<神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)>
2012年2月28日 普及福音教会を追加 荷風は英語学校にも通っていました。英語の重要性を認識していた父親の指示ではなかったかとおもいます。明治20年頃で英語の重要性が認識されていたとは凄いです。
秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「… 同じく二十三年夏六月、名古屋の永井松右衛門が愛知県選出の衆議院議員に当選した。
政均歿し、ソ之助が家督を相続した年の九月十六日に毅堂の未亡人川田氏美代が感冒の後に肺を病み、年を享くること五十二を以て下谷竹町の家に終った。『撒下谷叢話』に美代の歿した日を二十六日としているが、十六日を以て正としなくてはならない。時に壮吉十二歳、父の永田町の官舎から神田錦町二丁目六番地に在った東京英語専修学校へ正規の教育課程以外に通っていた頃である。……
…美代は独逸系宣教師スピンナーより洗礼をうけ、明治二十年三並良・丸山通一・向軍治によって創立ざれた本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会の信徒の故を以て葬儀はこの教会において営まれ谷中の毅堂墓側に葬られた。墓石には鷲津宣光後配川田氏之墓と刻まれた。…」。
毅堂の未亡人川田氏美代さんが亡くなっています。お葬式は”
本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会”でおこなわれています。荷風も美代さんに連れられて”本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会”に礼拝に行った経験があるようです。”本郷壱岐殿坂に在った普及福音教会”の場所を探しました。
弓町の本郷教会のことかなとおもったのですが、違うようです。「弓町本郷教会百年史」の年表に普及福音教会の住所が書かれていました。明治20年に着工され、関東大震災まではありました。地番は
弓町一丁目二番で、
白山通りの旧壱岐坂入り口から少し入った左側です。
★写真は神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)があった神田錦町二丁目の説明看板です。東京英語学校の場所は神田錦町二丁目二番地ですから現在の
東京電機大学、
本館の辺りだとおもいます。
岩波版「荷風全集」の年譜には、
「一八九〇年(明治二三庚黄) 一一歳
五月、父久一郎が文部大臣芳川顕正(山県内閣)の大臣官房秘書官として、永田町一丁目二一番地の官舎へ移り一家これに従った。
九月一六日、鷲津美代が感冒から肺を病み死亡。五一歳。
美代はドイツ系宣教師シュピンナーの洗礼を受けていたので、葬儀は本郷壱岐殿坂の普及福音教会にて執行。
一一月、この日まで東京府尋常師範学校附属小学校高等科に在学し、二年級まで修業した。同月より神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)に通い、英語、漢学を学んだ(教育大学附属高等学校蔵『卒業生学籍簿』の記載による。一一月まで師範附属に在学したのは、前年一一月、同校火災で全焼、二三年一一月一五日をもって校舎再築開校したので、これを機に退学したものか)。そこでは講師に志賀矧川らがいた。また他で数学を兼修したという。…」
と書かれています。学校の名前が「荷風全集」では「東京英語学校」、岩波現代文庫版「考証 永井荷風」では「東京英語専修学校」です。「東京英語専修学校」について調べてみると、「東京英語専修学校」は後の立教学院で、「東京英語専修学校」が設立されたのは明治30年8月と分かりました。ですから、時期的には遅すぎますので、秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証
永井荷風」の「東京英語専修学校」は間違いで、年譜の「東京英語学校(後、日本中学校)」が正しいとわかります。
※日本学園中学校・高等学校は1885年(明治18年)創立の東京英語学校が前身にあたる。同じ敷地の門を挟んだところに、増島によって同年月日に設置願いを出された英吉利法律学校(現・中央大学)があり、校舎を共有もしていた。当初は、共立学校(現・開成高)や成立学舎などを抑えて第一高等中学校(帝国大学予科、のちの一高)への進学者数トップ校として知られていた。その後火災で焼失し、1892年(明治25年)、半蔵門そばの麹町区山元町に再建、1891年(明治24年)の中学校令にあわせて校名を尋常中学私立日本中学校とし、進学予備校から尋常中学校に改組した。のちに日本中学校と改称、1936年(昭和11年)に現在の世田谷区松原に移転した。戦後に現在の日本学園中学校・高等学校となった。