●永井荷風の幼少年期を歩く -1-
    初版2011年12月10日 <V01L03>

 今回から永井荷風の生誕から昭和20年初までの足跡を歩きます。正確には明治12年12月から昭和20年3月の東京大空襲までです。参考書は岩波書店の「荷風全集(岩波書店版第一次、第二次)」、秋庭太郎氏の「考證 永井荷風」、「永井荷風傳」他です。荷風全集と秋庭太郎氏とは少し違いがありますが、両案併記で考えてみました。。


「荷風全集」
<永井全集 岩波書店>
 第二次の岩波書店版「荷風全集」です。第一次の荷風全集初版は昭和38年からで、第二刷も昭和46年に出版されています。それ以前は昭和24年に中央公論社版などがあります。第二次の岩波書店版「荷風全集」は、少し大きくなり、見やすくなりました。
 「荷風全集」、岩波書店、1995年、第30巻、年譜からです。
「一八七九年(明治一二己卯)        〇歳
 一二月三日、午後二時三〇分(臍の緒書による)、東京市 小石川区金富町三二番地(後、番地変更、四五番地)に父 永井久一郎(二七歳)、母恆(戸籍では「つね」と記載。一八歳)の長男として生まれた。名は壮吉、のち荷風と号したが、別に可婦亭、石南居士、金富参川、金阜山人、 断腸亭主人、鯉川兼待、残柳亭敗荷、小鞠屋宗吉、横縞すね蔵、兎の四六、吉野紅雨、SN生(?)らの戯号、署名を用いた。久一郎はこの年一一月五日、東京女子師範学校訓導を免じられ、内務省に転じ、准奏任御用掛となり衛生局事務取扱に任じられた。…」

 岩波書店版の「荷風全集」は三十巻ありますから、全部は読み切れません。必要なところだけ読んでチェックしているのですが、やはり、隅から隅まで読まないと分かりません。時間がかかって困っています。

写真は第二次の岩波書店版「荷風全集 第三十巻」です(2011年9月に二版が発刊されています)。カラーで綺麗で、大きくなっています。岩波書店版の「荷風全集」は、第一次も第二次もほとんど変わりませんので、古本で安く出回っている第一次で、程度さえ良ければ問題ないとおもいます。違うのは、写真の通り、ケースの箱がカラー化したのと、大きさが大きくなっているのが違いです。巻数が30巻もあるので、置き場所に困ってします。

「考證 永井荷風」
<「考證 永井荷風」 秋庭太郎>
 参考図書の二冊目です。昭和41年発行で、岩波書店版です。第一次荷風全集と同じ時期に発行しています。荷風は岩波書店ということでしょうか。
 秋庭太郎氏の「考證 永井荷風」から、荷風生誕の頃を参照します。
「… 翌明治十一年夏、久一郎と恆の問に長女が生れたが天折し、難司ケ谷墓地に葬られた。小さな墓石の表面に新柳院蟾影童女墓、背面に愛知縣士族永井久一郎長女、明治十有一年八月初三日と刻せられた。久一郎が雑司ケ谷に墓地を拝んだのは、金富町の屋敷からさまで遠からぬ處であり、且つは周邊の閑静なるが故であったらう。荷風も大正二年正月父久一郎の遺體を此處に埋葬した頃の雑司ヶ谷墓地を、「葷齋漫筆」において「猶閭里のおもむきを失はず。墓地の一隅より歩みて林間の小丘を下るや一帯の細流あり。草は緑にして坐すべく水は清くして掬するに堪へたり。」と叙してゐるが、明治十一年ごろは更にもまた野趣横溢の庭であづたのであらう。
 翌明治十二年十一月五日に久一郎は大手町の内務省に轉勤、衛生事務を擔當、衛生統計の調査を實施、翌十三年四月衛生局に統計課が設置せられ、その課長となった。これが我国統計課設置の嚆矢である。
 明治十二年己卯十二月三日夜、長男誕生、壮吉と命名された。蓋し父久一郎は質實剛健の男児たれと冀ひ、壮吉となしたのであらう。…」

