●永井荷風の幼少年期を歩く -2-
    初版2012年1月7日
    二版2012年2月28日 <V01L01> 普及福音教会を追加

 「永井荷風の幼少年期を歩く」の第二回です。前回は明治12年12月の荷風生誕からから明治22年7月の東京府尋常師範学校附属小学校高等科入学までを掲載しました。今回は明治23年春の三べ坂転居から明治27年10月の麹町区一番町四十二番地転居までを掲載します。


「岩波現代文庫版」
<考証 永井荷風 秋庭太郎(岩波現代文庫版)>
 前回、秋庭太郎氏の昭和41年発行岩波書店版「考證 永井荷風」を紹介しましたが、同じ本の文庫版が出版されましたので紹介したいとおもいます。発行は2010年5月で、上巻、下巻に分かれています。前回と一番の違いは”新字・新かなずかい”に改められたことです。読みやすくなりました。ただ、人名や固有名詞に第二水準以上の漢字がまだ使われています。置き換えようがないので仕方がないのですが、読むのにはたいへんです。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」の最後に書かれた「編集部付記」からです。
「《編集部付記》
本書は一九六六年九月、岩波書店より刊行された。
文庫化にさいし、本文を新字・新かなづかいに改め、改行を増やし、難読の人名等にはふりがなをふり、漢字語のうち副詞・接続詞はひらがなに改めた。また各節には新たにタイトルを付けた。
本書中の写真には著作権者(著作権継承者)の連絡先が不明のものがあります。写真の撮影者をご存じの方は編集部までお知らせください。」

 昭和41年発行岩波書店版「考證 永井荷風」は漢和辞典や国語辞典を持って一字ずつ辞書を引きながら読んでいました(そうしないと意味が分からない)。今回、文庫版になってページ数は増えましたが、辞書は必要なくなりました。

写真は2010年5月発行の岩波現代文庫版「考證 永井荷風」です。上巻は392ページ、下巻は382ページですから、かなりのページ数になります。又、下巻の最後に人名索引が付いていますので便利です。

「文藝春秋」
<文藝春秋 昭和10年10月号>
 文藝春秋 昭和10年10月号です。この号に生田葵山(いくたきざん)の「永井荷風といふ男」が掲載されています。明治30年代前半から生田葵山と荷風は付き合いが始まっており、友人から見た荷風について書かれておりたいへん参考になります。
 文藝春秋 昭和10年10月号の生田葵山「永井荷風といふ男」からです。
「永井荷風といふ男 生田葵山

 私が永井荷風君を知ったのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年てあった。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だった父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壮なものだった。…」

 生田葵山が荷風に出会った時期は明治31年、荷風が第一高等学校の入試に失敗した翌年です。

生田葵山【本名は盈五郎(えいごろう)。別号に葵(あおい)】
明治9年(1876)−昭和20年(1945)、実家は京都市御幸橋々畔の酒屋。一七歳の時に一家離散、東洋英学塾にまなび、上京して巌谷小波に師事する。明治32年「団扇太鼓」で文壇に登場、,「活文壇」誌を主宰する。のちに劇作家に転じた。昭和20年12月死去。70歳。

写真は文藝春秋 昭和10年10月号です。この号は入手が非常に困難です。生田葵山の「永井荷風といふ男」が掲載されているのではなくて、太宰治の「ダス・ゲマイネ」が掲載されているからです。私は東京都立図書館でコピーしてきました。図書館は本当にありがたいです。

「参議院通用門前交差点」
<麹町区永田町一丁目二十一番地三べ坂上>
 荷風の父、久一郎は順調に出世していきます。薩長閥では無いのですが本人の頑張りがかなりあったようです。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…  明治二十三年春、久一郎は大臣官房秘書官として家族と共に麹町区永田町一丁目二十一番地三べ坂上なる文部省官舎に移った。時の文部大臣は芳川顕正である。かの教育勅語の起草に当って、芳川文相は元田東野、井上梧陰らと参画、この間にあって久一郎も奔走、功があった。翌二十四年六月芳川が文部大臣を罷めたので、同月十八日に久一郎は文部省会計局長に転じ参事官を兼ねた。久一郎は家族とともに小石川金富町の本邸に帰った。同年十月出版『改正官員録』をみるに、久一郎は正六位勲六等に累進している。当時久一郎は乗馬で通勤した。永井博士の談によれば、永井家に久一郎の馬術免許証、鞍、乗馬ズボン等が残っているそうである。…」
 大臣官房秘書官というのは今でも凄い出世です。”麹町区永田町一丁目二十一番地三べ坂上なる文部省官舎”はどこかと探したのですが、”三べ坂”は現在もあり、坂の記念碑が建てられています。又、明治28年の地図には地番が記載されており、文部大臣官舎の記述もあり、簡単に見つかったのですが、永田町一丁目21番地は”三べ坂上”からは遠く離れていました。坂上ではなく坂下のイメージです。

