが、岡倉天心の薦めにより、同年12月24日、東京美術学校を受験し合格する。岡倉秋水・西郷弧月・本多天城・横山大観・下村観山等65名と共に、明治22年1月17日、第一期生として入学する。翌23年9月、東京高等師範学校の講師に抜擢される。同志と共に真美会を創立。全国連合絵画展覧会審査員。大東絵画協会評議員理事。帝国絵画協会会員。著書に「あさかほ手引草」(明35)「しのぶ草」(明43)「万葉集草木考 4巻」(昭7〜12)「古典草木雑考」(昭10)など多数。昭和15年7月歿、享年72歳。

 岡不崩先生の住所を調べた結果です。
・岡不崩先生宛手紙:明治39年5月 小石川區久堅町七十四番地
 (封書の上部が切れていて七の下部だけ見えるため”七”は推定)
・「朝顔図説と培養法」奥付より:明治42年7月12日  小石川區久堅町八十一番地
・「しのぶ草」奥付より:明治43年12月15日 小石川區久堅町八十一番地
・朝日新聞:昭和15年(1940)7月30日 夕刊 死去 89歳 淀橋區下落合4-1980
 明治39年と明治42年で住所が違います。小石川區久堅町七十四番地は場所が広すぎて特定が困難です。小石川區久堅町八十一番地は特定できました。

写真の右側が小石川區久堅町八十一番地、現在の小石川5丁目21番地です。小石川區久堅町七十四番地は付近の写真を掲載しておきます(現在の小石川4丁目16〜18、小石川5丁目10,11,24付近)。荷風が通った明治20年代に住んでいた場所は不明です。推定ですが小石川區久堅町ではないかとおもっています。



永井荷風の東京地図 -1-

「柳橋」
<荒木竹翁先生>
 最後は荒木竹翁先生です。荷風は荒木竹翁先生の門下の神田美土代町に門戸を張っていた福城可童に弟子入りしたようです。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「… 壮吉は十七歳の頃、上野の音楽学校の音楽会において荒木古童の「残月の曲」を聴いて以来、尺八の妙音に魅せられ、両親に内密で、月々の小使銭を月謝に当てて浅草代地の古童すなわち竹翁の家や、竹翁門下の神田美土代町に門戸を張っていた福城可童の許へ弟子入りすると共に、尺八を購わんために所持する銀時計と新調の外套を質入れし、父母には時計をそのポケットに入れたまま外套を盗まれたと告げた。その結果、相応に吹奏し得るまでに上達したことは、同好の士と「鹿の遠音」「月の曲」などを吹合せたり、尺八を好んだ中学の友達やその妹と合奏したこともあったというのでも分るが、昂じては尺八の技術を完成するためには一通り三絃の道をも心得て置く必要があるとして中学を卒業したころに三味線の稽古をも試みた。事はすべて荷風の小品文「楽器」にみる通りであるが、後に荷風は尺八の免許を得ている。…」
 ”浅草代地”とは柳橋付近の場所のことです。荒木古童先生は初代、二代目、三代目と続いており、住まいも変わっているようです。
 木村富子さんの「随筆 浅草富士」の”花火と尺八”中にも書かれていました。木村富子さんは母方の祖父が荒木竹翁先生です。
「… 惣領娘に出來た初孫だといふので、自分は組父の竹翁から限りなく愛されてゐた記憶がある。昔仕込みの母親は、故なくしては實家の敷居を踏まぬといふ竪人であったが.中元などの挨拶に、其のころ柳橋にあった荒木の家へ行くと、いつも連れて行った自分を二三日泊りの約束で置いては歸った。其の間を祖父や祖母や叔父(亡き二代目古童)や小さい叔母などが寄ってたかって優待して呉れる。。…
… 租父は其の後、今戸八幡の向ひ側.小松宮様のお邸近くへ移り住んだ。お稽古日などに行き合はせると、琴古流家元とかいた門をくゞつて、お供を連れた舊お大名のお弟子方がいかめしい袴形で見えたりした。其の中には本郷の越中様もいらしつたし、實業家では大倉喜七郎氏なども交って居た。
 川添ひの廣間で一しきりお稽古が始まると、背丈のすらりと美しい祖母は、琴をよくした人であったが、傍から三味線を取ってピクリピクリ好い音締で合はせてゆく。鹿の遠音や鶴の巣どもりの情趣深いものから、吟龍虚空などの豪壮な竹の音色が、喇境として隅田川へひゞきわたる時、前庭の芝生を越して桟橋のあたりに、櫓拍子も白帆の影も一寸たゆ
たふやうであった。…」

 ”柳橋にあった荒木の家”を探したのですが、調査不足で分かりませんでした。調査内容は下記の通りです。
・「八千代獅子」奥付:明治40年(1907)、荒木古童 (真之助) , 上原六四郎 (虚洞) 著、浅草区今戸町二十一番地
・讀賣新聞 大正9年(1920)8月21日 朝刊: 荒木志茂子死去(母親) 77歳 浅草区今戸町二十一番地
・朝日新聞 昭和10年(1935)5月3日 朝刊: 二代目の長男死去(三代目) 58歳 品川区五反田6-218
・朝日新聞 昭和18年(1943)7月3日 朝刊: 四代目死去 43歳 世田谷区上馬1-574
 荷風が”浅草代地の古童すなわち竹翁の家”を訪ねた時期は17歳で明治29年ですから、この後に柳橋から浅草区今戸町二十一番地の移ったとおもわれます。今戸町は関東大震災で焼失したため五反田に移ったと推定しています。

写真は現在の柳橋です。右側のビルが亀清楼(かめせいろう)です。浅草区今戸町二十一番地は場所が分かっていますので写真を掲載しておきます(右側の墨田公園のところ、昔は右側も人家が建っていたが関東大震災の後は墨田公園になっています)。



永井荷風の東京地図 -6-



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
明治29年 1896   17 荒木古童(竹翁)に弟子入りして尺八を習う
岩渓裳川の講義を聴講
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居