●永井荷風の幼少年期を歩く -4-
    初版2012年2月27日 <V01L02> 暫定版

 「永井荷風の幼少年期を歩く」の第四回です。永井荷風の幼少年期は明治中期から後期のため、調べるのに時間がかかり、なかなか進みません。数年かかるかもとおもっています。今回は明治30年春の第一高等学校受験から明治31年頃までを掲載します。


「神田錦町の英語学校」
<神田錦町の英語学校>
 荷風は明治27年末に下谷の帝国大学の第二病院に入院、退院後は小田原十字町の足柄病院で転地療養、その後も逗子の永井家別荘十七松荘で静養しています。学業の方は明治28年9月に一級下の中学校第四学年に復学しており、一年遅れたことになります。ただ、卒業は学校が6年制から5年制に変更されたことで同級生と同じになっています。そのためか、卒業後第一高等學校受験のため神田錦町の英語学校に通い始めます。その当時は中学校は3月卒業で、第一高等学校は9月入学だったようです(大正8年(1919)から4月入学となる)。
 永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「… 中学を出て、高等学校の入学試験を受ける準備にと、わたくしたちは神田錦町の英語学校へ通った時、始めてヂッケンスの小説をよんだ。…」
 ”神田錦町の英語学校”については、明治23年に錦町の日本英語学校に一度通ったことがありますがこの学校は明治25年の火災で移転しています。明治30年頃の神田錦町の英語学校は明治29年設立の正則英語学校がありました。推定ですがこの正則英語学校にかよったのではないかとおもわれます(現在も同じ場所にある正則学園です)。
 「荷風全集 第三十巻」の年譜からです。
「一八九七年(明治三〇丁酉)       一八歳
 二月、吉原に初めて遊んだ。
 三月一六日、久一郎が文部省大臣官房会計課長の職を退いた。三一日、第六回卒業生(第六学年一三名、第五学年二三名)として中学校第五学年を卒業した。第六学年に井上精一、第五学年卒業に岩崎秀弥、八田嘉明、寺内寿一らがいた。…
… 中学校を出て高等学校入学試験の準備に神田錦町の英語学校に通学し、ディッケンズの小説を読んだ。」

 3月卒業から7月入試までの間、予備校に通って試験勉強ができたわけです。

写真は現在の正則学園高等学校(せいそく)です。現在も東京都千代田区神田錦町三丁目ですので当時と場所は変わっていないとおもいます。

「第一高等学校」
<第一高等学校>
 荷風は第一高等学校の入試に落ちます。自らはあまり入学を希望していなかったようです。実情は、成績も余り良くなかったのではないでしょうか!!
  「荷風全集 第三十巻」の年譜からです。
「七月上旬実施(「官報」)の第一高等学校の入学試験に失敗した(「美術学校の洋画科を志望した」が容れられず、「高等学校の文科」を志望したがこれも許されず、「第二部の工科」試験を受けわざと落第したという談話(『十七八の頃』)の実体は未詳)。」
 上記に”『十七八の頃』”と書いてあるので、”「十六、七のころ」”の間違いかとおもったら、荷風全集第二十七巻に「十七八の頃」を見つけました。
「…私は終に附属中学を卒業する事になった。
 放て卒業後の目的に裁て、私は終に家庭と衝突するの止むなきに立ち至った。私は先に云つた棟に、美術学校の洋畫科を志望した。然るに、家庭の事情で是も許されない。そして高等学校の文科を望んだが之も亦家庭の反對を受けて許されなかった。それで終に第二部の工科を受ける事にしたが、元來私は工科などは志望しないので、故意と落第してしまった。…」