写真は現在の参議院通用門交差点から北西方面を撮影したものです。永田町一丁目二十一番地は正面の建物の奥、青山通りの付近になります(青山通りからの撮影は民主党本部があるため困難です)。番地から青山通り付近となると、坂上ではなくて、坂下になってしまいます。当時の文部大臣官舎はこの右側にあり、丁度”三べ坂上”になります。ですから、この付近に文部省官舎があったのではないかともおもいます(坂上の記述が無ければ21番地で決まりなのでっすがこまったものです)。現在の地図と明治28年の地図を重ねてみました(赤く囲ったところが21番地、赤い破線が”三べ坂”です。青山通りは当時は無く、参議院通用門交差点から自民党本部前を通る道もありませんでした。)。下記は現在の地図です。



永井荷風の東京地図 -3-



「神田錦町二丁目」
<神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)>
 2012年2月28日 普及福音教会を追加
 荷風は英語学校にも通っていました。英語の重要性を認識していた父親の指示ではなかったかとおもいます。明治20年頃で英語の重要性が認識されていたとは凄いです。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「… 同じく二十三年夏六月、名古屋の永井松右衛門が愛知県選出の衆議院議員に当選した。
 政均歿し、ソ之助が家督を相続した年の九月十六日に毅堂の未亡人川田氏美代が感冒の後に肺を病み、年を享くること五十二を以て下谷竹町の家に終った。『撒下谷叢話』に美代の歿した日を二十六日としているが、十六日を以て正としなくてはならない。時に壮吉十二歳、父の永田町の官舎から神田錦町二丁目六番地に在った東京英語専修学校へ正規の教育課程以外に通っていた頃である。……
…美代は独逸系宣教師スピンナーより洗礼をうけ、明治二十年三並良・丸山通一・向軍治によって創立ざれた本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会の信徒の故を以て葬儀はこの教会において営まれ谷中の毅堂墓側に葬られた。墓石には鷲津宣光後配川田氏之墓と刻まれた。…」

 毅堂の未亡人川田氏美代さんが亡くなっています。お葬式は”本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会”でおこなわれています。荷風も美代さんに連れられて”本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会”に礼拝に行った経験があるようです。”本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会”の場所を探しました。弓町の本郷教会のことかなとおもったのですが、違うようです。「弓町本郷教会百年史」の年表に普及福音教会の住所が書かれていました。明治20年に着工され、関東大震災まではありました。地番は弓町一丁目二番で、白山通りの旧壱岐坂入り口から少し入った左側です。

写真は神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)があった神田錦町二丁目の説明看板です。東京英語学校の場所は神田錦町二丁目二番地ですから現在の東京電機大学本館の辺りだとおもいます。
 岩波版「荷風全集」の年譜には、
「一八九〇年(明治二三庚黄)      一一歳
 五月、父久一郎が文部大臣芳川顕正(山県内閣)の大臣官房秘書官として、永田町一丁目二一番地の官舎へ移り一家これに従った。
 九月一六日、鷲津美代が感冒から肺を病み死亡。五一歳。
 美代はドイツ系宣教師シュピンナーの洗礼を受けていたので、葬儀は本郷壱岐殿坂の普及福音教会にて執行。
 一一月、この日まで東京府尋常師範学校附属小学校高等科に在学し、二年級まで修業した。同月より神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)に通い、英語、漢学を学んだ(教育大学附属高等学校蔵『卒業生学籍簿』の記載による。一一月まで師範附属に在学したのは、前年一一月、同校火災で全焼、二三年一一月一五日をもって校舎再築開校したので、これを機に退学したものか)。そこでは講師に志賀矧川らがいた。また他で数学を兼修したという。…」

