<小石川區金富町四十五番地> 伝通院前の交差点から安藤坂を少し降りて、最初の曲がり角を右に折れると、左側に
三井家の邸宅があります。(三井家の隣は駐車場になっていて、(多分三井家が貸している)時代を感じますね)その先の道は楔型になっていて一度左に曲がり、すぐに右に曲がります。ちょうど右に曲がった左側に
KAWAGUCHI
APARTMENTSがあります。このアパートメントは作家の川口松太郎氏(婦人は女優の三益愛子:御夫婦とも故人)が建てられたものです。KAWAGUCHI
APARTMENTSから10m位で永井荷風生誕の地の記念碑があります。(左の写真です)
秋庭太郎の「考證 永井荷風」から、父親の久一郎が金富町の地所を購入した項を抜き出してみました。
「… 久一郎は結婚前、即ち明治八九年頃に小石川區金富町四十五番地に新居を構へた。……
… 金富町の屋敷は舊幕の御家人旗本の空屋敷が賣物になってゐたのを久一郎が三軒ほど一まとめに買占め、古びた庭や、二つもある古井戸や木立をばそのまゝに廣い邸宅としたのであって、小日向水道町に水道の水が露草の間を野川の如くに流れてゐた時分である。事は荷風が明治四十一年十一月執筆の随筆「狐」と屈する幼年時代の囘想記にみるところであるが、金富町に土地家屋を買入れた年月は明かにもてゐない。わたくしは曩に金富町構居の年月を明治十年久一郎結婚前の明治八九年ごろと記したが、それは久一郎が金富町の地所家屋買入の金策を明治八年八月に名古屋の永井本家を相續してゐる弟松右衞門に相談してあるからである。」。
文章が少し長いですね。無駄な部分を削ってシンプルにしたのが下記の「永井荷風傳」です。読み手が何を知りたいのか、又、書き手が何を伝えたいのかを考えて書くべきですね!!
秋庭太郎の「永井荷風傳」の中から、富町の地所を購入した項を抜き出しています。
「… 久一郎は結婚前の明治八年十二月に小石川金富町四十五番地、現在の文京區春日二丁目二十番ノ一に地所家屋を購ひ、結婚後更に地續きの地所建物を購ひ加へて、四百六十坪餘の廣い邸宅とした。荷風の囘想記「冬の夜がたり」には、「四五人ゐた女中の中で、わたくしが身のまはりの世話をしてゐた一人が、」云々とあり、また幼少時の囘想記「狐」に描かれてゐる如く書生たちも屋敷に寝起きしてゐた。…」
荷風生誕の地で知りたいのは、生誕日、生誕場所、荷風が生誕の地について書いている小説や随筆名だとおもいます。「永井荷風傳」で十分です。
★荷風は明治12年(1879)12月、写真のすぐ左の細い路地の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれています。そして、明治26年に飯田町に移るまで、出入りはありますが、約13年間ここで住んでいます。
明治16年の地図を掲載します。。
荷風全集、第四巻、「狐」より
「…あゝ、夜ほど恐いもの厭なものは無い。三時の茶菓子に安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に飯事の遊びもするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が眞先に暗くなって行く。母さまお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭つゞき、崖の下はもう眞暗である。私は屋敷中で一番早く夜になるのは古井戸のある彼の崖下 …香、夜は古井戸の其底から湧出るのではないかと云ふやうな心持が久しい後まで私の心を去らなかった。…」
荷風全集、第十七巻、「冬の夜がた」より
「
… むかし井ノ頭上水の流れてゐた小日向水道町の道端から、金剛寺坂を登りきらずに其中程から右へ曲り、南側とも小屋敷のつゞいてゐた垣根道を行くと、道はすこし迂曲つた後、現在電車の通ってゐる安藤坂のいたゞきに出る。安藤坂も金剛寺坂もその傾斜は勿論現在よりも急激であったので、この坂と坂とのあひだに通ずる湫路には馬車はおろか、人力車を見ることさへ稀であった。……
… わたくLは平素家人の出入する内玄関の格子戸をあけて上った。すると四五人ゐた女中の中で、わたくしが身のまはりの世話をしてゐた一人が、「只今おかア様がお呼びでいらっしゃいました。」と言って、いつもならば脱がせにかゝる袴の紐を、その時には却てきちんと緒直し着物の襟元さへ合せ直さうとした。…」