 上記を見て読んで頂くとわかりますが、旧仮名遣いで漢字も旧漢字を使っていて、読むのが大変です。一字づつ辞書を引いています。昭和41年で何故、旧漢字を使っているのかわりません。多分、秋庭太郎氏自身が旧漢字を使うとしているのでしょう。

写真は昭和41年発行の岩波書店版「考證 永井荷風」です。秋庭太郎氏は永井荷風について詳細に調べられており、その調査も関係各位に直接ヒヤリングをされています。昭和30年代後半から40年代ですから、荷風と関係がある方や親類縁者の方も生存されているかたが多かったとおもわれます。

「永井荷風傳」
<「永井荷風傳」 秋庭太郎>
 秋庭太郎氏は昭和51年に「考證 永井荷風」の改版版である「永井荷風傳」を春陽堂から出版します。岩波書店から何故か春陽堂に変わっています。目次などが詳細になり、旧漢字も使用がすくなくなり(まだ無くなってはいない)全体的に読みやすくなっています。
 秋庭太郎氏の「永井荷風傳」の中から、荷風生誕の頃を参照します。
「…この家で久一郎の長女が明治十一戊寅歳夏に生れて間もなく八月三日に死し、次に長男壮吉が十二年己卯十二月三日に、次男貞二郎が十六年癸未二月五日に、三男威三郎が二十年丁亥十一月十八日に誕生した。長女に名が無いのは命名するに及ばずして亡くなった為であらう。…」
 ページ数を比較すると、「考證 永井荷風」は732ページ、「永井荷風傳」は566ページです、「考證 永井荷風」を再編集し、加筆修正などして「永井荷風傳」として発行したものとおもわれます。「考證 永井荷風」はくどく書いてあるところがおおいので、整理して再構成すれば2/3位にはなるとおもいます。

写真は昭和51年発行の春陽堂版「永井荷風傳」です。ページ数がすくない割りには「考證 永井荷風」より厚みがあります。紙質が良くなったと言うのか、紙の厚みが増したようです。

「小石川區金富町四十五番地」
<小石川區金富町四十五番地>
 伝通院前の交差点から安藤坂を少し降りて、最初の曲がり角を右に折れると、左側に三井家の邸宅があります。(三井家の隣は駐車場になっていて、(多分三井家が貸している)時代を感じますね)その先の道は楔型になっていて一度左に曲がり、すぐに右に曲がります。ちょうど右に曲がった左側にKAWAGUCHI APARTMENTSがあります。このアパートメントは作家の川口松太郎氏(婦人は女優の三益愛子:御夫婦とも故人)が建てられたものです。KAWAGUCHI APARTMENTSから10m位で永井荷風生誕の地の記念碑があります。(左の写真です)
 秋庭太郎の「考證 永井荷風」から、父親の久一郎が金富町の地所を購入した項を抜き出してみました。
「… 久一郎は結婚前、即ち明治八九年頃に小石川區金富町四十五番地に新居を構へた。……
… 金富町の屋敷は舊幕の御家人旗本の空屋敷が賣物になってゐたのを久一郎が三軒ほど一まとめに買占め、古びた庭や、二つもある古井戸や木立をばそのまゝに廣い邸宅としたのであって、小日向水道町に水道の水が露草の間を野川の如くに流れてゐた時分である。事は荷風が明治四十一年十一月執筆の随筆「狐」と屈する幼年時代の囘想記にみるところであるが、金富町に土地家屋を買入れた年月は明かにもてゐない。わたくしは曩に金富町構居の年月を明治十年久一郎結婚前の明治八九年ごろと記したが、それは久一郎が金富町の地所家屋買入の金策を明治八年八月に名古屋の永井本家を相續してゐる弟松右衞門に相談してあるからである。」