と書かれています。学校の名前が「荷風全集」では「東京英語学校」、岩波現代文庫版「考証 永井荷風」では「東京英語専修学校」です。「東京英語専修学校」について調べてみると、「東京英語専修学校」は後の立教学院で、「東京英語専修学校」が設立されたのは明治30年8月と分かりました。ですから、時期的には遅すぎますので、秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」の「東京英語専修学校」は間違いで、年譜の「東京英語学校(後、日本中学校)」が正しいとわかります。

※日本学園中学校・高等学校は1885年(明治18年)創立の東京英語学校が前身にあたる。同じ敷地の門を挟んだところに、増島によって同年月日に設置願いを出された英吉利法律学校(現・中央大学)があり、校舎を共有もしていた。当初は、共立学校(現・開成高)や成立学舎などを抑えて第一高等中学校(帝国大学予科、のちの一高)への進学者数トップ校として知られていた。その後火災で焼失し、1892年(明治25年)、半蔵門そばの麹町区山元町に再建、1891年(明治24年)の中学校令にあわせて校名を尋常中学私立日本中学校とし、進学予備校から尋常中学校に改組した。のちに日本中学校と改称、1936年(昭和11年)に現在の世田谷区松原に移転した。戦後に現在の日本学園中学校・高等学校となった。

「一ツ橋二丁目」
<東京高等師範学校附属尋常中学科>
 荷風の通った学校を順に書くと、
1.東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園
2.黒田小学校尋常科
3.東京府尋常師範学校附属小学校高等科
4.高等師範学校附属学校尋常中学科
ですから、黒田小学校を除いてすべて附属です。当時も現在もまったくおなじですね! やはり良い学校とは附属になるようです。100年経っても変わらない教育環境です。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…  その十 明治二十四年(一八九一年)  十三歳

 明治二十四年四月、十三歳の壮吉は神田一ツ橋の東京高等師範学校附属尋常中学科に入学したころから読書の興味を覚えるに至った。当時、高師附属中学は上流社会の子弟があらそって入学した学校である。荷風の同級生に八田嘉明、長寿吉、寺内寿一らがい、生徒は絣の着物に小倉袴であったが、壮吉のみはこれと相違して頭髪をきれいに伸ばし、ハイカラな洋服を着せられて通学した。こうした服装は学校では人目につきやすく異人の児だと笑われもした。…」

 此処までは親の威光で学校を決められます。この先がたいへんな受験戦争となります。第一高等学校(東京以外のナンバースクールもある)は実力がなければ受かりません。
 ウイキペディアに明治40年の第一高等学校への進学校が書かれていました。
一位:府立一中(都立日比谷高)35名
二位:府立四中(都立戸山高)33名
三位:東京高等師範附属中(筑波大附属中・高)33名
です。荷風が在籍していた高等師範学校附属学校尋常中学科は三位です。競争率は明治44年で、受験者2,116名、合格者353名、5.99倍です。荷風が受験した頃はもう少し低かったとおもいます。

高等師範学校附属学校尋常中学科は写真の左側、現在の神田一橋中学校と中学校の右側のビルのところにありました。明治20年の地図を掲載しておきます(一ツ橋から神保町に抜ける直通の道がまだありません。)。



永井荷風の東京地図 -4-



「冬青木坂(もちのきざか)」
<麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下>
 永井家は18年住んだ小石川區金富町四十五番地から麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下に転居します。借家に転居していますので、長く住むつもりはないようです。新居を建てるつもりで、金富町の自宅が先に売れてしまったのかなともおもいます。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…  この年に久一郎は文部書記官高等官三等に累進した。
 明治二十六年十一月二十二日、久一郎は金高町の邸宅を銀行家永田清三郎に地所家屋庭木一切四千二百円で売渡し、麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下に家を借りて移転した。黐ノ木坂は九段坂の北方に在る中坂のさらに北方に在る路幅の狭い坂であって、中坂の称は九段坂と黐ノ木坂の中間にあるが故である。…」