 上記は明治四十三年五月の「中学世界」に書かれたものです。

写真は現在の東京大学農学部正門です。この場所に第一高等学校がありました。この後、第一高等学校は昭和10年に東京帝大農学部の駒場用地と交換し、駒場に移ります。

「高等商業学校附属外国語学校清語科」
<高等商業学校附属外国語学校清語科>
 荷風の父、久一郎は明治30年3月、文部省大臣官房会計課長の職を退職します。4月、日本郵船会社に就職し上海支店長に就任します(天下りです)。国内ではなく海外で上海ですから、かなり期待されての就任ではなかったかとおもいます。同年9月には荷風も含めた家族を上海に連れて行きます。
  「荷風全集 第三十巻」の年譜からです。
「… 八日、久一郎が一昭帰国し、九月七日、妻子を伴なって神戸から乗船し再び上海に渡った。上海では、日本領事館の隣、アメリカ租界虹口北楊樹路(揚子路)第二号の社宅に住んだ。父と共に西湖に遊んだり、上海県城を訪れたり、またしばしば戯園にも遊んだ。この間、『滬遊雑吟』などの漢詩を得ている。
一一月末、母や弟と帰京し、神田区一ッ橋の高等商業学校附属外国語学校清語科(九月開講)に臨時入学した…」

 荷風の上海については別途掲載したいとおもっています。上海は古い街並みがそのまま残っており、一人で歩くのは若干怖いですが一見の価値があります。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「… 東京麹町一番町の留守宅に在った荷風は、前に触れた如く神田錦町三丁目十四番地に在った文部省管轄の高等商業学校附属外国語学校清語科に入学した。この外国語学校は一ツ橋に在った東京高等商業学校の附属として明治三十年九月錦町に新設されたものであり、荷風は臨時入学を許可された。すなわち同校創立当時に荷風は入学したのである。学校の敷地三百坪、建物九十坪、洋風二階建の木造校舎、長は神田乃武、清語の教師には宮嶋大八、青柳篤恒、金国璞らがおり、金は永井禾原と相識の間柄であった。荷風入学時の清語科入学者は十三名、授業料は一ヶ年二拾円、清語の授業は一週十八時間であった。…
…然し、学校で学び得た支邦語は官話で、南方支部の方言の多い地方では、少しも通用しなかった。…」

 上海に赴き、英国、仏国の租界、中国の革命の動き等、めまぐるしく動く中国を目の当たりにしたのだとおもいます。中国語の学びたいとおもうのはよく理解できます。ただ、中国語は単一言語の様におもえますが、方言があり、他の地方の発音は全く理解できないようです。広州(広東語地域)で北京語で発音してもまったく理解してもらえませんでした。

写真の右側は現在の神田錦町三丁目7番興和一橋ビルです。ここに高等商業学校附属外国語学校清語科がありました。写真の中央やや左に学士会館が小さく写っています。



永井荷風の東京地図 -4-



「広津柳浪宅跡」
<牛込矢来町の広津柳浪>
 荷風はこの時期、高等商業学校附属外国語学校清語科に通っている筈なのですが、他のことをしていたようです。yやはり勉学には身が入らなかったようです。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「一八九八年(明治三一戊成)       一九歳
 この時期の荷風について、叔父阪本ソソ之助は、上海の久一郎宛に「壮吉君には近来殊に音曲に耽けられ且衣服等之意匠俳優者流の如しとの世評あり」云々と報じている
 (八月二日付)。
 九月、神田三崎町の某女隠居の紹介状をもち、『簾の月』という作品を携えて、牛込矢来町の広津柳浪を訪問、指導を乞うた。相弟子に春雨中村吉蔵がいた。柳浪の門を叩いたのは、親友井上唖々の誘椴もあり、柳浪の作風に最も敬服していたからであった。…」