 文章が少し長いですね。無駄な部分を削ってシンプルにしたのが下記の「永井荷風傳」です。読み手が何を知りたいのか、又、書き手が何を伝えたいのかを考えて書くべきですね!!
 秋庭太郎の「永井荷風傳」の中から、富町の地所を購入した項を抜き出しています。
「… 久一郎は結婚前の明治八年十二月に小石川金富町四十五番地、現在の文京區春日二丁目二十番ノ一に地所家屋を購ひ、結婚後更に地續きの地所建物を購ひ加へて、四百六十坪餘の廣い邸宅とした。荷風の囘想記「冬の夜がたり」には、「四五人ゐた女中の中で、わたくしが身のまはりの世話をしてゐた一人が、」云々とあり、また幼少時の囘想記「狐」に描かれてゐる如く書生たちも屋敷に寝起きしてゐた。…」
 荷風生誕の地で知りたいのは、生誕日、生誕場所、荷風が生誕の地について書いている小説や随筆名だとおもいます。「永井荷風傳」で十分です。

荷風は明治12年(1879)12月、写真のすぐ左の細い路地の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれています。そして、明治26年に飯田町に移るまで、出入りはありますが、約13年間ここで住んでいます。明治16年の地図を掲載します。。
 荷風全集、第四巻、「狐」より
「…あゝ、夜ほど恐いもの厭なものは無い。三時の茶菓子に安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に飯事の遊びもするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が眞先に暗くなって行く。母さまお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭つゞき、崖の下はもう眞暗である。私は屋敷中で一番早く夜になるのは古井戸のある彼の崖下 …香、夜は古井戸の其底から湧出るのではないかと云ふやうな心持が久しい後まで私の心を去らなかった。…」
 荷風全集、第十七巻、「冬の夜がた」より
… むかし井ノ頭上水の流れてゐた小日向水道町の道端から、金剛寺坂を登りきらずに其中程から右へ曲り、南側とも小屋敷のつゞいてゐた垣根道を行くと、道はすこし迂曲つた後、現在電車の通ってゐる安藤坂のいたゞきに出る。安藤坂も金剛寺坂もその傾斜は勿論現在よりも急激であったので、この坂と坂とのあひだに通ずる湫路には馬車はおろか、人力車を見ることさへ稀であった。……
… わたくLは平素家人の出入する内玄関の格子戸をあけて上った。すると四五人ゐた女中の中で、わたくしが身のまはりの世話をしてゐた一人が、「只今おかア様がお呼びでいらっしゃいました。」と言って、いつもならば脱がせにかゝる袴の紐を、その時には却てきちんと緒直し着物の襟元さへ合せ直さうとした。…」




永井荷風の東京地図 -1-



「下谷竹町四番地」
<下谷竹町四番地の鷲津家>
 荷風は明治16年2月に母の実家である下谷竹町の鷲津家に移されます。弟が生まれたからなのですが、当時はそうゆう習慣だったのでしょか。よくわかりません。
 秋庭太郎氏の「考證 永井荷風」からです。
「… 明治十六年二月五日に久一郎の二男貞二郎が金富町の家に生れたので、翌十七年春、六歳になつた壮吉は母の實家下谷竹町四番地の鷲津の家に暫く養育される身となり、其處からお茶の水女子高師附属幼稚園に一ヶ年ほど通った。荷風は小石川の父母の家をはなれて下谷の租母甥家に行くことを嬉しく思ったと『下谷叢話』の冒頭で述べてゐる。鷲津家の人々からも可愛がられてゐたのであらう。九段坂北側に在った鈴木寫眞店で撮った荷風六歳の羽織袴姿の馬輿馬眞十七)が現在阪本家に残ってゐるが、本書掲載の寫眞は阪本越郎氏所蔵のものである。その頃、下谷の家には毅堂既に亡く、その未亡人美代と太政官参事院に勤務してゐた相續人の精一郎一音羽夫妻と、皆を志してゐた毅堂の三男俊三郎とがゐた。…」
 実の親は叱りますが、お爺ちゃんや叔母ちゃんには怒られません。居心地がいいはずです。ただ、お爺ちゃんの毅堂はこの時期には亡くなっています。明治15年10月に57歳で亡くなっているので、荷風が預けられる1年前になります。鷲津毅堂のお墓は谷中霊園乙8号10側にあります。又、隅田川を越えた白鬚神社に毅堂の記念碑が建てられています。

