<岩渓裳川(いわたにしょうせん)先生>
先ず最初は岩渓裳川先生です。岩渓裳川先生は明治後期から大正期にかけて、国分青崖と並んで詩壇の大御所でした。なぜこの大先生に学ぶことができたのかというと、やはり父親久一郎の紹介でした。久一郎は明治22年に、文部大臣榎本武揚の首席秘書官になっており、岩渓裳川先生も文部省の官吏にあったため、知り合ったとおもわれます。
永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「… 漢詩の作法は最初父に就いて学んだ。それから父の手紙を持って岩渓裳川先生の門に入り、日曜日ごとに『三体詩』の講義を聴いたのである。裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側まで古本が高く積んであったのと、床の間に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。…」。
岩渓裳川先生については私は全く知識がないので、秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」を参照します。
秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証
永井荷風」からです。
「… 岩渓裳川、名は晋、字は士譲、安政二年〔一八五五年〕に生れた。家は代々儒学を似て丹波福知山藩朽木侯に仕えた。裳川は年少のころより詩才あり、森春清に学んで永坂石?、森槐南と共に森門の逸材と称せられた詩人である。園棋を嗜み、俳句をも善くした。『裳川自選嚢』五巻がある。永井久一郎と親交があった。井上唖々も荷風と共に裳川に詩を学び、荷風が喧々と交を結んだのも裳川が詩講の席であった。…」
明治期の詩人というと、正岡子規や樋口一葉を思い浮かべてしまいます。少し俗っぽいのかもしれてません。やはり、漢詩などでは一流だったのだとおもいます。
岩渓裳川先生の住まいについては明治期の出版物で調べてみましたが書かれておらず、新聞で再度調べてみました。
・讀賣新聞:明治44年(1911)6月23日
朝刊 自宅の犬のついて書かれていた 麹町区三番町六十三番地
・朝日新聞:昭和18年(1943)3月30日 朝刊 死去 89歳
小石川區水道端町二ー十六番地
荷風の「十六、七のころ」で”市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた”と書いており、読売新聞の”麹町区三番町六十三番地”とは違っていたのですが、明治20年代の”三番町六十三”は後に四番町に変わっていました(現在は九段北三丁目)。
★写真は現在の内堀通り、一口坂の交差点を東から西に向かって北側を撮影したものです。”三番町六十三番地”は写真右側の角から左に三軒目のビルのところになります。荷風が岩渓裳川先生のところに通っていた明治20年代の住まいは不明です。推定ですが麹町区三番町六十三番地ではないかとおもっています。