<荷風のお墓>
永井荷風のお墓は護国寺の西側にある雑司ヶ谷霊園にあります。雑司ヶ谷霊園は夏目漱石等の有名人のお墓が多数ありますので、散歩をするだけで勉強になります。荷風のお墓について、五叟家の次男 永光さん(荷風の養子である永井永光さん)が「父 荷風」の中で詳細に書いていますので引用させてもらいました。
「…荷風の墓は、雑司ヶ谷霊園の「一種一号七側三番」というところにあります。真ん中が「永井荷風墓」、向かって左側がお父さんである永井久一郎の 「禾原先生墓」、右側が「永井家之墓」となっています。関東大震災で墓石が倒れ、禾原先生の文字は欠けています。荷風は昭和初期の正月によく墓参をしていたと『断腸亭自乗』にあります。…」。
荷風は永井家の長男ですので、永井家のお墓も当然、荷風の所有となります。荷風の死去後に永井威三郎さん(荷風の実弟)からの申し入れにより、お墓は永井威三郎さんに移されたようです。両親のお墓もあり、自分自身も永井家のお墓に入りたかったのではないかとおもいます。
★写真中央が永井荷風のお墓です。右側が永井家のお墓、左側が父親のお墓です。お墓の場所は「一種一号七側三番」ですので、直ぐにわかります。
<お葬式>
荷風は遺言で「葬儀はやらぬこと」と書いています。ただ、このくらい有名になるとやらないわけにはいかなかったのだとおもいます。正式なお通夜は5月1日、葬式は5月2日午後一時からと決まります。ここでも永井永光さんの「父 荷風」から引用させてもらいました。
「私の父、永井荷風が亡くなったのは昭和三十四年四月三十日未明でした。……
…亡くなる前日の二十九日は、歩いてすぐの大黒家でいつも通りカツ丼とおしんこと日本酒のお爛一合を平らげていますが、その日の夜遅く、具合が悪くなって食べたものを戻し、息ができなくなったといわれています。……
…三十日の夕刊には、もう荷風の死が報じられました。その日の夜は仮通夜で、晩年の荷風と親交の深かった相磯勝弥(凌霜)さん、毎日新聞の小山勝治(小門勝二)さん、中央公論社(現・中央公論新社)の嶋中鵬二さん、高梨豊さんなどが集まりました。…」。
”カツ丼とおしんこと日本酒のお爛一合”を毎日食べていたのではこの歳で胃が悪くなりますね。仮通夜に出席したメンバーで相談して葬式の日程が決まったようです。葬儀委員長は実弟の永井威三郎さんになりました。
★八幡の荷風の家で通夜、葬式が行われました。この狭い路地の先の家で行われたわけです。当時の写真を見ると、この路地に人が一杯でした。
<一片の古碑>
市川・船橋地区で斷腸亭日乗に掲載されていて、まだ取材していないところを歩いてみました。まず最初は「葛羅之井」と「葛飾神社」です。「断腸亭日乗」の昭和22年1月からです。
「一月廿六日。日曜日。晴。朝春街氏来話。午下凌霜子来り日新録と題する無名氏の日誌(弘化五戊申より安政六年まで)六冊を貸与せらる。蔵書印に中島文庫とあり。共に出でゝ海神に至る途上葛飾駅の村道を歩む。一樹の老榎聳え立つ路傍に一片の古碑あり。また古井あり。碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に広告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。…」。
上記に”葛飾駅”と書かれていますが、現在の「京成西船駅」のことです。この「葛羅之井」が有名になったのは、昭和25年1月号の中央公論に文芸特集として掲載された「葛飾土産」の中で書かれていたからで、12月には中央公論社から「葛飾土産」として出版されています。
「…今年の春、田家にさく梅花を探りに歩いてゐた時である。わたくLは古木と古碑との様子の何やらいはれがあるらしく、尋常の一里塚ではないやうな気がしたので、立寄って見ると、正面に「葛羅之井。」側面に「文化九年壬申三月建、本郷村中世話人惣四郎」と勒されてゐた。そしてその文字は楷書であるが何となく大田南畝の筆らしく思ほれたので、傍の溜り水にハンケチを濡し、石の面に選挙候補者の廣告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗ひ落して見ると、案の定、萄山人の筆で葛羅の井戸のいはれがしるされてゐた。…」。