写真は下谷竹町四番地、現在の台東区台東二丁目23です。300坪程の敷地なのでこの角から一区画全てが鷲津家ではなかったかとおもいます。明治16年の地図を掲載します。
 荷風全集第十五巻、「下谷叢話」より、
… 此年三月毅堂は名古屋新馬場の家に在った妻子を東京に呼びよせた。妻子は妻美代、長女恒、二男俊三郎の三人である。三人が東京に著した時毅堂は既に皀莢阪下の官邸を政府に返還し、下谷竹町四番地に地所家屋を購ひ門生と供に移り住んでゐたのである。わたくしの母恒は始めて竹町の家に到著した翌日、家人につれられて上野に行き、満開の櫻花を看たことを記憶してゐるとわたくしに語られたことがある。毅堂の新に居を卜した竹町四番地の家は舊寄合生駒大内藏の邸内に祀られた金毘羅神社と其の練塀を連ねた角屋敷で、舊幕府作事方の役人が住んでゐた屋敷であったといふことである。角に土藏があって幅一間程の廣い下水が塀を廻って流れてゐた。門前の路を東に向つて行けば一二町にして三味線堀に出るのである。
 毅堂が卜居した時には竹町といふ町名はまだつけられて居なかったらしい。「東京地理沿革史」を見るに「下谷竹町はもと佐竹、藤堂、加藤、生駒四氏の邸第並に幕府諸士の宅地なりしを明治五年合併して新に町名を加ふ。その竹町と唱るは佐竹邸の西門の扉は竹を以て作れるに依り其近傍を竹門と稱したれば右に因みて町名となせり。」としてある。猶又現在竹町四番地としてある番地も以前は二十四番地であったらしい。明治十年四月の官員録を見るに大審院五等判事正六位鷲津宣光下谷竹町廿四番地と記してある。明治十一年六月刊行の「東京地主案内」といふものにも竹町廿三番地百二十坪、同廿四番地百九十二坪鷲津宜光としてある。明治十四年の官員録に至って始めて鷲津氏の住所が竹町四番地に改められてゐる。…」

 上記に”金毘羅神社と其の練塀を連ねた角屋敷”と書かれていますが、”金毘羅神社”はまだ残っていました。金毘羅神社からみた下谷竹町四番地の写真も掲載しておきます。



永井荷風の東京地図 -2-



「お茶の水女子高師附属幼稚園跡」
<お茶の水女子高師附属幼稚園>
 荷風は母親の実家の鷲津家から幼稚園に通います。明治10年代に幼稚園に通えさせることができる家はあまり無かったはずです。
 秋庭太郎氏の「考證 永井荷風」からです。。
「…明治十六年二月五日に久一郎の二男貞二郎が金富町の家に生れたので、翌十七年春、六歳になつた壮吉は母の實家下谷竹町四番地の鷲津の家に暫く養育される身となり、其處からお茶の水女子高師附属幼稚園に一ヶ年ほど通った。荷風は小石川の父母の家をはなれて下谷の租母甥家に行くことを嬉しく思ったと『下谷叢話』の冒頭で述べてゐる。鷲津家の人々からも可愛がられてゐたのであらう。九段坂北側に在った鈴木寫眞店で撮った荷風六歳の羽織袴姿の馬輿馬眞十七)が現在阪本家に残ってゐるが、本書掲載の寫眞は阪本越郎氏所蔵のものである。その頃、下谷の家には毅堂既に亡く、その未亡人美代と太政官参事院に勤務してゐた相續人の精一郎一音羽夫妻と、皆を志してゐた毅堂の三男俊三郎とがゐた。…」
 上記に書かれている”九段坂北側に在った鈴木寫眞店”を探してみました。鈴木写真館までは確認できたのですが、場所までは特定できていません。もう少し探してみます。