 ”麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下”しか住所が分かりませんので詳細の場所がわかりませんでした。とおもったら、「永井荷風傳」に詳細の番地が書かれていました。ただ、”黐ノ木坂下”ではありませんでした。
 秋庭太郎の「永井荷風傳」のからです。
「…          第七
 明治二十六年十一月、久一郎は金富町の邸宅を賣却、麹町飯田町二丁目二番地の高臺、二階建の借家へ移り、翌二十七年十月更に麹町區一番町四十二番地、三嶋中洲の二松学舎と背中合せの通りに面した門構の大きな借家へ妻恆、長男壮吉、三男威三郎と供に移居した。中洲は鷲津毅堂の碑銘を撰した漢学の泰斗である。二男貞二郎は十歳の砌り、即ち明治廿五年十月母恆の實家たる下谷の鷲津家の養子となってゐた。毅堂の男精一郎とその配音羽との間に子がなかったからである。…」

 確かに”麹町飯田町二丁目二番地の高臺、二階建の借家(写真の一番左側のビル)”と書かれています。「考証 永井荷風」から変わっています。どこからの情報か、今となっては本人に確認しようが無いので困ったものです。どちらが正しいのでしょうか!!

 ”黐ノ木坂”と”冬青木坂”は「江戸東京坂道辞典」によると、”冬青木坂”が正しく、別名”黐ノ木坂”となっています。昔、黐の木又は黐の木に似た木があったため、この名がついたようです。

写真は「冬青木坂(もちのきざか)」から坂下を撮影したものです。三丁目なので坂の左側になります(右側は二丁目)。ですから、ホテルグランドパレスのところではないでしょうか。写真の左側はフィリッピン大使館、其の先はホテルグランドパレスです。右側はマンションやビルが建っています。岩波版「荷風全集」の年譜では”麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下”のままです。
 岩波版「荷風全集」の年譜には
…一八九三年(明治二六発巳)      一四歳
 一月二五日、父久一郎が文部省大臣官房会計課長となる。
 四月、尋常中学科第三学年に進んだ(『卒業生学籍簿』)。
 一一月二二日、久一郎は金富町四五番地の地所家屋一切を永田清一郎に売却し、麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下の借家に移った。…」

 売却先の名前も「考証 永井荷風」では”銀行家 永田清三郎”、年譜では”永田清一郎”で違います。永田清三郎は第一国立銀行専務永田甚七(三井の番頭)の養子なので、銀行家としてはこちらが正しいのですが、年譜は銀行家が外れて永田清一郎になっていてよく分かりません。

「千代田区三番町」
<麹町區一番町四十二番地>
 永井家は飯田町二丁目の借家に1年間だけ住み、近くの麹町区一番町四十二番地に再度転居しています。転居の理由はよく分かりませんが飯田町二丁目よりは一番町四十二番地のほうがはるかに良い場所です。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「… 翌二十七年十月、久一郎はさらに麹町区一番町四十二番地に居を移した。一番町の家は二松学舎の裏側に在り、これも借家であった。当時同町内には井伊伯爵、東園子爵、金子堅太郎、三井得右衛門、三島毅らの邸宅が在ったが、永井家も銀杏の老樹茂る宏壮な屋敷で、永井博士の話によれば、靖国神社の今村宮司の持家であったそうである。昭和十年十月雑誌『文藝春秋』所載の生田葵山執筆「永井荷風といふ男」に由れば、荷風は八畳の書斎に起居していたという。…」
 番町は今も高級住宅街です。二松学舎の裏側ですからさらに良いです。

 上記に書かれている生田葵山の「永井荷風といふ男」からです。
「…永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だった父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壮なものだった。永井君は中二階のやうになった離れの八畳を書斎に當てゝ、座る机もあったが、卓机もあって藤椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあった。その藤椅子を私はどんなに懐かしがったものか。訪問れて往くと先づ藤椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮つて居る文学青年の文学談であった。
 その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰った。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等学校の帽子を冠って同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の参讃官の息子の羅蘇山人も時々やって來た。私等は話に倦むと連立って招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麹の味を知ったのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覚めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシャムシャやるのも常例であった。…」

 ”麺麹”はパンのことです。当時としてはパンは相当珍しかったのだとおもいます。

写真の交差点の右側、駐車場になっているところが一番町四十二番地です。道を真っ直ぐ行けば靖国神社、右側は二松学舎です。



永井荷風の東京地図 -5-



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居