★写真は道路端の榎です。この木の裏側に「葛羅之井」の碑があります。気をつけていないと通りすぎてしまいます。
<葛羅之井>
荷風はよく見つけたものです。現在は記念碑として保護されていますが、当時は何もなかったのではないでしょうか。鋭い観察眼がありますね。「断腸亭日乗」の昭和22年1月からです。
「碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に広告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。大に驚き井の水にてハンケチを潤し貼紙を洗去るに、
下総勝鹿。郷隷栗原。神祀瓊杵。地出醍泉。豊姫所鑒。神竜之淵。
大旱不涸。湛乎維円。名曰葛羅。不絶綿綿 南畝大田覃撰
文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎…」。
ここに書かれている意味は
「下総の國栗原郡勝鹿といふところに瓊杵神といふ神が祀られ、その土地から甘酒のやうな泉が湧き、いかなる旱天にも涸れたことがない。」
との事だそうです。よく分からない?(文化九年は1812年、江戸幕府将軍は第十一代徳川家斉)
★写真中央の碑が「葛羅之井」の碑です。井戸は写真の左上にあります。文字がよく読み取れませんので、撮り直す予定です。
<葛飾神社>
高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」の中に、「葛羅之井」について詳細に書かれていました。よく調べられています。
「…葛羅の井のことは『下総国旧事考』の葛飾明神社の条に 「惣社明神社 葛飾郡栗原本郷村ニアリ。社ノ伝詳ナラズ。(中略)社ノ東ノ傍二稲荷ノ両アリ。此両ノ傍二着ノ井ト云アリ。云々」 とあり、『江戸名所図会』にも「葛飾明神社 中山より東の方、栗原本郷の街道より左へ四町ばかり入りて叢林の中にあり。葛飾の惣社と称すれども祭神詳ならず。(中略)社より東の方の林間稲荷の中神の傍に、葛の井と称する井あり、当社の禦蒜といふ。土人相伝へて、この井の水脈竜宮界に通ずといふ。感触を鮎ふる者この井の水を飲みて酎ありといへり。」 と出ている。『葛飾記』 は同じく葛飾大明神の項に 「宮の傍ラ薮の中に葛の井といふ井有。昔よりクスノキの幹朽ずして存せり。此水を少し飲めば、痩疾立ドコロに雰ると也。此故に皆信拝して痩る日に用るに、其効速か也といへり。叉、俗に此井は竜宮迄抜け通れりといふ」とあり、…」。
一町は109mですから、”栗原本郷の街道より左へ四町”だと、436mjなります。千葉街道から左に436mだと、「葛羅之井」の手前の位置になります(千葉街道から「葛羅之井」までは約500m)。推定ですが上記に書かれている”葛飾明神社(現在の葛飾神社)”は最初、「葛羅之井」のところにあって、その後、現在の位置に移ったのではないかとおもいます。
★写真が現在の「葛飾神社」です。千葉街道の横にあり、「葛羅之井」からは、約500m離れています。
<妙行寺>
市川や船橋からは少し離れますが、原木の妙行寺も荷風は訪ねています。空襲にも合わず、昔のまま残っていました。「断腸亭日乗」の昭和22年11月からです。
「十一月三十日。日曜日。晴。暖。午後中山省線停車場を出で線路南側の田疇を歩す。田間に細流ありセメントの橋を架す。欄干に柳橋の名を勒す。農夫に間ふに細流は真間川の末にて鬼越の方より来り海に入ると語れり。堤防を歩むこと二十分ばかりにて一巨刹の裏手に出でたり。墓地の垣に沿ひてまがれば一筋の街道あり。農家垣を連ぬ。寺の表門より境内に入る。門に原木山、本堂に妙行寺の額を掲げたり。堂廡と門柱と共に竹また笹竜胆の彫刻を多く施したり。門外の道は西は行徳東 は船橋に至るものゝ如し。眺望曠豁遮るものなし。海岸まで到りて見むと思ひしが道近きが如く見ゆれど容易に行きがたきを知り田間の別路を取りて中山に戻り電車にて帰る。家人に間ふに原木山はバラキとよむなりと云。…」。
妙行寺の三門に施された彫刻は凄いですね。三門の彫刻としては始め見ました。一見の価値があります。
★写真は妙行寺の三門です。上記には下総中山駅からと書かれていますが、現在では東西線原木中山駅が近いとおもいます。ぜひとも一度訪ねてください。