写真の左側、現在の医科歯科大学、東京ガーデンパレスの向側辺り(横断歩道の先のところ付近)ににお茶の水女子高師附属幼稚園がありました。(明治16年の地図参照

「黒田小學校跡」
<黒田小學校尋常科一年>
 荷風は2年間鷲津家に預けられた後、実家に戻っています。実家から黒田小学校に通い始めます。
 秋庭太郎氏の「考證 永井荷風」からです。
「… 明治十八年春、七歳となった壮吉は下谷の鷲津家から小石川金富町の生家に歸り、小石川區小日向服部坂の中途に在った黒田小學校尋常科一年に入學した。昭和十年『小石川區史』の記載をみるに、この小學校は華族黒田長知が明治十一年二月に創立したもので、小日向水道町八拾六番地に在り、區内最古の小學校であった。この小學校は昭和二十一年春廃校となり、黒田小學校卒業生及修業生名簿が現在文京區小日向臺町中學校に保管されてゐる。わたくしは、昭和三十八年秋九月、同小學校を訪ね『黒田小學校卒業生及修業生名簿』をみせて貰ったが、明治二十二年四月尋常科第四學年卒業生中に永井壮吉の氏名が記載されてあった。…」
 上記には”黒田小學校尋常科一年に入學した”と書かれていますが、荷風全集の年譜では、”初等科六級生として入學”と書かれています。出典から見ると年譜の方が正しいようです。

 黒田小学校は明治11年(1878)第四中学区26番公立小学「黒田学校」としてここに設立されています。当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の功績による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区へ学校設立を請願しています。東京府はその篤志を永久に伝えるため、校名を黒田学校としました。卒業生の中には、永井荷風、黒沢明などがいます。 昭和20年空襲で校舎は全焼し、翌年3月31日をもって黒田小学校は廃校になり、輝かしい68年の歴史を閉じました。

右の写真は戦後、黒田小学校跡に開校した区立第五中学校(平成12年程の写真)です(写真の右側、道路上に黒田小学校の記念碑が建立されています)。平成21年4月に第五中学校と第七中学校が統合し、音羽中学校となり、写真の第五中学校は廃校となっています。現在の写真を掲載しておきます。

「東京府尋常師範学校附属小学校跡」
<東京府尋常師範学校附属小学校高等科>
 荷風は明治22年4月、黒田小学校尋常科第四学年を卒業します(級生から学年に変わっています)。同年の七月、小石川區竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学しています。年譜によると、東京府尋常師範学校附属小学校は5月から7月かけて内幸町から移転してきています。
 秋庭太郎氏の「考證 永井荷風」からです。
「… 明治二十二年、久一郎は帝国大學書記官の職を解かれ、文部大臣榎本武揚の首席秘書官に任ぜられ、文官普通試験委員となり、金富町の家から麹町區竹平町の文部省に通勤した。
 同年四月、黒田小学校尋常科第四年を卒業した壮吉は、小石川竹早町の東京府立師範附属小学校に入学し、学校の歸途金剛寺坂上に住ってゐた舊幕時代の儒者某の許に立寄って『大学』『中庸』の素讀を受けた。これは父久一郎の計らひによるものであらう。…」


正面の左側が旧京府尋常師範学校附属小学校、現在の東京学芸大学付属竹早中学校です。右側は東京都立竹早高等学校で、戦前の都立第二高女ですから名門校です。

 続きます。


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)