 ”神田三崎町の某女隠居”とは誰のことなのでしょう。秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」でも書いてありませんでしたので、調査するのは大変かもしれません。もう少し調べてみます。また、荷風が訪ねた”牛込矢来町の広津柳浪”については、息子の弘津一郎が詳細に書いていましたので、そちらを参考にしました。
 廣津和郎の「年月のあしあと」からです。
「… 私の生れたのは牛込矢來町で、丁度今の新潮社(その頃は無論新潮社はなかった)の東側の裏道の、新潮社とウラバラになったあたりであるが、私はこの文章を書くのに、何かの緒を引き出すよすがともなればと思って、昨夜その附近を歩いて見た。
 神楽坂の方から行って、矢來通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。子供時分の記憶ではそれは「横町」ではなく、ちゃんとした「道」であったが、矢來通や、新潮社前の通が広げられた今日では、昔のままのそこは「道」という感じではなく、「横町」という感じになってしまった。私はその幅を足ではかつて見たが、並の歩幅で五歩餘しかなかった。して見ると二間幅もないわけである。子供の時分には普通の往來のつもりでいたが、二間幅もなかったのかと今更のようにその狭さに驚かされた。
 その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、輿論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあつたと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく周細されている。…」

 廣津和郎が自宅跡を訪ねた順序に従って、同じように歩いてみます。
1.矢來通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角(矢來通は現在の早稲田通り)。
2.その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになる(並の歩幅で五歩餘しかなかった。して見ると二間幅:3.6m)。
3.そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。
 丁度、新潮社本社ビルの裏側辺りです。

写真は新潮社本社ビルの裏側辺り、早稲田通り側と反対側から撮影したものです。ですから写真の左側辺りが広津柳浪宅跡になります。当時の住所は牛込矢来町三丁目中ノ丸五十二号なのですが、この番地では場所が特定できませんでした(牛込矢来町三丁目までは分かるのですが、中ノ丸五十二号の場所が分かりません、因みに新潮社は牛込区矢来町中ノ丸五十八号です)。



永井荷風の東京地図 -5-



「金港堂主人原亮一郎の家跡」
<金港堂主人原亮一郎の家>
 そろそろ荷風の遊びの話になってきます。歳も明治30年で18歳ですからそろそろという感じです。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…荷風自撰の年譜によれば「明治三十年二月吉原に遊ぶ」とあり、改造社版『現代日本文学全集』所収荷風年譜には、明治三十一年「四月書肆金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねし帰るさ遊意熄み難く独り北里に遊びて楚腰繊細掌中軽と謳ふ。この遊興費正に金三円也」と見えているが、金港堂主人原亮一郎の家は下谷区龍泉寺町四百十四番地に在って、その家から廓内の様子がよく眺められたところから遊意熄み難く一遊に及んだのである。
 金港堂は日本橋区本町三丁目に在った教科書類の版元であったが、明治三十五年ごろから文芸書をも出版するに至り、春陽堂博文館に次ぐ文芸書の版元として知られた。荷風は「何ぢやゝら」という小文で、北廓に遊んだ理由を述べ、病身の己は短命ゆえ早く青春を楽しみ置かずば悔ゆるも及ばざるべしとしている。しかしながら、そこには文学上の刺激影響もあったとみるべきである。
 荷風が金港堂の息子を訪ねた頃の龍泉寺界隈は、その前々年に発表されていた樋口一葉の「たけくらべ」の叙景の文に見るが如き処で、龍泉寺町と吉原は指呼の間である。…」

 上記に”金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねし帰るさ遊意熄み難く独り北里に遊びて”と書かれていますが”北里”とは”ほくり”と読み、吉原のこととなります。もう少し下に”北廓”と書かれていますが、同じ意味で、”南廓”は品川遊廓のことになります。

写真の左は千束稲荷神社樋口一葉の歌にも書かれている有名な神社です。金港堂主人原亮一郎の家はこの神社の右側になります(吉原まで約700m)。この一帯は関東大震災の後、区劃整理が行われてすっかり変わってしまっています。写真の左側の交差点は浅草通りの交差点ですが、当時、浅草通りはありませんでした。原亮一郎の家は千束稲荷神社の右側から浅草通りのところまであったとおもわれます。



永井荷風の東京地図 -6-



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
         
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居