<神田錦町の英語学校>
荷風は明治27年末に下谷の帝国大学の第二病院に入院、退院後は小田原十字町の足柄病院で転地療養、その後も逗子の永井家別荘十七松荘で静養しています。学業の方は明治28年9月に一級下の中学校第四学年に復学しており、一年遅れたことになります。ただ、卒業は学校が6年制から5年制に変更されたことで同級生と同じになっています。そのためか、卒業後第一高等學校受験のため神田錦町の英語学校に通い始めます。その当時は中学校は3月卒業で、第一高等学校は9月入学だったようです(大正8年(1919)から4月入学となる)。
永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「… 中学を出て、高等学校の入学試験を受ける準備にと、わたくしたちは神田錦町の英語学校へ通った時、始めてヂッケンスの小説をよんだ。…」。
”神田錦町の英語学校”については、明治23年に錦町の日本英語学校に一度通ったことがありますがこの学校は明治25年の火災で移転しています。明治30年頃の神田錦町の英語学校は明治29年設立の正則英語学校がありました。推定ですがこの正則英語学校にかよったのではないかとおもわれます(現在も同じ場所にある正則学園です)。
「荷風全集 第三十巻」の年譜からです。
「一八九七年(明治三〇丁酉) 一八歳
二月、吉原に初めて遊んだ。
三月一六日、久一郎が文部省大臣官房会計課長の職を退いた。三一日、第六回卒業生(第六学年一三名、第五学年二三名)として中学校第五学年を卒業した。第六学年に井上精一、第五学年卒業に岩崎秀弥、八田嘉明、寺内寿一らがいた。…
… 中学校を出て高等学校入学試験の準備に神田錦町の英語学校に通学し、ディッケンズの小説を読んだ。」
3月卒業から7月入試までの間、予備校に通って試験勉強ができたわけです。
★写真は現在の正則学園高等学校(せいそく)です。現在も東京都千代田区神田錦町三丁目ですので当時と場所は変わっていないとおもいます。